8/23
 その日、太宰は久々に自殺をした。しないようにしよう、しないようにしよう、と思いながらここ一年と少しばかり暮らしてきたけれど、駄目だった。我慢の限界がきた。
 さくと昨晩、自殺の話をしたのもまずかったように思う。
 生きたい理由の話をすると、死にたくなる。
 一年ぶりの自殺となると、なんだか腕が鳴った。工夫をこらした自殺がしてみたいなあ、と思う。そういうことを考えていると、今まで、首つりだとか入水だとか飛び降りだとか色々と試してみたけれど、そんなものは創意工夫のない、ただ漫然とした自殺であったような気分になってきた。
 今の生活に即した、新しい自殺法を試してみよう、と思った。
 最近の太宰は、かつてないほどに生活というものをしている。ならば、生活をしているなりの自殺法、というものがあるのではないかと思う。
 どういう自殺法がいいかなあ、と太宰は熱心に考えた。
 朝食を作りながら考えたし、洗濯機を回しながら考えた。洗濯物を干している間も考えていたし、昼食は何にしようかなあと考えると同時に、どういう自殺がいいかなあ、ということも考え続けた。
 そして太宰は、漂白剤と洗剤を混ぜた。トイレを掃除しようかと思って、洗剤が切れていた。買い置きを出すべく洗面所の棚を開けた時に、混ぜるな危険、と大きく赤字で書いてある漂白剤を見つけたのだった。
 混ぜるな危険、ということは、これを何かと混ぜてみると、とんでもない危険が発生する、ということだ。わくわくする。
 太宰は小躍りしながら漂白剤を取り出して、いろんなものと混ぜた。
 食器用洗剤と混ぜたし、カビ取り剤と一緒に混ぜた。
 なるべく狭いところがいいだろうと考えて、トイレの中で混ぜてみた。
 トイレの中にはトイレ用洗剤があったので、それもついでに混ぜてみた。
 あっ頭がものすごく痛い! と思ったところまでは覚えている。次に気がつくと太宰は、畳の部屋に寝かされていて、さくがうちわで、太宰の頭をぱたぱたと仰いでいた。
「……目が覚めたの」
 太宰が目をあけた瞬間、さくが無表情のままで言った。太宰が死にかけていたことにも、目を覚ましたことにも、なんの感慨も抱いていなさそうな声だった。
 けれど少しだけ、さくの眉が下がっていた。その一センチにも満たない表情の変化から、さくが太宰のことを心配していたのだ、ということが伝わった。
「あれえ、さくだ……」
 太宰は言った。舌がしびれたようになっていて、奇妙にろれつがまわらなかった。舌が一・五倍くらいに腫れ上がった感じがして、なんだかものすごく気持ち悪い。
 次の瞬間、吐き気がこみ上げてきた。
「ねえ、吐いてきていい?」
 そう言ったつもりだったけど、言葉は形にならず、奇妙にゆがんでげぼげぼした音の響きになって落ちた。さくが少しだけ眉を上げる。
「トイレはまだ危ないから、吐くなら袋を持ってくるけど」
 自分は今言葉を発することができない、と判断して、太宰はさくに向かって片手を差し出した。さくが、分かった、と言った。
 さくがすぐに、二重にした紙袋を持ってきてくれた。
 それを受け取ってすぐに、太宰はよろよろと上半身を起こし、紙袋の中に口元をつっこんだ。おえ、と背筋がけいれんして、胃袋が奇妙な上下運動をした。嘔吐なんて、自分の意思ではどうにもならない身体の運動のはずなのに、紙袋の訪れを待っていたかのように、身体が動き始めるのが不思議だった。
 二度、三度と太宰は吐いた。
 紙袋は、太宰の嘔吐物の水分を含んで、どんどん重くなっていった。このままではまずい、袋が破けるかもしれないと思ったけれど、袋を交換している暇もないくらい、嘔吐は断続的に続いた。
 ようやく胃の腑の中のものをあらかた吐き終えて、太宰はもうそれ以外何もできないような仕草で、重くなった紙袋をさくに差し出した。
 さくは無言でそれを受け取って、部屋の外へ歩いて行った。きっとごみを処分してくれるつもりなのだろう。
 太宰はどさりとその場に倒れ込んだ。
 散々吐いたはずなのに吐き気はおさまらず、胸の奥にむかむかとしたヘドロのようなものがわだかまったままでいる。
(死んだ方がマシ)
 そんな思考が頭の中に浮かんでくる。昔、よくこういうことを言っていたなと思い出す。自殺をすることはとても楽しいことだけれど、自殺に失敗した後は、いつも苦痛が待っていた。自殺に失敗した後に訪れる苦痛が、つまり生きることの苦痛ということだった。
「生きてるのってなんでこんなに苦しいの。こんなに苦しいなら私はもう死にたい。今回も死ぬのに失敗した! もう嫌だ!」
 苦痛ばかりの人生!! と、苦しんでいる割にはオペラ歌手のごとき声量で元気にわめいた太宰に、彼はあきれたように言ったものだ。
「苦しいのは、お前が突然ビルから飛び降りて背中を打ち付けたからだ。あれだけの勢いで身体を打てば頭も痛いし吐き気もするだろう」
 当然だ、と彼は言った。
 けれどそれは、太宰をとがめるような口調ではなく、自殺はよくないと、正義を説くような口調でもなかった。ただ彼は当たり前に、人体の中枢を痛めれば色々な不具合が出て当然なのだ、ということを太宰に教えてくれていた。
「違うよ織田作。私は今そんな当たり前のことが聞きたいんじゃないの。とにかく身体は痛いし吐き気はするし最悪なんだよ。この最悪さがつまり生きているということの最悪さなのさ」
 ああ死にたい、と太宰はふたたび嘆いてみせた。
 その日、突然発作的にビルから飛び降りた太宰は、一緒に歩いていた織田作に抱き上げられ、近場の病院に連れて行かれ、適切な手当を受けて一命を取り留めた。自殺になれている太宰の身体は強靱で、かなりの高さのビルから飛び降りたのに骨折一つしなかった。骨にヒビすら入らなかったらしい。
 死にたい死にたいと繰り返している行為が、太宰の命を強靱なものにしているとは皮肉なことだった。
 彼は、「どこか痛めているかもしれない。歩くな」と言いながら太宰の身体を抱き上げ、車に乗せ、自身のアパートまで運んでくれた。こういう時の彼はとても親切で、太宰に対しての無償の奉仕を惜しまなかった。
「これに懲りたらしばらく自殺は控えろ」
 痛めている太宰の背中をさすりながら、彼は言った。
 しばらく、と言ってくれるところが、太宰の意思を尊重してくれているようで、太宰はとても好きだった。彼は、太宰の自殺癖に対して、明らかに良い印象を抱いていなかった。できることならやめて欲しい、と思っていることが、いつだってありありと伝わってきた。
 けれど彼には、太宰のその癖は、どうしようもないものなのだ、と諦めている気配もあった。いつも彼は、「しばらくは控えろ」「できることなら自殺はするな」と、控えめな言葉で、太宰に自分の意思を伝えた。
「背中が痛いよ」
 自分の行いを棚に上げて、太宰は泣き言を言った。
「頭も痛いし腰も痛いしなぜか心臓も痛い。要するに体中が痛い。吐き気もする。これはなかなかすさまじい状態だよ。でも君が背中をさすってくれるのは悪くないね。悪くない。これだけは本当に悪くない」
 うわごとのように繰り返す太宰の言葉に応えて、彼は背中をさすり続けてくれた。
 太宰の方から、さすってくれと頼んだわけではなかった。それは、彼の自発的な行動だった。彼が人生のどこかで、苦しんでいる人がいたら背中をさすってやればいいのだ、と学んだのであろうことを、その時太宰ははじめて知った。
 知識だけではなく、それを実践できる場があることは素晴らしいことだった。
 彼の手を通して、誰かに身体をさすられることは幸せなことなのだ、と太宰は知った。そのようにして、経験と知識は伝播していく。
「水、飲める?」
 さくが、大きなコップに入れた水を持って戻ってきた。この家にある中で、一番大きなコップだった。さらに彼は水差しに、なみなみと水を注いで持ってきてくれていた。
「残念だけど、こういう時の応急処置に詳しくない。落ち着いたら、病院に行った方がいいね」
 太宰は再び身を起こして、盆に乗せられている水を手に取った。澄んだ水を一息に、ごくごくと飲んだ。冷えた水が、胃液で焼けた体内を滑り落ちていく。ひりひりするような、清められるような、不思議な感触がする。
「病院は別に行かなくていいや」
 太宰はかすれた声で言った。謎の舌の腫れは少しマシになってきたようで、先ほどまでよりはまともな言葉が口から出た。
「私の身体、やけに強いんだよねえ。こんなことで死ぬのなら、今までの人生でとっくに死んでいたはずだし、寝てれば治るよ、きっと」
「そう。だざいがそう判断するなら、別にいいけど」
 さくは淡々とした声音で言って、それから少し、肩をすくめた。
「でも、こういう行いはあまり、感心しない」
「何、お説教?」
「……そういうわけではないけど」
 さくが小さくため息をついた。
「トイレが使えなくて困るよ。今、換気をしているけど」
 ふは、と太宰は笑った。自分は彼の、こういうところが好きだったのだなあ、とふいに気付いた。彼はいつだって、太宰の行いをとがめなかったけれど、時々こうやって、妙にずれた言葉を投げてくるところがあった。
 ふははは、と太宰は笑った。笑った拍子に、飲んでいた水が気管に入ってひどく咽せた。ぜひゅ、ぜひゅ、と咽せているうちにまた吐き気がこみ上げてきて、口元を押さえた。さくは用意がよくて、替えの紙袋を用意してきてくれていた。
 その中に、太宰はまた、少し吐いた。吐きながら笑って、笑って、笑って、言った。
「ごめんごめん、迷惑をかけたね。確かに、トイレが使えないと困る。人に迷惑をかけないクリーンな自殺が信条だというのに、そこにまで気が回らなかったのは私の不徳のいたすところというより他ない」
「困ったから、茂子ばあちゃんの家にトイレを借りに行った」
 さくの言葉に、太宰はまた笑った。迷惑をかけっぱなしだ。これはよくない。反省をしよう。
 げえっほ、と太宰の喉が鳴った。身体の中の悪いものが、すべて出て行こうとしているような気がする。
 紙袋を手放せなくて困る。うかつに横になることもできない。
 さくが、そっと、太宰の背中に手を当てた。痙攣している太宰の背中を、そろりそろりとさする。
 あの日の彼の手とは違う、小さな手だ。けれど、同じあたたかみが、その手からは伝わってきた。彼は、今も昔も体温が高い。おなじ体温だ。そんなことに気付いた。
「だざいは、死にたいの」
 さくは、いつかと同じことを尋ねてきた。その声はやっぱり太宰をとがめるものではなくて、ただ、純粋な疑問に満ちているだけの声だった。
「うん、死にたい。ものすごく。いつだって、死にたかった」
「過去形?」
「そうだねえ。君が背中をさすってくれていると、死にたさが少しマシになるような気はする」
 気休めだけどね、と太宰は言った。
 気休めだ。いつだって、気休めだったけれど、太宰は彼といる時は、本気で自殺しようとはしていなかったような気がする。パフォーマンス的にビルから飛び降りたりはしてみたけれど、彼がすぐさま助けてくれることを、自分が生き延びるであろうことを、そういう時は確信していたような気がする。
 そしてその確信は、太宰にとって、決して嫌なものではなかった。
「トイレはもうやめて欲しい」
 さくが小さく切実な要望をした。
「うん、もうやめる」
 太宰は素直に頷いた。
「ここにいる間は、もう自殺はしないよ。今日自殺をしたのも、なんと一年ぶりのことだしね。久々にやってみるとやっぱり悪くない遊びだけど」
「逆に、どうして一年も我慢したのか、不思議な気もするね」
 さくの手は、変わらず太宰をさすってくれている。こういう時、彼はとても気が長い。
「どうして、かあ。どうしてだろう。なんとなく、かな」
 さくの問いかけに、明確な答えを返すことが太宰はできなかった。そう、とさくは言った。太宰の背中から手を離し、彼はコップに水をつぎ足してくれた。
「今日はもう、寝ていればいいと思う。夕食くらい、作ることはできるし」
 食べられそうなら、だざいの分も作るけど、というさくの言葉に、太宰は身を乗り出した。
「食べる食べる、吐きながらでも食べるよ。君の手料理を逃す私ではないからね」
「吐くくらいなら食べないで欲しい」
「じゃあ吐かない。飲み込む」
「…………飲み込むのもやめてほしい」
 汚い、とさくが言った。ごめん、と太宰は言った。
 あきれながらもさくは、じゃあ一応、だざいの分も作るよ、と言ったくれた。嬉しい、と太宰は言った。まだ、頭はガンガンと痛かったし、吐き気もひどかったが、生き延びたのはそう悪いことでもないような気がした。
 こういう気分になることはまれだ。
 さくと暮らしはじめてから、太宰は時折、こういう気分を味わうことがある。
八月二十三日
 太宰が自殺をした。トイレが使えなくなって、とても迷惑だった。今度から、家の中でこういうことをするのはやめて欲しい、という話をした。
 仕方がないので、茂子ばあちゃんの家にトイレを借りに行ったら、トイレが詰まったの? 壊れたの? とたくさんたずねられて困った。とにかく今はトイレが使えない、と答えた。
 太宰はいつも死にたいらしい。
 死にたい、という気持ちはよく分からない。
 死にたいと思ったことはない。人を殺したい、と思ったことも別にないけれど。
8/24
「トイレ、詰まったんだって?」
 茂子さんが、トイレが詰まった時に使う道具を持ってやってきた。
「駄目だよ、さくちゃん困ってたじゃない。トイレ道具は揃えてないと駄目だよ。治さん、生活能力なさそうだもんね。そういう時どうすればいいのかもよく分かってないんじゃないの? 詰まりは直ったの? もう大丈夫なの?」
 茂子さんは、トイレの道具を太宰に押しつけながら、トイレ事情についてしきりに詰め寄っている。いやあ、トイレはね、直った。直ったよ。大丈夫、と太宰が困り顔で答えているのが珍しくて、少し面白い。
「トイレは、大丈夫。もうこんなことにはならないさ。茂子さんには迷惑をかけてすまなかったね。でもとりあえず、トイレはもう大丈夫」
 トイレは大丈夫、と三回太宰が言って、ようやく茂子さんは納得したようだった。
「ならいいけどねえ……」
 でもまあ、せっかくだからこれはあげるわね。
 茂子さんは、トイレの詰まりを直す道具の数々を、居間の片隅によっこらせ、と置いた。
 
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すごーい!(ときです)
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すごーい!(とうかです)
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