俺と岩谷尚文の関係はただの大学仲間だ。別に仲が良いというわけでもない、互いに都合の良い大学仲間。
きっかけはあいつの手料理を食った昼休みだったと思う。
同じ講義を取っている女の子に手料理の昼食を作ってくる約束があったのに俺は忘れていたのだ。二限目の講義終了直後にそれに気づき、何か解決策はと思考を巡らせた。最悪謝って明日弁当を持ってくれば良いのだが確か今日の夜コンパがある。アプリのスケジュール帳を開くと案の定その予定が入っていた。できれば今日でこの約束事を終わらせておきたい。何か良い案はと周りを見渡す。既に生徒の大半は教室から出て行っており、残りはその場で昼食を摂りはじめるか、友達と談笑しているか、スマホをいじっている。急に回りをきょろきょろしだした俺に、隣に座っていた女の子--約束のある子とは別の子だ--がどうしたのか聞いてきたので目ぼしい手立てを模索しながら返答をする。
「いやちょっと用事があるんだ。長引きそうだから先行ってて。ネイルの予約してるんだろ?」
「えー覚えててくれてんの?今日はポリッシュネイルにするつもりだから明日見せるね」
軽く会話をしながら、解決策となりそうな男を見つけた。そいつは友人らしき眼鏡の男と談笑していた。机の上には今から食べるのであろう弁当が乗っている。あいつはよくオタクっぽい見た目のやつらとつるんでるやつか。仲間内でオタクグループと呼んでいる内の一人だ。ぴょんぴょん跳ねた髪をしており、基本的に仏頂面。確か、岩谷尚文、だったか。他のオタクの名前は憶えていないがそいつとは講義が何度か被ったことがあるから知っていた。
ネイルに今から行く子とは軽く挨拶を交わして教室を後にするところを確認し、岩谷尚文のところへ行く。
「なあ、お前、岩谷尚文だったよな」
頭上から話しかけられ、眼鏡男がどこか怯えたようにこちらの顔を見た。それを一瞥し、跳ねた黒髪を見下ろす。
「なんだ急に」
こちらを全く見ようともせずそう返答をする。声音から俺を邪険に扱うような意思が伺えてむっとしてしまう。
「なんだよその言い方」
「は?親しくもないやつに急にフルネームで呼びかけられたら嫌だろうが」
こいつ……。仏頂面で愛想がないやつだと思っていたが本当にそうだとは。オタク友達といるときはまだ柔らかい表情をするのに。まあいい。
岩谷尚文が弁当箱に手をかけようとしたところを、先に俺の手がそれを抑える。
「俺の弁当だぞ。何すんだ」
やっとこちらを見た男の目つきは鋭いものだった。すっと俺の目を射止める。人を寄せ付けないような、猜疑心の強そうな瞳。少し慄いてしまった。
この目、嫌な目だ。何か胸の奥底をざわつかせるような緑の瞳。なにか謝らないといけない気がする。
意識がどこか遠いところへ行きかけた俺に岩谷尚文はおい、と呼び掛けた。はっと息を呑み、慌ててこいつから目を逸らす。視界の端で眼鏡男が剣呑なただならぬ気配を感じたのか、俺と岩谷尚文の顔を交互に見ている。何なんだ今のは。というより俺は今なんでここに。ものの数秒ですっかり抜け落ちてしまったコンテクストを思い出そうとする。手がなにかかたいものに触れていることに気づいた。そうだ、弁当箱。俺はこれが必要で。
「この弁当、俺に売ってくれ」
「は?」
「事情を説明する時間が惜しい。この借りはいつか絶対に返す。すまん!」
俺は財布から千円を取り出し机に置くと、弁当箱を持って教室から出て行った。取り残されたあいつらのことなどどうでもいい。さっさと約束していた場所に行かなければ。
キャンパス内を駆け回る。春の兆しが近づいており、中庭には桜がちらほら咲いていた。最近暖かく過ごしやすい気温になったため、走ると体温が上がりやすくなっている。その熱を少し冷たさの残る風が奪っていくのが心地よかった。それにしてもさっきの感覚は何だったのか。気になったため少し考えようとしたが、ガーデンテーブルに座っていた目的の彼女を見つけたため、それは霧散してしまった。
「これめっちゃ美味しいんだけど!この卵焼き一番好きだわ。元康くんほんとに何でもできるんだね」
胸に刺さる何かを無視しながら軽く対応する。俺は持ってきていた菓子パンをかじっていた。一緒に作らなったのかと聞かれたときは、確かにおかしいよなとぎくりとしたが自分の弁当箱は家に置き忘れたと言った。
次の講義が終わったらバイト行ってコンパか、と予定を確認しながら最後のひと口を飲み込む。しきりに弁当をほめる彼女を見ると、本当に感心しているようで少し驚く。
「そんなにおいしい?」
「自覚ないの!?こんなにおいしいのに?ってか元康くんは菓子パンだけであたしは作ってもらった弁当食べてるの気が引けるなあ。ということであーん」
あーと口を開け、卵焼きを食べさせてもらった。
予想をはるかに超えてきた味に、瞬時に負けたと思ってしまった。菓子パンの味がまだ残っている舌で食べたことを後悔した。表面的な甘さしかないパンの雑味を押しのけながら、ふんわりした卵が舌に広がっていく。中身はいい具合にとろけており、卵の良さもしっかり生かされている。程よく味付けされた控えめな甘さが下手な余韻を残さずすっと消えていく。それがもっと食べたいというトリガーになるのだろう。
ただ腹の足しにするだけの食べ物ではなく、自分の腹が、舌が満足するまで食べたいと思えるような料理に久しぶりに会った気がする。あまりのレベルの差に悔しいどころか作った人を師匠と仰ぐべき味だった。
「うっま……」
「何で急に目覚めた感じなの。自覚なかったんじゃないの」
最後の一口を食べ終わった彼女は、元気よく満足のいった様子でごちそうさまでしたと手を合わせた。大体三限目の開始時間の五分前だ。弁当箱を回収するとまた作ってねと言われ、そのまま彼女は急いで走り去っていった。
「困ったな……。まあなんとかしのぐか」
今日の分の講義はすでに終わっている俺は大学を後にした。
「岩谷!マジで昨日は助かった。本当にありがとう」
次の日の昼休みに洗った弁当箱を返しに岩谷のところへ行った。講義の後片付けをしている岩谷は、昨日よりもっと怪訝そうな視線を遠慮なくぶつけてきた。