気を失うような酷い微睡みだった。背を下に谷を落ち続けるような浮遊感で、永遠とも思えるその空間におぼろげな意識を優しく吸われていった。一方でそれは殴られたように強い眠気だったので、遊び疲れた子どものように、或いは事切れた人間のように、喉を無防備に晒してメロは窓に頭を預けた。
 その日はこと陽が強かった。意識が事切れる前にメロは顳顬に汗の滲むのを感じた。この辺りは雨が多く、湿気にむかむかするばかりで、心地の良い陽の暖かさというものはよく分からない。酔った父親が買ってくるのはたいていどこかの国のまずい菓子か、冷えた缶詰を投げつけられるかだった。スリをしようにも手製のホット・パイを持ち歩くやつなどいない。殴られるのには慣れても、空腹はいつまでたっても辛かった。しかしその日はなんとなく陽の光が心地良いように感じた。腹が膨れる以外で充足感を得られるのは初めてのことだった。
 “そこ”はライム・レジスだった。正確には、メロの想像するライム・レジスの海だった。メロは初めて見る海の色と音を前に立ち尽くしていた。そこは見る限り吹きさらしの岬が続いており、何もかもが穏やかで、海面がひときわ眩しかった。メロは好きなだけ太陽を見て目を焦がし、濡れた砂浜に寝転んだ。陽の光をたっぷり吸ったそこはとても暖かく、また柔らかかったので、メロは砂場に頬をつけてぼんやり微睡んだ。
 読み書きを覚えたくて駅前に捨てられていた小説を持ち帰ったことがある。その小説に、夢のように美しい海辺が出てくるのだ。それがライム・レジスの海だった。中身はまさしく女の書く長編小説だったが、メロの故郷の喧騒や雑踏、ひどい匂いや泣き声などといったものとは無縁の世界であったため、メロは以降やたら覚えていた。
 投げ出した腕に小波があたり、また向こうへと帰っていく。その波の応報はいつまでも見ていられたし、見ていたかった。
 大きな衝撃でメロは目を覚ました。がくりと頭が揺れ、まわる目を瞬かせた。それは突然引っ張り上げられ陸上に投げ出された魚のように唐突だった。眼前の老女がメロの襟首を掴もうと手を伸ばしたので、メロは反射的に飛び退いた。
「ウチの前は浮浪者の寝ぐらじゃないんだ」
 老女が杖を振るって声を張り上げるのを背中に聞きながら、メロは歩き出した。
 ありふれたことだった。
 目を擦りながら歩き出すと、腹が減っていたことを思い出した。思えばもう二日と半日は何も食べることができないでいる。通行人の財布をする体力もなかった。一番近いドラッグストアは盗みをしすぎて顔を覚えられてしまっている。壁に手を突こうとして、右腕に強烈な痛みを感じ、嘔吐した。顔を上げると煤にまみれた窓があり、鼻血や口から出た血が乾いて顔のあちこちに張り付いているのがぼんやりと映った。頬や目はぶざまに腫れ、口内は思い出したかのように再び痛みを訴えはじめた。
 しんしんと数日前のことが思い出されてきた。先日財布をすった男が物見遊山に来たマフィアの幹部で、メロは遠くで見張りをしていた部下三人に連れ出され、気の済むまで殴られたのだった。腕を切り落とされそうになったが、機嫌がよかったのか、折るだけで良いと言うと男はそのまま立ち去った。部下の一人がメロをうつぶせに押さえつけ、もう一人が腕をひねり上げた。初めから叫ぶつもりも助けを乞うつもりもなかったが、子どもが物乞いに身を窶していても、囲まれて殴られ蹴られしていても、女が犯されていても、この街の人々は気にも留めなかった。いつものことだったからだ。みんな明日をも知れぬ身を、娘さえ売りながらその日暮らしで食いつないでいた。
 また日が暮れると冷えた夜になる。家に戻ると薄い床は軋み、隙間風が空気を鳴らすのは毎度のことで、それで父親の機嫌が悪くなるのはもっと嫌いだった。そろそろ彼が起き出す頃だ。
 風が強い。落書きや小便で汚れた壁に背をつけて座り込んで痛みを忘れようとする。
「“終わったのだ! 終わったのだ! 最悪の事態は終わったのだ!”」
 メロは笑いながらあの小説の一節を吠えた。吹き晒す風が砂埃を伴ってメロを襲った。メロは風に髪を暴かれながら、ライム・レジスの海を夢のように想像した。身体中の傷が潮風を浴びたように痛みを増した。
カット
Latest / 17:09
カットモードOFF
文字サイズ
向き
チャットコメント通知
テスト/二次創作を書くよ
初公開日: 2020年04月02日
最終更新日: 2020年04月02日
ブックマーク
スキ!
コメント
デスノートワンドロよりメロの投稿の加筆修正をする テスト配信