何度目の寝返りか、窓を開けられない騎空挺の自室は熱気がこもりやすい。じっとりと汗ばむ肌を冷ますために、グランはしきりに体勢を変えていた。それでも夏の暑さは逃しきれるものではなく、身に付けているシャツはわずかに湿っている。
 それが不愉快なのか、眉根を寄せた少年は小さな溜め息をついた。つい数刻前まではぐっすりと眠っていたのだが、喉の渇きを覚え目を覚ましたが最後、再び眠りにつけぬまま、気づけば夜も半ば。明日も朝早いというのに、眠れぬもどかしさからか。グランはがばりと起き上がると、諦めたように深く息を吐き、首筋を伝う汗を拭った。
 自室を後にし、静まり返ったグランサイファーの共用廊下を一人進んでいく。最低限の明かりのみが床を照らし、されど慣れた道なのか、ためらうことなくグランは歩を進める。向かう先は甲板だった。夏とはいえど、夜風にあたれば少しはマシだろうと、グランは夜明けにはまだ遠い満点の星空の元へと躍り出る。
 当然だが人はいない。夜警の任にあたる者以外は寝静まっているのだから、いるはずもないのだが。グランの目論見通り、吹き抜ける少しの風が火照る肌の温度を下げていく。
 グランサイファーは今宵、ルーマシー群島の一つ、そう大きくはない島に一時停泊している。そのせいか、森の濃い香りを乗せた風はどこか故郷を思い起こし、グランは深く息を吸い込んだ。手すりに上半身を預け、そうっと下を覗けば空の底はぽっかりと黒く塗り潰されている。もし落ちれば、そんな考えにぶるりと身を震わせ、過去に落ちたことなど忘れたようにグランは静かに見入っていた。
 寝苦しい夜、グランが一人こうして風にあたることは珍しくない。眠れぬこともそう珍しくはなく、以前は長い夜を一人でやり過ごすことが多々あった。けれど最近は、こんな夜にばかり狙ったかのように訪れる、とある来訪者があった。すう、と頬を強く撫でる、ほんのりと甘い香。それが合図だ。
「こんばんは。こんな夜に一人で寂しくないのかい?」
 後ろを振り向かずとも分かる。するりと腰に伸びる手を振りほどくこともせず、グランは慣れたように口ずさむ。
「お構いなく」
「つれないねえ」
 なんて代り映えのしない挨拶だろう、そう思いながらも、グランがそれ以上の返答をすることはない。口を開けば人の上げ足を取るような男だ、まともに会話しようと試みたのは最初の頃の数回のみ。あとはまるで定型文のようなやり取りばかり。
 それでも飽きもせず、男は何度もグランの元を訪れていた。夢の中であったり、こうして現実の世界であったり。決まってグランが一人の時を狙って、堕天司ベリアルはやってくる。
「おや、随分と熱い。子ども体温ってやつか?」
「……うるさいな」
 わざとらしくベリアルはグランの腹に手を回し、わずかに身体を密着させる。ぴくりとグランの眉が動き、如何にもといった表情でそれを払い除けようとする。ただでさえ暑くて堪らないというのに、人に引っ付かれたくなどない。
 グランが怒る寸前、ベリアルは少し距離を取る。そういうところがまたグランをほんの少しだけイラつかせるのだ。
「言っとくけど、カンインとかそういうのはしないよ。何度誘われてもね」
「へぇ、そいつは残念だ。それじゃあ今日は何をしようか」
「……何もしないってば」
 ようやくじとりとベリアルを睨みつければ、わざとらしく肩をすくませる仕草を見せる。ベリアルという男は、とにかくグランにちょっかいをかけたいのだ。怒らせてもいい、泣かせてもいい、剣を抜かせればもっといい。見え見えの態度であると分かっていながら、それに反応してしまう自分の子どもくさい部分も、グランはちょっとだけうんざりしていた。
 どれだけ背伸びしても、グランが十五の少年である事実は覆りようがない。挑発されれば乗らずにはいられないし、煽られれば相応の仕返しをしたくなる。どうしようもない負けず嫌いな性格は、ベリアルの前では恰好の獲物だ。
「まぁ、キミもそろそろマンネリしてきたところだろう。パターン化した行為なんてつまらない。今日は少し、嗜好を変えようか?」
「……僕、そんなに暇じゃないんだけど」
「そう言うなって、どうせ眠れないんだろう?眠れるようにしてやるよ」
 ああ、ロクなことじゃないな。
 そう直感するのも、過去の経験からだ。ややうんざりした表情のグランに、ベリアルはくつくつと喉を鳴らす。コツリと床板を慣らす、靴底の音色。それが近づいてくるにつれ、グランの背筋はぞわりと粟立つ。どれだけ距離が近く、こうしてそれなりの頻度で顔を合わせようとも、グランにとってのベリアルは敵でしかない。
 念のために腰に下げてきた剣に手をかけて、己の隣に並び立つベリアルを横目で見上げる。ふわりと甘く、刺激のある花の香りが鼻孔をくすぐり、グランのこめかみを汗が伝った。
 そんなグランを嘲笑うように微笑んだベリアルは、おもむろに手すりへと足をかける。その緩慢たる動きに少年がぎょっとするのも束の間、男はまるで目の前が地面であるかのように、そこへと立った。
「な、にして……!」
「さて、問題だ。オレはこれから何をすると思う?」
「……ッ!?」
 ベリアルの六翼は仕舞われたままだ。その背には何もない。代わりに真ん丸の月を背負い、最後にグランが見たのは歯を見せて笑う、男の表情。
 ここは空の上。下に地面などなく、あるのはぽっかりと口を開ける、空の底。吸い込まれるように背を預けていく男の姿。さぁ、とグランの顔から血の気が失せ、一気に暑さが吹き飛んでいく。男の姿が手すりの向こうに消え行く一瞬、とっさに伸びた少年の手がその足を掴む。
 すべてがスローモーションのように思える出来事だったが、時間にすればたった数秒の話。何も考えずにベリアルへと手を伸ばしたグランは当然、その身体を支えきれない。わずかなふんばりも虚しく、飛び跳ねるように掴んだ反動で、身体がふわりと浮いていた。
 そうしてグランは一体何度目か。その身を空の底へと投じる羽目になったのだった。
 *
 誰かが助けを求める声が聞こえた。正確には聞こえたような気がする。
 どこから聞こえるのか、自分がどこにいるのかも分からぬグランには不確かなものだった。瞼を閉じている、そんな気がする。日の光が透けて、赤く広がる世界は不思議と怖くはない。ただ、暗くはなかった。
 その声は少しずつ鮮明に、次第にはっきりと聞き取れるようになる。ズレた音声、あるいは酷くエコーのかかった声音、もしかすると人間の声ではないのかもしれない。グランがそう思うのはこれまでの経験からだった。けれどそれが何の声なのか、グランには分からない。
 一つだけはっきりと分かるのは、それがグランに助けを求めているということ。
「──ああ、君ならきっと」
 ふいにクリアになる音声は耳元で聞こえた。その感覚は表現するとすれば、掴まれた、が正しい。グランは何かに掴まれたのだ。
 その感覚には覚えがあった。ザンクティンゼルの森の中、ヒドラに切り裂かれたあの時、自分を掴んだ、とある少女のそれ。あの時と違うことと言えば、少女の時よりも随分と乱暴に引きずり込まれたことだろう。
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ベリグラ
初公開日: 2020年05月02日
最終更新日: 2020年05月02日
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二次創作、腐