入道雲 「青いビー玉」「碧落」「眩暈」
眩暈がするほど暑い日だった。太陽は地上を焼き尽くすつもりなのかと疑うほどに陽射しが強く、水分は摂った傍から汗と成って滴り落ちる。たっぷりと汗を吸い込んだTシャツも、少し時間を置けばすぐにからりと乾いてしまった。
家に帰って服を脱いだら塩をたっぷり噴いているのだろうな、と思うと余計に気分が急降下する。夏は敵だ。そもそもこの気温は人間が活動するのに不向きなことこの上ない。
「……さっさと夏が過ぎればいいのに」
飲み干してしまった麦茶のペットボトルを自販機横のゴミ箱に突っ込んで、僕は恨みを込めた声で呟いた。その間にも、こめかみを汗が一筋伝う。その感触がくすぐったくて不愉快で、ぐいっと力任せに手の甲で汗を拭った。
降り注ぐような蝉の合唱。目に沁みるように晴れ渡った青空と、むくむくと膨らんだ綿のような入道雲。少し先を睨めば灼けたコンクリートの上でゆらゆらと陽炎が立ち上っている。嗚呼まったく、と僕はため息を吐いた。夏を象徴する存在の何もかもに腹が立つ。
「まあまあ、そんなにカリカリしないでよ。別にこれが永遠に続くってわけでもないんだからさ」
夏に対する苛立ちで血が沸騰しそうになる僕を諫めるように、涼やかな声がくすりと笑んだ。じとり、と視線だけをそちらに向けると、小麦色に灼けた肌の少女がラムネの瓶を片手に突っ立っている。ぽた、ぽた、と地面に滴る水滴は、その瓶に付いた結露だ。まるで汗を掻くように、じわじわと膨らんだ水が彼女の手を濡らしてゆく。
尼崎雫。大して仲がいいわけでもないクラスメイトで、僕の席の隣人だ。プール帰りらしく、肩には荷物を引っ掛けている。普段寝癖でうねっている短髪は、しっとりと水を含んで彼女の首筋に張り付いていた。それが何だか妙に生々しくて、僕はそっと視線を逸らす。そうして目を伏せながら、夏に対する苛立ちを彼女にぶつけた。
「……永遠に続かなくとも苛立ちはするだろ。何だよこの暑さ。おかしいだろ、生き物に対して恨みがあるのか疑うレベルだぞ」
「そんなこと言ってもなあ。温暖化ってやつじゃないの?」
まあ、よく判んないけど。カラカラと快活な笑い声を響かせて、尼崎は瓶を一息で空にした。嘘だろ、と思わず目を瞠る。ラムネはまだ半分以上残っていたのに、彼女は喉を鳴らして豪快に飲み切ってしまった。しかも最後にはけぷっと軽いげっぷのおまけ付き。
……何て女だ。恥じらいの欠片もないその仕草に、一瞬でも彼女に女を感じてしまった自分を恥じた。身体が女でも中身はおっさんだぞこいつ。
だから夏って季節は駄目なんだ。暑さにやられて頭がおかしくなっている。コンビニでアイスでも買って早く帰ろう、と軽く頭を振って歩を進めると、帰り道が同じらしい彼女がのんびりとした歩幅でついてくる。中のビー玉って取れないよねえ、などと言いながら飲み口に人差し指を突っ込んでいた。
「……瓶、割れば?」
「いやいや、それは恐いじゃん。パリーンって散った破片が刺さったりしたらどーすんの」
「知らないよ」
しっかし今日は暑いねえ。言いながら、彼女は瓶を空に翳した。眩しそうに目を細め、瓶の中のビー玉に青を映して笑っている。何がそんなに楽しいんだか、と呆れ混じりにそれを見ていると、不意にこちらを向いた尼崎とばっちり視線がぶつかった。リスのようなどんぐり眼が笑みに埋もれて線になる。
「ビー玉が青空を切り取って綺麗だよ。三村も見てみる?」
「見ない」
「釣れないなー。っていうか今日、ほんとに空が青いね。蒼穹ってこういうことを言うのかな」
「……そうなんじゃないの。あと、碧落とか」
「へきらく?」
「青空とか、あとは遠いところって意味もある。碧に落ちるって書いて、碧落」
「へえー!」
僕の説明を聞くと、彼女は楽しそうに笑って空を仰ぐ。そっくり返りそうに背を反らしながら歩くので、危ないよ、と一言注意した。歩く彼女の髪はもうすっかり乾いてはねている。まるで犬みたいだな、とツンツン逆立つそれを見ながら思った。
「その言葉作った人、センスいいねー! 確かに、こうして空を仰いでると、空の中に落っこちていきそうだなーって思うもん!」
「……まあ、気持ちは判らないでもないけど」
「でもなんか、碧落って言葉、三村の前で遣うのはちょっと恥ずかしいかもね」
「はあ? 何で」
唐突な言葉に顔をしかめる。尼崎の話はいつも突飛で脈絡がなく、僕はそれに付いて行くのが苦手だった。そのくせ本人は振り回している自覚もなく無邪気だから始末に負えない。そうして今日も、彼女は何の気なしにこっぱずかしい台詞を吐いた。
「だって三村の名前って碧(あおい)でしょ? 碧に落ちる、なんて、三村に溺れるみたいで恥ずかしいなって」
じわり、と尼崎の小麦の頬が赤くなる。釣られてこちらの頬にも熱が上るのを感じた。脈が少し早くなる。ぐらり、と眩暈に近い何かで脳が揺れたように思えた。
いや、違う、だってこれは。今日は憎たらしいほど空が青くて。人類に喧嘩を売っているのかと思えるほど陽射しが強くて。そこかしこで陽炎が立ち上るほど気温が高くて。だから、これは、感情が揺さぶられた、わけではなくて。
「…………ばっかじゃないの」
ようようそれだけ口にして、僕は赤くなった顔を隠した。嗚呼、それもこれも、どれも全部、夏のせいだ。