ぼうっと宙を見ていた。心ここにあらずといった虚ろな目で、薄暗がりに意識を泳がせている、男。時折瞬きをするほか、だらしなく椅子に身を委ね、長い脚を床に持て余す。痩せた手が死体のそれのように力なくぶら下がり、暗闇に寓意を描く|死の静物画ヴァニタスを思わせる。蛍光灯の照明に照らされた塵が、彼の目に反射してくるくる舞っている。
 どれくらいそうしていただろう。やがて掌を額に押し当て、長い長いため息をついた。身体に溜まった毒気を抜き去るような、嘆息。目を瞑り、ゆっくり首を振る。白と黒に染め分けた髪が、無機質な重力で顎に触れる。くしゃりと前髪を掻き上げ、男はもう一度深い息を吐いた。
「ねえ」
 口を開いた。言葉は壁に跳ね返った。ぽん、と退屈まぎれに一人で壁にボールをぶつけるような調子だった。空虚で、場違いに軽い、声。
 埃の溜まった壁の隅、暗がりに溶け込むようにして丸まっていた顔がおもむろに持ち上がる。二つの青い瞳が男を見上げた。物言わぬ、双眸。胡乱気な眼差し。男はそちらに目もくれず、淡々と宙に向けて一人で喋った。
「しばらく休みをもらったんです。地上のどこかでゆっくりしようと思うんですが、一緒に来ませんか」
 沈黙。遅れて、にゃあん、と。呼応するように、隅に寝そべった猫が鳴く。肯定とも否定ともつかない、ただの間延びした相槌だったが、男は「そうですか」と短く頷く。
「じゃあ一緒に行きましょ。久し振りに太陽の当たるところに行くのも楽しいですよ。きっと」
 誰かに、というより自分に向けて言うような口調で、男は勝手に話を決める。うんうん、と軽快に頷く割に、男の顔色は冴えなかった。呪いじみた絶望感を引き摺り、陰影に足首を掴まれ、内心で途方に暮れている。軽妙を装い、無駄と知りながらどこかへ逃げ出そうとしている。そんな滑稽に空回る、無為に上滑りした話し方だった。
 彼の飼い猫は、くるりと首を傾げたきりさして興味もなさげに腕に頭を委ねる。どこにでもいる、やや長毛の猫。猫らしい投げ遣りな仕草をして、そのくせ時折、人の言葉を解するような理知的な表情を見せる、魔女の使い魔。
 男は身体を屈め、猫を抱き上げた。ふわりと埃の混じった匂いとともに猫の胴体がしなやかに伸びる。そのまま膝に乗せ、愛猫の頭を撫でる。まるい頭蓋骨の感触が、そこに宿る微かなぬくもりが、生命の居場所を指先に伝えた。
「……」
 男はそれと知らず肩から力を抜き、じゃあ行きましょうかと小さな声で囁いた。吹けば消えてしまいそうな、弱々しい微笑。血の気を失った、冷たい指。猫の目は、彼の表情をそのまま映し、暢気に喉を鳴らした。
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初公開日: 2020年04月03日
最終更新日: 2020年04月03日
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