独歩と暮らし始めて、早くも三か月が経っていた。
三か月と聞くと自分の人生では短く感じるけれど、一年の四分の一の時間を一緒に過ごしているのだと思うと何だか感慨深いものを感じた。だって、恋人でもない、ただの赤の他人である男と何のイベントもなく毎日同じ空間で暮らして、そして寝ているのだ。自分でも少しおかしいな、とは思うけどここまで来ると独歩もおかしいんじゃないのか? と思えてくる。
独歩と過ごすようになって一番変わったことは、友達に誘われて合コンなんかに行かなくなったことだった。会社の付き合いで飲み会に参加することはあっても、自分から進んで誰かと飲みに行ったりすることがめっきりなくなったのだ。
帰ったら独歩が待っているから、わざわざ友達を誘って外に飲みに行かなくても缶ビールや缶チューハイを買って帰れば会話する人には困らない。
私は結局寂しさを埋めてくれれば誰でもよかったんだろう。
友達でも、会社の同僚でも、偶然マンションの前で拾った素性のよくわからない男でも。
「独歩、そんなの読んでいて楽しい?」
「いや、全く」
ソファで猫のように背中を丸めて雑誌を見つめる独歩の返答にだろうな、とボンヤリと考えた。
独歩が見ているのは私が帰りにコンビニでスイーツとお酒を買ってくるついでに適当に選んで買ってきた雑誌だった。雑誌と言っても情報誌やエンタメなんかではなくて、完全に女性向けの雑誌。
オフィススタイルの着回しコーデやこれからの季節にどんどん発売するコフレの情報、日々の美容についてなど。きっと男の人が見たって何も面白くないようなものしか載っていないはずだ。
それをじっと見つめている独歩は、なんていうか、この上なくシュールだ。
私はもう読んでしまったし、今度の廃品回収の時に捨てようと思っていたのだけど、独歩が気に入っているなら取っておこうか。
そんなことを言ってみると、独歩ががばりと顔を上げて、少し頬を赤くして別にいらん! と雑誌を閉じた。独歩はからかい甲斐がある男だと、一緒に暮らし始めてからなんとなく感じている。きっと独歩の周りの人もそう思っているんじゃないだろうか。だから伊弉冉さんとやらも独歩をわざと怒らせているとか。
まぁ本人に言ったって信じないだろうから言わないけど。
「暇なら帰りに何かDVDとか借りてこようか。ずっとここにいても退屈でしょ」
「いや、悪いだろ……お前が働いてる間、ここでダラダラしてタダ飯食うなんて」
「でも、働きに出るにしてもこのマンションの前からまともに移動もできないんじゃ仕方ないんじゃないの。別に食費も生活費も、一人増えたくらいそんなに違いはないし」
私の言葉に独歩は雑誌の隅を指でいじくりながら、でも……とぶつぶつと言い出した。
今日は早く帰れたから久々に手料理でも作ろうかと思ったけれど、食材を沢山買う時は独歩もここから動けたらいいのになぁとは思った。まぁそれが出来たらそもそも独歩はここで生活していないのだけど。
あんまり自炊をする方じゃないし、料理が好きでも得意でもないから何か簡単にできるものがいい。お腹も空いているし、時間のかかるものも却下。
適当にスマホで料理を検索しながら冷蔵庫に食材を入れていくと、独歩がおずおずとキッチンまで来た。
「代わる……着替えたいだろ。俺がやるから、着替えてこいよ」
「え、いいの? 独歩入れるところわかる? お肉はチルドだからね」
「そ、それくらいわかる! この前は、その、たまたま間違えただけだ!」
そう言ってエコバッグから食材を並べは占めた独歩に、本当かなぁと少し頬が緩んだ。この前もこうやって独歩に食材を任せたら色々な食材を頓珍漢なところにしまっていて、これは一緒に住んでいる伊弉冉さんの苦労がわかるなぁと思ったばかりだ。
「ちゃんと、あの後に冷蔵庫についてネットで調べた」
「何それ、独歩真面目~」
「お、お前が笑うからだろ……! いや、そもそも俺がミスをするから信用をなくすんだな……そうやって職場でも俺は皆に見下されて、後輩にも舐めた態度を取られて……だからディビジョンバトルでもあんな年下の無職のギャンブラーに馬鹿にされるんだ……あんな、税金もまともに収めていないようなガキに……」
「はいぶつぶつ言わない! 私着替えてくるからよろしくね」
私の少し大きな声でハッとしたようにぶつぶつ言うのをやめた独歩は、わかった、と頷いてこの前よりも比較的にスムーズに冷蔵庫に食材を入れ始めた。
それを少しだけ見届けて、私は部屋着を持って脱衣所へ向かった。
独歩と暮らし始めてから暗黙の了解で着替えは脱衣所で行うようになっていた。一人で暮らしている時や彼氏といる時は見られても気にしなったけれど、一応恋人でもないただの居候の前で下着姿になるのはさすがにな、と私のなけなしの女心が主張したのだ。
ガサガサとエコバッグを漁る音を聞きながら脱衣所のドアを開けて、何だかむず痒いような、そんな気持ちになった。
そう言えば昔一緒に暮らしていた元カレに頼んだ時も、チルドに入れるものを間違えていた気がする。その時もやっぱり私が教えて、それから何回言っても結局覚えてくれなかった。その内私が入れるのが当たり前になって、買い物から帰ったら元カレはさっさとリビングで寛いでいたっけ。
そう思うと懐かしい気持ちと同時に、どうしようもない寂しさや虚しさが一気に押し寄せてくる。
独歩を元カレと比べたり、影を重ねたりするのは失礼だ。
だって、独歩は私の恋人でも何でもない。独歩が彼女に見せる姿を私は知らない。
それなのに、元カレの時と比べてどうだとか、そんなことを言ったって何の意味もないんだから。
私はいつだって寂しくなりたい理由を探しているのかもしれない。
◇ ◇ ◇
「独歩ってずっと家にいるの? コンビニにも行ってない?」
「い、行っていない」
え、じゃあずっとコンビニのところまで行って、帰れないと思ったら何もお店に入らずに帰って来ていたってこと? 引きこもりの才能あり過ぎじゃない?
私のそんな失礼な言葉に、独歩が少し困ったように眉を下げた。いつもなら失礼な奴だな、とかぶつぶつ文句を言うだろうに、何というか、気まずそうにもごもごと言っているので私は何、とつい強めに聞いてしまった。
たまに独歩のこういう奥歯にものが詰まったような話し方にイライラしてしまう時がある。そういう時に私はいつも強く出てしまうのだけど、独歩はそれに怒ったり嫌がったりはせず、少し戸惑うような表情をしてからまたもごもごとするだけだった。
「こっちの世界と紙幣とかが違ったら困るだろ……俺、財布にそんなに金が入ってないんだ。仕事の帰りに下ろそうと思ってたから」
「あぁ、何だそんなこと……」
そう言って財布から一万円札を取り出して独歩に渡そうとすると、独歩がギョッと目を見開いて押し返して来た。
「い、いらない! 衣食住の世話になっていて小遣いまでもらったら、本当にヒモみたいになるだろ……!」
「でも、独歩の場合はいたくてここにいるわけじゃないし……」
まぁ確かに独歩の今の状態に名前をつけるならヒモになるだろうけど。状況が状況なのだから仕方ない。コンビニまでしか出られない上に、ここの世界の人じゃないのなら身分証がどこまで通用するのかもわからない。そんな状態で働くという方が無理じゃないか。
在宅ワークと言っても結局は身分証がいるだろうし。
元々そういったことを期待してここで暮らしてもいいと言ったわけでもないし、生きていくのに最低限の娯楽は必要だと思うんだけど。
私の言い分に独歩が深く長いため息をついた。まぁ逆の立場なら私もきっと気まずいし、申し訳ないと思うだろうから無理に押し付けようとは思わないんだけど。
「俺、もし連休があったらこんなことしたいって毎日考えてたけど、実際何もしなくていいって言われると焦るもんなんだな」
「あー……仕事が忙しくなったり休日出勤してると考えるよね。私も連休きたら死ぬほど寝るとか、どっか旅行行きたいとか買い物行くとか、そんなことよく考える」
そう言った私に独歩は鬱々とした目で悪いな、なんて呟いた。
「お前におんぶに抱っこで、俺は家でのうのうとしていて……掃除も洗濯も碌にできないし、料理だって壊滅的で……」
「それは元々そんなに期待してなかったからいいけど……」
「この前はお前の白いシャツを赤いサマーニットと一緒に洗って色移りさせたし……全部俺のせい……」
「まぁ、あれは確かにお気に入りだったけど……買ったばっかりだったし」
ちょっと奮発して買った白のカットソーを見事にうっすらと赤く染め上げてくれた独歩は、帰って来た私に冷や汗を流して何度も謝ってきた。正直その姿があんまりにも憐れで、カットソーよりも独歩の方が心配になった。ランドリーボックスを分けないで適当に全部同じカゴに詰め込んだ私にも落ち度はあるし。
私がちょっとでも責めたらそのままベランダから飛び出しそうな鬼気迫る感じだったから、私はいいよ、としか言えなかった。私が怒ってないとわかった途端にガチガチに固まって硬いフローリングで正座をしていた独歩の肩の力が抜けたのを見て、私はなんかもうカットソーくらいいいか、という気持ちになったのだ。
「やっぱり……弁償したくても今の俺には服一枚買う金もない……甲斐性もなければ役にも立たない社会のゴミだ……全部俺のせい……」
「いや、気にしてないって。それにそんなに働いてるならちゃんと貯金はあるんでしょ? もしこっちの世界と繋がったらその時に返してよ。出世払いみたいな? 違うか」
わざと明るく返してみたのだけど、独歩は私の言葉にははっと乾いた笑い声をあげた。完全に目は死んでいるし、ちっともおかしそうじゃないその声に何か地雷を踏んでしまったのでは、と軽はずみな自分の言葉を後悔した。
「俺が金持ちに見えるか? 吊るしのスーツで毎日あくせく働いても、同居でもしないととてもじゃないけど生活できないような薄給なんだよ……二十九歳でこの給料? 有り得ないですね~って事務の子に言われた俺の気持ちがわかるか? 俺だって、ディビジョンバトルで優勝した賞金が入ればそれなりに裕福になるんだ……貯金しないとだし、パーっと使うなんてことはできないが……そうなると、俺は一体何のために優勝したんだ……? 優勝したのに賞金は使わないし、俺の給料も変わらないし、ハゲ課長は相変わらず俺に厳しいし、周りも俺のことをゴミみたいに思っている……」
「え、独歩そのなんちゃらバトルで優勝したの? 凄いね。いや凄いのかはいまいちよくわからないけど」
「あ、あぁ……まぁ優勝したのは実質先生と一二三の力だろうから、俺なんてオマケみたいなもんだが……」
ぶつぶつとネガティブな言葉を連投するせいでこの部屋が何だかジメジメしているようにすら思える。独歩に一日こんな風に鬱々としたことを喋らせていたら聞いてるこっちの気が滅入ってしまいそうだ。
「ラップで勝ってもらう賞金ってどれくらいなの? 大きいみたいだし、百万とか?」
「…………一億」
「は?」
「三人でわけるから、一人で一億もらえるわけじゃないけどな」
そう言ってはは、とまた乾いた笑い声をもらした独歩に、どこの世界でそんなに賞金がもらえるところがあるんだ、と言いそうになってしまった。だけど実際独歩の世界ではそれくらいもらえてしまうんだから仕方ない。それくらい独歩たちの世界ではラップというものが大きな存在なんだろう。
本当かどうかはわからないけど、ラップを聴いたらこの世界に来てしまったくらいなのだから。
「独歩の持ってるお金見せてよ。もしかしたらこっちでも使えるかもしれないし。話聞いてるとあんまり生活の基準とかは違わなさそうだし」
「まぁ使えたところで俺がコンビニに行く必要なんてないんだけどな……」
「あるよ。私が買い物頼むかもしれないじゃん。あとネットで注文したもの受け取ってくれるのめっちゃ便利。再配達頼まなくていいし」
時間指定してもその時間に来ないことの方が多いし、凄い助かる。
そう言った私に独歩は、まぁずっと家にいるからな、なんて自嘲を織り交ぜて笑った。
「独歩のために買わないといけないものとか、一緒に見に行けないからネットで買えてよかったよ。必要なもの他にあったらまたネットで買わないとね」
布団で寝るのも体が凝りそうだしどうせ部屋は余っているんだからベッドでも、と言おうとして慌てて口を噤んだ。独歩は好きでここにいるわけじゃないし、きっと帰れるならすぐにでも帰りたいだろう。
私の寂しさを紛らわすためにここにいるんじゃない。仕方なくここにいるんだ。
この家に独歩のためのものが増える度に独歩は少し困惑したような顔をしている。私は独歩専用のマグカップもお茶碗も、箸ですら買っていない。いつかはいなくなってしまうのに、そんなものを買うだけ無駄だ。
お金も、気持ちも。
「早く帰れるといいのにね」
私から独歩が帰ることに対して何か言うのは、きっとこれが初めてだった。独歩はいつも私が仕事から帰ってくると今日もダメだった、と報告してくれていたけれど、最近はそれすらも言わなくなってきた。
きっと毎日確認してはいるんだろうけど、それを私に言うことを躊躇うようになっているんだろう。
私が、一人は寂しいときっと優しい独歩は気付いているだろうから。
いつもと変わりない声音で出た私の言葉に、ボンヤリと雑誌を広げていた独歩がちらりと私を見た。
「……なんだ、俺がいるのはやっぱり迷惑なのか」
「いや、そういうわけじゃないけど……独歩だって帰りたいでしょ」
私の言葉に少し考えるようにして、それからまた雑誌に視線を戻した。
相変わらず独歩は私が気まぐれで買ってきた雑誌を飽きることもなく眺めている。
買う気もないのにつけたドッグイヤーのある雑誌に、独歩は女ってこういうの好きだよな、なんて不思議そうに言っていたっけ。
「俺は…………」
まるで試すようなことを言ってしまったな、と言ってから後悔した。そんなこと、聞くまでもないのに。
こんなの、私と一緒に暮らしてたいよね、と言っているようなものだ。嫌な女だな、と自分でも思う。
「あ、そろそろグラタン出来たかも」
キッチンの方で音がして、私はまるで逃げるようにソファから立ち上がった。
スーパーで買った温めるだけのグラタンをオーブンに突っ込んでいたのだけど、今温め終わったようだった。それに少しだけ助かった、と思ってしまった。
独歩が何て言うつもりだったのかはわからないけど、何となくその言葉の続きを私は聞きたくなかった。
私はまだ、ただ結末を先延ばしにして現実から目を背けていたかった。