幻太郎と知り合って、何度かご飯に行ったり、お出かけするなどした。黙っていればとんでもない美男子、話すと変な嘘でからかってくる癖が強い男。しかしながら、ときどき滲み出る優しさや物腰の柔らかさが私の胸に甘いときめきを覚えさせた。ビッグネーム相手になんてこと、浮かれているだけだ、って自分に言い聞かせていたけど、そんな私の心中を察することなく幻太郎は私を呼びつけた。
「渋谷の隠れ家カフェが気になるんです、小生だけで行くのは勇気がいるので、お付き合いいただけませんか。」
お付き合い、で一瞬心臓が飛び跳ねてしまった自分が情けない。いいよ、とLINEの返信をして、楽しみなんだかそうじゃないんだかわからないまま眠りについた。
件の隠れ家カフェは、渋谷の大通りから少し離れたところにあった。カウンターの隅に腰を下ろす。最近見たアルゼンチンの映画が素晴らしかったとか、こんなふうに有栖川さんを騙して面白かったとか、そんな話をしている間にウィンナーコーヒーふたつとガトーショコラがきた。ガトーショコラの上に鎮座する苺とブルーベリーとラズベリーたちの彩りうきうきしながらフォークを手に取った。
ふと視線を感じて幻太郎を見た。いやににこにこしていて、どうしたって心の奥がきゅんと光る。
「……なんで笑ってるの」
「笑ってるのは貴女でしょう。よほど楽しみに待っていたんですね」
「そりゃね」
マグカップにそっと口付ける。ウィンナーコーヒーって、少し冷たいクリームの下に熱々のコーヒーが潜んでいるから油断ならない。慎重に口内に迎え入れる。ああ、おいしい。クリームの甘さとコーヒーの苦味が体を温めてくれる。
「……彼氏が欲しいな」
幻太郎への挑発の意を込めて呟いてみる。挑発している側なのに、どうにも声が小さくなってしまった。
「ん?なんです?よく聞こえませんでした」
「……彼氏が欲しいなって言ったの」
「ほう、そうですか。そのへんにいる男に、果物でも投げつけてみたらどうです」
「なんでそうなるのよ」
「おや、貴女、ご存知ないですか」
「どういうこと?」
「古代の中国はね、女性から男性に求愛するときは果物を投げつけたんですよ」
まーたデタラメ言ってるよ、と口にしようとしたら、幻太郎にすかさず「これは嘘ではないですよ」と先制されてしまった。
「……ほんとう?」
「本当ですよ。中国のふるーい書物にね、そういう詩が残っているんです。」
「ふーん?」
「古代から豊穣を祈るお祭りっていうのがあってね、若い男女が集まって出会う場でもあったんです。その場の中で、『あたしあんたと結婚したいワ』と思ったら、持ってる果物を男に投げつけてアピールしたそうです。」
「へえ……どんな果物投げてたんだろ」
「サンザシとか、ボケとか、すっぱい木の実の類だったようですよ。そうですねえ、梅の実を投げてる詩もありましたね。投げても投げても男に振り向いてもらえず、『早くあたしをもらってよ』って籠までなげる女の詩があります」
なんてこと。売れ残って焦る女の心情が、古代から脈々と今まで伝わって、私の好きな男が読んでいるなんて。恐ろしい話だ。
「……それでね、今でもこの文化は残ってるんですって」
「そうなんだ、初めて聞いた」
「林檎とか苺とかを好きな男の口にねじ込むんだそうです。70年代くらいまでは投げつけてたみたいですけど、農家に怒られてからはやめたようですね」
「ふーん」
「ということで、脈々と続く伝統文化を貴女もやってみては如何です」
幻太郎はさも一つ提案するように言ってのけた。私の目の前には、ベリーがいっぱい乗ったガトーショコラがある。え、なに?これ、流れがきてる?フォークの平たい柄を押し潰すくらいの強さで握りしめた。そっとガトーショコラに差し込むと、うすく張っているチョコにぱきりとヒビが入った。ちらと幻太郎を見る。また目が合う。ねえ、そんなやさしい目で見ないでよ。とりあえず自分の口に運ぶ。ぷちぷちと果実が弾けて、濃いカカオと混ざってうっとりと溶けていく。
「おいしい……」
「それはよかった。小生も頼みましょうかねえ」
「え、頼むの?」
「小生が頼んで何か問題がありますか?」
美しい男が隣で頬杖をついた。和服の袖がゆるやかに肘まで落ちて、白い腕が露わになる瞬間に釘付けになった。あーあ、触ってみたいな。ちくしょう、好きだな。
三種のベリーをなるべく寄せて、フォークにそっとすくった。ケーキは食べせてあげないんだからね。
「……幻太郎」
「はい、なんでしょう」
「……」
「おやおや、お顔が怖いですよ」
「仕方ないでしょ、もう〜」
ひどいよぉ、恥ずかしいよ。左手で顔を隠すように俯いたら、幻太郎があっはっはと声を上げて笑った。今日いちばんの笑い声!
「投げてくれるんですか?小生に」
「幻太郎きらい」
「すみません、からかいすぎましたか?小生は準備万端ですが」
え、そんなのずるい。まあでもこうなったらヤケだ。フォークに寄せたベリーを落とさないように幻太郎に向き合って、整った唇に持っていく。
「……くち、あけて」
「はい」
幻太郎は歌うように返事をして、フォークの先のベリーを口にした。先端が加えられた反動で握った柄がすこし上下する。好きな男に餌付けをしているようだ。幻太郎は長いまつ毛を羽ばたきさせながら、赤紫に濡れた唇を舐めた。一挙一動目が離せなくて胸が苦しい。なんだかいけない気持ちがゆらめいた。
「うん、おいしいですね。ケーキとの相性もよさそうですし」
「……でしょ」
「では、お返事ですが」
え、お返事。息をのんだら、幻太郎は後ろを向いて何やらごそごそしている。
「はい、手を出して。……どうぞ」
幻太郎は腰に提げていた巾着から何かを取り出して、私の掌に載せた。紫の紐がついた、赤くてつやつやした綺麗な丸い石がついている。
「なあにこれ、綺麗」
「小生が使っていた根付です。最近新しいものを購入したので、そちらを差し上げます。本物の珊瑚ですよ」
「え、嬉しいけど、これが返事ってどういう」
「果物を投げてくれた女性に対して、男性は装身具を渡して気持ちに応えるんです。それでね、」
幻太郎が私の右手を包むように握った。華奢なように見えて、手が大きいんだ。包まれてはじめて、私はまだフォークを握り締めていたことに気づく。
「永く以ってよしみを為さん、と唱えるんです」
深緑の瞳がまっすぐに私を射抜く。意味を聞くのは、野暮だろうか。ああ、どうしたらいいの。戸惑っていたら、幻太郎がそっと私に耳打ちした。
「外に出たら、ちゃんと俺の気持ちをお話ししますね。ありがとうございます」
脳が事態を処理するのに時間がかかった。耳が熱くなっていく。どうしようもなくなって、あんなにあげたくなかったガトーショコラを半分くらい分けてあげた。
この後お店を出て、幻太郎からきちんと告白されて付き合うことになったのだけど。男へのアプローチに果物を食べさせる文化が今もある、というのは嘘だったと聞いて、幻太郎の頭をばしばし叩くことになった。「野蛮ですねえ、いいじゃないですか。古代に帰ってみるのも悪くなかったでしょう?」って素知らぬ顔を向けられて、まあ、もう、ぐうの音もでないや。カーディガンのポケットに入れた珊瑚の根付を左の掌で遊ばせながら、右手で幻太郎の手を握った。