賢者がひとみに浮かべた恐怖、あるいは絶望の理由がわからなくて、フィガロは思わず後ずさった。
脳内の書籍を捲って、かけるべきことばを探す。適切なフレーズを見つけることは、できない。
かの人は、フィガロを置き去りにして、あっという間に眠りの中へと逃げ込んだ。
口元にてのひらを添えれば、微かに息をしているのがわかった。しんだようにしろいほほに、触れる。目覚めない。頸動脈。脈拍は正常。
「少しは休まなければ、お前の方が、倒れてしまう」
「元はと言えば、俺に責任がある」
振り向くこともせず、旧知のおとこの懸念を蹴り飛ばす。
帰りたい、と零した賢者に、そう、と微笑んでみせた。やさしさのつもりだった。居るべき場所へと、戻ることは決してわるいことではないだろう。
引き止めて欲しいのだと涙を浮かべられて、フィガロが浮かべてしまったのは戸惑いだった。
いつわりの、ごまかしのことばを口の端に乗せるのは簡単だ。しかし、傷ついたひとみを向けられて、上書きするように引っ掻いていくことを、いまのじぶんは、望んではいない。
こころひとつ、操ることは、造作もないことであったはずだろう?
わからないことは、おそろしいことなのだと、数千年ぶりに想起する。
歩けども歩けども、行く先は白。足裏の感覚は、とうに喪われて。空腹は見かけた木の実を齧り、種を飛ばすことで凌いで、大樹に腰掛けてねむって、歩き続けた先には、海と、たしか、春があった。
気絶するように委ねられたフィガロのぺらぺらの上体を、オズは受け止める。
誰もが、目覚めない賢者の心身を思いやっている。
勝手に責任をかんじて、このおとこが昼夜を問わず、他の魔法使いたちの目をかいくぐって、医者という肩書きに縋るようにして、ベッド横の丸椅子(レノックスが立ちんぼのフィガロを見かけ、作ってやったのだという)に座り、絶望に似た色を浮かべていることを、オズは知っていた。
「おまえのように、いきられたらよかったのに」
先程まで賢者の脈をとっていたのとおなじてのひらで、すっぽりと隠れてしまうちいさな顔を覆い、振り絞るように声をだす。慟哭。
「なあ、足裏の感覚がないんだ。地獄って、こんなところかな。俺のせいなのかな。ファウストがくるしんだのも、ホワイトさまがしんでしまったのも、おまえが世界征服しようとしたのはまあ、まちがいなく俺のせいなんだけど、賢者様が目覚めないのも」
進もうとする先から、暗渠に飲まれてゆく。
オズは光を探さなければ、暗闇に立ち尽くすこともなかった。このおとこはちがう。微かにみえるひかりを、ともしびを面白がって、信じて、つまさきを、指先を伸ばしては、触れられなかった熱の数を数え、諦観に似た笑みを浮かべ、感情をすり減らしてきた。
知らぬうちに松明を渡され、胸に抱え、生き物の温度、すなわちほむらとともに、生きていたオズとは、違うのだ。
薄い肩を、抱きしめる。
「お前が望むのなら、賢者はまちがいなく目覚める」
なんの根拠もないけれど、いまはこのおとこを休ませなければならないと思った。数千年の時を生き、時間の感覚などあってないようなものだけれど、この場に、この時間にい続けることは、おそらく正しいことではないのだ。
まもなく賢者は目覚める。その時フィガロはその場にはいない。すこし遅れて、白衣を翻して、ねぼすけさんだね、とでもいう。
慟哭などなかったようなかおで、わらってみせて。
じぶんだけが知る側面への優越と、吐き出される息の熱さに対する僅かな心配と。器用に見せかけて、だれより不器用なおとこなのだ。
愚鈍だ、不器用だとオズを揶揄う彼の方が、よほど。生きづらいだろう、とも思う。かつて、蜘蛛の巣の中にも似た、生きづらさの中にいたオズに、干渉してきたのはおそらく、表出する問題が近しく、彼の方がよほど、根が深かったのだろう。
「愚かだ」
と言えば、そうだね、とさみしげにわらって睫毛を伏せるものだから、オズはもうなにも、言えなくなってしまう。