月が浮かんでいる。
美しい。神々しい。そんな声を多々聞くが、竹谷八左ヱ門はその言葉に頷きつつも、どうとも言い難い違和感を抱えていた。
綺麗、とか、よく分かんねえけど。
届きそうだが届かない──そんな存在であることが、人々の心を掴んで離さないのだろうか。
深い森の中、歩みを進めながら八左ヱ門は小さく息を吐く。木々は星光を遮り、かの月が放つ光さえも心許ないほどだ。町への買い物ついでに、散策がてら普段は使わない道を歩いてみようと思った。その結果がこれだ。
ざわ、と木々が鳴る。方向はかろうじて間違っていない、と思いたいところだが、まったく自信はない。それなりに訓練を積んだ身のはずだが、こんなにもあっさりと帰路を見失うとは。
情けねえな。
やれやれ、と苦笑いを浮かべる。
今日、夕食当番だったな、そういえば。
脳裏には、何かと行動を共にしている四人の友人たちの顔が浮かんでいた。
あいつらは、道を間違えたりしねえのかな。
否、と首を振る。そんなことを考えている場合ではない。今どうするかが先決だ。そう自身に言い聞かせるものの、四人の面影を完全に掻き消すことはできなかった。そればかりか、彼らの姿はますます鮮明になっていく。
この日一番の溜息を吐いて、八左ヱ門は天を見上げた。木々の狭間から、眩しく輝く月がこちらを覗いている。
「なあ、そっからは、何が見えんだ」
言っておきながら、何を言っているのだろうと思い返す。何かを振り切るように大きく首を振り、八左ヱ門は足取りを大きくする。が、その足が地面を踏みしめることはなかった。
身体が重力を失う。抗おうと手を伸ばすも、闇を切るばかりだった。
本当、何してんだ。
八左ヱ門の身体は、音もなく闇へと吸い込まれていった。
+++
──問おう。
声が響く。これまでに聞いたことのない、男とも女とも、大人とも子どもとも言えない声。
──汝が欲するは、何ぞ。
自分に問いかけているのだろうか。それすらも分からない。
欲する、欲しいものってことか。
何だろうな。
……ああ、そうだ。今とてつもなく欲しいものがある。
「起きた?」
耳に入ってきたのは、幼い声だった。重い瞼をゆっくりと開けると、大きな双眸がこちらを見つめている。
「おはよう!」
八左ヱ門が何も言えず瞬きをしていると、男児はにっこりと笑う。年のころは十といったところだろうか。無邪気に笑うその顔に、学園の後輩たちの笑顔が重なった。
感触を確かめるように、ゆっくりと身体を起こす。長く眠った後のような独特の倦怠感はあるものの、特に大きな異常はないようだった。周囲を見回すと、蝋燭が静かに揺れていた。何の変哲もない民家のようだ。視界の隅で、男児がぴょこんと土間に降りるのが見えた。
「びっくりしたよ。今朝畑に行ったら倒れてるんだもの」
言いながら男児は板の間に戻ってきて、湯呑に白湯を入れて八左ヱ門に差し出す。
色素が薄いからだろうか。薄暗闇の中で、男児の姿は妙にはっきりと浮かんで見えた。人よりも大きめであろう、くりくりとした双眸に、八左ヱ門の顔が映っている。
「あ、ああ。悪かったな」
「調子悪いところはない? お医者さん呼ぶ?」
「いや、大丈夫だ。えっと」
「くれ。僕の名前は、くれ、だ。お兄ちゃんは?」
「八左ヱ門だ。よろしく、くれ」
くれは満足そうに笑うと、再び土間に飛び降りる。
そんなくれの後ろ姿に、八左ヱ門は問いかける。
「くれは、ここに誰かと住んでいるのか」
くれの体格では、一人で八左ヱ門を運ぶのは難しいだろう。
「父様と二人だよ。今はお勤めで、夕方まで帰ってこないけど」
自身の上にかけられていた大き目の着物を見ながら、八左ヱ門はそうか、と小さく返事をした。直後、微かな違和感を覚える。それを口にするかしまいか逡巡していると、くれが土間から声をかけてきた。
「八左ヱ門さん。ちょっと遅いけどお昼ご飯にするつもりなんだけど、何でも良い?」
手元を蝋燭で照らしながら、くれは明るく言う。その言葉に八左ヱ門は、頷くことすらできなかった。
「昼……?」
薄暗闇の中、無意識に呟いていた。それが聞こえたのだろうか。くれは、ああ、と言葉を漏らす。
「そっか。八左ヱ門さんは、陽の下の人なんだね」
蝋燭が揺れる。小首を傾げるくれは、少し困ったような、寂しいような、何とも言えない表情を浮かべていた。
「陽の下の……俺が?」
「うん、そう。たまにね、迷い込んでくることがあるんだ」
くれは近くに蝋燭を置くと、八左ヱ門に背を向けてごそごそと何かをし始める。恐らく食事の準備だろう。
八左ヱ門はゆっくりと腰を上げ、着物を簡単に畳むと土間に近づく。
「俺が、その、陽の下? の人間なら、くれは?」
「月の下、かなあ。父様たちはそう言ってるよ」
「月の、下」
「僕も詳しくは知らない。そういう人たち……八左ヱ門さんみたいな人たちがいるっていうことだけは教えてもらってるんだ」
「俺のような奴が、他にも?」
「いたよ。すぐにかえっちゃうけどね」
くつくつと、何かを煮込むような音が聞こえてくる。湯が沸いているのだろう。釜戸の火が赤く光っている。
「ああ、気がついたんだね」
つと、凛とした低音が聞こえてくる。八左ヱ門がその方向を見ると同時に、くれが「父様」と明るい声を上げた。
「おかえりなさい。随分早いんだね」
「ただいま。食事がてら、少し様子を見に来ようと思ってな」
優しく言い合う父子を見て、八左ヱ門はどこか懐かしさを覚える。果たして、彼らは今も、自分を待っていてくれるのだろうか。
いや、待っていてくれないほうが、いいのかもしれない。
「顔色は問題なさそうだね」
男性がこちらに向き直り、微笑みながら言う。すらりとした体躯に、長髪をうなじで一つに括っている。土間に立っているというのに、八左ヱ門との目線に差がほとんどない。やはり色素は薄く、くれよりもより鮮明に、薄暗闇に浮かんで見えた。
「父様。八左ヱ門さん。陽の下の人だよ」
ほう、と男性の目が大きくなる。その表情は、くれとそっくりだ。
「八左ヱ門くん、か。私はおぼろ。よろしく」
「よろしく、お願いします」
八左ヱ門が小さく頭を下げると、おぼろは笑みを大きくして頷く。
「驚いただろう」
座って、とのおぼろの言葉に、八左ヱ門は板の間に腰を落とす。おぼろも座り、ことり、と目の前に燭台を置くと、静かに話し始めた。
「陽の下の子は久々だ」
「あ、えっと」
「大丈夫、ちゃんと陽の下には戻れるから」
「はい……あの」
帰れる。そのことにほっとすると同時に、自分が今すべきであろうことに思い至る。ん、と小首を傾げて次の言葉を待つおぼろを見て、少しの迷いの後、八左ヱ門は言う。
「貴方たちのことを、教えてくれませんか」
ふわり、と味噌のこうばしい香りが漂ってきた。
彼らの生活風景は、少なくとも今まで見た限りでは、自分たちと大差はない。言葉も、感情も、同じ人間のように見える。でも、何かが違うのだ。
「今は、昼だと聞きました。でも」
ゆら、と蝋燭の火が揺れる。
「うん、そうだね。そちらの昼とは、だいぶ様相が違うかもしれない」
「おぼろさんは、僕らの……陽の下のことをご存知で」
「多少は、ね。そうだな、何から説明したらいいだろう」
ふむ、とおぼろは少し考えた後、言葉を続ける。
「いや、まず見てもらったほうが速いかもしれないな」
「見る、ですか」
「夜、をね」
八左ヱ門は首を傾げる。その姿に、おぼろはくすりと笑う。
「そうだな、だいぶ昼が長くなったとはいえ、まだまだ寒いから、そんなに遅くはならないだろう」
こと、と音がして、目の前にお椀が置かれた。味噌の香りが鼻をくすぐる。
「簡単なものでごめんね。雑炊だよ」
くれが少し申し訳なさそうに言ってくる。いや、と返事をして、八左ヱ門が微笑むと、くれも微笑みを返してきた。
「私はこの後勤めに戻るけれど、夜が近くなったら戻るようにしよう。それからもう一度、話をしようか」
おぼろの言葉に八左ヱ門は頷き、そっとお椀を持ち上げた。
+++
〝お昼ご飯〟の最中、おぼろはこの場所や、おぼろやくれについて色々と教えてくれた。
自分たちは、八左ヱ門のような普通の人間であること。同じように生まれ、同じように生き、同じように死ぬ。食事も睡眠も必要であり、人々は農業や商業、職人業などの生業を持つ。規模としては村ほどの大きさであること。
「でも、一つだけ違う点があるね」
「違う点、ですか」
「察していると思うけれど、この場所は、君が生きる世界とは違う」
心臓が、大きく一つ動いた。
「僕にとって、今は夜です。でも、おぼろさんもくれも、今は昼と」
そうだね、とおぼろは頷く。その横でくれが、大きな双眸を瞬かせている。
「陽の下の世界については……父や祖父から聞いたり、文献を読んだりしただけの知識しか、私自身持っていないんだ。だから分かっていないことも多くてね。時折、君のように陽の下からこちらに迷い込んでくる客人がいるが、何故なのかは分からない」
「でも、おぼろさんは先ほど、陽の下には戻れると言いました」
「ああ、間違いない。月に一度、泉が湧くんだ」
「泉?」
「そこを覗くとね、微かだけれど見えるんだよ。明るい光が。そこが陽の下の世界だ」
まるで御伽噺だ。理解が追いつかないが、必死に頭を回転させて、おぼろに話を合わせる。くれが、空になった三個のお椀を重ねて持ち、土間に飛び降りるのが見えた。
こういう時にあいつらだったら、もっと上手くやれるのだろうか。
「それは、次はあとどれくらいで?」
「十四日ほどかな。それまではここで寝泊まりをすると良い」
八左ヱ門が小さくお辞儀をすると、それに答えるようにおぼろは微笑んだ。
「すみません」
「謝らないでくれ」
思わず口をついて出た言葉に、柔らかな声が応じる。
「全てを理解してもらうには、私の言葉では足りなさ過ぎるからね」
言いながらおぼろは立ち上がった。一つの結われた茶色い髪は、薄暗闇の中で仄かに光っているように見える。
「私はまた少し出るが、頃合いを見て戻るようにしよう」
それまで、とおぼろは土間に視線をやる。
「くれの相手をしてやってくれ。二人暮らしで、家のことは専ら任せてしまっていてね。一人の時間も多いから、話し相手になってくれないか」
「わかりました」
八左ヱ門の返事に、おぼろはありがとう、と笑みを大きくする。そして、燭台を一つ持つと土間へと降り、駆け寄ってきたくれと二言三言言葉を交わす。するとくれは、目を大きくして八左ヱ門を見、控えめな笑みを浮かべた。
「それじゃあ、二人共また後で。くれ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
くれの言葉と同時に、八左ヱ門は小さく会釈をする。小さく手を振っておぼろが外に出ると、その姿、まるで溶けるように暗闇に消えた。