人でなしの恋
原初の記憶、真人は泣いていた。ずるり、と嫌な音とぬるついた感触を纏い、この世に生まれ落とされ、不安と寒さとに震え、自身で自身の身体を抱きながら、闇の中で恐怖して嘆いていたのだ。
今、そのときのことについて考えると、自分は人間の赤子と同じで、生の恐怖を感じながら生まれてきたのだ、と真人は考えていた。ただ人間とは違い、その胸に真人を優しく抱き、乳をくれる母もなく、生誕を言祝ぐ言葉もなかった。めんどくさそうな顔をした漏瑚が泣き止まない真人の手を取り、足を立たせ、無理やり歩かせたのだ。そのときのことについて、真人が漏瑚を母と揶揄すると、必ず頭を真っ赤にさせながら怒るので面白い。真人は時たま、そうやって漏瑚をからかった。
街灯が切れかかった道を真人は歩く。ここいらの地域は最近、女性が襲われる事件が多発していた。連続強制性交等事件として、所轄の警察署に捜査本部が立てられ、本格的な捜査の手が及んでおり、しょっちゅう赤い光を回したパトカーがパトロールをしている。
真人の真横をセダンタイプのパトカーが通り過ぎていった。赤い光を回し、辺りを警戒しているようだ。中を盗み見ると、メガネをかけた警察官が一人だけ乗っていた。真人と目は合わなかったから、きっと何の力もない一般人なのだろう。
「めがね、と言えば」
真人の思考はつい最近出会い、殺し合いを演じた一人の術師に移る。
七海建人。
正確に言えば、七海がかけていたのは眼鏡ではなく、ゴーグルなのだが、真人の中であまり違いがわかっていない。
「また会いたいなあ」
真人は七海建人を自身の傀儡にしてしまおうとし、何度か彼の魂に触れたことがある。鋼鉄のような外殻に囲われた先、魂の柔い部分に触れようとしたとき、途轍もない拒否をされ、それには触れることができずじまいだった。
きっちりとし、常識も良識もあるだけ詰め込んだような大人の男が心の奥底に持つ、真人にさえも隠し抜いた弱点に興味を持たないわけもなく、積極的にではないものの、会えれば嬉しい、と考えている。
傀儡にするのも面白いかもしれないが、その弱点をつき、身体ではなく精神を壊してしまうのもいいかもしれない。そうして真人の奴隷にしてしまうのだ。きっとそれも楽しいだろう。
鼻歌をならし、スキップをする。
「トコトンヤレ、トンヤレナ」
思わず口から歌詞が飛び出す。脹相に教えてもらった明治期の歌謡曲であった。調子の良い音程と舌触りの良い歌詞に関心を持ち、また脹相がよく歌っていることもあって、いつのまにか覚えてしまったものであった。
雨が上がったばかりなので、辺りは湿っぽく、真人は汚れることも気にせず、水溜りをばしゃばしゃ、と足で跳ねさせる。
ちかちか、と切れかけた街灯が頭上で瞬いている。真人は鼻を鳴らす。真新しい火がついたばかりのタバコの香りが漂っているのに気がついた。
近くに、事件が起きるようになってからほとんど使われなくなった喫煙所がある。昼間の時間帯はたまに使用している人間がいるが、こんな深夜の時間帯ともなればまずいないだろう、と真人は考えていたが、どうやらその予想は外れたようである。
興味が湧いた。こんな気味の悪い場所で喫煙しているなんて、この近くに住む人間ではないのだろうか。真人は足早に歩を進める。そしてたどり着いた喫煙所を覗いた。
「こんなところで、何をしてるの」
宿敵と位置付ける男にかける言葉としては、あまりにも間抜けな言葉だと思った。
「何って、タバコを吸っているんです」
喫煙所に佇む七海建人は、羽織っている灰色のトレンチコートが恐ろしく似合っていた。一仕事終えてきたのだろうか、よく見ると、裾にシワが若干ついているのに気がつく。
そして、いつもきっちりと七三に分けられている髪は少し解れ、何本か額に垂れていた。
喫煙所で真人に話しかけられても、七海は人差し指と親指でタバコを持ち、眉を顰めながら、ずいぶん不味そうにタバコの煙を吸い続けた、
真人は一瞬ひやり、とするが、七海からは害意や悪意は感じられない。ただただ静かにタバコを喫んでおり、真人と争うつもりはないように感じられた。
「靴が濡れていますね」
「水たまりで遊んでいたから」
「そう」
真人は、態度や言葉遣いの変わらない七海にだんだん不信感を抱き始める。伺うようにじっ、と七海を見つめた。しかしそんな視線を気にすることなく、七海は喫煙所の、壊れかけたような煤けたベンチに腰掛けた。
「貴方も座ったらどうです」
「えっ、あ、ああ、座るよ」
横に座れ、なんてそんな優しい提案をされるとは思わず、真人の反応が数拍遅れる。気の利いた返しも思いつかず、ただ指示されたとおり、七海の横に座った。
真人は何だか居心地の悪い思いをした。七海は横に座れ、なんて自分で言っておいてそれだけで、相変わらずタバコを吸っており、真人に話しかけたりはしない。
そわそわ、と太腿を合わせ、爪先で地面を小突く。ちらり、と七海の顔を盗み見ると、目があった。
「なんで見てるんだよ」
「いえ」
答えの濁し方が何だか夏油傑のように思え、それは真人の好みではなく、不快に感じた。
「ほんとにこんなところで何してるんだよ、七三術師、仕事しろよな」
「貴方に会えそうな、気がして」
「は」
ふざけているのかと思ったが、からかうにしても、あまりにも礼を失した言葉だ。真人は眉を顰め、不機嫌さを隠さない声色で、短く対応した。
「どういう、ぅっ」
つもりだよ、という言葉は最後まで言えず、真人は驚く。
口に七海が吸っていた、短いタバコが突っ込まれている。
「私が全部言わなきゃいけないんですか」
驚いた真人は思わず前歯で、強くタバコを噛んだ。ぱち、と何かが折れるような音がして、すぅ、とメンソールの爽やかな風味が広がる。
真人に注がれる、七海の穏やかな瞳から目が離せない。
息が止まり、上手く呼吸が出来なくなった。鼻からタバコの煙が出そうになり、慌てて口からタバコを引き抜き、側に投げ捨てた。
「あ、ちょ」
「触れて」
タバコを投げ捨てた手を掴まれ、以前真人が七海を傷つけた脇腹へと触れさせられる。
顔が近い。七海の湿っぽい吐息が真人の乾いた唇に触れる。頭を少し動かせば、もうすぐに触れられそうな距離に七海の唇があった。
「早く」
よくわからなかった。真人は七海の行動の意味がわからず困惑した。だから、七海の言う通り、七海の魂に直に触れてしまった。
「んっ」
七海から真人へ流れてきたのは、純粋な好意である。七海の魂に触れながら、真人は赤面する。以前、真人には触れさせて貰えなかった、鋼鉄の外殻の、その先の柔い部分に今、触れさせてもらっている。
この術師、俺のことが好きなんだ。
自覚をすると、さらに顔が熱くなる。興味の赴くまま少しかき回すと、真人の肩口に額を押し付け、七海がその感覚に耐えようと声を抑えていた。
この魂は呪力で全くカバーされていない。ありのまま、そのままの無防備な七海の魂に真人は触れていた。人は無自覚でも自覚があっても、何かしら魂に防御壁を張ることが常である。そうでもしないと、他人に自分の身も心も委ねてしまうからだ。そういう本能的な防御機構は一般人にも少なからずあって、何も覆われていない魂に触れる、なんてことは真人にとって初めての経験であった。
「ねえ七三術師」
「ぁ、七海、建人、です」
「七海、いや建人」
はい、と七海が苦しそうに返事をしたので、真人はごめん、と謝罪をしながら、魂に触れていた手を引かせる。七海の額に冷や汗だろうか、解れた前髪が張り付いており、真人はそれをかき上げた。
「俺のこと、好きなの」
「私に触れておいて、なぜそんなことを訊ねるのです」
七海の言葉に真人は、確かに、と納得をしてしまった。曝け出された七海の魂は真人への愛と情と不安を歌っていた。口に出す言葉なんかよりも、正直で間違いがないのにどうしてそんなことを訊ねたのだろう。
「わかんないけど、聞かなきゃいけない気がして」
「そう」
頰に手を差し入れられ、サイドの髪を梳かれる。まだ涙で濡れている七海の瞳と真人の視線が交差する。
「目を閉じて」
上から七海の唇が合わさった。自身の唇に触れた柔らかな感触に真人は何だかまた緊張し、動けなくなる。身体を強張らせた真人を安心させるように、七海は手を握り、真人も七海の手を握り返した。
不思議な感覚であった。
身体も繋げていないのに満たされていく。舌も絡めない、唇を合わせるだけのキス、手に優しく触れ、相手を慈しむだけの触れ合いにここまで身体も心も満足させられるなんて、初めての体験であった。
「あ」
だから、七海の身体が離れていったとき、真人は思わず名残惜しそうな声をあげ、縋ろうとしてしまった。七海はそんな真人の様子を確認すると、小さく笑い、ちゅ、と唇の端に音を立ててキスをした。
「今夜はここまで」
今夜は、ということは次の夜もあるのだろうか。
どきどき、と胸を鳴らし、半ば夢現にいるような心地で真人は身支度をする七海の様子を見ている。二人が握り合っていた手の下のトレンチコートの生地に派手なシワがついてしまっていた。
「それでは」
「ま、待ってっ」
自身が考えていたよりも大きな声が出てしまい、真人は驚く。帰ろうとしていた七海はその声に反応をして振り返った。真人はうまく言葉が出てこず、口を何度か開かせたが、えっと、だとか、その、だとか、曖昧なその場しのぎの言葉しか出てこず、それにも焦りを覚えた。
切り傷みたいな月が七海の頭上で真人を笑っていた。
「また会いたいっ、一月後のまた今夜と同じ月の形の日、時間は今日と同じっ、俺、待ってるからっ」
「わかりました」
目を細め、七海は真人へ向けて軽く手を振った。
七海はまだ来ていない。少し早く着いた真人は以前、七海が座っていた場所に腰掛けた。
あれから一ヶ月、なんともそわそわ、とした落ち着きのない日々を過ごしていた。会えることは確実なのだから、慌てるな、と自分を叱咤するも、七海と交わした約束が頭から離れない。
座った太腿の上、普段ならそんなことをしないのに、自分の爪を執拗に弄っているときであった。
「こんばんは、真人」
「あ、名前」
声がかかり、顔を上げる。どこか異国を感じさせるような香りがした。ぼおっ、と香りを嗅いでいると、それが七海のつけている香水だということに真人はやがて気がつく。
「まずは挨拶からでしょう」
「こ、こんばんは」
挨拶も返さず惚けていたからか、不機嫌そうな声でそれを指摘される。自分に勝ち目はない、と思い、真人は素直に返答を行った。