英国生まれ、日本育ちのムル。彼は英国の大学に進み、留学生として再び日本に戻って来た。
 英国で退屈な日々を過ごしていたムルだったが、彼にはある秘密があった。
 それは前世の記憶があって、本物の魔法使いだったこと――…。
 ムルはシャイロックの紹介でとある日本人大学生とルームシェアをすることになるのだが、その人がまさかの前世で思いを寄せた賢者様で――…!?
 転生者ムルと賢者・晶(♂)のすれ違いラブストーリー(に、なる予定)
 
第6話は推敲&加筆しております。
 
第1話『世界の絶望からはじまる物語』
 暗雲垂れ込め雷鳴轟く夜空に二十二人の影が浮かんでいた。
 〈大いなる厄災〉の脅威はその時、巨大津波という形で現れた。数十メートルもの高さになった真っ黒な大津波は、まるで鉄壁のようだった。
 後ろに賢者を乗せたルチルが、迫り来る<大いなる厄災>から回避するために箒を回避行動をとった時だった。
「賢者様!!」
 津波の一端が賢者の風になびくローブの裾に触れ、<大いなる厄災>の魔の手がローブもろとも賢者に取りついた。
「津波よ止まれ――ポッシデオ」
 フィガロが咄嗟に魔法を使った。が、<大いなる厄災>はまるで受け付けなかった。むしろ魔法を反射して、フィガロの体が硬直する。海面に落ちていく彼の体をミチルとリケが慌てて魔法で掬い上げた。
 まさか、賢者の魔法使いの魔法が<大いなる厄災>に効かないのか。
 誰もが絶望し、
「賢者さんっ!」
「賢者様ぁあーーー!!」
 数々の悲鳴が、土砂降りの雨音と共に海中に沈んでいった。
「そうはさせない」
 箒をほぼ垂直にして急降下しながら、ムルが必死に手を伸ばす。
「賢者様! 掴まって――!」 
 <大いなる厄災>に飲み込まれていくとき、賢者が手を伸ばした。
 ムルの伸ばした手があと少しで届く――というところまでいって、賢者の姿は<大いなる厄災>の中に飲み込まれた。
 その次の瞬間、ムルの絶叫がほとばしる。
「ムル!」
「危ない、深追いするな!!」
 方々ほうぼうから静止の声がかかった。
 ムルまでもが<大いなる厄災>に飲み込まれてしまわないように、魔法使いたちが懸命に彼の暴走を止めた。
「嫌だ、いやだ、嫌だぁあああ!!!」
 ムルの悲痛な叫び声は、彼の喉が潰れるまで続いた。
第2話『空模様』
 朝九時頃にイギリスを出発した時、空が珍しく晴れ渡っていた。
「It's so Lovely a day!」
 そう言って離陸直前の機内にいる人々が談笑しつつ、こぞって側面に設けられた小さな窓から外の景色を写真におさめている。
(故郷を懐かしむにはまだ早いと思うけどな……)
 英字新聞をつまらなさそうに眺めながら、濃紫色した髪色が特徴的な青年は心の内でぼやいた。それでも周囲の雰囲気につられたのだろうか。彼もチラリと視線を窓の外へ向け、すぐに手元の紙面へ戻した。
(つまらないなぁ……)
 見えたのは、滑走路沿いの枯れた芝生や千切れ雲が漂う青空だけ。何の変哲も驚きもない殺風景な飛行場の景色だけだった。
 イギリスから日本へのフライト時間は約十三時間。直行便はなく、イギリスからオランダを経由して日本を目指すルートだ。
 紙面をめくっていた青年は座席に深く座り直した。
 さぁ、長旅の始まりだ。
 青年は背もたれにもたれかかると、窓の外を静かに見つめてから瞼を降ろした。
 海上を飛行するジャンボジェット機の中は狭苦しく、しかもひどく乾燥していて喉が乾いた。
 喉の渇きを覚えて目を覚ました青年が、客室乗務員に持って来てもらったカップ入りのミネラルウォーターを一息に飲み干し、
「箒で飛べたら、もっと開放的で気持ち良かったのになぁ」
 ぐんっと両腕を上げて大きく伸びをしつつそんな事を呟く。すると隣に座っていた壮年の白人男性が、クスリと笑って英語で話しかけてきた。
「飛行機は現代の魔法ですよ」
「う~ん? それは、なぜ飛行機が空を飛べるのかという問いに回答しなければならないよね……? 例えばもっともらしいもので言うと、『ベルヌーイの定理』や『翼理論』とか。そしてそれは魔法と同じである、とあなたは言いたい? うむむ、確かにそうかもしれない。だけどこのふたつには決定的な違いがあるよ」
「決定的な違い……?」
「心だよ。魔法は心が強くないと使えない」
 まるで魔法が存在することを前提にしたかのように話す青年に対して、壮年の男の態度はやや引き気味だった。
 青年はそんな男のような態度には慣れっこだった様子で、前方の編み籠の中から分厚い本を取り出して無造作にページを開く。
「……それは、聖書ですか?」
「違うよ。俺は敬虔な教徒じゃない。これは日記。昔の俺がどんな人物で何を思い、何を考え行動したか、書きおこしてあるんだ」
「随分変わった日記の書き方ですね」
 彼は胸ポケットに忍ばせていた万年筆を引っ張り出すと、さらさらと文字をしたためる。その文字はアルファベットのようで解読不能な暗号か何かのように壮年の男性の目には見えた。
 と、そのとき、英語と日本語で機内アナウンスが流れだした。
『Attention to passengers on Tokyo Airlines flight 98 to Yoneda. The flight has been delayed due to bad weather.』
『東京航空98便夜根田行きにご搭乗のお客様にご案内いたします。当便は、悪天候のため、遅れが発生しております……』
 日記帳をパタンと閉じた青年が、窓の外へ鋭い視線を向けた。
「悪天候、ね……」
 そこにはとぐろを巻く分厚い雲が眼下に広がっている。
 機体が雲より高い所を飛んでいるためか、窓の外は穏やかでジェットエンジンの低音ばかりが耳についた。
 今度は翠色の瞳で上空を見つめる。
 澄み渡った空はウトウトと寝ている間に夜の帳を下ろしていたようだ。満点の星空の中に月がポツンと浮かんで見えた。
 青年はうっとりとした表情で小さく欠けた月を見つめていた。
 そして、
「待っててね。きっといつか見つけるから……」
 ポツンと誰にも聞こえないように口の中で言葉を転がして、青年はブランケットに包まった。
 機内の光量が小さくなって窓の外と同じ薄暗闇になると、それまで聞こえていた乗客たちの会話する声も減り、静けさに包まれた。
 青年は頭をコテンと窓辺に寄せると、まるで愛を囁くように「おやすみなさい」と言って瞼をおろした。
 彼が次に目を覚ました時には機内放送が流れ、機内は期待に満ちた旅行客のざわめきに満ちていた。
『Ladies and gentleman, welcome to Yoneda International Airport. The local time is now 5:25 a.m. and temperature outside is 16 degrees centigrade.』
『皆様、ただいま夜根田空港に着陸いたしました。ただいまの時刻は午前5時25分、気温は摂氏16度でございます』
 やはり、英語と日本語でアナウンスが流れる。
『For your safety, please remain seated until the captain has turned off the seatbelt sign.』
『安全のためベルト着用サインが消えるまでお座りのままお待ちください』
 ジャンボジェット機は青年が寝こけている間に無事着地していた。地上をランディングしていた機体が建物の前に停まるまで十分以上はかかっただろうか。連絡通路と接続する間、締めくくりに感謝の言葉を述べる機内放送が流れた。
『Ladies and gentleman, thank you very much for flying with Tokyo Airlines today. We are looking forward to seeing you again. Thank you.』
『皆様、今日も東京航空をご利用いただきましてありがとうございました。皆様の次のご搭乗をお待ちしております』
 ガチャンと音を立てて扉が開いた。
 すでにベルトを外した乗客たちがおのおの手荷物を携えて狭い通路を歩いて機体の外へ出て行く。
 青年も座席から立ち上がり、日記帳とショルダーバッグを取り出してその列に並んだ。
「それでは、良い旅を」
 隣に座っていた壮年の白人男性が軽く手をあげてそそくさと出入口へ向かって行く。その背中を見送って、しばらくしてから青年も機体の外へ足を踏み出したのだった。
第3話『出会い』
 夜根田空港の到着ロビーは人で混み合っていた。
 ときおり流れる搭乗を促す英語アナウンスや人々の喧噪けんそう。窓辺のカフェではコーヒー豆をミルで挽いたばかりのようだ。客の注文に合わせて挽きたてのコーヒーを提供し、その[[rb:芳 > かぐわ]]しい香りがロビーまで漂っている。
「もうじきですね」
 それまで壁の花と化していた黒髪の男性が腕時計を見下ろしたまま呟いた。
 とっくの昔に中身を飲み切っていた紙コップをゴミ箱に捨て、彼の周りを囲んでいた女性陣の視線を一身に浴びながら、当人は気にした風もなく一歩足を踏み出す。
 彼の視線の先には、荷物をレーンの上から引き取ってゲートを越えてやって来る人々の姿があった。その人波の中に、濃紫色の頭を見つけた。
「ムルっ!」
 胸の内に沸き上がってきた喜びがそのまま外に弾け、思わず名前を大きな声で呼んでいた。
 ムルと呼ばれた濃紫色のおかっぱ頭が振り返った。
「あ、シャイロック~」
 ムルはその顔に喜びをあらわにした。
 そして周囲に注目されながら二人は駆け寄り、どちらからともなく肩を抱き合った。
「シャイロックは変わらないね」
 ムルの荷物は大きな革のトランクケースひとつしかなかった。それをシャイロックの黒塗りの車に積み込むのは簡単で、シャイロックは長旅で疲れているであろうムルのために助手席のドアを開けてエスコートしながら笑った。
「ムルこそ、少しも変わっていませんね」
 運転席に乗り込んでエンジンをかけながら、シャイロックはムルの様子をうかがう。
 ビデオ通話で話した事は数えきれないほどあるが、こうして対面して言葉を交わすのは本当に久しぶりだった。
「俺が向こうに行ったのが十五歳の時で、その二年後くらいにシャイロックと出会ったんだよねぇ。シャイロックと会った時は、初対面って感じがしなかったなぁ~…」
「前に話していた『前世の記憶』というものですか?」
「そうそう! 途切れ途切れだし確信は持てないけど、なんとなく覚えてるよ。シャイロックもあるんだよね?」
「さぁ……?」
「またまたぁ! そらとぼけて~!」
 シャイロックは含みのある笑みを浮かべてアクセルを踏んだ。
 車は高速道路に入ると速度を上げ、しばらくは防音壁ばかりで変わり映えのない景色だった。
「もうすぐ日本一高い電波塔が見えますよ」
「どれどれ!?」
 窓を開けて身を乗り出そうとするムルを引き留めながら、シャイロックは「そっちじゃなくて、こちらです」と反対側の窓を開けた。
「シャイロック……あの電波塔を移動できない?」
「できません」
「もっと見やすい位置にあるべきだと思うんだ」
「思いません」
「シャイロックぅ~」
「……ダメです」
 そうこうしている内に車は高速道路を抜け、一般道に出た。
「電波塔にはみんなで、また今度来ましょうね」
「みんなで?」
「そう、みんなで。きっと楽しいですよ」
 ムルはシャイロックになだめられ、移り変わる車窓からの風景を見て気を紛らわせることにしたようだ。少し長めの沈黙があり、ムルが思い出したようにピンと背筋を伸ばしてシャイロックの方に向き直った。
「シャイロック。俺のために部屋を探してくれてありがとう。留学先を日本にするって決めてから、本当は俺がやらなきゃいけなかったのに、代理人になってもらえて助かった!」
「ムルのためならなんだってしますよ」
「じゃあ電波塔をお引越しさせてよ」
「無理です」
 シャイロックがムルの言葉をスパッと一蹴すると、一拍置いて車内は大きな笑い声に包まれた。
 その後は二人でドライブしながら浅草を観光して回った。
 ムルはイギリス生まれの日本育ちだったが、両親の意向で郊外の学園寮に住んでいたため、浅草に来た事はなかったらしい。シャイロックは有料駐車場を見つけると車を停めて、ふたりは有名な寺院に参拝して回り、屋台で人形焼きやかりんとう饅頭を買っては口いっぱいに頬張った。
 一つ一つ小さく千切って口に運び、品よく食べているシャイロックの隣で、何を思ったのかムルは掌の上に乗せた饅頭をじっと観察していた。
 出来立てで温かかった饅頭から熱が失われてしばらくして、ムルはようやく口を開いた。そして彼が話したのは、このかりんとう饅頭には月面のような凹凸があって美しいから思わず見入ってしまった、と言う事だった。
 シャイロックは呆れた様子で「まあ……」と呟き、肩をすくめた。そして少し考え込んでから、
「ムルは月が好きなのですか?」
 と問いかけた。
「好きだよ?」
 ムルは即答した。
「世界で一番好きだ。俺、いつか月に行きたい」
 その為ならどんな苦労もいとわないと言う彼の答えを聞いて、シャイロックは何かを決心したようだ。紙袋の中に残っていた最後の人形焼きをムルの口の中に押し込んで、紙袋をクシャクシャにしながら立ち上がった。
「行きますよ、ムル!」
「もごも!?」
「あなたを待っている人が居ます」
 その言葉を口にした時、シャイロックがなぜか胸のあたりを片手で押さえた。
「いつだって、ムルを引き留められるのは私ではないのですね……」
 彼の呟きは、ムルの耳まで届いていないようだった。ふたり並んで賑やかな通りを抜け、車に戻る。助手席に乗り込みながらムルが「俺が住む部屋はゲストハウスだって聞いているけど、どんな感じ?」と、尋ねてきた。その時シートベルトをかけていたシャイロックは「和やかでとても居心地の良さそうな空間でしたよ」と答えた。彼はさらに続けて「メールにも書いておきましたが、これからムルが暮らす所は、ゲストハウスのオーナーの甥っ子とルームシェアだそうですよ」と説明した。
 季節は春。
 まだまだ日は短いため、気づくとあたりはすっかり暗くなっていた。
 シャイロックの丁寧な運転で辿り着いた先は、閑静な住宅街の中心に位置する赤い屋根の家だった。壁は白塗り。薔薇蔦が這う玄関前のアーチを潜って行くようだ。
 ゲストハウスにしては瀟洒しょうしゃな佇まいである。
「ここ?」
「ええ、そうです」
 シャイロックが車の後部からムルのトランクケースを取り出し、扉を閉めた所でゲストハウスの玄関が開いた。
 木鈴を鳴らして顔を出した壮年の男が、車の前に立っていたムルとシャイロックを見ると目元を柔らかく細めた。
「いらっしゃい。待っていたよ」
 そう言って二人に中へ入るよう促す。
「いや~、話には聞いていたけどイケメンだねぇ~~~!!」
 その時、暗かった玄関前の地面を照らすライトが点いた。
「おじさん、また玄関灯点け忘れていますよ」
「ああ、ありがとう晶くん」
 おじさん、と呼ばれた壮年の男はシャイロックの持っていたムルのトランクケースを受け取りながら後ろを振り返った。
「シャイロックさん、お久しぶりです」
 おじさんの後ろから顔を出した黒髪の青年――晶は人好きのする笑みを浮かべていた。そしてシャイロックから隣に視線を移す。黒目がちの大きな瞳は興味深々といった様子だ。
「“晶くん”、こちらは私の親友で君と同室になるムルです」
 そう言ってシャイロックがムルの背中を押した。
 通常のムルなら自己紹介など朝飯前で、むしろ企業向けの百点満点な自己PRになっていたことだろう。けれども今、シャイロックの傍に立ち、晶を目の当たりにしたムルはそうでなかった。
 彼は両目を見開き、唇は感情の昂ぶりを表すようにプルプルと震えていた。両手を握りしめた拳は節が白くなって、力がこもっているとわかる。
「……ムル……どうかしましたか?」
 シャイロックの口調は優しかった。が、彼の表情も固い。
 その場に緊張感が漂った。
 一向に口を開かないムルを気遣ったのだろう、晶が笑みを浮かべながら右手を差し出した。
「初めまして。僕は晶です」
 すると、ムルは手に込めていた力を緩めて晶の差し出した右手を握りながら囁いた。
「……初めまして、」
「わぁあっ!」
 賢者様、とその時ムルは確かに口にした。けれど、ブツンという音とともに屋内外の電気がすべて消え、奥の部屋からギャーというあまり美しくない叫び声が聞こえてきたりして、結局ムルの言葉は最後まで鮮明に伝わらなかったようだ。
 晶が申し訳なさそうな様子で眉尻を下げ、
「すみません、ブレーカーが落ちてしまったのだと思います。僕、中に行ってきますね」
 晶はそっと手を離し、ちょこんとお辞儀をしてから回れ右をする。
 晶は軽い足取りでリビングに繋がる扉ノブに手をかけた時、何気なく振り返った。
 そこには仲良く談笑するムルとシャイロックの姿があった。その光景は、晶の中に焼き付いて離れなかった。
(ムルさんって、シャイロックさんと仲良しなんだ……。英語で話してるけど、僕の知らない単語ばっかりだ……)
 晶は半ば振り切るようにして勢いよく扉を開け、落ちたブレーカーのスイッチを戻すためにキッチンの中へと駆け込んだのだった。
 一方でムルは、世界の権威ある科学雑誌「ネイチャー」に取り上げられていた月の引力と自然界の影響に関する論文の話題を持ち出して、シャイロックに月の魅力を語っていた。
 ――賢者様。
 彼が口にしたその口調はまるで、自分の大切で、とても大事でしかたがない宝物を大好きな人にだけこっそり打ち明ける子どものような印象だった。
 そばで見守っていたシャイロックは、その言葉の意味を複雑な思いで受け取っていた。
(ムルは、今も<大いなる厄災>に心を囚われている……。そして、賢者様にも……。だからムルの魂を、いえ、ムル自身を守るためには、賢者様を利用するしかない……)
 シャイロックは今日という日に辿り着くまでの日々を思い返していた。
第4話『回顧録』
 <大いなる厄災>が世界を恐怖のどん底に陥れた日から約一週間後の――そう……確かあの日も、暗い空から雨が降っていた。
 町から離れた断崖にある天文台は、海から吹きつける激しい暴風雨にさらされていた。その狭い屋内は魔法科学から生まれたカンテラの灯りに照らされていて、三人分の細長い人影が一台の寝台の前まで伸びていた。
「うぅー、うー」
 寝台の上には濃紫の髪色が特徴的なムルが身を横たえており、苦しそうに呻いている。
 彼の手足を縛るものは見当たらないが、体が硬直したような不自然さが見て取れた。 
「シャイロック……俺はもう見ていられない……! ラスティカもそうでしょう!?」
 赤毛の青年――クロエから悲痛な声があがった。彼に続けて、その隣にいた茶髪の青年も口を開く。
「僕も同感です。これ以上、魔法でムルの動きを制限し眠らせていたのでは、彼の魂だけでなく体まで壊れてしまう」
 沈黙が降りた間も、紫と青の二対の瞳がシャイロックに対して「もうやめよう」と訴えかけていた。
 そのおかげかはわからないが、重苦しい沈黙はそう長くは続かなかった。
 魔法で眠らせていたはずのムルが、瞼を震わせ、目を覚ましたのだ。
 目を覚ましたムルは哀れなほど憔悴しきっていた。
 彼はボロボロと大粒の涙を零しながら「けんじゃさま……けんじゃさま、どこにいるの……」とうめく。
 その弱々しい声を耳にして、それまで沈黙していた黒髪の青年――シャイロックがゆらゆらと頭を左右に揺らしながら「ふうーっ」と深く息をついた。 
「……わかりました。魔法これを解きましょう」
「ほんと!?」
「それはよかった!」
 シャイロックの意見を耳にしたクロエとラスティカが即座に反応し、嬉しそうな顔をしてお互いに顔を見合わせると両手を叩いて喜んだ。
「ですが、このままここに居ても本当の意味でムルは救えないでしょう……」
 シャイロックが重苦しい口調で告げた。たとえその言葉を聞かなくても、ムルが憂慮すべき状態であることは容易に想像できた。
 思いつめた顔で押し黙ったクロエとラスティカに、シャイロックは「一つだけ」と自身の人指し指を立てながら言った。
「一つだけ、ムルを助けられる可能性があります」
「……それは……?」
 クロエがごくりと唾を飲み込み、ラスティカが黙って見守る中、シャイロックはなぜか淡く口端を引き上げて、微笑んだ。
「それは……賢者様の世界へ、ムルを連れて行くことです」
「でも……」
 クロエは戸惑いがちに続く言葉を飲み込んで、縋るような視線をラスティカへ向けた。
 きっと、彼の脳裏には濁流に飲まれていった賢者の悲壮な最期の姿がよぎって行ったはずだ。
 そう。今ここに賢者はいない。この世界には殉死した賢者を不運だと思う民はいくらか居るかもしれないが、いたむ者はいないだろう。
 沈痛な面持ちで黙り込んでしまったクロエとラスティカに、シャイロックは言葉巧みに説得を試みた。
「私はムルを連れて“賢者様がいる世界”つまり“賢者様がこちらへ渡る前の世界”へ連れて行き、ムルに賢者様の無事な姿を見せて彼を安心させたら、さっさとこちらへ引き上げて来ます」
「そうすればムルは助かるの……?」
「少なくとも今とは違う未来になるでしょうね。違うといっても、ムルは賢者様が遠い場所で暮らしていると思い込みながら、<大いなる厄災>の研究に打ち込む……。まぁ、そんなような落としどころで落ち着くでしょうね」
「そんな……ムルが可哀想だよ……」
「クロエ。クロエは優しいな」
「ラスティカは違うの?」
 潤んだ瞳で見上げてくるクロエに、ラスティカは優しい眼差しを向けた。
「僕は、賢者の魔法使いの誰からも、尊い命を失った悲しみを無くすことはできないと思うよ」
 クロエに向かって優しく声を掛けるラスティカに、シャイロックは感情の読めない鋭い視線を向けた。
 ラスティカはシャイロックの視線に気づいていないのか、それとも気づかぬふりをしているのかわからないが、続きを語った。
「僕たちはその大きな悲しみを自力で乗り越えられるだろうけれど、ムルは一人で乗り越えるには悲しみの方が大きすぎるんだろうね。だから、今回ムルをあざむく事だとわかっていても、ムルを少しでも悲しみから引きあげることができるのなら……僕はシャイロックに協力するよ」
 そう言うと、ラスティカはクロエからシャイロックへ視線を向けた。
 シャイロックはにっこりと微笑んでラスティカの視線を受け止め、次いでクロエの方を向いて「クロエは?」と尋ねた。
 クロエは黙ってしばらく考え込んだのち、「ふぅ」っと大きなため息をついて両頬を手で叩き、居ずまいを正して顔をあげた。
「僕も、協力します」
「ありがとうございます、クロエ、ラスティカ。向こうへは私が同行して、ムルを見守りますので安心してください」
 そうして賢者の魔法使いたちが協力して転移魔法の準備を整えるのに通常では半月以上かかるものを一週間でやってのけ、月に愛された傷だらけの世界から、ふたりの魔法使いの存在がふつりと消えたのだった。
第5話『猫探し』
 シャイロックが目覚めた時、すべては上手くいったと思った。
 目の前には賢者様が心配そうに顔を覗き込んで来ていたからだ。ただし、賢者様はずいぶん幼かった。目線の高さを合わせるにはシャイロックの長い脚を曲げてしゃがみ込まねばならなかったし、青みがかった白目がつぶらな瞳と相まってより幼く感じさせた。
 さらに困ったことに、いくら探してもムルの姿はどこにもなかった。
 (転移魔法が失敗したのでしょうか……?)
 目覚めたばかりの時、白いリネンの清潔なベッドシーツの上に腰掛けて考え込むシャイロックに、賢者様は自ら『真木晶』と臆せず自己紹介し、シャイロックの肩を優しく撫でてくれた。
 本当はシャイロックの頭を撫でたかったのだと気づいてあげられるには、シャイロックの中に余裕が無さすぎた。
 心配そうにつぶらな瞳で見上げてくる賢者様を自分の隣に座らせて、真剣に問題解決の糸口を探すシャイロックだったが、ムルがどうなったのか知るまでは何を考えても意味が無い事実に突き当たるのだった。
 しばらくの間シャイロックと賢者様の間で重たい沈黙が場を支配していたが、真木家の当主と奥様――晶の実の両親が顔を出してきて、シャイロックに何か覚えていることは無いかと気づかわしげな様子で問いかけた。
 シャイロックは今後上手く立ちまわるにはどうしたら良いか、わかりかねていた。事前に賢者様自身の口から話して聞かせてくれていた"あちら側の世界"についての情報から、「魔法使いであること」「賢者様はいずれ"こちら側の世界"に召喚される運命にある」ことなどの話はしない方が得策だろうと決めていた。そのため、「私の名前はシャイロックですが……他は何も……」と、記憶喪失の振りをしてごまかすと決めていたが、果たして信じて貰えるだろうか……。
 シャイロックが膝の上で固く組み合わせた両手の白く浮き立った節を見下ろし、静かに反応を待った。
 ドキドキと心臓の音がうるさい。
 しばらくそうして固まっていると当主は、路上で倒れていたシャイロックを助けて家まで連れてきたのだと説明してくれた。さらに彼は、
「警察に電話で相談したら事情聴取をといわれてね……。ただ君の体調が心配だったから、また日を改めて警察署へ行くことに決めたよ。とにかく今は安静にして、医者は呼んであるから」
 そう言って、当主は扉の前で佇んでいた奥様を振り返った。
「しばらくうちで面倒見ようと思うんだけど、いいかな?」
 奥様はしばらく渋っていたが、賢者様がシャイロックと手遊びで遊び始めたのを見て少し驚いた顔をした。その後、少し悩んだ末に彼女も頷いてくれた。
 後で許可してくれた理由をそれとなく聞くと、
「人見知りする晶が、あんなに警戒心無く打ち解けている様子を見て、思わずオッケー出しちゃったわ。ふふ」
 と、茶目っ気たっぷりの答えをもらった。
 その後、警察に届け出たシャイロックは毎晩毎晩ムルを探して回った。
 ちなみに、晶たち家族には捨て猫を保護するために出かけてきます、などと当たらずも遠からずなセリフを残して外出許可をもらっていた。
 さぁ、ではなぜ夜に本格的に活動するかと言うと、人目を避けて箒に乗って空を飛ぶためだった。
 そう、シャイロックは地球でも魔法が使えたのだ。
 だからシャイロックは諦めなかった。ムルも転移魔法で地球の僻地へきちに飛ばされたものと考えていたのだ。
 唯一手もとに残っていた愛用の煙管を吹かして、水を貼った桶の中に手鏡を沈めて呪文を唱えた。
「ムルの居場所を映し出せ――インヴィーベル」
 ゆらゆらと揺れる水面に窓から差し込む光が乱反射して、水中の鏡に当たりじっと見つめていると、ぼんやりとだがどこかの街の風景の像を結ぶのがわかった。
(今日はこの景色をさがしてみましょう……)
 シャイロックはこうして魔法の水鏡が映し出したイメージを頼りに、ムルを求めてさまよい、放浪したのだった。
 雷雨の日は徒歩で近場を探り、雨の日は雨合羽を着て出かけ、雪の日も酷暑でも、とにかく毎晩ムルの足跡そくせきを探した。
(魔法を使っていたらある程度場所を特定できるはずですが……まったく無いということは、どういうことなのでしょうか……もしかして……)
 その時、薄々感づいてはいたものの決して認めたくない事実のひとつ――ムルの死を、シャイロックは覚悟した。
 月に愛された傷だらけの世界から地球に飛んでやって来てから、もう十年以上が経っていた。
 幼かった賢者様はすっかり大きくなって、来年から高校生だという。伝聞なのは、シャイロックが今は日本を離れて暮らしているからだ。見た目が変わらないので仕方ないとはいえ、ムルを見つける一番の手がかりである賢者様の傍を離れるのは気乗りしなかった。今は文通や電話で通話するだけにとどめている。
 とはいえ、シャイロックは世界各地を転々とし、終わりの見えないかくれんぼを終わらせようとひとり奮闘してきた。そんなある日、ふらりと立ち寄ったイギリスの学園都市でシャイロックは時計を落としてしまった。
 時計が無いことに気が付いたのは昼間の出来事だったので、人の目があるうちは魔法を使用するわけにもいかず、彼は仕方なく緑の芝生が広がる公園内をウロウロして時計を探して歩いた。
 日本製の時計は賢者様の両親が賢者様の受験勉強を手伝ってくれたお礼にとくれたもので、それをつけて日本に帰るととても喜んでくれるから無くすわけにも、代わりを買うわけにもいかなかった。
 きっと、賢者様のあの笑顔は、ムルの護りたいもののはずだから……。
 シャイロックはいつの間にか公園を抜けて街路樹が植わっている道路際まで来ていた。この道をまたいだ先は大学カレッジの敷地になる。そこには柵や門扉などはなく、ただ広い私道が校舎まで続いているだけである。
 シャイロックはぼんやりと遠くに見える校舎の影を見上げた。その時、キラリと光る物を見た気がして、シャイロックは視線を巡らせた。
「あぁ、良かった。ようやく見つけられました」
 すぐそばの木の枝に引っかかった、赤いベルトの腕時計を見つけ、ホッと安堵する。
「でもあんなところに……」
 腕時計は背の高いシャイロックでも届かない位置に引っかかっていた。
 シャイロックはじっと緑生い茂る樹上を見上げた。光物が好きな鳥に取られないとも限らないし、風に吹かれて落ちて割れてしまう可能性だってある。
 シャイロックは視線を周囲に走らせた。
 その時大学カレッジの近くに作られた礼拝堂の重厚なベルの音が響き渡った。
 そこからずいぶん長いこと待って人気が無くなる頃を見計らい、シャイロックはこの周辺に人の姿はなく、車の交通量もあまりない。犬の散歩をするには気温が高すぎる。民家までは少し離れているから目視しづらい。
 シャイロックはあらゆる可能性を考慮しつつ、両手を伸ばして呟いた。
「降りて来い――インヴィーベル」
 呪文を唱えると時計はあっさりシャイロックの手中に戻った。だが、それで終わりではなかった。
「お兄さん、もしかして魔法使い?」
 背後にいつの間にか人がいたのだ。
(見られてしまった――…!?)
 シャイロックは時計を持った手を握りしめ、営業スマイルを張り付けて「たまたまですよ」と流暢な英語で答えながら振り返った。
 しかし、その表情が一瞬で凍り付いた。
「ん? なに? 俺の顔になにか美味しいものでも付いてる?」
 そこに居た人物こそ、ムルだったからだ。
 彼は片手にブックバンドで薄い本をまとめたものをぶら下げて、ポロシャツにグレーのコットンパンツというラフな出で立ちをしていた。
「む……」
(ムル……)
 シャイロックは乾いた唇を湿らせて、名前を呼ぼうとした。
「あれ? なんかきみと初めて会った気がしないな~なんで?」
 けれど、ムルの想定外な言葉を耳にしてシャイロックは言葉を飲み込んだ。
(ムルは忘れているのですね……)
 じっとムルの顔を穴が開くほど見つめていたシャイロックに、ムルは小首を傾げて口を開いた。
「それで、きみは魔法が使えるの?」
 彼の口はシャイロックよりも英語に親しんでいるようだ。彼の操る英語は、思わず聞きほれそうになるキングス・イングリッシュだった。
 シャイロックはムルにどう説明すべきか、一瞬で答えを弾き出さねばならなかった。でなければ信憑性に欠けてしまう。
「いいえ。たまたま落ちて来たのです。キャッチできて良かったです」
 結局シャイロックは真実を誤魔化すことにした。
 ムルはしばらくの間「えー? 本当に~?」と疑っていたが、シャイロックが何も言わないのでそのうちに興味を無くしたようだ。
「そういえば、私と初めて会った気がしない……とおっしゃっていましたね」
 シャイロックが話を蒸し返すと、ムルは「そうそう!」と目をまん丸くして話に食いついてきた。
「私も、同じ気持ちです。懐かしい、気がします」
 シャイロックははやる鼓動を押さえてムルの様子を窺った。ムルは「そうなの!?」と、とても嬉しそうな表情を浮かべてから右手を差し出した。
「俺の名前はムル」
「私の名前はシャイロックです」
「シャイロック…シャイロックか。ねぇ、俺と友達にならない?」
 無邪気なムルの申し出を、シャイロックはにっこりと微笑んで受けた。正確には彼と握手を交わして「どうぞよろしくお願いします」と言ったのだ。
第6話『仮題:晶の気遣い』
 ムルはその視線をスマートフォンを操作するため、手もとに意識が集中していた。だから知らなかったのだ。ブレーカーを操作して戻って来た晶がじっとムルの様子を窺っていることに。
 ムルが顔をあげた時、おじさんの明るくて大きな声が聞こえた。
「さあさ、シャイロック君もムル君も! そんな所に突っ立っていないで早く中に入ってよ! おじさんはムル君の荷物を部屋に置いてくるから晶くん、うちの案内よろしくね」
 この場に緊張感の欠片もない人が一人いた。晶のおじさんだ。
 優しいけれども有無を言わせないおじさんの指示に、その場で固まっていた三人はようやく動き出した。
 晶にリビングの扉の前まで案内される。
「ここは本来ゲストハウスだから外国人の宿泊客が多く泊まるんです」
 晶はそう言いながら扉を開けた。
 室内には国際色豊かな数人の男女がローテーブルを囲んでトランプゲームに興じていたり、ダイニングテーブルで書き物や読書をしている人などがいた。
 晶がゲストハウスの大まかなルールを教え終わる頃になって、おじさんが戻って来た。
「晶くん、ムル君をお部屋の方へ案内してくれるかい?」
「わかりました。じゃあ……ふたりとも、こちらへどうぞ」
 彼らはおじさんと入れ替わるようにしてリビングから二階の部屋へ移動した。
「ここが僕たちの部屋になります」
 晶は廊下の奥にある扉の前に立つと、ムルの方へ視線をちらりと向けてドアノブを押した。
 扉がわずかに軋む音がして、ゆっくりと開いた。
「わぁお、とってもエキゾチックな部屋だねぇ!」
 中の様子を覗き込んだムルがはしゃいだ声をあげた。そして部屋の中央へ歩みを進めたムルのあとから、シャイロックと共に晶も続く。
 部屋の中は左右に似たような造りの扉があり、中央に小さめのちゃぶ台と座布団が二枚並べられ、窓にはカーテンの代わりに障子が枠に嵌っていた。障子枠を上下に動かすこともできる造りなので、窓の下半分から外光を取り入れることも可能なようだ。
 ムルが喜ぶ様子を見て、晶はホッとした様子で笑みを浮かべた。
「そう言ってもらえて良かったです。寝室はそれぞれ別室になっていて、僕は左の方を使わせてもらってます。おじさんがムルさんの荷物を右の部屋に置いてくれていると思います」
「俺の事はムルって呼び捨てでいいよ~!」
「え……ですが……」
「俺も好きに呼ばせてもらうからさ!」
「あ……そう、ですか……?」
「敬語もいらな~い」
「じゃ、じゃあ……ムル……?」
 これでいい? とでも言いたげに、ムルの名前を呼んで恐縮する晶と、晶の様子を知ってか知らずか、名前を呼ばれたことに満足気なムル。シャイロックは微笑みながら、対極的な二人の様子を眺めてひっそりと息を吐いた。そしてムルのテンションに慣れない晶が助けを求めるようにシャイロックを捉えた。シャイロックはその黒い瞳に応えて、やれやれと言ったようにムルの傍へ近寄った。
「ムル、あまり他人様ひとさまを困らせてはなりませんよ」
 そう言ってムルをなだめるシャイロックの目は、とても優しい色をしていた。
 諭されたムルの方は「へへへ」と悪戯っ子特有の笑みを浮かべただけで、効果てきめんとは言い難い成果だった。
 シャイロックはムルの半歩後ろまでさがったところで両肩を竦めて見せた。
 晶はそんなムルとシャイロックの親し気なやり取りをじっと見つめていたが、ふとシャイロックと目が合うと、パチパチと瞬きをして、黒々としたつぶらな瞳をやんわりと細くして微笑んだ。
「ムル。ここはどっかの寮みたく消灯時間や門限はありません。でも、ゲストハウスなので受付時間や入浴できる時間が決まっています。それについては寝室に案内状があるので目を通しておいてくださいね。僕たちの共有スペースの使い方については明日話し合って決めて行きましょう。それじゃあ、僕は今日はもう失礼します」
 と、晶はやや口早くちばやに告げるとさっさと個別スペースの寝室に引っ込んでしまった。
 
ムルが名残惜しそうに閉まる扉を見つめていたが、シャイロックに促されて彼もこれから寝起きする寝室の確認をするために右端の扉を開けて中に首を突っ込んだ。
 きっと感嘆の声が聞こえると思っていたシャイロックの予想に反して、ムルの反応は薄かった。
「おや? 意外ですね」
「え? なにが?」
「……いえ、ムルの反応がイマイチだったので」
「え、そーかなー? 普通だと思うけど」
 この、ムルの落ち着いた受け答え方に覚えのあったシャイロックはにわかに信じ難い様子で開いた口を手で押さえた。
(まるで魂が砕ける前のムルみたいですね……)
 少しの間室内を見て回り、ムルはノートパソコンが一台置ける程度の手狭ながらシンプルな机の前に立ち、晶が言っていた案内状に目を通しはじめた。
 シャイロックは白いベッドシーツとアイボリーの側生地がわきじが起毛で温かそうなふっくらした羽毛布団をぼんやり見つめながら、数分前の晶の様子を思い返していた。
 晶は何故か途中から焦った様子で早口になった。その視線は、ムルとシャイロックの間をうろつき、彼の中にある動揺した気持ちを隠しきれていなかった。
 晶は何かから逃げようとしていた。それはシャイロックの勘だが、なぜだか確信が持てた。
(おそらく晶は私とムルの距離感を勘違いしたのでしょうね……)
 男と男ではあるが、ありえない話ではない。
 晶の過去に、シャイロックが知らないだけで男同士の恋愛経験があるのかもしれない。
 この時、シャイロックの推理は半分当たりで半分外れだった。
 彼は知らない。
 晶が大人らしくミステリアスな雰囲気を纏ったシャイロックに淡い恋心を抱いていたとは、露ほどにも思わなかった。
第7話『無題』
今日はここまでにします。
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325:41
ゆら
★コメントなどあれば随時お答えしていきます。
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向き
まほやく(ムルと晶♂)第1話~
初公開日: 2020年04月12日
最終更新日: 2021年02月24日
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「前世の記憶を持つ留学生ムルと、前世の記憶を持たない晶がルームシェアして仲良くなる話」を書きたい。※津波表現あり※見切り発車。第1話~第5話pixivに掲載中。
◆あらすじ◆
イギリス生まれ、日本育ちのムル。彼はイギリスの大学に進み、留学生として再び日本に戻って来た。
イギリスで退屈な日々を過ごしていたムルだったが、彼にはある秘密があった。
それは前世の記憶があって、本物の魔法使いだったこと――…。
ムルはシャイロックの紹介である日本人大学生とルームシェアをすることになるのだが、その人がまさかの前世で思いを寄せた賢者様で…。