「傷痕ばかりで嫌になるかな」
腕にいくつも刻まれた、無惨に裂けた跡をそうやってなぞる。
無表情ではなかった。少しだけ眉を寄せて、困ったのか途方に暮れたのか、それとも怖がっているのか、判然としない色だった。
シルヴァンは寝台に布団を丁寧に延べていた手を止める。
「どうしたんです、急に」
「いや、その。別に理由は無いんだけど」
この人は、嘘を吐くのが下手になった。
感情をまっさらに漂白しきった顔で、平気で冗談を吐くことなどもう二度とできはしまい。たとえば一緒に寝たいと己がねだったときの、構わないよ、と答えてくれたときの柔らかい微笑みは、薄く透き通った花弁に似ていた。
「……やっぱり長袖を」
「馬鹿を言わないでください、布団の中でのぼせる気ですか?」
うろ、とさまよった手が衣装棚に伸びかけて止まった。外では夏の虫が愛を求めて鳴いている。薄い掛け布団の綿で熱中症になるなんて笑い話にもならない。
「はい準備できましたよ、どうぞ」
「……この部屋の主は私だったような…………」
通いすぎて色々逆転していることにどうやら気づいてしまったらしい。さらに難しい顔で悩み出した教師をシルヴァンは適度にいなして布団に促す。剥き出しのままの白い腕を引くと、結局はすんなりと布団の中に収まってくれた。
ぎしりと寝台が軋んだ。
当然ながら一人用の、二人寝転がることなど想定していない大きさである。なまじ乱入してきた人間が大柄なものだから、そのうち真ん中からばっきり折れてしまうんじゃないか、とシルヴァンはこっそり懸念していた。自分が来るのをやめるという選択肢は無い。
隣に横臥したベレスの、細い指がまだ傷痕をなぞっている。腕を組むようにして、引き攣れた痕に爪を立てている。
──ああそれだけはやめてくれ。
「跡になってますよ、ほら」
性急にならないよう注意を払ったつもりだったが、それでも引き剥がす手は焦っていた。
傷痕から剥がした彼女の手を、己の手でつつんで安置する。安堵で思わずため息が漏れた。傷ができるところなんて見たくなかった。
翡翠色がほんのわずかに見開かれて、逃げるように瞼が伏せられる。
引き結ばれた唇が何か言おうとして、また閉じて、瞳と同じく何も言わぬのに何かを訴えているようで。
「……何か、ありました?」
囁くみたいに、柔らかく尋ねてしまったのだ。
翡翠がいっそう隠れて、ついには閉じて見えなくなってしまう。
答えたくないと意固地になっている訳ではないのだ、とシルヴァンは気づいた。
迷っている。打ち明けるか否かを必死で思案している。
この人がそう、悩んで心を砕くなら、きっと。
「俺に関わること、ですか」
今度こそベレスは瞠目した。
視線が逃げる。逃げきれないのにあちこちさまよって、たっぷり十秒。
とうとうシルヴァンを見てくれた双眸は、恐る恐る、叱られることを覚悟した子供のようだった。
「……今日、町で」
「はい」
「あなたと以前懇意にしていたという女性に、話しかけられて」
「…………」
目眩がした。
叱られるのを覚悟すべきは己の方であった。懇意なんてやんわり包んでも意味が無いのである。
誰かなあ、と想像しようとして、やめた。一つだって顔が浮かんでこなかった。
「……シルヴァン?」
「いやあの何でもないです。あっ違う何でもなくない。すみませんごめんなさい、許してほしいとは言わないんで怒ってくれて構わないんですけど」
しどろもどろ、今度は逃げる側になったシルヴァンに、しかし教師らしい説教は飛んでこなかった。
代わりに。
「えっと、その女性が、結構綺麗な人で。『私ですら捨てられたんだから、あんたみたいな傷だらけの醜い女なんかすぐに捨てられる』と」
「……は?」
吐き気のするような、醜悪な言葉が降ってきた。
頭どころか全身を金槌で殴られたみたいだった。
「元々見えるところにもそれなりに傷はあったし、五年前とここ最近で余計に増えた。だからそう言われても当たり前なんだけど」
もう一つたりともそんな言葉は聞こえない。聞きたくない。
ざりざり、耳の中で騒音がする。肌の感覚が遠くなる。握ったままのはずの、手から伝わる体温が分からなくなっていく。
「だから、もしこれがあなたにとって『醜くて』嫌なものだったら、それは」
──怖いと、思った。
一度迷って、最後にぽつりと。
小さな小さな告白が、敷布に落ちて跳ねることもできず、ころんと二人の間に転がった。
シルヴァンは黙った。否、一言も発せずにいた。
まず初めにその女に対する怒りと殺意で頭の中が真っ黒に塗り潰され、そこにベレスの言葉がようやく入ってきて、何とか思考が動き出した。