「じゅ、銃兎さん、俺、あのさ——」
その後に続けられた言葉に、銃兎は何も言葉を発することができなかった。
「は?」
もう一度言って欲しい。
そんな気持ちを込めて銃兎は二郎を見た。
困惑した表情を浮かべている銃兎を見て、二郎は視線を逸らす。
「えっと……その……あの、俺、ふ、不倫! してみたい!」
ヨコハマの自分達の家で、なんでもない時間を過ごしていただけのはずだ。二郎はテレビを見て、銃兎は隣で読書にふける。そんななんでも無い時間を過ごしていた際に突然二郎から言われた言葉は銃兎をひどく驚かせた。
心がひどくざわつく。しかし銃兎はひどく落ち着いていた。何年も一緒に居た恋人への対処を知っていたからだ。二郎がけして本気で言っていることではないということも理解している。
「どうして、そう思ったのですか?」
だから銃兎は尋ねたのだ。何故、そんなことを言ったのかを。
すると、二郎はぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めたのだ。
ふりんごっこ
「私じゃ不満ですか?」
二郎に向き直り、銃兎は眉を顰める。張り詰めた空気に、二郎は息をのんだ。
けして銃兎を怒らせようと思って言ったわけでは無い。二郎の瞳はそう訴えている。
二郎が何か不満があって言っているのは明白だ。二郎が突拍子も無いことを言う際、いつも何か理由がある。今回は銃兎に何かしら不満があったということだろう。だから二郎は銃兎以外の人間を求めた。けれど銃兎は二郎が不誠実な人間ではないということも知っている。だから銃兎は頭ごなしに二郎を叱ったり、この状況を憂えたりしなかった。
理性ではそう思っていたが、内心では不安でたまらなかった。
こういうことを言わせてしまったことへの怒りと、二郎に他者を求められた悲しみが銃兎を渦巻いていた。
その感情を抑えつけるように、銃兎は煙草を手に取り火を付ける。そしてゆっくりと煙を吸い込んだ。
こういうときがいつか来る。そう思っていた時期もあった。いつか訪れる別れのとき、二郎を優しく送り出してあげようと思っていたのに。
ずっとそばに居ると誓い合って、二人でヨコハマに暮らすようになってそんな決意を忘れていた。
しかし、今日という日が来てしまったのだ。
ふう、と銃兎は煙を吐き出す。
吐き出された煙に、不安をのせて吐き出していく。
大丈夫だ。彼は不用意に人を傷つけるようなことを言わない。
二郎は優しく誠実な子だから、不倫などという行為に手を出すわけがないのだ。
銃兎は二郎の手のひらに自身の手を重ね、そうっと薬指をなぞる。
二郎の薬指にはめられた銀色の——二郎と銃兎の愛の証を撫で、優しく問いかける。
「私というものがありながら、そんなことを言う理由は何ですか?」
この指輪は、銃兎が覚悟を決めたから贈ったものだった。もう二郎を手放さないと誓って贈ったもの。銃兎の指にしっかりとはめられているそれが、二郎の指にも静かに光っている。
声が震えていないか心配だった。
二郎に不安を悟らせまいと必死になりながら、色の違う瞳を観察する。
「ぁ……えっと……」
瞳を伏せた二郎を見て、銃兎は歯がみした。
今、二郎が何かを諦めようとしたのを察してしまったからだ。
何かを言おうとして、けれどそれをこらえようとするのは二郎の悪い癖だった。
それは二郎と付き合うことを認めて貰おうと一郎に会いに行ったときにこっそりと聞かされたことだった。
『あいつ、大事なことは何も言わないから……何か困ってても、俺には絶対言わないんですよ。きっとこれから、あんたにもたくさん、言わないことがでてくる。俺は……そんな二郎を黙って見守ってた。けど、あんたにはそうなってほしくない』
一郎の朝日のような瞳と、二郎と同じ深い森の色がまっすぐに銃兎を見つめていた。
この男はずっと弟を守ってきた。もはや彼にとって二郎は自分の身体の一部のような存在だったろう。そんな大事なものを、一郎は手放す決心をしようとしている。
だから銃兎は、そんな一郎を安心させたくて言ったのだ。
『私は……これから先、いつまでも、彼と話ができるような存在で居続けます。隣で彼が困っていれば……手を差し伸べます。貴方の分も』
そう言うと、二郎の神様は優しく微笑んだ。
だから銃兎は、二郎が黙ってしまうのをそのままにしておくわけにはいかなかった。
あのとき彼に誓った約束を破りたくなどなかった。
銃兎は黙って二郎の顔色をうかがう。すると、二郎がテレビを指さした。
「あ、あんな風に……されてみたかったんだ」
「え?」
銃兎がテレビに目を向けると、そこで流れていたのは昼に放送されるドラマで、男と女の痴情のもつれを描いたものだった。
今、テレビでは男が女に言いより、そんな男を女が拒絶しようとしている。
貴方が好きだ、と囁く男の言葉を否定し、自分にも男にもすでに大事な人が居るのだからこんな関係はいけないと必死に拒んでいる。私には夫と息子が居るのだと告げている。しかし男はそれでも構わないと言って女と関係を持とうとしていた。
こんな風に、誰かに迫られてみたいのだろうか。
自分という者がいながら、それでも別の人間に求められたいのだろうか。
そんなことを銃兎が考えていると、二郎は言葉を漏らした。
「あんな風に……銃兎さんに、迫られたかったんだ……」
「私に、ですか?」
二郎は少しずつ言葉にして想いを吐き出していく。
「その、俺……ずっと、付き合う前も、付き合ってからも……なんか、俺ばっか銃兎さんのこと好きで、銃兎さんは好きでいるのはダメだって言い続けて……俺が必死だったから、銃兎さんはしぶしぶ俺と付き合ってくれた。今はきっと、俺のこと好きでいてくれてるんだろうけど……付き合ってた頃とか、付き合う前は俺ばっか銃兎さん追いかけてたから……だから……」
あんな風に、大好きだよと言われて、君だけしかいないと迫られて、絆されてみたかった。
それを聞いて、銃兎は頭を抱えそうになった。
そんなことはない、と声を大にして言いたかった。
何故なら、付き合う前から銃兎は二郎のことが大好きだったのだから。
しかし、そのときの二郎は幼すぎた。
高校生で、イケブクロの代表で、顔役だった彼の重荷になりたくなかった。自分のように光の当たらない道を歩む人間と交わって欲しくなかった。
あの頃の銃兎は、二郎と結ばれることが間違っていると信じて疑っていなかった。だから銃兎は二郎に想いを告げる気などなかったのだ。
しかし二郎は違った。銃兎が大好きだと告げ、付き合って欲しいと迫り、そばに居て欲しいと願った。そんな二郎の熱意に負ける形で付き合い始めてからも、銃兎はいつか来るであろう別れのことを思いながら付き合っていた。
当時のことを思い出し、銃兎は歯がみする。あの頃の銃兎は、二郎をひどく傷つけていたに違いない。あんなにひたむきに自分を思ってくれていたのに、それを踏みにじっていたのだから。
けれど少しずつ、二郎が大人になっていくにつれ銃兎は気持ちを変えることができた。
ずっと一緒に居たい。そう思ったから銃兎は二郎をヨコハマに呼び寄せ、指輪を贈ったのだ。
ここまで来るのに、銃兎は必死に葛藤してきた。けれどその葛藤は二郎には全く伝えていないことなのだ。見せるものでもないと思っていたし、この先銃兎一人で抱えていこうと決めていたのだから。だから二郎は、この指輪を受け取るまで銃兎が二郎を好いていないとでも思っていても不思議では無い。
ここで二郎の言葉を否定することは容易いかもしれない。
ずっと前から愛していたのだと言うのは簡単だ。
けれど二郎は納得しないだろう。
高校生の二郎を、二十歳になるまでの二郎を、あの頃の銃兎が信じなかったのは事実なのだから。
二郎は不倫という行為がしたいわけではない。入間銃兎という男に求められたかっただけだ。
だから、銃兎に迫って欲しいと願ったのだ。
「で、何故不倫になるんです? 今なら何度だって、好きだと言ってあげますよ?」
求められれば銃兎はいくらでも好きと言って、愛を囁いて、二郎を求めよう。そう思ったのだが、二郎は首を横に振る。
「その……本当はさ、なんも知らない俺を……銃兎さんを知らない俺を、必死に口説いて欲しかったんだ」
あの頃の、何も知らない俺を。
そう言った二郎は眉を下げ笑っていた。
何も知らない山田二郎。それは、かつて銃兎が大好きだと告げた高校生のことを指しているに違いない。
二郎は再び口を開く。
「けどさ、俺はもう銃兎さんを知ってて……銃兎さんが俺を好きだって分かってる。銃兎さんの愛し方、知ってるよ。だから、銃兎さんがそうやって迫ってくるなんて考えられないし……そんな銃兎さんはもう別人だよ。全然知らない人が、銃兎さんと付き合ってるオレを口説いて、それに俺が絆されるのって、なんかこう、えっと……うーん、なんか、不倫っぽいなって思ってさ。だから、俺、不倫してみたい」
二郎の容量を得ない言葉に銃兎はしばらく考え込んでいたが、やがてゆっくりと言葉を整理し始める。
「つまり貴方は、私という恋人がいる二郎を、求めて口説いてほしいということでしょうか」
「そ、そう! それ……!」
流石銃兎さん、と喜ぶ二郎を見ながら、銃兎は考え込んだ。
黄昏と緑の淡い森の色が、キラキラと瞬いている。
かつてほどの未熟さはなく、今や立派な青年へと成長した二郎。以前よりもずいぶんと落ち着き、けれど一度火が付くと烈火のごとく燃え上がり辺りを駆けていく番犬。
けれどそんな二郎は、すでに誰かのものになっているのだ。
そんな相手を手に入れる。
それはかつての銃兎には考えられない選択だった。それは許されないことで、二郎のためを思えば諦めた方が良いのは明白だった。それが正しいことだと思っていたのだ。
しかし、その行動は今このときだけは許される。
すでに誰かのものになり、手に入らなかった二郎を手に入れる。
どんな手段を用いても手に入れることが許された自分は、どうするのだろう。
銃兎は口元をほころばせたが、すぐさま手で口元を覆った。
いつの間にか短くなった煙草を灰皿に押し当て、銃兎は深く息を吐いた。
「……仕方ないですね」
「え!?」
二郎が瞳を大きく開き銃兎を見つめた。そんな可愛らしい仕草に口元をほころばせながら銃兎は応える。
「いいですよ。やってあげます」
さしずめ、不倫ごっこというわけですか。
銃兎はそう言うと、二郎はこくりと頷く。
「貴方も私も、すでに恋人がいる。けれど……そんな貴方を、振り向かせて、好きだと言わせれば良いのですよね?」
「う、うん……」
恐る恐る頷く二郎を見て、銃兎はすっと目を細める。
相手に好きだと言わせること、交渉術なら銃兎は長けている。
相手を誘惑し陥落すること。相手を揺すって自分の良い様にする方法を、銃兎は身につけていた。
目の前の山田二郎は自分のことが好きでは無い。
そんな二郎を自分のものにするために、どんな手段もいとわなくて良いのは非常に興味深い。
「少しだけ準備してきます。貴方は寝室へ行ってください。私が入ってきてから、その遊びはスタートです。それで構わないですか?」
二郎はゆっくりと首を