四年生ともなると必要単位が満たされているために授業に出る必要がほとんどなくなる、なんて状態になりやすいと三年の後半に聞き及んでいたが、これほど暇になるとは正直思っていなかったというのが本音である。魔法薬学や動物言語学はもちろん、音楽や魔法史なども一切何もない。日がな一日ベッドでゴロゴロしていても咎められないのは自由でいいと考えるべきか、それとも自主学習の大切さを説かれているのかどちらなのか。
この学園を卒業するまでに後一年ほどの期間があるが、さすがに一魔法士としてこのまま自堕落に時間を浪費するのも何かと思い、三年の後半から目をつけていた就職先候補に片端から連絡を入れてはインターンとして実際に赴くことにした。幸いにも名門と名高いナイトレイブンカレッジの生徒だと言えば、大抵の会社は是非どうぞだの今からでもだのと媚び売りに忙しなくなるため苦労をすることはなかったが、そのおかげでいくつもの場所を回る羽目になったことは少しばかり後悔している。どれだけ優秀だろうが体は一つきりしかないのだ、何度も繰り返せば疲れるに決まっている。一休みするかと思い至ったのは進級から三ヶ月経った時のことだった。
学園は基本的に寮生活となるが、学外への宿泊も申請を出せば許可をもらえる。インターン期間中は寮に戻っている暇がないと判断したため外泊を続けていたが、久しぶりに母校の正門をくぐると帰ってきたという感じがするため不思議なものである。
時間は正午を過ぎた頃で、学園のタイムスケジュールを鑑みるにちょうど昼休みと言ったところだろう。所属しているハーツラビュル寮への入り口が混んでいないことを祈りながら鏡舎へと向かう途中、ふと何か大切なことを忘れている気がしてはてと首を傾げた。忘れていたくらいなのでそれほど重要ではないのでは、と脳内でもう一人の自分が声をかけたタイミングで視線を下に向けたとき、寮服のベストの柄が目に止まり「あっ」と思わず声が出た。同時に回り出した頭が即座に誤魔化しはきくかという議題を挙げると、脳内の自分が否と切り捨てる。あれだけ散々しつこく言われていたのにすっぽかしたと知られてしまえばものすごく面倒なことになるに違いない。とはいえ今から学園に戻りましたと言ったところで許されるのかどうか。
完全に止まってしまった足をそのままにそびえ立つ城の如き学舎を眺める。願わくはかの後輩が授業中やら部活中やらで寮にいませんように。もしくはそれほど怒っていませんように。ため息を吐きかけたが寸でのところで飲み込み、燦々と陽が照らす真白の階段を一段ずつ登っていった。
学園内へは難なく入ることができた。そも自分はまだ在学している生徒なのだから難しいも何もないのだが、新級からこの方ほとんど学園にいなかったせいで何だか空気が新鮮な気がしてしまう。見ない顔も随分多い。新しく入った一年生だろうかと思ったが、ナイトレイブンカレッジの制服や腕章は所属する寮がどこなのかは分かるようになっているものの学年の判別はつかないため早々に考えるのをやめた。
ハーツラビュルと刻印されたプレートの下、寮へと続く鏡に身を滑り込ませると瞬きの間に見慣れた寮へと辿り着いていた。目に痛い赤と白のコントラストがひどく懐かしい。芝生もきちんと手入れされているようで、規則厳守の小さな寮長殿の手腕が伺えた。後輩からの手紙ではオーバーブロットを引き起こして一時期大変なことになったと聞いているが、元気でやっているんだろうか。関わりは薄いが赤髪の彼も立派な自分の後輩にあたるため、(もはやいないも同然とはいえ)最高学年かつ先輩としては一度くらい様子を見ておきたいところである。
とはいえ流石に荷物を抱えたままうろつく気にはなれないため、一度自室に戻る必要があると改めて寮の入り口に目を向けたとき、腕組みをしてこちらをにこやかな笑顔で見つめている生徒がいることに気がついた。あれ、と思うまでもない。寮服に合わせて用意したという白い帽子に黒縁眼鏡、左目の下に控えめに描かれているクローバーマークからして問題の後輩であることにすぐに気がついた。同時にいやなんでこいつここにいんの? とは思ったが賢いので口にはしないでおいた。
「#n#先輩、おかえりなさい」
「おっす。ただいまトレイ、元気してたか」
「おかげさまで。先輩が手紙を寄越してくれなかったので、ここ最近はあまり眠れていません」
「悪かったよ」
悪意マシマシの台詞とは裏腹にトレイの顔には笑みが浮かんでいる。なまじ顔と振る舞いが良いのでみんな騙されやすいが、このトレイという男は実はそこまで優しくもなければ大人しい奴でもない。大抵の人間にこれを伝えると心外だという顔をされるのだがそれも当然だと思う。俺の前で〝だけ〟ちょっと様子がおかしくなるからな、こいつ。
「手紙書いてくれるって言ってたのに」
「忙しかったんだよ。それにほら、あれだ、サプライズってやつ。トレイは嫌いだったか?」
「いえ、それは……人並みには好きですけど、でも」
「じゃあいいじゃねーか。ほーらトレイ〜、#n#お兄さんが帰ってきたぞ〜嬉しかろうほらほら」
「あっちょっと、#n#せんぱ、っ」
帽子を取り上げて顕になった緑髪をわしゃわしゃとかき混ぜるようにして撫でると途端にトレイの勢いが萎んでいく。しゃんと伸びた背筋をこちらが撫でやすいようにと丸めて、宙ぶらりんだった手でジャケットの裾を控えめに掴んでくるあたりトレイも大分扱いやすい男だ。ついでに上手く手紙から意識を逸らすこともできたので、横髪部分をくしゃりと撫でながら「そういえば」と口火を切る。
「何でここにいるんだ? 今日授業はどうした」
「午前中で終わりなんです。サイエンス部の活動も今日は特にすることがなくて」
「ふーん」
「#n#先輩は今度はいつまでここにいるんですか?」
「ちょっと根を詰め過ぎたからしばらく休もうと思ってる。一週間くらいかな」
「もっと休んでもいいのでは?」
「俺と一緒にいたいなら素直にそう言え」
なんちゃって、とふざけるつもりだったのだがきょとんと目を丸くしたトレイが直後に恥ずかしそうに微笑むので口を閉じた。
「頼んだら俺と一緒にいてくれるんですか」
「え、まあ、そりゃ……トレイは後輩だし。俺でいいならだけど」
「#n#先輩でないと嫌です」
離そうとした手のひらに自分からすり寄り目を細めたトレイに「お、おう」としか言えなかった俺を誰が責められるというのか。何せこんなに距離が近すぎる上に手紙での連絡の約束までしているが、実際俺とこの後輩の関係はかなり薄っぺらい──というより、俺自身覚えがないうちに懐かれている状態なのである。
いつからだったかはすっかり忘れてしまったが、気がつけばこのトレイ・クローバーという後輩はいつの間にか俺の近くにいて、「先輩、#n#先輩」と雛鳥のように後をついて回ってはお手製のお菓子をお茶と共に振る舞い、極め付けに俺の膝を我が物顔で占領するという並のコミュ力おばけでも成し遂げられないことを成し遂げた(身長的な意味でも)大型後輩だ。何度でも言うがこれほどまでに懐かれる理由を当事者である俺は知らない。正しくは覚えていない、と言った方がいいのかもしれないが、違和感を抱かせずに人の懐の奥の方にまで滑り込んできたトレイに対して突っ込んでしまったが最後、面倒なことになる予感がヒシヒシと感じるためあえて言及はしていない。
今もトレイは上機嫌で俺の隣を歩いているが、俺が彼の名前を知ったのは去年と比較的最近であることを忘れてはならない。ちなみに向こうは一年の時から俺を知っていたらしい。どんだけだよ。怖いわ。
「先輩、荷物を置いたら俺の部屋に行きましょう」
「俺の部屋じゃ駄目なの?」
「副寮長のベッドは大きくてふかふかですが、先輩がどうしてもと言うなら先輩の部屋でも俺は構いませんよ」
「行きます」
「ははは」
久しぶりに帰った自室はがらんとしていて物寂しい空間になっていた。四年生のほとんどは学校ですることがないというのを理由に実家に一時帰省したり、俺のようにインターンに出たりしているため基本的に学内にいないのだが、それでも久しぶりに同級生と話したかったという欲は少なからずある。「誰もいないなぁ」と呟けば即座に隣から「俺がいるじゃないですか」と拗ねたような声が聞こえたので「そうだった」と適当に返しておく。
荷物を自分のベッドサイドに置くが早いか、トレイが俺の手を握ってズンズンと寮内の廊下を突き進み始める。いつもであれば寮に戻ってきたときは彼お手製のケーキやタルトを突きながらのお茶会が先に来るのだが、どうやら手紙を出さなかったことを相当根に持っているのか過程をすっ飛ばして早々にゴールにたどり着こうとしているのが目に見えた。別に逃げたりしない、と言おうとしたが口にするのはやめて、代わりにそっと手を握り返してやると控えめな笑い声が前方から聞こえてきた。
どこの寮も同じだとは思うが、寮長と副寮長の部屋は一般生徒と異なりそれぞれ個室である。トレイの自室も副寮長らしいそれなりの広さを誇り、ハーツラビュルの色である赤や黒や白、ポイントカラーとして黄色が所々散見されるデザインの部屋だ。
ここに来るのも数週間ぶりだと考える間もなく、ベッドによじ登ったトレイが「#n#せんぱい」と呼んできたのでハイハイと返事をしながら同じようにベッドに近づく。ジャケットと靴を脱いでやたら大きいベッドに腰掛けると、待ってましたとばかりにトレイが俺の膝に頭を乗せてきた。毎度思うが、男の膝枕なんて硬いだけなんじゃなかろうか。
大きな体を折り畳み、俺の膝枕を堪能しながら(というと変に聞こえるが)ぐりぐりとお腹に頭を押し付けるトレイは完全に子供のそれなのだが、この姿は俺以外に見せたことがないようなので喜ぶべきか舐められてると憤るべきかで複雑な気持ちである。
「せんぱいだ」
「おう、#n#先輩だぞ」
「どうして手紙くれなかったんですか、俺楽しみにしてたのに」
「だから悪かったって。お詫びに俺ができる範囲でなら何でもするから許してくれ」
「なんでも?」
「おー、何でも。次のテストの試験範囲とかちょっと特殊な魔法薬とか、そういうの」
「そういうのは別にいりません」
トレイの性格からして確かに試験範囲教えて、というのはあり得なかったかと思い直していると、トレイがこちらに体を預けながら「それじゃあ一つだけいいですか」と話しかけてきた。もう決まったのかと尋ねればシトリンの瞳がこちらを見据えてきゅう、と弧を描いた。
「学園にいる間、俺と一緒に過ごしてもらえませんか」
「ん? 別にいいけど。どうせ暇だし」
「#n#先輩、学園に帰ってくるといつもイグニハイド寮に行くじゃないですか」
「ああ、あそこいっぱいゲームあるしな」
「俺とも遊んでください」
「遊んでるじゃん」
「これは充電で遊びとは違うので」
具体的な違いなど本人にしか分からないので深くは尋ねなかったが、むくりと体を起こしたトレイが正面からもたれてきたので慌てて背中に腕を回し抱きすくめる形でバランスを取る。肩口に顔を埋めながらどこかぼんやりとした口調で「先輩、せんぱい」と何度もこちらを呼ぶトレイの言葉に「はいはい」「何だー」と返してやっていると、そのうちぎゅうと強く抱きしめられた。
「……#n#せんぱい、#n#さん」
「おう、どうしたトレイ」
「もっと構ってください」
「素直〜」
「#n#さんが言ったんじゃないですか、素直な方が好きだって」
後輩としてという意味でだったのだが、明らかにトレイの口振りは後輩が先輩に対して言うようなそれとは異なるもののように感じられたため、賢い俺は「そうだなあ」と再び曖昧に誤魔化した。
終わりっ。加筆修正誤字脱字チェック後アップロードです。おつかレモンタルト