たゆたうように微睡む意識の中で、ふと口内まで広がるような甘い匂いに気がついた。鼻に届く香りは生っぽくて、暗いばかりの視界では到底見当もつかずに閉じていた目を、あける。
「ヌヌヌ!」
開いたばかりの室内は柔らかな明かりで満ち満ちていて、いつからだろう枕元に佇むジョンの覗き込むつぶらな瞳が瞬くとほぼ同じく、寝起きで少し遠い耳に落ちた挨拶はいつも通りの響きを持つ。
おはよう、めっきり掠れてしわがれた音を絞り出して応じれば、己が横たわる寝台から離れているのだろうかドラルクの変わらない声だけで挨拶が返される。
「おや。おはよう、今日は少し早かったね」
重く張り付いて起き上がれない背を僅かにずらして目線を巡らせた先、もう長いこと体を預けている寝台の端から己に被さる寝具にかけてやけに鮮やかな色が散りばめられていると気がついた。ぽつりぽつりと置かれる色を凝らしてやっと見ればやはり花のようで、依然あまく喉まで張り付きそうな匂いの元が散らされた花々だと分かる。なにか悪戯のつもりか、真意のわからない花を見ていればいつしか寝具から降りていた小さい甲羅が床を歩いている様が視界に入り、淀みなく進む先からやっと姿の見えるドラルクがこちらへと向かっていた。
数年前まで父を真似ていたのか白髪混じりに変化していた髪はいまや黒々と戻り、いつのまにかまた着けるようになったクラバットは吸血鬼特有の正装めいたシャツによく似合う。しかし見慣れた装いの腕にはとりどりの色が抱えられ、寝台に添うよう置かれたスツールに腰掛ける細腕から次いで香った水気の気配が花々のものだと改めて思い知らされた。
「これ?うん、キレイだろう。そろそろ盛りだから良いものばかりのはずだよ」
寝具に散る花と腕に収まる色は同じ種類のものなのか、己へと見せるよう近づけられた小さな面にすっかり萎えた背を伸ばして顔を寄せると、先ほどから充満している違和感が一層濃く胸の奥まで滲み入る様に感じた。重なりとりどりの花弁は数えると十を超えて、寝具に置かれたものと合わせると二十は過ぎるだろう。自由のきかない己に代わり、全ての家事を行うドラルクにとって生ものの世話は大変ではないかとふとよぎる思考のまま再度口を開くと、さまざまな色を持つ細面がことさら緩やかに口角を歪める。
「片付けはいいさ、後でやるから」
水気を帯びた指先がついと花弁を抜き取り、軋んでにぶい首の下、ちょうど胸元に乗せられた瑞々しい赤が白い寝具を飾る。お似合いだとうそぶく顔色は変わらず、重くぼんやりと遠い思考を回してもやはり意図まで思い至ることはできなくて、なんとなしに伸ばした手に触る赤い薄片の感覚もあまり分からない。のろい指で花弁を潰してしまわないようするすると撫でる最中、再び寝具によじ登ったジョンはスツールに腰掛けたままのドラルクの持つ色に鼻先を突き入れ、深くいっぱいに吸い込んだかと思うと不意に振り向いてどこか嬉しそうに言葉をかけてくる。
「ヌヌヌヌヌン、ヌヌッヌヌ」
何がよかったのかピンとこないものの喜色を浮かべて下がる目尻を向けられては突き止めることも難しい気がして、擦れる響きを伴う首でなんとか浅く頷いて応えると朗らかで小さい笑みが納得した様にドラルクへと向いた。
「そうだねジョン。ありがとう」
捲り上げたシャツから伸びる腕でその胸に抱える花を落とすこともなく、自身に問いかけるアルマジロの小さい頭を撫でる目線は穏やかに伏せられて寝具に落ちる。一人と一匹で示し合わせていることでもあるのか、言外におかれた目的を示すなにかが気に掛かる思考は、不意にぼんやりと視界ごと覆う感覚に遮られてゆるい眠気に変わる。
「ん?…わかった、おやすみ。つぎ起きたらご飯にしよう」
とろとろと鈍りはじめる思考が止まる前にとかけた声へと向いた視線は、僅かに細められたかと思うと柔らかい声色で返して狭まる視界の中で迫るクラバットが寝具にかかる頃、小さな感触が額に触れた。室内灯を遮っていた影が避けた後、ドラルクの真似をするジョンからの軽い口づけが頬に付けられて、控えめにかけられた挨拶がほど近い耳に心地よい。
せめてと応えたかった挨拶は口から出すよりも早く深い眠気に掻き消えて、閉じ切った暗い視界の外、不意に感じたかさついた肌を微かになぞる小さな感触がジョンの口付けたあたりを往復しはじめる。己を寝かしつけるような、重なる皺を伸ばすような、ゆるり何度も辿る重みに向けていた意識もいつしか解けて、抗う術のない眠気に沈む最中でも側に侍る二つの気配だけを感じていた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
夢も見ない暗い意識がふと浮かび、辺りをうごめく軽い足音に気がついた。遠い昔に手入れがしやすいからと選んだフローリングを滑る音が幾往復かした頃、傍から聞こえた軋む音に次いで腹に乗せていたはずが不意に取られた手元が気になり閉じていた目を、あける。
眠る前より少し高くなった視線の先、ぼやけた目を何度か瞬かせて定まった焦点の中で伸ばされた己の手は、寝具横に腰かけるドラルクの血色の良くない掌の上に収められていた。掴まれる甲にかけられた指は数十年越しにみてもやはり細いと感じるほど骨張って、するり何度も撫でては確かめる動きを見せる爪先を握り込んでやれば、それまで手元へと向いていた黒がふと向けられ微かに細く揺れる。
「おはよう、少し手を借りてるよ」
深かった眠気を引きずる声は思っていたよりガサついて、応えた拍子に浅くひっかかる音に続いて凝り生まれた咳を反射的に押さえるべく、もう片手でなんとか口元を覆い受け止める。自然と開いてしまう口から濁る音を伴う咳を吐き出すと上ずり焦る声色で名を呼ぶドラルクが僅か腰を浮かせ、寝具に寄りかかる体勢で寝かされていた背の後ろに薄い掌を滑り込ませて上体を支え起こしてさすられた。
二つ三つと中々止まらない咳を噴き出して、喉の奥に絡む痛みが首から胸までを息苦しく押し広げる感覚に見舞われながら暫く咳き込むことに専念していれば、六つを超えた頃にようやく喉の違和が削がれ八つを超えて数度喉を鳴らすとひりひりと響く痛みこそ残るが呼吸が掠れ閊えることはなくなった。なかなか安定しない喉元に残る痛みにひそめる眉につられて歪む視界の縁で、己の背を緩やかになで続けるドラルクが未だに掴むままの掌と己の顔とを交互に窺いながら上ずるままの声が投げかけられる。
「大丈夫?水、持ってくるかい」
不安めいた感情をにじませる顔を向き合わせ緩やかに首をふり遠慮の意図を伝えるが、スツールから離した腰を浮かせるまま問いかけてくる声色はひどくかたく、押し当てられた掌に微かに強く感じるほど数度背をさすられる。
「…本当に大丈夫?」
肯定を伝えたくて再び緩く首をふって見せつつ未だ取られたままの手を引き腰を落とすように進めるも、どこか納得していないのか立ち上がりかけた痩軀はなかなか座ろうとはしない。依然として見上げる先、問題ないと辛抱強く応えつつドラルクの不安げな目線に応えるようにと何度も取られた手を引けば、やっと納得したのか見るからに渋々といった具合にスツールへ腰を落ち着かせて己の背を擦る手をそろそろと離す。
座り直すドラルクの顔色は優れず、己が咳き込む間も繋がれたままの掌はいつしか薄く汗ばんで冷える。もたれる寝具に深く体重を預けつつ再度無事を伝える意図もかねて節のかたい指をやわく握り込んでやれば、微かに首を傾げて己を窺っていた表情がほんの僅か逡巡を見せた後に手を包む温度が増えて且つ僅かに力が込められた。
「……いいなら、少し借りるよ」
萎れた手指を控えめになぞる感触に思い出したドラルクからの言葉を微かに痛みの残る喉でつまらないよう繰り返すと、未だ心配を隠さない視線が落とされて己の手を撫でていた両の手がするり離れる。数度瞬くをする間に見慣れた正装から何度目か差し出された諸手はいっそ頼りなさそうなまでに細い紐を指に絡ませて、抵抗もせず取られる手指にくるり幾度か回された紐から外れず伏せられた黒い視線へふと声をかける。
「うーん…うんまぁ、サイズを測ってるよ。…うん」
問いかけに応えるためかふとこちらへ寄越された視線はかちあうよりも早く手元へ戻り伏せられて、どこから出したのかペンのキャップが外れる音に意識を向ければ指に巻き付けられた幾重もの紐に渡って手早く一直線に印が書き込まれていた。
「はいおしまい」
かけられた言葉に次いで指からくるくると抜ける紐の淡い擦れを感じながら、ドラルクの言葉の真意を考えるべく思考をわずか巡らせても先ほどの咳き込みに疲弊した頭では妙案が思いつくこともなく、ただぼうっと鈍い思考の中で労うよう手の甲に添えられて撫でる冷たい指先の感覚を追う。
「…さっきので少し疲れたかね?」
もう一度眠るか問うた声は既に遠く、どうにも耐えがたい眠気にずっしり沈むかのように錯覚する体の重みに耐えきれない背中を寝具へともたれ掛からせる。体重をかけた拍子少し上向いた視線はぼやけてずるずると引き下がり、明るい室内灯に満ちた視界が閉じる直前まで側に座っていたドラルクにしみ一つない寝具へ投げ出していた両手を取りまとめられて、しっかりと組まれて置かれ直す。ついぞ見当たらなかったジョンへ次に起きたら挨拶がしたいと思い出した意識はゆるく鈍く、胸に溜まる吐息を吐き切る拍子に落ちる思考は眠りに埋もれて消えた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
深く重く鈍く、たしかに長いと感じる時間がすぎたことばかりがまとわりつく意識の中で、閉じていた目を、開ける。
幾度か眠るより前に部屋を包んでただよう香りはやはり散らされたままのようで、随分と浅く腰掛けるまでに起こされた背から見下ろす己の寝台には未だ鮮やかな色が端から飾り立てるように残されていた。覚醒しきったはずの視界はどうしてもかすみ、常よりも分厚く感じる目元を擦りたくて上げようとした手に被せられた寝具が退かせずとても煩わしく感じる。
「ヌヌッ」
手を出せない淡い苛立ちに向けていた視線の端、足下まで余すことない色とりどりの向こうから頭を覗かせたジョンが一つ声をあげた。かち合った瞳はしっかりと己を見つめたまま皺を寄せる寝具を踏みつけて、軽くきしきしと骨まで響くような足音を伴いながら近づいた小さな手足が手元を覆う寝具のふちまで巻き込み腰を下ろす。自由に動かせそうにもない手元と己の顔とを伺うように目線を移していたジョンの名前を呼ぶと、次をつむぐよりも早く手を隠していた寝具がべらり捲り上げられて、やっと目をこする腕をあげることができた。
「おはよう」
よれるほど肉の薄い目元をこすってみるが厚い感覚に阻まれるようなまぶたの重みは変わらず、なるべく強くと数度こするうち、いつのまにか寝台の横に腰掛けていたドラルクから声がかかった。スツールに座る姿は懐かしさを感じる身なりに包まれて、生気のうすい輪郭を隠す真黒の合わせに胸元の柔らかそうな布地がこすれ、歪む視界の中で一層白く際立つように見えた。
「擦るの、もういいんじゃない?」
胸の合わせを開くでもなく伸ばされて指は見慣れた手袋に包まれていて、上等な布ごしに掴まれた手が引き寄せられるままに寝具の端に落とされる。ぼんやりと遠い感覚が残る視界の中こちらをみやる二対はそれ以上口を開かずに、常であれば忙しないくらいに言葉を続けることも珍しくない吸血鬼の様子が気にかかり、遅れて挨拶を返せば未だ離されなかった手を握る指が一際強くしめられた気がした。
「…ヌヌヌヌヌヌ?」
腹まであばかれた寝具の端を持つジョンがつぶらな黒をドラルクへと向けて小さく声をあげると、じっと己を見つめていた暗い目が二つ、三つと瞬いてふいとやわらかに上がる口元が再び開かれた。
「ねえ、ちょっと、手伝ってほしいことがあるんだけど、いい?」
いつになく切れの悪い言葉尻はすぼむように落とされて、掴まれたままの手に少しだけ体重がかけられているのか鈍い感覚ごと被さって沈む寝台がかすか軋む音を鳴らす。自力でろくに起き上がることもできず、ここしばらくは深く眠っては浅く起きることを繰り返すだけに留まる時間が脳裏を過ぎる。ドラルクの言葉が示す事柄は思いつかなかったが、数十年かけて己の世話をやくドラルクの言葉を断る理由もなく、ぼうっと巡りにくい頭のまま首を傾げて頷いてやる。
伏せてのち上げ直した目線の先で再びかち合う目元はゆるやかな曲線を深め、穏やかな響きで礼が返された。しかしなにを手伝うのか、考えるまま口から出た疑問にまたやわらかな笑みを浮かべたドラルクは僅か押さえられていた手元を掬い持ちつつ、どこか強張っていたのか浅い息を吐いては取ったままの手に口付ける素振りを見せて上ずり弾むような声色を続けた。
「君と私の結婚式」
ドラルクが吐いた言葉を聞いたままに繰り返せば、至極嬉しそうな表情を湛えてもう一度同じ音がつむがれる。腑に落ちるよりも早く、結婚と三度己の口から転がり出た音を咀嚼する。目前で萎れた手を掴む暗い色の目にからかいの意図はないように見えて、終ぞ自分からは言い出せなかった求婚を取って代わられたのだとようやく思い至れば、思わず口角が緩くなり掠れしわがれた笑い声にも似た音がもれた。
「結婚式、一度やってみたかったんだよ」
向けられる視線は己の返答を待つように瞬いて、淡い室内灯をうつしてなお深い色しか見えない瞳が僅かに揺れた気がした。ドラルクと出会って数十年、これまで数える程も覚えが少ない真剣な顔色で答えを待つ様子からは普段口癖のように誇っていた高等吸血鬼としての威厳もないようで、寝台を浅く沈めるジョンからもう一つ窺う声がかかるのを合図に再び了承の意を示して頷く。
穏やかな表情を崩さないドラルクからぽつり礼の返事が聞こえたかと思えば真黒に包まれて見えなかったもう片方の腕が出て、背を包んでいた心地よい圧迫感の合間にするり入ったかと思えば支えられるままにそれまで腰掛けていた寝台の中心よりスツールに近づけるように体をずらされた。数年で随分重く感じるようになった体はしかしドラルクからしてみれば然程でもないのか、楽々と己を再び寝台へと下ろした細腕はよれて巻き込まれた寝具をのばしつつ柔らかな口角を深めるままだった。
「じゃあ善は急げだ。今からやろう」
背と寝具とを隔てていた腕を抜き取ったドラルクがさも当然であるかのように続けた軽やかな声色に、きしきしと音を立てる寝台から小さな手足を下ろそうと伸ばすジョンが応える。ぼうっとうまく巡らない頭を一つ撫でた白い指先が薄い胸元を覆う真黒に隠されたかと思うと、色とりどりが散る寝具からずり落ちるように床に立った丸みを伴う暗い背中が不意に寝台を離れた。長い背を屈めつつ唯一の出入り口となる扉近くに置かれた低いタンスの一段を引き出してまさぐるドラルクと、その顔を窺うように覗き込んでいるジョンを知らず目で追うが、起きてから変わらず重い思考はますます鈍く凝るように意識のふちを濁らせる。
じっとり張り付くような眠気が寝具に置かれ直した指から手の平まで上がり、手持ち無沙汰に緩く握り込んでいた感触がどこか薄く感じる。ここ数日よく感じている睡魔に浸食されそうにかすかに振れる視界は気を抜けばすぐに落ちてしまいそうで、少しばかり探し物でもしていたドラルクが己の腰掛ける寝台へと戻る僅かな合間ですらとても長く思えた。
「お待たせ」
ともすれば舟をこぎそうな首元に向けていた意識をたもつ間にも浅く閉じかけていた目蓋の向こう、軽い足音も立てない真黒が先ほどまで陣取っていたスツールの置かれていない端にいつのまにか寄り添う。落とされる声がどこか下向いた音を持っていたようで、軋むような首で見上げた顔はしかし柔らかな表情のままだった。
「ちょっと、失礼」
ついでかけられた声もやはり穏やかな色しか感じ取れず、薄手の外套からこぼれた白い手を軸にスプリングを重く揺らす痩軀が己の横に空いた半人分より少し広いほどのシーツになんなく収まる様をただぼんやりと見届ける。ずるりと這うように間を詰めたせいか真黒の合わせは徐々に解けて崩れ、その下に変わらず着込まれた礼服があせない色味を覗かせる。元々一人用の寝具は決して余裕がある訳でもないがしっかりと横たわるドラルクは狭そうな素振りを見せず、ふと上向いた視線と腕に導かれるまま胴を引き落とすように抱え込まれて気がつけば幾分か近かったはずの天井を見上げていた。
「からだ痛くない?」
目前まで迫る声色に否定の意を込めて首を振る。出会った当初は己の方があった上背はいつしかドラルクに抜かされて、久しぶりに横へ添う痩身が体を丸めてやっと届くほどの己が身の縮まりを改めて知らされたようだった。
眠気が退かないまま微かに揺れる視界は滑らかなシーツの壁を横に、どんなに凝らしても焦点があわないほど近い距離から仄暗く濃い赤が見つめる。吸血鬼特有なのかどんな暗がりでもさほど広がらない瞳孔がちりちりと震えるようにじっと向けられ、上等な手袋をつける指は引き込まれた体に乗せられるまま言葉もなくまた長い時間が流れたように感じた。しかし、一つ二つ、睡魔に重たく閉まりそうになる目をなんとか開けることを繰り返すと、思い出したように瞬きを返した暗い目が浅く歪んで穏やかな笑みの形をつくる。
「ごめんね。やろっか、結婚式」
強張って動きにくい肩ごと動かされた体で少しばかり離されたドラルクに向き直ると、己から離れていた白い手先が鮮やかな色の小箱を持っていた。目の前の薄い胸元から取り出したのかハンマースペースに仕舞い込んでいたのか、小さいなりにもそれなりの質量があるように見えた箱には淡い毛並みのベルベットが張られているようで、箱が開くより早く脳裏をよぎった想像が瞬きの後に差し出される。少しばかりかたい音と共に開けられた小箱には二つ並ぶ金属が鎮座して、室内灯の元でなお青白い光を照り返す輪は真横にかかる重力につられて微かにきらめいた気がした。
「まず、指輪の交換」
寝具に置かれた小箱から器用に二つの金属を抜き出したドラルクに重く感じる片手の平を取られ、胸元まで寄せた左手、とうの昔に当てもなくなった薬指のふしを越えた指輪が見つめている束の間にひたりと根本まで落ち着いた。やせた指を飾る青みがかる光沢は縁遠かったせいか現実感が薄く、指を少し曲げるたびにちらちらと反射する感覚は鈍い視界でさえ焼き付く。
「じゃあお願い」
もの珍しい金属質をはめた手元に向いていた意識は不意に左手を触り掌にするりと潜り込んできた冷たい感触に戻されて、目の前に横たわるドラルクの指先がいつのまにか剥き出しの赤を見せていることに気がつく。爪先に規則正しく乗る色は、起き抜けに寝台の端に散っていた花弁を思い起こすように明るく際立ち、そういえばこの色も目にするのは久しぶりなのだとやっと思い出した。手の中に収まる指先を、ずりずりと微かに布地を擦り己の体重下から抜き出した両手で掴み、関節の擦れが響く指で持ち直した青白い輝きをなんとかたぐり寄せる指先へと添えてやる。爪を通り抜けても重みなどない輪は自然に落ちることもなく、小さく冷たい感触を取りこぼさないよう気を張りつつ、己に負けず骨ばった指の輪郭を辿るように煌めきをゆるく押し込めた。
離れることも許されないまま血色の良くない両の指に引かれた己の手はやはり深くたるんだ皮と皺に覆われているが、ごく近しく揃って目に映る光彩は同じ瞬きだった。ちかちか目を優しくさすような光を遮るドラルクの声がいたく落ち着いた色合いでシーツに埋まっていない耳へと届く。
「それじゃ、次は誓いの言葉ね」
「ヌッ!」
数分その姿を見失っていたジョンの元気の良い声が背後から聞こえて、きしり浅く枕元を数歩分揺らしつつドラルクとの間に割ってきた小さかったはずの体を見上げると、どこかにこやかに見えるその腕に赤く艶やかな薔薇を一輪だけ抱えていた。
「私には祈れるものがないし、ジョンにお願いしたんだ」
いまだ冷ややかな感触で包まれる手が見届け人然と胸を張るアルマジロへ向けるように引き上げられると、暗く落ち着いた視線を受け取ったジョンは高らかに誓いを促す言葉を連ねる。
「ヌヌヌヌヌンヌ、ヌッヌンヌヌヌ、ヌヌイヌヌヌ?」
己へ顔ごと向けられた簡素な問いを洩らさぬよう聞いた後、頷きながらなるべくおごそかに応える。納得したのか小さく頷き返したジョンは次いで横たわる痩軀に視線を落として、身動ぐうちに外套の半分以上を寝台から落としていた自身の主人へと同じように声を張りしかしとても短く問うていた。
「ヌヌヌヌヌヌヌ?」
「誓います」
細い顎を上向かせたドラルクの返答に続いて頷くジョンは己にしたように納得した面持ちのまま枕元を鳴らすよう一つ足を踏んで、あらかじめ打ち合わせていたのだろう淀みない口調で二人と一匹だけの誓いの儀式をおし進める。
「ヌヌ、ヌヌイヌヌヌヌ」
胸元に掲げる赤い花を少しだけ誇らしそうに揺らしたジョンに促されると、指を交換するために空いていたドラルクとのスペースがずるり近づく格式ばった服に縮められて、再びぼやける程に寄り添い見つめられる。萎れた手を覆う冷えがわずか緩んだ感覚を伝い、苦もなくほころんだ五指をなぞりぎこちなく軋む指をなんとか絡めれば、曲げられないまま残った隙間をなくしてきっちりと埋められた手のついでのようにピントの合わない顔が距離を詰めて唇が触る。
かたい目蓋は開くことも閉じ切ることも難しくて、曖昧な輪郭だけが捉えて見える痩けた目元がしっかりと伏せられていることだけが分かった。若い時分から数十年か、退治人として現役に立っていた頃はそれこそ乾く暇もない程と形容されてもおかしくないほどに押し付けて吸いつかれていた小さな肉の感触も、見かけの通り変化の乏しい柔らかさで鈍く感じる口元に重なり数瞬もすると音もなく途切れた。
熱を帯びる湿り気も色気もないキスを終えた目前のドラルクは焦点を取り戻すまで引き下がることはなかったが、それでも満足そうに口元の弧を緩めたことには気がついた。
「…ヌヌヌイ?」
「おしまい。ありがとうジョン」
手持ち無沙汰なのか赤い花弁を丸々と抱えるままごく暫くの沈黙の後でぽつり呟いて己とドラルクとを交互に見やるジョンは、己から逸れて見上げる赤からの労いに返事をすると再びきしきしと軽い音を立てて視界か背後へと歩いて行く。
ジョンが寝台を降りる振動は感じず、ふと間近にかち合っていた赤く細められた視線を見つめ返して、絡んだまま解かれない指先に感じる少し乾いた手を撫でてはにぶい指の感触を辿っていた。横になり数分しか経っていないにも関わらずすっかり脱力した体にはどうも力は込められなくて、とろりと重い眠気に垂れる目元を持ち上げては未だ弧をうつすドラルクの視線に応える。
「…結婚式、終わったよ」
密やかな声色はそれでも遠くなった耳にも滑り込んでよく聞こえ、つい先程みたく浅く頷きながら同意の言葉を短く返せば、焦点がずれる意識の中で繋がれた手ごと這うような重みがスプリングを軋ませて近寄る。寝台を鳴らすドラルクの気配を強く感じた直後、徐々に隙間が狭まりぼんやりと焦点も結べない視界いっぱいに見慣れた顔が広がり額にぴたりと当たる薄いかたさを感じた。
「新婚になったし、何をしようか」
問いかける言葉は依然やわらかく耳に浸み込むようで、合わせる額から伝わる体温は微かだが普段の睡魔にも似た安心感すら感じ、目下消えず襲いくる強い眠気から目の前のドラルクへとだんだんと意識が向いていく。
「また引越しする?」
安らかな起伏で心地よい声色は続く。退治人としての職を退いてから持て余すようになった事務所兼住居を思い出すと、その頃から変わることなくドラルクとジョンと己で暮らす今の家屋よりも不便なことも多くあったことばかり思い出す。雑居ビルの一室は昼も夜も喧騒が途切れず、たびたび下等吸血鬼に見舞われ、改造され尽くした床下からはよくヒナイチが顔を出して。人間も吸血鬼も編集者も、人通りが絶えず落ち着く時間は少なかったものの二人と一匹で過ごすにはあれ以上にちょうど良い住処はついに見つからなかった。
ドラルクが見出したという今の家の高く天井はけして嫌いではないが起き上がれない日々に一人で眠るには広く感じる、とまでゆるやかに巡っていた思考が不意に強くなる睡魔ににごる。
「それとも、ハワイでもいく?」
なおも問いかける声にようやっと開いた目蓋でまばたいて、ドラルクの音に耳をすませる。退治人としての遠征やら、作家時代のキャンペーンやら、目前の吸血鬼の享楽に付き合う形やらで色々な場所に飛んで行ったことがあるが、そういえばジョンとドラルクと三人きりででかけたことは数えるほどしかなかったと思い至る。出会ってからから、ほぼ毎日飽きることなく合わせた顔に早々と慣れてしまったせいで遠出をしようと思いつくこともほとんどなかった。同じ部屋で、同じように、毎夜顔を合わせる。引っ越すまでは当たり前だった生活は思い出してみればとてもささやかなものだと思い出していた。
額に軽く押しついてごく近くで向けられる暗い赤を、閉じてしまいそうな目でやっと捉えると繋ぐ手の中で擦り寄る指が一段と絡みつく。
「君はなにがしたい?」
迫るような、窺うような、幼いような。いつだったか、構われたがり暇にすら飽きはじめたジョンの機嫌をとる時によく聴いた甘やかな調子でシーツに色でもつけそうな声を最後にドラルクは口をつぐむ。ゆらゆらと漂ってしまう焦点をなんとか合わせつつ、細い指を握り返して少しばかり乾いた口を開く。
じっと己へと寄越される視線はやはり少しだけ震えて見えて、ぱちり閉ざされた拍子につられてますます重く感じた目蓋はいよいよ薄く開けているだけでも精一杯だった。
「……わかった、おやすみ。つぎ起きたら、また考えようか」
返される音は己をあやすようにとろけて、ひずみを深めて微笑む瞳はあさく陰りつつも室内灯を照り返して艶々と仄赤い輝きを見せる。手の中に囲うドラルクの指と、握り込まれる己にと着けられた冷ややかな金属質と重なる目元にそれでもまっすぐ見つめられるが、赤い色の奥から言い表せない感情を向けられた気もしたが、それ以上は堪えきれずに痺れすらおぼえ始めた目を、とじる。
目蓋を閉じてもなお暗く、重い眠気がじわじわと足先から登るはじめる錯覚は消えなくて、額越しのかたさと手を包むたおやかな指の僅かなぬくもりが深く瞑ったせいで真黒しか見えない中で確かに感じられる。目蓋をとじて数秒もすると、老いた体はよほど眠かったのか揺れてにぶく沈むように飲み込まれていく意識が既に目を開けられないほどに重く、思考の端からだんだんと解けていく感覚がふるえる手足から広がり始める。遠くにきこえたドラルクの微かなみじろぎに気がついて、ぴたりと誂えたように引っ付いた手元の繋がりを軽く握れば、ついさっき赤が乗せられていたはずの指先がたわんだ肌に食い込むほどの力で返された。
暗かった思考もとけはじめて、いよいよ眠りに落ちる間際にふと、取られた左手におさまる指輪のかたさを思い出す。着けた時は冷ややかに感じた小さな違和感はもう感じられず、開けられない視界ではドラルクの掌の中で変わらず揃いの輝きを持っているのだろう。次に起きたら、ドラルクともう一度きちんと指輪を見せ合おう。誓いの証人となったジョンを褒めてやろう。淡く浅く、やわらかい温度の意思がとろける睡魔に紛れて脳裏を過ぎる。
方方へと薄くのびる意識が完全なくらがりに飲まれて睡るまでの少しの間、きつく握られたままきっと鮮やかに主張し続けては左手を飾る証のことばかりを考えていた。
(終)
ロナルド編はこれでおしまい。
このあとドラルク編があるけど、かくか未定。
テキストライブ での更新はこれで最後だと思います。
閲覧・♡・コメントありがとうございました。
1:03にしめました。
カット
Latest / 924:44
カットモードOFF
913:44
チャコ
うっほーーーーー!!!ありがとうございましたーーーー!!!最高に最高です!!涙で前が見えません!!いや読みました!!読んだから涙で前が(以下略
チャットコメント
文字サイズ
向き
チャットコメント通知
老ロナ×ドラが死後婚する話。
初公開日: 2020年04月12日
最終更新日: 2020年04月28日
ブックマーク
スキ!
コメント
Twitterで呟いた、死にゆくロナと死後婚をするドラが過ごしたとても短い時間のお話。
ロナ3編ドラ3編構想だけどロナ編かいたら満足したので止めます。
4/28 1:03最終更新。
zat夢文庫版書き下ろし原稿
「雑渡昆奈門と先見の仙女」のイベント頒布用文庫本の書き下ろし用の話。
砂凪