※)ベッターに上げた続きから
それでも二人は夫婦であったし、手を繋いでキスをして、時にはセックスもした。いつの間にか、あのどうにも埋めがたい胸の中空が抜け落ちたような虚しい飢餓感を覚えることは無くなっていた。それと同時に食べても肉が付かず痛々しいほど痩せていた体が女の丸みを帯びる様になって、生まれて初めてキスもセックスもしない普通の女友達も出来た。仕事も私生活も充実していた。
酷い時には日替わりの様に女の下を渡り歩いていた自分と今の自分が同じ人物だとは思えなかった。もしかすると自分はこのままストレートの女の様な顔をして生きていくのかもしれないとも思ったし、それどころか彼の子供を産んでもいいとさえ思った。
けれどそんな薄ぼんやりとした、平穏でありふれていて凡庸な幸福は匡近の死で終わってしまった。
事故で、突然の事だった。備えも心構えもなく、ただ慌ただしく葬儀と行政上の手続きをして、哀しいと思う暇もなく忌引が明けて仕事に出た。ひと月、ふた月と、暫く時間が経ってようやく喪失感を覚える様になり、彼の残り香に縋るように煙草を変えた。そして余ったるいバニラの煙に包まれながら一人で酒を飲んで泣くようになった。そのうちにやり場のない喪失感と少しずつ折り合いが付く様になった。
折り合いが付いただけで喪失自体は埋まっていない。再びあの誰彼かまわず他者を求めたくなる激しい餓えが襲ってくるのではないかと恐怖したが、不思議と寂しくはあっても誰かと寝たいとは思わなかった。
十代の終わりから二十代の初めに女達を惹きつけた中性的な外見はとうに損なわれていたし、不誠実でもいいから誰かを求めるような強烈な性欲が抜け落ちてしまったような気がした。けれど、夜に一人になると時折自分の上を通り抜けて行った過去の女の事を思い出した。
匡近と同じ、自分を置き去りにして勝手にいなくなってしまったあの女。
今更になって、その女が目の前に座っている。自分と同じ、男を失った女になって。
相変わらず蒼褪めた様に色の白い頬は、薄い化粧がところどころ剥がれていた。丁度涙でも流れたような筋だ。
「結婚したのか」
「ああ。十年前、お前の部屋を出てすぐに」
なんと言葉を返していいのかわからず、実弥はそうか、とぶっきらぼうな相槌を打って、チーズケーキを苦い珈琲で流し込んだ。
「元々、親の決めた婚約者で、ずっと決まっていたことだった」
「流石、お嬢様は違うな」
「いい人だったよ、幼馴染で。厳しかったけど、優しかった」
その言葉に嘘はなさそうで、恐らく幸福な結婚だったのだろう事が見て取れた。
実弥は一層分からなくなる。良い結婚だったのなら、夫を失って辛くて泣きだしたいだろう。実弥自身は寂しいとより一層独りで籠りたくなるタイプだったが、逆に誰かと会いたくなる人もいるだろう。しかしその相手に何故自分が選ばれるのかが分からなかった。
「それで、何で今更会いに来た?別に、他にもいるだろうに、何でわざわざ十年前に勝手に飛び出した女の所に……」
意図せず言葉が鋭く、ひがみっぽくなる。十年間見ないようにしていたものが本人を前にした事で噴き出しているように思えた。自分はこんなに陰湿だっただろうか。なってしまったのか、それとも気付かないでいただけで、元から嫌な女だったのか。今更問いただしても詮無い事を詰らずにはいられなかった。
「一人になって、寂しくて、昔の女を思い出したか?押し掛ければまた昔みたいに出来るとでも思ったか?」
義勇は俯いて黙り込んだ。泣きだすだろうかと思って見ていたが、彼女は色の薄い唇をきつく噛んで苦しそうに目を伏せた後、不意に顔を上げて僅かに口元を引き攣らせた。それが彼女のぎこちない精一杯の笑顔だということを、実弥は急に思い出した。相変わらず無理矢理に笑わされた思春期の集合写真の様な下手くそで不自然な笑顔だったけれど、実弥の想像に反して彼女は泣いてはいなかった。
「そうだよ」
そう言って彼女は両手で顔を覆うと、くぐもった声で続けた。
「そうだよ、錆兎が死んで、哀しくて、誰とも会いたくなくて、でも寂しくて、誰かに会いたくて、今更実弥を思い出した。都合よく会いたくなって、探して、でもやっと見つけたらお前は誰かと結婚していて、」
両手の内側で彼女は大きく息を吸った。声が震えていて、泣きだしそうなのをこらえているのは誰が見ても明らかだった。
「馬鹿みたいだって思った。酷い事をしたのは私なのに、十年も経って、実弥が変わっていない保証なんて何もなかったのに……私、自分で棄てておいて、実弥は変わらないと思っていたんだって、気付いて、馬鹿みたいだ……」
みたい、じゃなくて、正真正銘馬鹿だろうと思った。そして、そんな馬鹿女に少しだけ絆されかけている自分はもっと馬鹿だと思った。彼女はどうしようもなく身勝手で傲慢な女だけど、昔と同じ、世界のどこにも居場所が無いような蒼褪めて心細そうな顔を美しく感じてしまった時点で、実弥に勝ち目など無かった。
二人並んで帰宅ラッシュには少し早い電車に揺られてしばらく経つ頃、ようやく理性が帰ってきたような気がして、実弥は隣に聞こえないように溜息を吐いた。
なぜか、成り行きで義勇を持ち帰ることになってしまった。家には帰りたくない、行く当てもないという彼女を、何日かなら止めてやってもいいと言ってから、もしかすると彼女の思うままになっているのでは、と思ったが既に遅い。
都心から郊外に向かう私鉄は丁度多摩川の鉄橋の上だ。今はまだ日が傾き始めたばかりで、空はまだ日暮れ前のくすんだ青色をしているが、もう一時間程すると夕焼けが水面に反射して世界中が目も眩むような白いオレンジに染まる。それが過ぎると、今度は目映いオレンジと紫、群青のグラデーションに、海沿いの工場地帯が青白く浮かびあがるようになる。実弥は深い青の夜空にぼんやりと揺れる生き物のにおいがしないその明かりが好きだった。
隣をちら、と盗み見ると、義勇は立ったままうつらうつらと舟を漕いでいた。切れ長の目を縁取る長い睫がふるふると揺れて、今にも瞼が落ちてしまいそうだ。満員には程遠いが、都合よく座れる席が残っている程に空いてはいない。
「おい、寝るな。転ぶ」
肩を小突くと、義勇ははっとしたように一瞬目を開けるが、少しするとまた眠たげに瞼が落ち始める。よく見ると、目の下に濃い隈があった。肌も少し荒れている。昔は浴びる様に酒を飲んで、連日夜通しセックスをしても肌荒れ一つ起こさなかった彼女がだ。十年前から年を取っていないように見えた彼女もまた、自分と同じく年を取ったのだと今更思い知らされたようだった。
※)キリは微妙ですがそろそろ終わりにします。
今日の配信分は後日またべったーに格納します。
お疲れ様でした、次回は未定ですがGWですし……
鯖の調子を見つつ、なるべく近いうちに。