旅立ちのおかゆ
遠くのほうで、波が砕ける音がする。
人間には立ち向かうことさえ許されない、大きな大きな営みが、規則正しく行われている音だ。
わたしは薄く目を開けた。残念ながら視界は真っ暗で、正しく目が開いたかどうかわからなかった。
空気は冷たく、唇は乾き、息を吸うたび肺まで冷える。衣服がやけに重く、全身を押しつぶしている。どうやらわたしは、うつぶせに寝ているらしい。
服の重みで身体は動かない。いや、重みじゃなくて寒さのせいかもしれない。頬の下には細かな湿った砂の感触があり、凍えきった鼻でも感じるほどの磯の香がした。
やがて波がわたしの爪先のほうからやってきた。小さな泡が生まれては消えるシュワシュワという音とともに、じわっと服が濡れ、身体が少しだけ浮く。
波がならしていった砂の上に、わたしは再び着地し、取り残された。すぐにまたあの冷たい波がわたしを洗いにやってくるのだと思うと、起き上がって逃げ出したい気持ちに駆られる。
だけど身体はまったく動かない。
先に脳のほうがまともに働きはじめた。だけどこの状況について考察するには、情報が足りなすぎた。真夜中にはっと目が覚めて、一瞬自分がどこにいるのかわからなくなる、あの感覚がずっと続いている感じだ。
さっきより強い波が押し寄せてきた。ひたひたとわたしの身体のおなか側を濡らし、またちょっと持ち上げてから去っていく。
どうやら私の身体は、万全な状態ではないらしい。視界に黒い幕が下り、全身の機能がシャットダウンされていくのを感じる。火照ったように痛む目は、閉じてもしみて、涙がにじむ。
消えゆく意識の中、疑問が頭の中を駆けめぐった。
ここ、どこ?
これって、どういう状況?
◆ ◆ ◆
「ばあちゃん、いい顔してたな」
幼なじみの小松崎郁多が、そう言ってひょいとガードレールに飛び乗った。
昼間でも夕方でもない、中途半端な時刻。西に傾きつつある太陽が、ぶかぶかの黒いスーツを照らしている。
ひとつ年上の彼は、つい先日高校を卒業してしまったため、わたしのように制服を着るわけにもいかず、勤め先の社長さんから黒いスーツとネクタイを借りたのだ。
「持とうか」
わたしが抱えている、遺骨の入った桐箱を指さす。わたしは首を振った。
祖母は自分の葬式費用だと言ってまとまったお金を貯めていた。おかげで一番高い戒名もつけてもらえたし、お棺もそこそこいいのを選べた。
海岸沿いのくねくねした道路は、時おりスピードを出した車が通るくらいで静かだ。平日の昼間に、こんなへんぴな場所を走る意味もない。
「家から歩いて行ける斎場って便利だね」
「あそこ、建設予定が発表されたときは、町の人みんなで反対運動したんだってさ。俺らが生まれる前の話だけど」
「それ、はやく言ってよ」
祖母がその運動に参加していたとしたら、そこで火葬するなんてとんでもない矛盾じゃないか。まあ、そんな細かいことを気にする人じゃなかったけれど。
彼女は“女子会”と本人たちが呼んでいたお茶飲み友だちとの集まりの最中に倒れ、苦しみもせずそのまま逝った。念入りにおしゃれをした状態で、一番の仲よしに囲まれて人生を終えるなんて最高よ、と“女子”たちは拍手喝采だった。
「お前、どうすんの、これから」
大きなカーブが終わり、ガードレールが途切れる。郁多はぽんと身軽に道路に飛び下り、喪服のズボンに両手を突っこんで私の隣に戻った。
「とりあえず高校は卒業するよ。そのあとは……どうしようかなあ」
「調理師の専門学校に行きたいって言ってたじゃん」
「そんなお金ないもん」
確証はなかったので、「たぶん」とつけ加えた。
おぼえていないくらい昔に両親を亡くし、わたしは祖母とふたり暮らしだった。料理屋で働いていた祖母は、私を進学させるくらいは稼ぐと言ってくれていたけれど、亡くなってしまった今、私には貯金額すらわからない。
「おばあちゃんが全部管理してたからなあ」
「まさかこんなはやく逝くとは思ってなかっただろうしなあ」
「でもお葬式代だけは町長さんに預けてあったって、すごくない?」
「バカ正直に、全額を葬式代にあてたお前の人のよさのほうがすごいよ」
「郁多だって、同じ立場ならそうしたでしょ」
彼はふんと鼻を鳴らすだけで、答えなかった。
わたしたちは並んで、てくてくと家を目指した。郁多の家とわたしの家は、同じ路地にある。郁多も小さいころに両親を亡くしていて、今の勤め先である自動車整備工場の社長さんが育ての親だ。小さな工場の敷地内に住居がある。
郁多とわたしは、年季の入った寝板で遊びながら育った。車の下にもぐるときに仰向けになって乗る、あの台車のことだ。
ふと郁多が振り返った。私も同じことをしようとした。背後からだいぶスピードを出した車が近づいてくる気配がしたからだ。
ちょっとおかしな走りかただな、と思った。コントロールを失って蛇行しているような、そんな感じだ。
肩越しに赤い車が見えた。ZL1、と郁多がつぶやいたときには、人相の悪いその車は、手を伸ばせばさわれるような距離まで迫っていた。
◆ ◆ ◆
おばあちゃんがこれからごまをするんだな、と思った。
ほうれん草でもいんげんでも小松菜でも、ごま和えにすればわたしは小さなころからもりもり食べた。すり鉢でごまをするのはわたしの仕事でもあったので、反射的に「わたしがやるよ」と口にして、自分で自分の声にびっくりして目が覚めた。
わたしは乾いた場所にいた。真上を向いた状態で、手も足もまっすぐ伸ばして寝かされている。そう、寝かされている。自力で寝たらこんな人形みたいな寝相にはならない。
目をぱちぱちさせてみる。わずかに感じる、まぶたが眼球に貼りつくような痛み。おそらく髪からただよってくる、磯の香り。これは、ずぶ濡れでうつぶせになっていた、あの記憶の続きだ。
なにがなんだかさっぱりわからない。