「ねえユキちゃん、今日って暇?」
大学のスケートリンクの更衣室で、汗を吸った練習着を脱ぎながらカケルが言った。
大学四年生の春休みと言う名の社会人までのカウントダウンでしかないこの期間に、わざわざ他に用事もない大学に足を運んでプリズムショーの練習をする物好きは俺達二人しかいなかった。元々生まれながらにして道が定められている俺達には、『就職』なんて概念はない。そう思えば、何かにつけて行動を共にするのはこの二人になってしまうのも当然と言えば当然のことだった。
「ああ、特に予定はないが」
「海が見たいんだよね」
うみ。その言葉だけオウム返しすると、カケルは「そう、海」とやたらはっきりとした口調でもう一度繰り返した。別に聞き取れなかった訳ではない。ただ今日は二月の下旬で暦上は春とはいえ体感としてはまだ真冬の時期、そして今はリンクが閉まる三十分前、十九時半だ。彼が所望する「海」が真っ暗闇で冷たい風が吹きすさぶようなものなら分かるが、俺は今までの人生でそんな状態の「海」を好き好んで見たいと言う奴と出会ったことがない。
「日を改めた方がいいのではないか」
例えば、明日とか。そう提案すると、カケルは少し渋った表情を見せる。
「いや、出かけるなら今日がいいんだ」
「……そうか」
「もし太刀花が明日も付き合ってくれるって言うなら、海を見るのは明日でもいいんだけど」
月初が卒業制作の時期に被るからと今月は舞台を休演していて、予定は空いていた。来月出演する歌舞伎の稽古が始まるのは三日後だ。それまでに戻れば問題はない。
「卒業旅行というところか」
「まあ、そんな感じ」
構わんぞ。と返事をして、着替え終わって用済みになったロッカーの扉を閉じた。
「で、どこの海に行くんだ」
この辺りだと東京湾か、横浜あたりか。
「やっぱり風情があるのは日本海の荒波だよね」
少し遅れて帰り支度が済んだカケルがニッと笑った。こいつ、最初から泊まりがけで行くつもりだったな。上手く乗せられてしまったのがなんだか悔しい。
「さあ、行くよ」
気づけばすっかり上機嫌になっていたカケルとリンクを出て、大学最寄り駅の券売機でICカードに一万円札をそのまま飲み込ませた。急ぐ旅ではないし、在来線で行けば片道分くらいは担保できるだろうとの算段だ。汗臭い練習着が旅のお供とは、今までで一番先の読めない旅行になりそうだ。ホームに滑り込んできた快速電車に乗り込み、首謀者と目を見合わせて笑った。