コンビニのコーヒーを買ってしまった。手に収まるサイズだったが、ビニール袋に入れてもらった。奥の壁に『レジ袋いりません!』と赤文字で書かれたポスターがあった。ごめんなさいっ。小さく頭を下げてから、逃げるように外へと出た。
箱崎星梨花にとって、初めてと言って良い経験だった。事件、とすら呼べた。765プロという芸能事務所の門を潜り、アイドル見習いという肩書きをもらってからというもの、彼女に起こる出来事はどれもが事件だった。切符の買い方も、レッスン終わりに飲むスポーツドリンクも、仲間たちが教えてくれる別の学校のことも、爛々と輝き、轟々と鳴り響く舞台も。
彼女は事務所へと向かう。放課後の帰り道が変わったことを家族は心配したけれど、自分がもう中学生であることを押し出した結果、遅くなる時は連絡するという条件付きで、彼女はひとりの時間を得た。小学校の頃の帰り道や、送迎の時に車から眺めたものとは、また違う風景が広がっている。駅に立ち並ぶお店も、忙しなく歩く人々も、彼女には真新しく、そして面白く映った。
「プロデューサーさん」
今日は、答えてくれる人がいない。あるのはコンビニのコーヒーだけ。両肩に預けた鞄よりも重く感じるビニール袋を右手に持って、覚えたばかりの道を歩く。
「箱崎さんは、何がいい?」
そう尋ねられてから、彼女に与えられた選択肢は無限にあった。プロデューサーという肩書きをもらったばかりだというその男性と、一緒に駅まで歩いた時のこと。
「僕もこの辺の道を覚えておきたいからね」
少し離れた所からやってきたのだというその人は、星梨花と同じように辺りを見渡しながら歩いていた。僕の住んでいた街よりも、明るくていい。暗い街だったのかな、と空想した。
しかし彼は、コンビニの中をすたすたと歩いた。少しだけ、ひとりぼっちになったような心細さを覚えた。それに気付いたのか、箱崎さん、と優しい声が呼んでいる。家族からの呼びかけとは違うけれど、星梨花はそれを好ましく思った。
「プロデューサーさんと、同じがいいです」
だからつい、同じものを選んだ。微糖、はスプーンにどれくらいだろうかと思ったけれど、考え直して迷惑をかけるのもいやだった。新品の財布を手に取ったけれど、気付いたら会計は終わってしまっていた。ごめんなさい、と言うと困った顔になった。その理由が星梨花には分からず、そのまま見送ってもらった。
ビニール袋ごと渡されたコーヒーをぶら下げたまま、家に帰った。今日はどうだった、と尋ねる母には、レッスンで教えてもらったことだけを答えた。コーヒーのことは、なぜだか言い出せなかった。父にはもっと言えないと思った。
そして自室で、プルタブを引いた。鳴った音に胸が鳴った。初めて聞いたようにも思えた。しかし、缶の飲み物自体は初めてではない。いつが最初だったかは、思い出せなかったけれど。
開いた穴の先でゆらめく茶色の水面。ティーカップに浮かぶものとは、また違う色合い。それだけのことが、星梨花の口付けに長い長い間を与えた。それでも最後にはぐいと缶を傾けて、コーヒーを飲んだ。何度か息をつきながらも、ちゃんと飲み干した。唇にほんのりと残るのは甘さよりも苦さで、夕食を家族で食べても、宿題をしている間も、眠りについてからも、小さなぴりっとした感触は星梨花の胸をちくちくと刺した。
翌朝は寝不足で、あくびを先生に注意された。今日のことだった。
「星梨花、お疲れー」
「未来さん、お疲れさまです!」
お疲れさま、という挨拶は仲間内ですぐに流行った。何だか芸能人みたいじゃない? と誰かが言い出したのがきっかけだった。
未来の座るソファは、隣が空いていた。そこに腰掛けて、テーブルの上にビニール袋を置くと、ことんと鳴った。
「買ってきたの?」
「は、はい」
ふぅん、と未来は言うだけだった。しかし星梨花は、先生に注意された時と似た気持ちになっていた。それでも缶を取り出して、指先でプルタブを開けようとした。二度滑ってから、鳴った。胸は、静かだった。飲んでみても変わらなかった。昨日と同じコーヒーなのに。
「はずれだった?」
「はずれがあるんですか?」
缶にはシールが貼ってあった。はがせるかもしれない、と思ったけれど、『1点』と書かれているだけだった。テストの点数ならば、家族から怒られてしまう。
「星梨花にとって、はずれだったのかなーって」
「昨日は」
言いかけて、やめた。苦くて、おいしいとは思っていなかった。そう言ってしまったら、この缶コーヒーを飲めなくなりそうだった。
「……ちょっと待ってて!」
未来がぴょんと跳ねて出て行った。すぐに戻って、鞄から財布を取り出して、もう一度出て行った。星梨花は両手で缶コーヒーを包んだまま、ソファにちょこんと座っていた。ちびちびと飲んだ。
「星梨花、お疲れさま」
「プロデューサーさん、お疲れさまです」
挨拶をする時は缶を置いて、立ち上がってから頭を下げた。挨拶は大事にしよう。最初に教わったことだった。
「それ、気に入った?」
プロデューサーが缶を見てから、星梨花を見た。
「は、はい」
咄嗟に返事をしていた。本当ではなかったけれど、ウソだとも言いたくなかった。ただ、昨日と違うことだけが気がかりだった。
「僕も買ってこようかな、少し眠いし」
「眠れなかったんですか?」
「考え事をしていたら、目が冴えてね」
その一言に、胸が鳴った。同じコーヒーに同じ夜。
留守番よろしくね、と言い残してからプロデューサーは出て行った。すれ違いに未来がどたどたと駆けてくる。
「星梨花! あのね、コーヒーはチョコ味のパンと一緒に……」
そう話す間に、星梨花は両手で持った缶コーヒーを傾けて、最後の一滴までしっかりと飲み干していた。
「……これ、私が食べてもいい?」
星梨花は明るく答えた。唇には昨日と同じ、ぴりっとした感触が残っていたけれど。
おわりだよ~~~~~~~~~~~~~~