春の寿命は短い。冬との間に明確な境界はなく、そしてまたすぐ訪れる夏にかき消され誰にも知られず去り、死んでゆく。桜が咲き、その花びらが散ってから。その後どれくらいの間が春と呼ぶにふさわしいのか。毎年思いを巡らせる程に、春という季節は儚くそして去って始めて気付くような透明さを有している。
今年の春は、もうきっといってしまったに違いない。窓から吹き込む風はあたたかく、まだどこか肌にまとわりつくような感覚が残っている。例えるなら薄い膜、濡れて舌先にへばりつくオブラートに似ているかもしれない。
誰かが傍に寄り添っているようにも感じるそのあたたかさは、吹き込んだ風からは失われている。例年よりも僅かに桜の開花が遅かったというのに、もう春の面影はどこにもなく。どこからともなく吹く風は、夏へと移行しようとしている。
ああ、なんと残酷なことか。冬にはあれほど心待ちにしたはずの春は、訪れている間には気付けず。過ぎてから気付き、そしてまた穏やかな日々を求める。
傲慢極まりない所業だと思った。春に気付けなかったにも関わらず、苛烈で過酷な夏が訪れてまた手を伸ばす。身を切るような凍てつく寒さと、身を焼くような降り注ぐ日差しの中にいなければ春を形作れない。
待ち望んだ春に微睡み、笑むこともなく。そして音もなく消えようとするそれを引き止めることも出来ない。その様は滑稽と形容するより他にないだろう。
そうなのだ。人間、とりわけその中でも自身は。何者よりも滑稽な道化だと、男はただ漠然と自覚していた。誰かを笑わせることも出来ず、元気づけることも出来ない。
そんな、どこへ行っても失格のなり損ない。誰かへ笑われて生きることも、誰かを笑わせて生きることも出来ない中途半端な人生。道化と言うにはあまりにも生き汚く、人間と言うには芝居がかりすぎている。それが彼――黒銀実鷹という人間の歩んできた日々だった。
人間として不完全であることを理解しているが故に、綻びを繕いぱっと見は完成された人間であると見せかけながら。穴を隠しながら一日を誤魔化しで息も絶え絶えに生きる。それを気が遠くなるほどの年月繰り返してきた。
だからなのだろう。本来黒銀実鷹という人物がどんな人物像をしていたのかをすっかりと忘れてしまった。生きている限り、誰だってある程度は必要とされる人物像を演じるのだから些細なことかもしれない。
だが、黒銀のそれは心休まる場所ですら、誰かの目を通した黒銀実鷹という役名を捨てられぬ事と同義だった。現に今この瞬間ですら、恋人の前にも関わらず普段とそう変わらない様子でソファに腰掛けているだけだ。
「お前、そろそろ豆に合わせてミルのかけ方を変えろ。何度も言ってるだろ」
「あのね芹くん。ここは探偵事務所であって、喫茶店ではないんだよ。君は勝手に喫茶店扱いしてるけれど」
「それにしてもミルかけすぎだ、誰がこんなに細かくしろと言った」
「不満があるなら自分で淹れたまえよ……。私は生憎と暇ではないんだ」
「俺より暇だろ」
ごもっともな言葉に、黒銀はぐうと黙り込むより他になかった。目前、優雅な所作で黒銀の淹れたコーヒーを飲む男。黒のワイシャツと白のパンツという、無駄を切り落とした服装に身を包んだ彼こそ黒銀の恋人であった。
誰もが利用するSNSサービスを提供する会社の会長。若くして僅か数人で始めた会社を大企業へと成長させた人物。人生のほとんどを成功で飾られた人。それが黒銀の恋人、國島芹という人間だった。
通常ならばすれ違うことのなかった縁が、ほんの些細なことから交差し、もつれあって今に至る。そこに何の感慨もなかったわけではないが、それでも夢物語のようでならない。
目を覚ませば、手元になにも残っていないのではないか。今この瞬間だけ触れられる都合の良い幻覚だったとしたなら、今度こそ立ち直れないかもしれない。縁起でもないことを考えながら、黒銀はずくずくと痛む胸を数度指先で撫でた。
喪失を重ねたのはごく最近だ。その双方の中心は一人の人物で、目の前にいる國島の実の妹がそうだった。
生きたいと願いながら、自分以外を生かすために生を捨て出来の悪い嘘だけを残して消えた聖者のごとき人。そしてかの救世主のように蘇り、またその姿を消した人。國島葵と名乗ったその人物は、今なお黒銀の心臓の奥底へ楔を打ったままだった。
彼女が生者でないことは理解している。実際都合の良い夢のように現れた彼女は、既に自身が死者であると何の躊躇いもなく言い放った。一縷の希望に縋っていた黒銀にとっては死刑宣告にも似た言葉だったが、同時に肩の荷が降りたのも事実で。
黒銀のせいではない。國島や、彼の双子の兄にそうはっきりと赦されてはいたものの、黒銀には常にほの暗い罪悪感がついて回っていた。
自分が彼女を殺したのだと。それも助けられたはずにも関わらず、自分可愛さに見殺しにしたのだと。誰も黒銀を責めていないにも関わらず、妄想めいた自責が止まなかった。
それは救われないがゆえの足掻きだったのかもしれない。自分は救われるべきではないのだとただ漠然と思っていた。誰かの犠牲の上に自身が立っているのだと。救われてしまっては、その消えるはずの罪業が消えてしまうような気がしてあまりに恐ろしかった。
救われないのではなく、救われることを許されない。それはある意味で何よりも残酷な呪いであった。他の誰でもない自分自身が、この夜で一番許せない己を呪う何より強固な呪い。この世の誰にも解くことの出来ない、出来損ないのくせに何よりも悪質でタチの悪い呪い。それが黒銀にかけられた呪いだった。
この呪いを誰かに話すには、必ず彼女の話を話さねばならない。苦しみを自分以外の人物へ伝えようとするには、どう迂回しようとも必ず彼女のことに触れなければならない。苦しみと呪いの根幹。拳銃の引き金たる彼女という存在に触れる度、黒銀の心臓は射貫かれそして膿むように傷んだ。
鉛で穴を開けられ、そして切れ味の悪いなまくら刀でその傷を抉られる。治りの遅い傷は常にじくじくと泣くように痛み、汚らしく膿を垂らして腫れ上がって治りやしない。
不健全だった。この上ない悪循環に陥った自身をどこか冷静な視点でとらえ、そして嗤いながら。その実黒銀は永遠に辿り着かぬ安息の地を求め、底なしの沼で溺れそうになりながらも必死に足掻くより他になかった。
満身創痍でありながら、それを悟られぬように必死に隠し通しながら。黒銀は息も絶え絶えに毎日を生きていた。気を抜けば、細く続いたこの呼吸ですら簡単に途切れてしまうに違いない。確証はないものの、そんな確証が黒銀の中にはあった。
延命を望んだ覚えない。ただ生きなければならないという義務感で生きているに過ぎないのだ。その義務感が少しでも揺らげば、呼吸など数秒後には止まっている。黒銀にとって、生とはそんな苦役と同族の義務でしかない。
「俺が休みの日に、それぞれのまめに適したミルのかけ方をたたき込んでやる。依頼の入っていない日が出来れば俺に知らせろ。出来るだけ時間を作る」
「芹くん、そこまでするならもう君自身でコーヒーを淹れた方が確実で早いと思うんだけれどそのあたりはどう考えているのかな」
「そんな時間があれば仕事を片付けるが?」
「……ええ……。たかだか十分やそこらじゃないか……」
「たかが十分、されど十分だ。インターネットの本質で商売をしてるんだぞ、十分という時間でも巨額の金が動くだけ嗜好品に時間を割いていられるか」
「君、自分の時間を割くのは極力避けるくせに、私の時間を自分のために使わせるのはなんとも思わないんだね」
「暇なんだろ。持て余している時間を有効利用して何が悪い」
「……次からコーヒー一杯につきいくらかお金とってもいいんだぞ」
「なら喫茶店に行くだけだ、同じ金を払うなら本職のところに行くに決まってるだろ」
「……本当に芹くんはいい性格をしているね。流石はインターネットで食い扶持を稼いでるだけあるよ」
「全面的な褒め言葉として受け取っておいてやる。他に意図があっての発言なら、俺はそれ相応の言葉を返すぞ」
涼しい顔をしてコーヒーを口にする國島へ、これ以上は何も返せなかった。悪意へは同等以上の悪意を惜しみなく、そして容赦なく返す男だ。敵を作りやすいハッキリとした生き様をしていることを知っているだけ、その切れ味の良い刃が自身へ向けられることがどうにも怖かった。
どんな人間へ対しても、特別目をかけることも過度に虐げることもない。ある種究極の平等を地で行く國島の理路整然とした言葉は、的確に自身の胸を抉るだろう。柔らかく脆い臓器を再起不能なまでに自覚なくいたぶられることを思えば、反論があったとしても押しとどめておくのが得策だろう。
生きながらえたくはないが、必要以上に死に急いでいる訳ではない。心の奥底で薄らぼんやりと死を望んでいるものの、それが鮮やかなまでの色合いを孕んだ物でなくていいのだ。誰にも知られず、燭光が揺らぎ消えるようなとりとめのない死がいい。
きっと死に絶える時は、未練と成し遂げられなかったことへの後悔でぐちゃぐちゃになるのだ。生に未練も執着もないが、その人間じみた汚らしいところを見られたくはなかった。
猫が死期を悟ると飼い主から離れていくというのは、そういう心境なのかもしれない。猫がそこまで考えているとは到底思えないが、本能的にすり込まれた他人の視線から逃れて死を迎えるというのはそういった理由が根底にあるのかもしれない。
動物の中で唯一社会を気付く動物であるがこそ。死という物は、その他の動物以上に大きな意味を持つ。昨日は世界の裏側で、今日は車で数十分の見知った街で。いつ誰が死んで、殺されたかを簡単に把握できてしまうがゆえにその意味は薄れつつあるものの。死とは、恐らくそれだけ多くの意味を内包した絶対的現象なのだ。
いつかは訪れる終わりだが、出来るならその終わり方を選べたのならいいのに。心の隅で常にそんな我が儘を育みながら、黒銀はそっと音もなく視線を手元のカップへと落とした。
「……別にね、君のために時間を使うのが嫌だとかそういうんじゃないんだけれど」
「ならなんだ」
「私は意図しなかったとは言え、君の妹を死に至らしめてしまった。……君には一生恨まれるのだろうけれどね、私はつい先日までここで葵くんとなんでもない生活を送っていたんだよ。血の通ったあたたかい身体をした葵くんが、ここで息をして笑って日常を送っていた。死んでるなんて思えない自然さで、彼女はここで」
「だからどうした」
「……え?」
「葵がここにいたからなんだ。まさかアイツがここにいることを俺に知らせなかったことを俺が怒るとでも思ったのか」
「葵くんは君の……」
「妹だが? 妹だからこそ、分かることもある」
「なにを……」
「俺も皐も、葵が選んだ選択を否定もしないし口を出さない。葵が自分で選んだ選択は、アイツがアイツなりに考えて選んだ葵なりの最善だ。その結果と、不随する言動に俺が含まれていなかったとして何を怒って恨む必要がある」
「芹、くん……」
「俺達と葵を舐めるな」
――罪悪感で死にそうになっていたのは、お前達だけだろ。