目蓋を震わせてゆっくりと開くと、木目がすぐ間近に見えた。
うつ伏せに寝ているということに気付くまで、少しばかり時間が掛かった。
首を捻るとビリッと痛みを感じて、思わず呻き声を上げて目蓋を強く閉じ、身を固くする。
痛みが引いてまた目蓋を開くと、岩が壁際に鎮座しているのが見えた。
その岩には赤い前掛けが掛けられている。
ここがお堂であることに気付くのに、少しばかり時間が掛かった。
その岩が地蔵として、このお堂で祀られているのだろう。
身を起こそうとするも身体は動かず信繁は、首の痛みを堪えながら反対側に首を動かした。
障子から柔らかな陽射しが差し込んでいる。
自分がどうしてこんな所で眠っているのかが、全く思い出せない。
ぼんやりとし続けていると、障子に影が映りゆっくりと扉が開かれた。
男だった。
上背のある男性だ。
長い柔らかそうな髪を、後頭部で一纏めにしている。
切れ長の目はそれとは対照的に、柔らかな眼差しで信繁のことを見ていた。
芥子色の着物の上に羽織られた茜色の羽織は眩しく、信繁はきゅうっと目を細めた。
「具合はどうだ?」
男はゆっくりと信繁に近づき、片膝を突いて覗き込んでくる。
「……ここは……」
尋ねた声はがらがらに掠れていた。
一言しか声を出していないというのに喉が痛み、ケンケンッと乾いた咳が出る。
男は瓢箪を取り出し栓を抜くと、それを信繁の口元へと寄せた。
何も言葉にされないが、飲め、という意味なのだということに気付き、信繁は口を小さく開く。
開いた口に瓢箪の口を軽く当てられ、ほんの少しだけ傾けられる。
少しずつ水が流れ込んで来て信繁はそれを、ゆっくりと飲んでいく。
飲みきれなかった分の水が口の端から流れ落ちていくと、男はそれを己の着物の袂で拭いてやった。
信繁は息を吐くと男を見上げる。
柔らかな陽射しを背にした男は、じっとこちらを見ている。
不思議な耳飾りが男の耳で揺れたのを見て、それに見覚えがあることを思い出した。
ぼんやりとしていた頭が、段々と、じわじわと、鮮明になっていく。
焚火の火が揺れる。
噎せ返るような血の匂いと、多くの死体。
喰い千切られた己の主君の首。
そして──
「ッッ」
信繁は身を起こし、今し方己に水を飲ませてくれた男の胸元を強く握り締める。
「通忠はッ……!!」
男は一切動じる様子もなく、一度瞬きをすると小さく首を傾げる。
「通忠というのは……」
「あの裏切り者ですッ! アイツ……ッ! あいつはッ……!」
裏切り者、という信繁の言葉に、男は眉根を寄せた。
男は瓢箪から手を離すと、己の着物を掴む信繁の震えている手に両手を添えて、指をひとつひとつ離させていく。
「そなたの名を尋ねても良いだろうか?」
まるで落ち着かせるように尋ねる優しい声に、信繁は喉の奥を微かに引き攣らせた。
彼の胸倉を掴んでいた手から力が抜けると、その手を離される。
信繁は胡坐を掻くと、両手の拳を床に突き頭を下げる。
「……失礼仕った……。私は、萩川藤左ヱ門信繁と申す……」
「私は継国縁壱。……信繁、己の身に何が起こったのか、思い出せるか?」
縁壱と名乗った男に信繁は、はい、と頷いた。
「危ないところを助けていただき、感謝致します……」
信繁はさらに深々と頭を下げようとすると、背中に鋭い痛みが走り信繁は呻いた。
縁壱は信繁の脇の下に腕を挿し入れ、ゆっくりと体を起こしてやる。
「……皆は……」
ぽつりと呟いて尋ねる信繁に、縁壱は緩く首を横に振る。
言葉もなく首を振られてしまったことに、信繁は眉根を寄せると項垂れた。
本当に己だけが生き残ってしまった。
ただその事実が、悲しくて仕方がなかった。
守りたいと思った主君を守ることすらできず、手練れの武将たちを失い、自分のような若輩者が生き残ってしまったことが、申し訳なくて仕方がなかった。
それと同時に裏切り者である通忠への強い恨みが、胸中で強く渦巻き歯をギシリと噛み締める。
「通忠、というのは……そなたたちを襲った鬼のことか?」
鬼、という言葉に信繁は目を大きく瞠る。
ゆっくりと顔を上げると、縁壱の表情はひとつも変わっておらず、真面目に尋ねていると言わんばかりだった。
「鬼……? 通忠が……?」
「そうだ」
確かにあの所業は鬼と言ってもいい。
だが信繁には頷くことができなかった。
縁壱の言葉が妙に引っかかって仕方がなかった。
縁壱は、鬼のよう、ではなく、鬼、と言い切った。
あの惨劇を目の当たりにしたというのなら、そのような言葉が出てくるのも頷ける。
しかし、
「通忠という男は、鬼だ」
やはり縁壱の口から出るそれは、例えとしての言葉ではない。
「……は、はは……」
信繁は小さく、乾いた笑みを零した。
「何を、そんな、鬼などと……御伽噺でもあるまいに……」
鬼というのは何百年も前から言われている妖だ。
鬼が人の心に巣食い、人に悪さをさせたり、病だったりを引き起こす。
しかしそんなものは迷信だ。
一昔前までは信じられていたことだが、昨今ではそんなことを口に出す者は少ない。
もちろん仏は信じる。あの世もあり、地獄もあろう。その地獄には鬼も居よう。
だがそれとこれとは別だ。
しかし縁壱の眼差しは逸らされることはなかった。
真っ直ぐに信繁を見つめ、ただ真っ直ぐに見つめてくる。
その眼差しに、信繁は血の気が引くのを感じた。
「本当、に……?」
声を震わせて尋ねる信繁に、縁壱はひとつだけ頷いた。
「鬼は簡単には死なない。どれほど傷を負わせても、手足を斬り落としても、瞬く間に治る。鬼を殺せるのは陽光か、日輪刀という特殊な鉱石で作られた刀で頸を斬ることだけだ。普通の刀では殺せない」
縁壱はそう言うと、己の腰に挿している刀を鞘ごと抜いて信繁の前に置いた。
「そなたたちを襲った通忠という男は、そうではなかったか?」
信繁は差し出された刀へと視線を落とし、動揺に大きく脈打つ心臓の音を耳元で感じていた。
(簡単には……死なない……?)
そう考えた途端、憎しみで霞んでいた記憶が少しだけ晴れた。
「……心臓を……突いたのです……」
縁壱の言葉に思い出されたのは、甲冑ごと貫いた通忠の身体だった。
心臓を突いたはずだった。
例え外れていたとしても、あれ程深く貫いたのだ。即死とはいかずとも、絶命してもいいはずだ。
それなのに、通忠は俊敏に動いた。
そして、
「首、も……刺し、たのに……」
首こそ間違いなく刺したのだ。
あの距離で、柄まで通す勢いで喉元を突いた。
普通の人間ならば確実に絶命するはずなのに、それでも通忠は顔を上げて笑ってみせた。
それよりも前、襲い掛かって来た腕を己は確かに斬り落としたのだ。
だがよくよく思い出せば、和行の刀を弾いたのも、己の首を絞めたのも、その斬り落とした腕だった。
鬼は簡単に死なない。どれほど傷を負わせても、手足を斬り落としても瞬く間に治ってしまう。
信繁の普通の刀では、鬼の通忠を殺すことはできなかった。
鬼。
(通忠が、鬼……?)
通忠が鬼だという証拠はこれだけ揃ったというのに、それでも信繁はそれを否定したかった。
今までの記憶の中の通忠が、どうしたってそれに当て嵌まらないのだ。
太陽の下で何度も走り回った。
剣の稽古をして誤って怪我を負った時だって治るのに何日も掛かった。
彼は歴とした人間だ。
人間だった、はずなのだ。
「どうして……通忠は鬼なんかに……」
「人間を鬼にする、鬼の始祖がいる」
恨み辛みが積ると鬼になる、という物語はとても多い。
通忠もその類なのでは、と一瞬浮かんだ考えは縁壱の言葉ですぐに消え去った。
「……鬼、の……始祖……?」
困惑に瞳を揺らす信繁に、縁壱はひとつ頷いた。
「鬼はその様にして増えていくのだそうだ。鬼の始祖の血を注がれ、鬼にされる」
「その、鬼の始祖が……通忠を鬼にしたから……あの様な……」
あの様な惨劇が起きてしまったというのか。
「鬼にとっては、人間は餌なのだ」
「……餌……」
「腹が減ったら食事をする。それは生き物ならば当然だ。鬼も同じ。通忠も鬼に変わり、その鬼に転じたときに使った体力を取り戻すために、そなたたちを襲ったのだ」
縁壱の言葉に愕然とするばかりの信繁に、縁壱は微かに目を細めた。
「その通忠という男も、望んでそなたたちを襲ったわけではあるまい……」
ザワリと強い不快感が鳩尾から脳へと駆け巡っていく。
その不快感が脳を侵すと眩暈が起き、全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。
怒りだった。
強い怒りで気が狂ってしまいそうだった。
「その鬼の始祖が居なければっ……通忠は鬼にならずに済んだということですかッ」
最後に見た通忠の表情を思い出す。
通忠は望んでいなかったのだ。
あんなことをする事を、通忠自身は望んでいなかったのだと思うと、それを知らなかったとは言え彼を裏切り者と罵った自分にも怒りを覚えた。
裏切り者だなんて、以ての外だ。
そうでなければあんな、今にも泣きそうで、苦しそうな表情をするはずがない。
「お、俺はッ……」
親友である男に、何という感情を抱いてしまったのだろうかと、罪悪感で押し潰されてしまいそうだった。
そしてそれ以上に、血が沸騰するのではないかというほどに、その鬼の始祖というものへの強い怒りが湧き上がる。
その鬼の始祖というものがいなければ、通忠は仲間や主君を手に掛けることもなく、自分も彼にあんな強い殺意を抱くこともなかったのだ。
(憎いッ……!)
憎くて憎くて堪らなかった。
見たこともないその鬼の始祖が憎くて仕方がない。
今すぐにでも仇を討ちに行きたいと思うのに、鬼の始祖がどこにいるかを信繁は知らない。
この怒りをどこにぶつけていいのかがわからず、信繁は唇に歯を立てて床に突いている手に力を込めて爪を立てる。
床の木目に逆らい立てられた爪の痕に、縁壱は視線を落とす。
爪が剥がれてしまうのではないかという程に力の入れられた指の先は、白くなってしまっている。
その様子を見て、僅かばかり眉根を寄せる。
強い怒りがその指先に込められているのは、見ただけでわかる。
「ッ……継国殿……お聞きしたい……」
幾分、己を責める縁壱に、信繁は声を掛ける。
縁壱は床から信繁へと視線を戻す。
ゆっくりと顔を上げた信繁の目は、怒りで流血して赤くなっていた。
「その鬼の始祖を殺すには、どうすればいいのですかッ」
噛み締めていた唇は切れてしまっており、血が滲んでいる。
「どうすれば、貴方が持っている刀を手に入れることができるのかッ! 教えてください! どうすればッ!!」
縁壱は目を細め、小さく短い息を零すと唇を結った。
己を見つめてくる信繁の瞳には復讐の炎が宿っている。
恐らく、そう簡単に消えることのない強い憎しみ。
仲間も主君も、親友も鬼によって奪われた。