腹部への重たい衝撃と、鼻に抜ける香水の匂いで目が覚めた。
驚きに開かれた瞳が生暖かい春風を吸って乾いていく。瞳をパチパチとしきりに瞬かせていると寝起きでぼやけていた視界が徐々にクリアになっていく。
まず視界に入って来たのは足だった。私が普段履くような歩きやすさだけを追求した靴とは全く違ったもの。美しいエナメルと、細部にまでこだわったデザイン、そして尖った──おおよそ歩くには不適切なデザインのヒール。それはそのはずだ。その靴は「歩く」だとか「走る」ために作られるはずのものではなく、ただただ純粋な美術品に近しいものなのだから。
「メーテラさん?なに、私何かしましたか?」
寝起きの声はのっぺりとしてくぐもっている。声帯はまだ眠ることを諦めていないというように開ききってはいなかった。
プカプカと空を浮いて私を見下ろしていたメーテラさんは呆れを隠さぬ表情で「アンタねぇ…」
「ここがどこだかわかってんの?」
「え…艇の甲板…?」
「そう!わかってんじゃない!じゃあアンタはその甲板で今なにしてたわけ?」
「ひ、昼寝…です…?」
素直に質問に答えていくごとにメーテラさんの眉根には深い皺が刻まれていく。
風が一陣、甲板を横切る。そこで私は自分の体が予想以上に冷え切っていることに気付いた。両手で二の腕をさすり上げる。春の陽気に誘われて甲板に出て、少しだけならいいだろうと昼寝をしていたが、思っていたよりも長く眠り過ぎていたのかもしれない。
メーテラさんは風に巻き上げられた髪を鬱陶しそうに振り払いながら顎を少し上げて壁際に犯人を追い詰めた探偵のように私を指差した。
「アンタは隙が多すぎる!!!」
そう言い放ったメーテラさんの声は普段の甘ったるい、ぐつぐつに煮込み上げたジャムのような声ではなく、彼女の放つ弓矢のように鋭く力のあるものだった。
しかし声にいくら迫力があったところで、刺さらなければ意味がない。要領を得ない言葉に小首を傾げていると「チッ!」と舌打ちが落とされた。
「隙が多いって、そりゃあ艇の上なんだから油断も隙もありますよ」
「アンタの部屋でやってるならお姉さん、別に文句なんて言わないわよ。でもね、ここは甲板なの!いくらアンタにとって家当然のこの艇の上だからって涎垂らして寝てんじゃないわよ」
「嘘!?垂れてます!?どこ?!」
「ここよ」とメーテラさんの形良く整えられ彩られた爪が左頬と空気の間を引っ掻いた。確かに涎のせいか髪が左頬に張り付いている。
「こんなとこで寝てたらアンタ、いつの間にか襲われちゃって、後で泣いて後悔しても遅いのよ?」
メーテラさんの喋るスピードが早くてまだ覚醒しきらない脳がクラクラする。メーテラさんは普段、スピードの緩急をわざと付けて喋るきらいのある人だが、今日はよほど私に怒っているのかそのテンポは一定で速い。
「でも、ほら!」
その速さに私は目を回しながらも体はすぐに腰に付けた剣を取り出して、メーテラさんに掲げていた。メーテラさんは貢物が気に食わなかった気まぐれな女王様のように首を回して「何?」と問いかけた。
「急に敵襲や魔物が着ても良いようにいつでも剣を下げてますし!大丈夫ですよ!」
「甘ーーーーーいッ!!!」
「ひえ」
武器持ってますよ!だから心配しなくても大丈夫ですよ!安心してください!と上手くお手ができた子犬のような目で私はメーテラさんをも見上げた。しかしメーテラさんは私の返答に満足するどころか、ますます機嫌を悪くし捧げるように私が持ち上げていた剣を掴んで甲板の隅に放り投げてしまった。ひどい!
「甘すぎる!そんな甘い考えでよくまあ今まで生きてられたわね?!あと、私が言ってんのは魔物なんていう雑魚のことじゃないわよ!もしそんなやつが現れても見張りがとっとと打ち倒してるはずでしょ!」
「た、たしかに…」
いくら団長が呑気にお昼寝ができるほど平和な時間が流れていてもここは空の上。グランサイファーには24時間、365日団員が交代で見張の当番がある。魔物の群れが襲って来たところで私が剣を抜くよりも先に見張りの団員たちに片付けられていることだろう。
「私が気を付けろっていうのはそんな雑魚じゃないわ」
「と、言いますと…?」
メーテラさんはそこでわざとらしく咳払いをして先程よりも少しだけ低く落としこんだ声で
「雰囲気という名の魔物よ」
と言った。
「雰囲気という名の魔物…!?」
「そう!人間なんてものはね、ちょっと頭ん中に入ってる脳味噌がデカいだけであとはそこら辺の獣と大差ないの!いかに効率良く生殖行動を行い、自分たちの子孫を残していくことしか考えてないの!」
「ぼ、暴論では…」
「あら?そうかしら。じゃあまだまだお子ちゃまなジータちゃんにオトナなお姉さんが問題を出してあげる。問題です!今ここに2人の人間が向かい合っています。彼らはお互いを熱心に見つめ合っています。距離も触れ合えるほど近いです。さあこの後2人はどうするでしょうか」
「それ知ってる!騎士道物語で習ったやつ!答えはキスをする!」
「正解!」
「やったあ!」
「じゃあ応用問題です。なぜ2人はキスをしたのでしょうか?」
「え?そんなの簡単ですよ!答えはお互いを好き合っていたから!」
「違います」
「ええ!?」
「答えは雰囲気という魔物に流されたからです」
「ええ!?」
「ちなみにこの類似問題として、飲み屋で気が合うなあと思って話していた初対面の相手といつの間にか裸でベッドに横になっていたなどもあります」
「嘘…そ、それも別に一目惚れとかではなく雰囲気という魔物に流されて…?」
「そうよ」
「うわーん!大人って怖い!不純だ!」
「他人事みたいに言ってんじゃないわよ。アンタだっていつこの例題みたいに雰囲気に流されて婚姻届に判押してましたって状態になるかわかったもんじゃないのよ?」
「私はそんなふしだらな女じゃないです!」
「はあ、ジータ。別にね、彼ら彼女らは不誠実な人間ってわけじゃ決してないの。ただそんな人間でさえも軽はずみな行動をさせてしまう。それが雰囲気ってやつなのよ」
「そ、そんなに怖いものなんですか…?」
「まあね。雰囲気ってやつは人間の五感に訴えかけ、脳を鈍らせて正常な判断をできなくさせるの。それで目の前にいる相手こそが真の運命の相手だとでもいうように錯覚させるの。全くタイプでもなんでもない相手を素敵な人かもって勘違いさせんの。そして雰囲気に呑まれた人はご愁傷様。獣に還っちゃうのよ」
「雰囲気、怖すぎる…」
「いーい?そんな強力な魔物がね、アンタみたいな隙だらけの子供に襲い掛かればどうなっちゃうか…わかるでしょ?特にこの艇、顔だけは無駄にいい男がゴロゴロいんだから警戒しといて損はないんじゃない?」
「メーテラさん〜〜!!ありがとう〜〜!私気を付けます!」
「いい返事ね。とにかくこんな場所で寝ない!」
「はい!」
「あと男と無闇に2人っきりにならないこと。特に暗くて狭い場所だと雰囲気出やすいから気をつけなねー」
「はいっ!身に刻みます!」