@tos 
 例えば貴方のその肘の内側を、かり、かり、二度三度、爪で擦って垢をこそげて、そうしたときの貴方の表情を果たして私以外に誰が知るのかと、そういうことが不意にあたまを過る。別に、それからどうしたいということでもない。ただ、筋繊維の一本一本までが私のそれと比して恵まれている貴方、その賜り物を私のために貴方が、いっとき、弛緩させてくれる。そういう類いの自惚れが幾つも幾つもジクジクと私の脳に根を張っていて、その驕りを吸って育った種が遂に青く恥ずかしくなるほど青い葉を芽吹かせた今、葉脈が囁く意味に私は自分を信じられずにいる。自惚れが優越感を育て独占欲を滾らせる、なんて。
 いっそ、貴方が認めた私でありたいと思えるような殊勝な質であれば。そうであれば少なくとも、夜毎に貴方の肌を夢想しなくて済んだんじゃないか、そう思ってしまう。だって、貴方の目に気付かない私ではない。けれど、他でもない貴方にすらどう思われようが関係ないと顎を上げて開き直っている私がいて、ああ私は強さとは関係のないところでもこんな風に自分自身の奴隷なのだなあと呆れた。嫌ではなかった。そこがどうにも質が悪い。
 そんな面倒な男が、物心ついて以来すっかり染み付いた笑顔を浮かべ、今日も今日とて介護まがいの世話を焼きたがることの是非を、私は未だに確認できずにいる。控えめに言っても人生の転機となりうる狂おしい日々が終わり、平々凡々な日常に戻ってきたその足でどさくさまぎれに押しかけた男が家に住み着いていることを、貴方は実際のところどう思っているのか、なんて。答えの如何に依らず私はここを離れる気がさらさら無いので訊かないのだけれど、多少、嫌な結末を考えないわけじゃない。だから、決定的なことの何もかもを口にせず、起伏の少ない生活を続けている。
 この生活が終わったら、私達はどういう二人になる? 好敵手? 同業者? 既存のどんな形にも当てはまりたくなんてないのだと、そう私は気付いてしまっていて、生まれてこの方味わったことのない疼痛を、その甘さを、こうして眠る貴方の前髪に触れながら噛み締める羽目になっている。甘さは噛むほど苦い。鉄に似て臭い。しかしその錆臭さは元来私が求めてやまないものにふかくふかく絡みつくものであり、ひどく心地良くて手放しがたい。
 私の前で、私に触れられながら、貴方は眠っている。撫ぜていた前髪を寄せ、露わにした額に指を置く。眉間に人差し指を滑らせ、鼻筋をなぞる。真っ直ぐに治っている。瞼が閉じたままぴくんと動いた。同じ指で唇の真ん中を縦断する。一定の呼吸。疎らに生える髭の短さ、硬さ。顎の先に指が届いたとき、通り過ぎた唇が動いた。あえかな吐息。
「もう時間?」
 私の指を捕まえながら、不明瞭な発音でそう呟いた氷室涼その人は、私を見て、おはよう、と続けた。輪郭の掠れた声。おはようございます、朝食を摂るならそろそろですよ、と返す。私の人差し指を握ったままの氷室さんがその手で目を擦った。詰まった睫毛の美しい眠たげな目で二回瞬きをして、ベッドの下、枕元の床に寝間着で座り込んでいる私を一通り眺めた。
 度々私に向けられるその眼差しが言わんとすることを解っている。曰く、金田末吉にはソッチの気があるのか、と。雄弁な視線だが、問うべき勘所は其処じゃない。それを今や氷室さんも私もよくよく解っていて、解っているのに何も言わないで、そのまま短い二人ぐらしをし、今朝を迎えた。私のせいで目覚めたのに黙って触られるが儘になっていた氷室さんは、勿論そのことには何も言及せずに上体を起こす。畢竟、生存に差し支えなければどうでもいいのだ。時には生命を賭けることすらどうでもよくなってしまう生き物なのだから、私達は。
 氷室さんは握った手を少しほどいて、私の他の指に指を伸ばした。触れ合ったまま手を広げると、指と指との間に寝起きの温かい指がそれぞれ入ってくる。柔らかい指先が私の手の甲に浅く食い込んで、手繰り寄せるように手を引かれた。金田、と零す。それきり黙る。噤まれた唇を私は見た。考え込んでいるらしい、その柔らかい唇を。
 いつまで、と問いがあふれた。ほんとうなら、いつか私の方から言わなきゃいけない問いが、氷室さんのくちからあふれた。知らず、私からも手を握り返してしまったらしい。氷室さんが苦笑して、かたちのいい唇だけでなく顔全体がすこし曇った。いつまで、こうしていて許される? 角の立たない笑顔を貼りつけた男がパーソナルスペースに食い込みつづける冗談みたいな日々をいつ終えるべきだと貴方は思っているのか、それを私から訊くべきで、訊きたくなんかなくて、訊きたくない理由だって直視したくなくて、けれど今日がその答えを確かにする絶好の機会だと解っている、お互いに。
「いつまで通えるの、お前」
 らしくない困り眉の氷室さんが口にしたのは、存外気遣いのある表現で、寧ろ居たたまれない。訝しんで瞳を覗くが、他意がないことが何となく解ってしまうのも居たたまれない。
 いつまで? 許されるのならいつまでも。なんて、らしくないのはどっちだというはなし。無難な、いちばん無難な金田末吉の発言を目指して、リハビリが終わるまでですかねえと努めて平熱の口調で返す。
 終わらなかったら? 悪夢みたいなカウンターが降ってきたので、笑顔で盾を作った。約束があるでしょう。そりゃそうだけど――、語尾を濁した氷室さんの眼差しは、嫌になるほど雄弁で、ひょっとしたらなにより鋭く、今の私にとっての急所を抉る。
 お前はどうしたいの。
 幻聴をきいて尚、この期に及んで私はまだ笑っていた。つないだ手をこちらから引いて、持ち上げて、布団の上にぽんと落とす。もし許されるなら、と前置きして、必要以上に明るい声を出した。引っ越し先が決まるまで置いてほしいですね。氷室さんの中で、私は帰ることが前提になっているという部分をわざと無視した。本社勤務になったのでこの部屋から通う方が都合がいいといういつかの話を覚えてくれている氷室さんが、はやく見つかるといいなとかいうような言葉をいった、のだと、思う。雲の加減か急に射した光に意識をとられて聞き逃した。こんな朝を迎えるのは今日で最後なんだろうと、きゅうに、おしよせてきて、うまくとりつくろえなくなってしまった。勿論氷室さんにもばれてしまい、溜息を吐かれる、と、手をほどかれ、抱き寄せられていた。というか、半ば布団におさえつけられている。ギプスが邪魔をしているので。へんな体勢になっている私と、そこにむりやりにじりよってきた氷室さんとで不格好になりながら、それでも声がきこえた。そんな顔するくらいなら、ずっといろよ。呆れてるのか、わらってるのか、そんなような声が。頭を撫でる手がぎこちなく、笑ってしまった。プレイボーイが聞いて呆れる。でも私の方だって数少ない武器がすっかりかたなしで、呆れられているのだろうなとかそれでもいいかとか堂々巡りをすることが、むなしくない日が来るとは、と、御しきれない思考を持て余しながらとにかくいつもの顔をつくった。つくって顔をあげた。貼りついて剥がれないと思っていた笑顔が剥がれた後にも、その顔で笑うことができている。貴方がくれた機会のあとに、貴方の傍で。貴方は「勝ち取ったの間違いだ」というだろうけど。
 いいんですかと訊ねた舌の、その動きの鈍さに、私は自分の表情がまったく平素のものからかけ離れていることを自覚する。
「変なところで遠慮するのやめれば?」
 ぐしゃぐしゃに髪をかきまぜられながら、じゃあ言いますけど、と腹を決めた。今日病院の後、銭湯に寄るつもりでした。二人で。もつれた髪に手櫛を入れて、正座の膝に両手を下ろす。
「あと、残り、私が洗ってないところ、そこだけなので――」
 気になっていて、と最後までがうまくことばになることはなく、からまった舌がつかえて結局顔を伏せた。氷室さんの噛み殺しきれていない笑声が這いよってくる。視界の端に、ベッドからおりた足が見えた。いたたまれない。すれちがいざま氷室さんが、思う存分洗ってくれ、と笑って、また頭をぐしゃぐしゃやってキッチンへと消える。
空室
勘所、結局対象なのかってこと
  むりじゃないこと
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向き
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kngn氷金「小部屋に朝日の射す/射さない」
初公開日: 2020年04月05日
最終更新日: 2020年04月05日
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二次創作BL/少し手直しして完成したものがこちら→ https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=12772468