「……さんっ…」
泣き声が聞こえる。
なんとか目を開ければ、朱金の瞳からポロポロと宝石のような涙がこぼれるのが見えた。
ああ…無事だったか…。
ねこ…頼むから泣くな。
体の痛みなんざより、お前に泣かれる方がずっときつい。
ねこ…俺の……ねこ……。
ああ…口惜しいどころじゃない…俺が最後まで守ると…一人にしないと決めたのに…。
まだ、役目は…果たせていないというのに…!!
力が欲しい…守る力が…ねこを守ってなんでもないと笑ってやれる力が欲しい…
ねこ…俺の…ねこ…
俺の…桜騎…頼む…笑ってくれ…幸せになってくれ…
暗転
「…生きてやすね、とりあえず…!」
男の声が聞こえた。
耳も鼻も目も、機能を止めかけていたところに、その声はすんなりと入ってきた。
「…………?」
「生きてはいやすよ、どこまで体が機能してるかは分からないけど」
誰かと話しをしているようだが、その相手の声は聞こえない。
ただ、不思議なことに…一人の男の声だけすんなりと耳に入ってきた。
自分は、どうなったのか…そんな酷い有様なのか。
いや、酷い有様なんだろう。
何せ意識が消える手前だった、そして意識が消えれば死ぬことは分かっていた程度には自分の有様を自覚していた。
どこがどの程度ひどいとか、傷がどれだけヤバいとかは分からないが、本能的に分かっている。
次意識を失えば、きっと彼岸を渡ると。
「………」
「……その方が賢明ですね…わかりやした、ここを頼みやすよ」
何故だろう、他の人間の声はノイズにしか聞こえないのに、その男の声はクリアに届く。
いつの間にか閉じていた目を開いてみた。
開いた、と言ってもほんの数センチ、視界は曇りまくっている。
「そのまま、目を開けていなせぇな」
開けた瞬間、男がかすか、笑った気がした。
安堵の笑みだ。
目を閉じたら死にやすよ、意識をしっかり。
その声を霞みそうな意識の中で聞く。
目を開けて見上げていれば、やけに鮮やかな朱金の瞳が目に入った。
けれどその瞳孔は縦に細長くて
「………ねこ…」
「え?」
「……みたい…だ……」
脳裏に真っ黒な毛並みを持つ朱金の瞳の猫が飛び跳ねて、にゃんと鳴いて消えていった。
目覚めはいつだって唐突だ。
夢見が良くても悪くても、現実というのは足音も立てずにやってくる。
ああ、けれど…また目覚めるとは思わなかったな、と病院のベットの上でため息をこぼした。
口を覆う酸素のマスクが邪魔くさいが手を動かすどころか、そもそも動かせる手すらないのに気づいたのは、手を動かそうとして動かせずに下を見た時だった。
たまたま何かで布団をまくられていたのだが、だからこそ気づいた。
腕がない。
腕だけではない、足もなかった。
「よお、目が覚めたか」
呆然としていれば声をかけられ、目だけでそちらを見やる。
そこには男がたっていた。
黒髪に、人形みたいな顔した、やけに綺麗な男だった。
鑑賞するだけなら飽きずに鑑賞できるだろうが、その顔に浮かぶチェシャ猫を思わせる笑みがこの男をくせ者だと感じさせる。
「とりあえず、生還おめでとう。誰だお前って顔してるから名乗っとくぞ。あんたの担当医、天才外科医のトーラ・ノワール・フルールだ」
そこまで言うと、トーラと名乗ったその男は、徐に三本の指を出した。
「早速だが治療方針を話そうと思う。
お前の今の状態としては生きてるだけで奇跡、内臓もいくつかやられてるし、ほっときゃ死ぬ」
あっさりと、事も無げに、トーラはそんな事を告げた。
余りにもあっさりしすぎていて、なんの冗談だと笑い飛ばすには、自分の状況は楽観視できないという程度のことは分かる。
「ひとつ、そのまま死ぬ。まあ、苦しんだり痛みはないようにしてやるけど、延命はしない。
死ぬけど苦しみは消える、おすすめその一」
「ひとつ、内臓の損傷の治療を優先し、義足と義手をつける。リハビリが長期で必要となるが、努力さえすれば人並み程度の生活は送れるようになる。
俺的には、平凡な人生を送るためのオススメはこれだな」
軽い調子でトーラは続ける。
どこまでも軽く、どこまでも冗談のようだが、その目だけは本気だと告げていた。
「最後、これは最もおすすめしない方法だが……脳内にある寄生生物を宿す。
適合するまで痛みも苦しみもあるが、死なないし、自分の手足以上に動く手足と内臓を手に入れられる。
ま、簡単に言えば、化け物になるってことだな。
ちなみに臨床実験はこれが初だ」
やはりどこまでも軽い口調で、けれどもあっさりと告げた。
化け物…化け物…なんて馬鹿なことを、なんてあほらしい事を、と一蹴することは簡単だ。
そんな事有り得るはずがない、そもそも自分のモノ以上に動く手足や内臓なんて有り得ない。
臓器移植をしたとて、そんなこと聞いたこともないし、ましてや脳内に寄生生物?
なんて夢物語を…そんな考えを読んだのか、トーラは目を細め、笑みを深めた。
「考える時間ぐらいはやるよ、2時間な。2時間後また来るから、その時に答えを聞かせてくれ」
「………」
「短い?こういう決定はな、長く考えれば考えるほど、結局決まらねぇさ。簡単な話だ、生きるか死ぬか、生きるならどういう生き方をしたいかを決めるだけだ」
それだけ告げると、トーラはひらりと手を振って背を向けた。
そして1歩足を進めてから、思い出したように振り返る。
「もし生きるって地獄を選んだら、教えてくれよ。お前のことを、な」
面白そうだ。
トーラは最後にそう告げて立ち去っていった。
それを見送り、天井を見上げる。
真っ白な天井、病院によくあるタイプの天井だ。
それを見上げながらじっと考える。
自分はどうしたいのか……生きたいのか…死にたいのか…
碌でもない人生だった。
小さい頃から喧嘩の絶えぬ両親に隠れてすごし、彼らはいつの間にか子供である自身を置いて出ていった。
それからはなりふり構わず生きてきた。
住んでる場所は治安が悪く、生きたいという意思だけであくどい事も随分としてきたし、気付けばある組のそこそこ重要なポジションについて、若いもんの面倒を見て……
夢中に駆け抜けて振り返ってみれば還暦も間近…若い頃の血気盛んさもすっかり息を潜めた。
かつて鬼と呼ばれた伊月虎徹という名を持つ1匹の雄は、もはや死に向かうばかりだったのに。
脳裏に、若い頃ばかりの記憶が呼び起こされる。
これが走馬灯ってやつか、と思うも、ああ、なんで自身はこうなったのか…そこだけ、かすみがかった記憶は、何かを思い出すのを拒むようだった。
ふと、何かの気配を感じた。
考えに沈んでいた意識がそちらをむく。
とはいえ、起きれるような状態ではない、ただ目だけでそちらを見やる。
そこには虎徹にはわからぬ、自分の状態をモニタリングしているらしい機械があった。
それ以外には何も無い…と思っていたが…
「………だ…」
誰だ、そう問う声はしっかりとした言葉にはならなかった。
口を動かし、声を出そうとする、それだけで体に激痛が走る。
思わず眉を寄せてうなれば、不意に目の前の景色が人型に歪んだ。
そして一人の男が姿を現す。
黒いツナギ姿の、黒髪の男だった。
体格は細身で、サングラスをかけている。
ちりん、と微か、左の横髪に付けられた真っ赤な組紐についた鈴が、涼やかな音を鳴らした。
「虎徹さん、話さない方がいいですぜ。声帯どころかあっちこっち傷がついてる。唇を読めるんで、声を出さずに話してくだせぇな」
声からしても若い男だ。
きっと自身とは親子程度の年齢は離れているだろうと思わせた。
見知らぬ男のように見えるが、なぜ自分の名を知っているのか…いや、そもそも、どうやって何も無いところから出てきたのかは分からない…もしかしたら死にかけているが故に見た幻覚なのかもしれない…それでも、追い出そうという気にはなれなかった。
まあ、追い出せるような真似も出来ないのも理由の一つではあるが。
『……何の用だ』
声は出さず、僅かに動く唇だけでそう伝える。
本当かどうかわからなかったが、男は1度頷き。
「お見舞いですぜ!虎徹さんのね」
露わになってる口元だけで笑って男は告げた。
見舞い…見舞い…心の中でその言葉を反復させる。
病院関係者ではないと思っていたが、こんな重症人相手に見舞い?
そう思った時、ふと脳裏に真っ黒な毛並みと朱金の瞳を持つ猫が浮かんだ。
ああ、そういえば…今日はサングラスをしているが、確か背格好はこんな感じだったか…
『………ねこ』
「…あのね、桜騎は猫じゃありやせんぜ……いつもいつも…なんで猫なんですかい」
桜騎…それがこの男の名前のようだ。
まるで昔からの知り合いのような気軽さで答える。
そして拗ねたような顔をするが、どうにも違和感があった。
脳裏に浮かぶあの時出会った猫は、もっと静かな声をしていた。
けれど別人という考えは浮かばなかった。
これでも人を見る目はある。
たかだか雰囲気と服を変えた程度で自身を助けてくれた青年を間違えるはずがない。
ああ、そうだ…助けられたのだ。
この子供ほど年の離れた男に…朱金の瞳を持つ黒猫に。
『……ありがとうな』
「早く元気になってくださいな。そしたら、虎徹さんの好きな桜騎特製の和菓子を差し入れさせて頂きやす」
回復すると信じてる声だった。
そして何故か、惜しいな、と思った。
死ぬのが惜しいと…そも、我武者羅に生きてきた、未練なんてもん考える暇もなかったが、それでもただ死にたくなくて駆け抜けてきた。
それを歳をとったからという理由だけで、今更死んでもいいなんて、本当は思えるはずもなかったのだ。
虎徹の凪になっていた心が静かに動き出すのを感じる。
「よぉ、答えは決まったか?」
桜騎と名乗った人間が立ち去ってから、トーラが再度顔を出した。
それをじっと見つめると、ニヤリとトーラが笑う。
「答えは…3か?」
そうだ、生きるならとことん足掻いてやる。
そうやって今まで生きてきたのだ。
死にそうなほどの苦痛と脅してくれたものだが、その程度で止まるものか。
「いいぜ。俺はな、死に向かう人間を助けることは出来ない。だが……生きようと足掻くやつは何がなんでも助けてやる。
さて、そうと決まれば早い方がいい、明日の朝、早速行う。
時間がかかればかかる程、適合が面倒になるしな」
駆け足だな、と思うが、その方が虎徹としても有り難かった。
きっと猶予が出来たら考えてしまう、そして立ち止まってしまう。
「ようこそ、地獄へ。
歓迎するぜ。
あと、回復したら話を聞かせてくれよ?」
約束だからな?とトーラはどこまでも楽しげに告げた。
その様子は死にかけの人間を前にした医師にしてはとてつもなく軽く…そして、頼りがいのある笑みだった。
「よぉ、いい朝だな」
翌日、いつもの軽い調子でトーラが現れた。
虎徹はと言えば、相変わらず大量の管が体についているし、動けもしないのでそのままだ。
幸いといえば鎮痛剤でも聞いてるのか、はたまた痛む神経すら死んでるのか、痛みがないことだろう。
「さて、最終確認だ。これからお前が受ける手術を説明してやる」
にぃやりと笑う姿は医者と言うより悪童だが、けれどそれでも、虎徹が出来ることはこの医者を信じることだけであり、それにため息を着くことも正直きつい。
それを知ってか知らず、トーラは懐から小さな箱を取り出した。
手のひらに乗る程度に小さい黒い箱で、側面には薔薇が繊細な掘られている。
そういう面に明るくはない虎徹でも、その箱が決して安いものでないことはわかった。
「お前に昨日話した寄生生物…正式名称は寄生型重装騎兵装備という」
その言葉を聞きつつ、わずかに眉を寄せる。
どういう理屈かてんで判りもしないし、寄生虫なんかにも詳しくはない虎徹は、寄生生物と聞いて、サナダムシのようなものを思い浮かべていた。
けれどトーラの告げた名称は、明らかに人工物、しかも兵器のような名称なのが気になった。
「こいつを作り出した大元は大日本帝国軍だ。元々軍事兵器として作られたんだが、なにぶん非人道的すぎるとして実験自体は20年ぐらい前に凍結してる」
その言葉に疑問を覚えた。
この男は何を言っている?
「まあ、大日本帝国軍がそんなことしてたなんてトップシークレットのひとつだ、言いふらすなよ?」
でないと、軍のこわーい女神様が怒るぜ?
冗談めかしてトーラが笑った。
いや、そんな事はどうでもいい、問題は軍という組織があるという事を前提として話している点だ。
声が出るのであれば即座に詰め寄っていただろう、軍とはどういうことだ?と
だが生憎と声は出ず、トーラの説明は虎徹を置き去りにして続く。
「なにせ、極秘とはいえ数十人、うち何人かは子供へ行った実験だ。
バレたら非難轟々所じゃない、闇から闇へ葬られた代物で、成功事例も僅か二人という少なさだ。
当然ながら公表なんて出来るわけもない」
トーラの続く説明を混乱する頭でなんとか理解しようとする。
だがそう思うと同時に、何処かで自分が囁く。
もしかしたらこれは、なにかとんでもない誤解をお互い抱いているのではないか?という囁き。
虎徹が暮らしていた日本に軍なんて存在しない。
第二次世界大戦敗北後、軍はなくなり、専守防衛を掲げた自衛隊が作られた。
軍なんて組織、日本国内ではないはずなのだ。
ならこの男は自衛隊のことをそう言っているのか?と一瞬思うが、直ぐにありえないと自分自身が否定する。
こんな状況で、冗談でもそんなことは言わないだろう。
「この寄生型を脳内に寄生させると、こいつはすぐに孵化をして人間の細胞を書き換える。
簡単に言えば強化され、負担になっていると考えられる場所は補助をする。
それにより手足は生えるし動くようになる。
大元の寄生型は細胞を、あるいは遺伝子そのものを書き換えるという特製から人間が耐えられるはずもはく強い副作用を伴っていたが、そこは俺!天才科学者でもあるこのトーラ様が改造することにより、そこら辺の問題はクリアされた。あとの問題は寄生型と共生できるか否か、それだけだ」
待て、待ってくれ。
あまりにも荒唐無稽すぎる話に声が出ないから必死で目で訴える。
大日本帝国軍とはなんだ、寄生して強化されるとはなんだ、実験とはなんだ。
お前は俺に何をしようとしてる!
「治療さ。言ったろ?地獄を選ぶんだなって」
「っっ!」
「気張れよ?」
また会える日を楽しみにしてるぜ?
その言葉とトーラの笑顔を最後に、虎徹の意識は深く深く沈んで行った。
まるで、そこの見えない闇に沈んでいくように。
「綺麗な薔薇には刺がある。あの人はその最もたるものの一つだ」
その代わり、絶大な薬効もあるけれど。
毒と薬は紙一重、みたいな人だからな。
気づけばそんな声が耳に入ってきた。
目を開く、そこは見慣れた自宅の自室のようだった。
畳が敷きつめられた、落ち着いた和室。
見慣れた部屋…だが細かなところが違う。
自室だ、間違いなく。
けれど圧倒的に何かが違うし…そして目の前には男がいた。
鍛えられた均整の取れた身体を持つ男…見覚えがある所ではない、それは、その姿は…
「よぉ、おはよう…ってのはちと違うか」
男が笑う。
その顔も見覚えがあった、ありすぎていた。
「……誰だ」
「お前だよ」
あっさりと男が答える。
そう、その男は虎徹の若い頃にそっくりだった、瓜二つ……いや、そんなレベルではない。
仕草や表情まで、正に若い頃の虎徹だ。
「初めまして。俺は寄生型重装備騎兵装備、虎式」
今日から世話になる。
よろしく、宿主さん。
そう、なんでもない事のように、虎式と名乗った男は笑った。