Bitter sweet
「―――八戒さん」
市場で買い物をしている途中で呼び止められ、八戒が振り返ると長い黒髪を綺麗に結い上げた小柄な女性がこちらへ駆けてくるのが見えた。
すぐ側までやってきた女は抱えていた荷物を持ち直し、人好きのする笑顔を浮かべた。
「こんにちは、明琳さんもお買い物ですか?」
明琳はこの近くにある料理店の女主人だ。
大人しそうな外見からはとても想像できないが、酒場に入り浸っている男たちが束になってかかっても敵わないほどの酒豪で、男勝りな性格の持ち主である。
また情に厚く、どんな相手にも分け隔てなく接するところから彼女を母親のように慕っているものも多い。年中肩を怒らせている街のゴロツキ共も彼女の手にかかればただの悪ガキ扱いだ。
八戒とは店の常連客であった悟浄を通じて知り合い、次第に言葉を交わすようになった。
「今日は個人的な買い物をね。店の方は常連客が一人いなくなったおかげで随分と楽になったことだし―――ホント、いつ家に帰ってるんだか分からなかった悟浄が今じゃちっとも店に寄り付かなくなっちゃって、人間あそこまで変わりゃ大したモンよ」
「あはは、そうだといいんですけど…」
自他ともに認める女好きである悟浄の同居人というだけで、冗談にしろ本気にしろ二人の関係を誤解するものは少なくなかった。
最初のうちは事実無根であると否定していた八戒だが、それも面倒になってきた今となっては笑って聞き流すようにしている。
事実がどうあれ、周囲の人間たちは口で言うほど他人の関係など気にしていないものだ。
「そうだ。これ、八戒さんにあげるよ」
「これは?」
「この時期だしさ、一人じゃ買いづらいでしょ」
「はぁ…ありがとうございます」
彼女が一体何のことを言っているのか分からず、疑問符を浮かべたまま差し出された包みを受け取った八戒は「頑張ってね」と言い残して足早にその場を立ち去る明琳の背中を見送った。
手渡された包みの中にはチョコレート菓子を作るための材料が入っている。
八戒が菓子作りをすることは明琳も知っているはずだが、何故これが「一人じゃ買いづらい」のだろうか。そう悩みながら歩き出した八戒の目に見慣れない看板が飛び込んできた。
【2月14日は聖バレンタインデー】
どうやら笑って聞き流している間に明琳の誤解は間違った方向に進展していたらしい。
看板を目にした八戒は包みの中身を確認せず「ありがとうございます」などと言ってしまったことを後悔したが今更包みを彼女に返すわけにもいかず、深いため息をついた。
バレンタイン商戦が本格化する2月上旬の風はほんの少し苦く、冷たかった。
(……困ったなぁ)
3世紀頃、ローマの皇帝クラウディウス2世は兵士が家族を持つことで死を恐れ、軍の士気が下がることを危惧し、兵士たちの結婚を禁止する。
当時、ローマで禁教とされていたキリスト教の司教であるバレンタインはそんな兵士たちを憐れに思い、密かに彼らの結婚式を執り行っていた。
その事実を皇帝にしられた司教は2月14日に拷問の末、処刑されてしまう。
以来、バレンタインの殉教を讃え、彼を愛の守護神として崇めた人々はその命日を『恋人たちの日』として、いつしか贈り物をし合うようになったのだという。
「―――恋人たちの日、ですか」
悟浄と八戒がいわゆる肉体関係に至ったのは数ヶ月前のことである。
その日は朝から雨が降っていた。
夜になると雨は更に激しさを増し、窓を叩く水音が過去の記憶を呼び覚ました。
少し頭を冷やそうと傘も持たずに外へ出た八戒が一人雨に打たれていると、同じように傘を持たずに帰ってきた悟浄と鉢合わせ、気が付くと彼の腕に引き寄せられていた。
驚く間もなく骨が軋むほど抱きしめられ、噛みつくような口付けを交わして。
そこから先のことはよく覚えていない。
あれ以来、雨の降る日に彼と肌を重ねるようになったが、それ自体に意味などなかった。
悟浄は己の欲を満たし、八戒は昏い過去を打ち消すために互いを利用しているに過ぎない。
八戒にとって彼は命の恩人で、気の合う同居人でもあるが恋人と呼ぶには程遠く、かといってただの友人という訳でもない曖昧な間柄といったところだ。
しかし、バレンタインデーに贈り物をし合うような関係でないことは分かっている。
悩んだ末に八戒は明琳から受けった包みを台所の戸棚に仕舞い込んだ。
+++
掃除中の八戒が同居人の部屋で見慣れない紙袋を目にしたのは2月14日のことだった。
部屋の主は珍しく朝早くに起き。出掛けてしまったため不在である。
ベッドの脇に置かれた紙袋は大きく口を開け、中からは綺麗にラッピングされた箱が溢れんばかりに入っているのが見てとれた。
言わずと知れた悟浄宛のバレンタインチョコだろう。これはお返しが大変そうだ。
悟浄の場合、お返しは体で払えば済むといったところだろうが、これだけの量をこなすとなると一体いつまで掛かるのやら。女好きの彼と言えど、ご愁傷様と思わずにはいられない。
八戒はそこで数日前に明琳から渡された包みの存在を思い出したが、悟浄宛のチョコレートがこれだけあるなら男の自分から貰うチョコレートなど嬉しくと何ともないに違いない。
明琳には申し訳ないが、あの包みはバレンタインデーが忘れ去られた頃に八戒の教え子の一人でもある悟空への差し入れとして使わせて貰うことにしよう。
その日の夕方。八戒がいつも通り夕食の支度をていると、玄関の扉を激しく叩く音がした。
扉を開くと、両手に紙袋を抱えた同居人が立っている。
家の中へ入った悟浄はダイニングの椅子に紙袋を置き、やれやれといった様子でこちらへ向き直すと、後ろポケットから取り出したものを八戒に投げて寄越した。
それはセロファンとリボンに包まれた一輪の赤い薔薇だった。
「花屋の親父が持ってけってうるさくてよ、だからお前に…」
「―――僕に、ですか?」
「他に誰がいるっつーんだよ…ったくガラでもねぇ」
そう言って照れ臭そうに頭を掻く悟浄の様子にふっと笑みがこぼれた。
少しの間をおいて八戒の頬が熱を上げ始める。
自分の身に何が起こっているのか分からない。泣きたいような、それでいて気恥ずかしいような不思議な気分だった。
真紅の花ひとつにどれだけの思いが込められているのかを想像しただけで胸がいっぱいになる。
昏い過去を持つのは八戒だけではない。目の前の男もまた拭い去れない記憶を抱えているのだ。
受け取った花をそっと胸に抱いた八戒は精一杯の笑顔を返した。
「悟浄、ありがとうございます」
「あ―――そうだ。コイツ運ぶの手伝ってくんねぇ」
そう言った悟浄が今しがた抱えて帰ってきた紙袋を指さした。
紙袋の中から顔を覗かせているラッピングされた箱の中身は聞かずとも想像がつく。
自分宛てのチョコレートを一体どこへ運ぶというのだろうか。
「町のねぇちゃんたちからクソ坊主と小猿ちゃんに、だとよ」
「……え?」
「部屋にあんのと合わせたら一人じゃ運べねぇんだよ…ったく、猿はともかくあの生臭坊主のどこがいいのかねぇ」
「それ、貴方宛てじゃなかったんですか」
「俺宛?ある訳ねーだろ、そんなモン。器用貧乏な薄幸美人のせいで『八戒さんの作ったチョコと比べられるなんて冗談じゃない』とか言って誰も寄り付かねぇっての」
悟浄の言葉に八戒は耳を疑った。
彼宛だと思っていたチョコレートの宛先は全て三蔵と悟空だったのだ。
朝早く呼び出された悟浄は二人宛のそれを受け取りに行っていたのだという。
そこでようやく八戒は自分が思い違いをしていたことに気付いた。
しかも、悟浄が誰からもチョコレートを贈られないのは八戒のせいでもあるらしい。
「―――それで?八戒さんは足が長くて超カッコイイ誰かさんに何かこう…甘いものをあげたくなったりしねーのかよ」
「すみません、てっきりこのチョコレートが貴方宛てだとばかり…」
「まぁ、ないならないでいいけどよ」
謝罪の言葉を口にすると、悟浄には明らかな落胆の色が見えた。
八戒にとって彼は命の恩人で、気の合う同居人でもあるが恋人と呼ぶには程遠く、かといってただの友人という訳でもない曖昧な間柄であることに変わりはない。
バレンタインデーに贈り物をし合うような関係でないことは分かっている。
だけどもし、彼がそれを望むというのなら―――。
「ちょっと待っててください」
そう言って台所に立った八戒は冷蔵庫から牛乳を出すと、鍋に150cc入れてそれを中火にかけ、
次に戸棚から明琳に貰った包みを取り、板状のチョコレートを細かく刻んで20g加え、泡立て器で絶えずかき混ぜながら温めたのち沸騰寸前で鍋を火から下すと、こし器をつかってカップに注ぎ、仕上げにリキュールを少し垂らした。
出来上がったホットチョコレートをダイニングで待つ悟浄の元へ運ぶ。
「どうぞ」
「お、おう…わざわざ悪りぃな」
マグカップを傾けてホットチョコレートを口にする悟浄の姿をじっと見つめる。
また頬が熱を上げ始めた。何だかとても照れ臭い。
先ほど受け取った花が悟浄から八戒への、そしてこのホットチョコレートが八戒から悟浄への贈りものということになるのだろうか。
バレンタイン商戦が終了する2月中旬の風はほんの少し甘く、暖かいものとなった。
- The end -
※ご視聴ありがとうございました。
誤字脱字はご愛敬ということでお許し頂ければ幸いです。