福本が暗澹たる気持ちを密かに抱えながら数日が経ち、そして昨日。夕飯の後片付けをするために一人炊事場に残っていたところへ、佐久間中尉がふらりと訪れた。大方水でも飲みに来たのであろう。
「済まない、邪魔をしたか」
「いえ、大丈夫です」
様子を窺うだけの、軽いやり取り。要するにその程度の関係だということを表すようだった。
この佐久間中尉という人は機関員ではない。彼は陸軍の参謀本部から、出向というかたちで一時的に機関に身を置いているに過ぎない。出向というより、査察と言った方が良いかもしれないが。要するに機関のことを気に入らない本部が、何かしら弱みを探せはしないかと躍起になった結果のことであった。佐久間中尉自身にそういう気がなくとも、本部はそういう気でいる。そして勿論、中佐はそのことも分かった上で佐久間中尉を受け入れたに違いない。自信があるのだろう。
それはさて置いて。福本は案外驚いていた。佐久間中尉は、つい数刻前に夕飯後のカードゲームで散々機関員たちにカモにされたはずだ。少しくらい根に持って良いはずだが、予想に反し彼は明朗に話しかけてきた。もうあの事は、彼の中で過去になってしまったのだろうか。なんとなく気に掛かり、それとなく探りを入れる。
「佐久間さん、」
「ん、なんだ」
「怒ってないんですか」
単刀直入な問いかけに少し面食らったのか、口元を引き結び真っ直ぐとこちらを見返してくる。生真面目で直情的で、まるで人を疑うことを知らぬような、それ。己が持たぬ、いきものの血潮を湛えた瞳。
怒っていないと言えば嘘になるが、との前置きを躊躇いがちに彼は口にした。
「まあ、そもそも俺がポーカーだと端から決めつけていたのも事実だしな。確認を怠った俺にも非があるだろう」
「ふむ」
想定していたよりも理知的な返答に、福本は己の認識を改めた。短絡的とはいかないまでも、もう少し彼が直情的な思考を持っていると見くびっていたことは否めない。人間というものはどこまでも面白いものだと、どこか達観した結論に至りかけたその時、福本の意識は引き戻された。
「それに、小田切が助けてくれたこともあるしな」
小田切。ここに居ない彼の名前を、どうして佐久間さんが口に出すのだろうか。化け物たる我々と、人間たる佐久間さんは別の存在である。そう認識している。選民意識も甚だしい考えだが、実際そうだと思っている。しかしまるで自らの親類のような色を持って吐き出されるその名前に、福本は少し興味を持った。嫌な予感がした、の方が正しいかもしれない。
「小田切が、……どうかしましたか」
「ああ、済まない。覚えているか?ゲームの終わり、中佐が現れる前だったか。小田切がネタを明かしてくれただろう。あれがなければ、俺はずっと騙されたままだったからな」
「ああ……」
聞きながら福本は、今現在行われているかのように夕刻の情景を思い出していた。もし俺や他の機関員なら、佐久間さんにあのゲームのからくりを話すような真似をしていただろうか。巡らされる思考回路に気付かず佐久間さんは続けた。
「なんだろうなあ、小田切は……少し、俺と近い気がしてな。いや、出過ぎた意見だったら済まない。一度助け船を出されたくらいでと思うだろうが、なんとなく……な」
それ以降のことは、よく耳に入らなかったように思う。言語的な理解はしているが、思うように咀嚼できなかった。同類であると思っていた小田切が、佐久間さんのような人間に近しい性質を持っているという事実に衝撃を受けた。そしてそれは、自身が今一番渇望しているものに相違なかった。
化け物たる才能を持つ自分に自負を持っていた、はずだった。しかし、それはただの人間性の抜け落ちた殻に過ぎないと突きつけられて。人間の擬態をしているものに過ぎないと突きつけられて。人間らしさとはなにかと、考え続けた。完全になりたかった。人間としても、化け物としても。完全でいなければ。完全でいなければ。
その辿り着いた先が小田切なのではないかと、福本は確信を持った。持ってしまった。化け物であり人間でもある最適解が、きっと彼なのだと。彼がきっと、己に答えをもたらすのだと、信じて疑わなかった。
気付けば佐久間さんは、目の前に飲み終わったグラスを残して少し前に去っていた。厭な汗が、背中を伝った。
そしてまた翌日、即ち今日。こんな時に限って、大東亜文化協會の建物の中には福本と小田切しかいなかった。他の機関員たちは皆こぞって夜の街へ繰り出してしまったし、佐久間さんは報告をせねばならぬと本部へ行っており、今日は帰らない。己が勝手に鬱屈としているだけに過ぎないと言われればそこまでなのだが、小田切と2人きりというのも今に限っては間の悪いことだと歯噛みさえした。
そして同時に己の頭を悩ませているのは、2人しかいないために夕飯の支度が少々し辛いことであった。一見大人数の方が支度が面倒と思われるだろうが、実のところそうではない。男の集団だ、適当にたくさん作ってしまっても案外ぺろりと完食してくれるのである。佐久間さんや波多野などは特に良く食べるから、あまりに規格外の量を作らない限りは目分量でどうにかなる。だがしかし、2人というものは如何ともし難い。下手に作りすぎても余るし、量を計りながら作るのも少し億劫だ。どうしたものか。
考えた末に、結局福本は小田切を連れて町外れの小料理屋へ出かけた。己の気持ちと支度の手間を天秤にかけた上での采配であった。それにこの状況を利用し、小田切の本質に迫れるやもしれぬという目論見が多少あったことも否定しきれない。不利な状況すら利用するのがスパイの本質ではなかろうか。つい数日まで己と小田切は似た存在だと思っていた者が、中佐と佐久間さんという対象的な人物によって全く異なる存在であると結論付けられた。その真に迫りたい。何が自分には欠けているのか。間近で、己の手でその欠けたものを手に取りたいと思った。奪い取りたいと思った。
当然ながら小田切は、こちらの煩悶とした苦悩など露知らずあくまで通常通りの立ち居振る舞いを見せている。日本酒を舐める程度に味わう様子を見て、きっと然程彼は酒に強い訳ではないのだろうなどと考える。皆で呑みに行く時はそれなりに呑むが、2人の時は実際彼はあまり飲酒をしようとしない。これはきっと、自分しか知らない彼の一面なのだろう。
「……なんだ」
不意に小田切が話し掛けてくる。そんなに見てしまっていただろうか。手元を見ると、己の眼下にある料理は小田切の半分ほどしか減ってはいなかった。
「……体調でも悪いのか、帰ってもいいんだぞ」
言葉でこそ心配のかたちを取っているが、その声色は決して体調を本気で心配しているものではなかった。どちらかと言えば、呆けていることを咎めるニュアンスの方が近いと言えるだろう。乗り気でないなら帰るぞ。暗にそういうことを示している。
「いや……悪い、考え事をしていた」
「珍しいな、貴様がそんな顔をしているなんて」
「そんな顔……」
顔に出ていただろうか。表情筋を少しも動かさずに猪口の中に揺蕩う酒を覗き込んだが、そこにはいつもの自分しか映っていないように思えた。駄目だ、わからない。自分も、見透かそうと意識してもいないのにさも見透かしたようなことを言ってくるこの男も。
「俺は、どんな顔をしていた?」
小田切は怪訝そうに眉をひそめ、言葉を選びながらぽつりと呟いた。ご丁寧にも、気を悪くしたらすまないという断り付きで。
「なんというか……不安そうというか、所在なさげというか」
「……」
「それに、いつもはどこを見ているのだか分からない目をしているがな。やけに今日は俺を睨んでくるじゃないか。気付いているか?」
鼓動が変な動きで波打った、ような気がした。勿論表情などには一切出していないが、手のひらに滲んだ汗がどうにも不快で2、3度握り拳を開いたり閉じたりする。これ以上聞きたくなかったが、逃げるようなことをするのは更に嫌だった。
「俺が何かしたか?言いたいことがあるなら言えばいい」
それきり小田切は何も言わず、再び料理に手を付け始めた。