装飾的な吻は言い訳に過ぎない。
しかしながら、相手との距離を測る為に定規として使うには持って来いなのである。
「イルカさん」
唇の淵同士を合わせ、小さな息を吐く。
間近で見るとカカシの疵は細かく糜爛した余蘊があり、時間を掛けて乾涸びた茎めいていた。
実際にそうなのであろう。
疵になるまでには時間が掛かっているに決まっている。
昨日今日の事じゃないものを疵と呼ぶ。
カカシは
咄嗟に、梓杖を持って行こうと思った。
イルカにとって久しぶりの里外任務と相成った。アカデミーが冬休み期間なのである。
霧隠れの里の方角にあるサナトリウムに行かなければならない。それも今直ぐ発たなければならなかった。
時間がないのだ。
何でも、チャクラ切れを起こした暗部の上忍が一人転がり込んでいるらしい。
怪我もしている可能性もあるし、事は一刻を争う。
他に持ってゆかなければならないものは恐らくあったであろうが、取るものも取り敢えずイルカは部屋を出た。
冬の空は星の数が多い。小さな星までクッキリと見えるから、星の家族が多くなる。
資料を見る限り、長期保養所のサナトリウムはかなり複雑な地形に建っている。
もしかすると、現地に到着出来るのはどれだけ急いでも明朝を過ぎるやも知れない。
里の忍である限り任務は遂行しなければならないと懸命に尽くした暗部の上忍を想う。
蓊蔚とした松林。
洞のある大岩。
渓流から流れる潺も研ぎ澄まされ澄徹としている。
かなり移動した。
空が白み、冬の早朝特有の尖った芳りがイルカの鼻孔を洗ってから、どれ程の時間が経過した事だろうか。
全身が泥臭く、体力の消耗をヒシヒシと実感する。
もう15時間近くは休みなしに移動している。
気が付けば、里を出て丸一日が経過していた。
梓杖を持って来て正解だったと言える。
日が沈めば気温が非常に低い。
地図の目標地点は山と呼ぶよりむしろ崖と呼べる場所であった。
標高が高く、霧隠れの里のずっと先まで見渡せる。光が集中している箇所が点在している。
それらの光は、ただの光源ではない。人が寄り添い合う温かみが存在する事を意味している。
そうして、イルカは里から離れた保養所に足を運び入れたのだった。
文字通り、僻地である。
イルカも初めて来た場所だ。
木の葉隠れの忍でしか潜れない結界が幾重にも張ってある。
古めかしいテラコッタ造りの建物には蔦が生い茂り、煉瓦や塀は木々と同化し始めていた。
幽邃たる風格さえ纏っている。
恐らくは二代目の頃の産物か。
近くには大袈裟な程大きな水車とトーチカ、朽ちた見張り台も点在している。
「着いたか…」
イルカは軒先に梓杖を置き、玄関のブザーを押す。
そのまま重厚な扉を引いて中に入った。
「失礼します」
扉を潜り中に入ると、天井が高いので声が反響する。
懐中電灯で天井を照らせば、そこは半円状のドームになっていた。
「どうも」
小さな声のする方向にライトを向ければ、ソファに長い足が放り投げられていた。
「救護のものです。到着しました」
「失敬、…忝い」
眠っていた様子だ。
覚醒しきれていないで声が籠っている。
「今日からお世話になります。中忍のうみのです」
イルカは頭を垂れて自己紹介を終えると、男に歩み寄って抱き起す。
「本当に忝い」
しろがね髪の器量良しが紺瑠璃の色をした右眼だけを動かして詫びる。声は覇気がなく、今にも消え入りそうだ。
「大丈夫でしたか?俺は医療忍者じゃありませんが衛星係を長く戦地でしていました。任せて頂いて大丈夫ですよ」
「ありがとうございます…」
「外傷や自覚している症状はありますか?」
イルカは言葉を掛けつつ暗部の足首や耳の後ろを触った。
氷のように冷えた皮膚。ぐったりとして電源が切れている感触さえ伝わって来た。
「チャクラ切れかなと…」
暗部は小さく「申し訳ない」とごちた。
「貴方を驚かす訳じゃないですが体温がかなり低いです。コレ、脇に挟んで下さい」
イルカは携帯カイロを男に差し出した。
「どうも…」
「暖炉、薪入れて温めます」
イルカは折っていた膝を伸ばして踵を返す。
一見、このサナトリウムも忘れ去られた施設のようだが、誰かが定期的に来て手入れをしているようだ。
暖炉の傍には乾いた薪が鎮座している。
一先ず今夜は休んで、明朝にブレーカーやガス、水道の具合を確認したら良い。
暖炉が橙色になると、イルカは暗部の寝そべっているソファごと動かして暖炉の近くに寄せた。
「貴方みたいな人が来てくれて良かった…」
この暗部は遠慮がちに笑う癖がある。
「はは…どう言う意味ですか?」
イルカは笑って科白する。
「話がしたい」
暗部は首だけ傾げて物欲しげな視線を靡かせている。甘えたい雰囲気が揺蕩う。
もしかすると、里の者と話すのも数年ぶりなのやも知れない。
立派な暗部の上忍だのに、親を亡くして頼りをなくした子のようだ。
イルカは暗部の指先をそっと撫で、「ホットウイスキーでも作ります」と侍る。
そうして、バックパックからマシュマロを出すと、串刺しにして火で炙った。
マシュマロが焼けて丁度、即席のショットの器となるのだ。その中にウイスキーを注ぐ。
「クラッカーとフリーズドライ・チーズしか肴がないですが…」
イルカは暗部の寝傍るソファに腰掛けて、完全には起き上がれない暗部にウイスキーを手渡した。
「酒とか半年ぶり」
暗部は舌をベッと突き出して琥珀色の中に泳がせている。
莞爾として嬉しそうだ。静かだが愛らしい眄視である。
「染みる…」
「此処はかなり冷えますもんね」
天井が高く、床が石造りなので外よりも冷える印象だ。
「ええ。だから余計旨いです」
「ふふ」
名前も知らない暗部の上忍なれど、人は人なのだなとイルカは内心、喜んだ。
*
人肌の温かみは独特のものがある。
『抱きしめて寝て貰えますか?』とリクエストがあり、イルカはそれに従った。
孤独な任務だったのか、人恋しそうだ。
バックパックに紐付けて持って来たブランケットに暗部を包み抱きしめて眠れば、暗部は良く眠った。
呼吸に起伏があるように体温にも柔らかな起伏が付いている。
「良く眠ってる」
定期的な呼吸を繰り返す暗部の顔を改めて眺めた。
昨晩は暗くて良く分からなかったが、泥を被ったのか酷く汚れている。
風呂に入らせてやった方が良い。
それにしてもハッと目に留まる洒脱な風采の持ち主だ。
顎も鼻も薄く尖っている。
女貌なので顎や鼻の造形が繊細なのだ。
磁器肌のように肌理も細かで、整っている。
薄い唇とその傍あるホクロの得も言えぬ婀娜っぽさにも目を奪われる。
髪は値の張るボンボニエールのようなしろがね。
長い睫毛までくっきりと白い。
爪まで栄耀栄華を極めた造りである。
左目には大きな疵が奔っており、そこだけが切り取られたかのように凄味が奔る。
「人形のようだ…」
見惚れてしまったイルカは無意識の内に、その口元にソッと触れた。
其処は依然としてシンと冷えている。
介助なしで立って歩けるようになるまで少なくとも後三日は掛かる。
荷物を纏めて此処を発つまで一週間は掛かるだろうし、此処から移動して里に帰還するまで三日は見ておいた方が良い。
幾度かは物資調達が必要だ。
幸いにも此処はサナトリウム施設だ。保養の為の設備が整っている筈である。
ブレーカーを上げるにしても、館内を探索しにゆかなければ始まらない。
イルカは昨晩から付けっぱなしにしていた懐中電灯のスイッチを切って伸びをした。
朝方だからまだ水道管が凍っているかも知れないが、まずは行動だ。
イルカは暖炉の脇にある重厚な木製扉を引いた。
談話室みたいだ。
電子チェンバロとマンドリンが部屋の隅に置いてある。
此処の天井は入口のピロティと違って天井が低い。
低い天井に子供部屋用のペンライト照明が引っ付いているので部屋自体がより小さく狭く感じる。
絨毯が引いてあって綺麗なものだ。サボテンや観葉植物が窓際に置かれていた。それも枯れていない。
イルカは談話室の隅にある扉を更に開けて奥へと進む。
リノリウムの床が急に病院臭い。冷ややかな長い廊下が続いていた。
右手側に五室部屋がある。
恐らくは患者用の個室だ。
イルカはその一室のノブを捻って入ってゆく。
明るく寛い部屋だ。それも塵一つない。
寝台のシーツも真新しいものが几帳面に畳まれて置かれている。
布団を干して今すぐに使える室内だ。
一面の窓から中庭が見えた。温室もあるらしい。
反対側の棟には食堂があるようだ。その様子が窓越しに見える。
イルカは再び廊下に戻って進む。
その行き止まりは食堂棟と繋がっており大きなサンルームが広がっていた。此処でサナトリウム患者は日光浴をするのではないか。
壁には取って付けたかのようにブレーカーがあった。
全てをONにすればゴウンゴウンと何処からか音がし、館内の電気が全て点灯する。床暖房装置でもあるのだろう。床の中で通電している感覚がサンダルから伝わって来た。
サンルームには引き戸があって中庭に出る事が可能だった。
イルカは病室に一度布団を取りに戻って、中庭で広げて干す。
途中、温室を覗けば、中は美しく手入れが行き届いており、蘭が数種類栽培されていた。
中庭に通じる引き戸とは真逆にある扉には曇り硝子が嵌められており、その中は小さな脱衣所とトイレ、そしてその先にはピロティと同じような天井の高いデザインの浴室が広がっていた。
シャワー室も浴室も同じ空間にある。
銭湯とも湯治場とも違った病院特有の禁欲的な雰囲気がある。
白い施術台がそうさせているのかも知れない。
先程入れたブレーカーは外の水車と連動しているらしい。
巨大な浴槽に湯が張られ始めている。
イルカは来た方向とは別の方向に歩いてゆく。
厨房も食堂も美しく整えられていた。
食堂には二つの暖炉があり、それぞれの縁には写真が飾られている。
いずれも全く里で見覚えのない子供らの写真だ。
二つに分かれた写真群を良く観察してみると、片方は蠟燭やベルに囲まれて額縁も豪華に装飾されている。
もう一方は粗末なもので、がらんどうのスペースに二つの写真しか飾られていない。
何かしら分けているのだろう。
一つを手にしたイルカは、額から写真を外して裏を見た。
『キノエ 五つ』と鉛筆書きされている。
「誰…なんだろう…」
イルカは単純な疑問を口にする。
写真を額に直して改めて写真の中の子供を見る。
子供にとって晴れの日のようで、赤飯や鯛の塩焼きが手前側に置かれている。
背景からしてこの食堂で撮影された写真のようだった。
その子供は己がこの世界の誰かに取って大切な『何か』である事を明言して欲しいとでも言いたげな表情を浮かべていた。
今日で終わり…の人生を毎日繰り返している老人のような表情とも似ている。
─頼りない。
この子供は知らないけれど、この子供の気持ちは良く知っている。
イルカ自身も両親と言う後ろ盾を失った折、陥った感情だ。
イルカは写真を元に戻してソッと手を胸元で抱いた。
大きな貯蔵庫には缶詰やレトルトに加え、鹿肉のベーコンや干無花果米など日持ちするものが並んでいる。
珈琲や葡萄酒などもあった。
管理はシーツを畳んでいる人間と同一人物の筈だ。
燻製やジャムの類はジップロックでピタリと真空され、年月日とグラム数が几帳面な文字で書かれている。
イルカはケトルを取り出して蛇口を捻り、湯を沸かす。
珈琲を淹れて入口ホールにいる暗部の元へと持って行ってやる。
暗部は薄めを開けて覚醒しつつあり、微睡みを愉しんでいる。
どんな境遇であれ、生きている限り睡眠と言う名の快楽が約束されているとは感慨深い。
「ン…」
暗部は身を捩って肩を竦める。
「おはようございます…珈琲、飲みますか?」
「…うん」
子供が甘えるように暗部はイルカの袖を引っ張る。体勢は自力じゃまだ変えれないらしい。
「おっと…はい、どうぞ」
イルカは釣られてソファに尻をバウンドさせた。
「ありがと」
マグカップを受け取った暗部は黒い上澄みを啜った。
暗部の瞳の形は眼窩淵の上弦が独特に窪んでおり、その窪み眼が厭に色っぽい。
「風呂がありました。介助するので、…風呂、入りましょうか?」
「積極的なのね」
「え?」
イルカは思わず聞き返す。
「裸…見せてくれるんでしょう?」
暗部はイルカを上目遣いで見やる。
イルカがギョッとしていると「いえ、何。冗談です」と暗部はごちた。
手が届かないものを強請るような瞳が、随分とおぼこく見えた。
「ふふ、可笑しいです」
「何が?」
「頼りない天使みたいに見えたから」
アカデミーの生徒らはイルカに取って頼りない天使のような存在であった。
「…っ、そう?いやぁ…ハハ…」
暗部は右目をハッと緊張させてから、溶けるように細める。褒めた訳じゃないけれど、彼は誇らしげにしている。
「不思議です。俺より立派な貴方な筈なのに、子供みたいに見えてしまって…つい…」
マグカップの湯気を貌にくゆらせながらイルカが破顔すると、暗部は遠い対岸の景色を見るかのようにイルカを眺めた。
「じゃあ子供でいさせてよ」
暗部は冷えた指をそっとイルカの太腿の上に置いた。
「俺、カカシって言うの。ねぇ、うみのさんの下の名前教えて?知りたい」
「そうですね。風呂に入ったら教えてあげましょう」
イルカはアカデミーの子供らにするようにポンとカカシの髪に手を置く。カカシは抵抗せずに目を細めた。
「…カカシさん、随分と淋しかったんですか?」
イルカはカカシの開いた右目を覗き見た。先程食堂で見掛けた子供の双眸と同じ色を感じる。
「淋しいも何も、俺には何もないもの」
カカシはツイと横を向く。まるで猫のようだ。
「その歳で何もない事ないでしょう?失敗がある筈では?」
イルカは正鵠を得た。
「…かもね」
「はは…」
イルカは白い歯をチラリと見せると、カカシはただ困った表情をした。
誰かのものになるのが得意な人ではないのだろう。
不器用なのだ。
対岸にある自分を見た心地になるイルカであった。
イルカにもコンプレックスがあった。
イルカも誰かのものになるのが得意ではない男なのである。
*
イルカは病室の一室から車椅子を持ち出してカカシを乗せた。
廊下をゆけば、館内放送で鐘音がゴーンゴーンと鳴る。
このサナトリウムが運用されていた時代にこの時間に何かあったらしい。
やや時間を置いて、古めかしいグレゴリオ聖歌が流れて来る。
録音された子供の声だ。
内容は分からないものの、真剣な祈りが込められている事は十分伝わって来る。
どうやら館内は脱衣所から履物を脱ぐらしい。
片隅にスノコとスリッパが置かれていた。
白い浴室の窓硝子からは日光が燦々と降り注いでいた。湯で煙って外の景色は窺い知れない。
浴室の中にもスピーカーが付いているので例のグレゴリオ聖歌が高い天井に反響して流れる。
イルカは白い施術台の上にカカシを寝かせると、テキパキと脱衣を手伝った。
下着だけはカカシが自分で脱いで、その箇所だけタオルで覆われる。
抜けるように白い肌としろがねの髪が陽に照らされ、受胎告知しに来た天の遣いめいた雰囲気さえ醸し出している。
幾多の死線を潜り抜けて来た強靭な暗部だのに、彼の美貌は透明で美しい。臍の上の産毛さえ輝いて見える。
「それじゃあ、洗っていきますね」
イルカは服を着てまま腕と裾を捲り、ホースノズルの長いシャワーを手に持った。
一定の温度が出るように調整して、カカシの足元から掛けてやる。
光線の関係でシャワーの霧よりやや右上に虹が出来た。
カカシの躰や髪を洗ってやる。
カカシは抵抗する事なく大人しくされるがままにしている。
実際問題、体力がないのだろう。
先程マグカップを握っていられたのだって数分の事だった。まだ感覚が鈍磨なのだ。
かなり汚れていたので、全て洗い流すとカカシは一段階色が明るくなった。
口下で揺れるホクロが白い肌にクッキリとして見える。
リモコン操作で施術台をジャグジーの中に入れると、ボコボコと泡玉が沸き立つ中にカカシのバストアップだけがポカンと浮かんだ。
「カカシさん、お湯加減は?」
「…感覚がないので、すみません。分かりません」
「大分冷えていますから、ゆっくり体を温めましょうね」
イルカはジャグジーバスの縁に腰を降ろしてカカシと目線を合わせる。
「うん…ありがとね…」
「何か…少し話でもしましょうか?」
「そうね」
カカシはやや上の天井を眺めてから「うみのさんはどんな人が好きですか?」と言葉を繋げた。
「俺ですか?」
イルカは人差し指を己に向ける。
「ええ、どんな感じかなと」
「俺は…そうですね、寂しい人が好きです」
「寂しい人…?…イイね」
カカシは薄い唇を更に薄くした。
窓の外、鳥が朝の声で哭いている。
「カカシさんはどんな人が?」
「俺は…いいの」
カカシは頤を引いて苦く笑う。里で待つ恋人にでも想いを馳せている風に見て取れる。
「恋人さんも待ってるでしょうし、早く里に戻れるようになると良いですね」
イルカは察したつもりで科白する。
「うん…その、俺は待つ人なんて作れないの」
モテるだろう。綺麗な貌も持っているのにどうして水臭い事を言うのだ。
「え、何故ですか?」
イルカは眼を丸くして疑問を口にする。カカシは眉毛をハの字に寄せて首を傾げた。
「恥ずかしながら甲斐性なしでして」
気まずい感じで、ポリポリとこめかみを掻いている。
要するに暗部に所属している故に敢えてパートナーを作らないのだろう。心配を掛けたくないのだ。
「カカシさんは優しいんですね」
イルカは素直な感想を侍った。
「…!」
カカシはギョッとした表情で一瞬固まってから、肩を落とす。
「優しくも何も…俺は幸せから遠いから、惚れたってその人を幸せに出来ないってだけで…」
「考えすぎですよ」
「俺みたいのに付け回されても迷惑だと思うし…」
「カカシさん…」
過酷な任務で疲れているのだろう。不憫なものだ。
「うん、ごめんね。本当は遠い人が好きです…それと、疵付いてる人も。背負っている疵が似てると仲良くなれるかなって…俺みたいなのは直ぐ勘違いしちゃう」
カカシは湧き上がる泡を眺めながら静かに言葉を綴る。
「それでも俺も男だから素敵な人に出会うと、その人の心の形を知りたいと慮ってしまう…幸せに出来る甲斐性もない癖にネ」
「大丈夫ですよ」
「どうして?」
「カカシさんは十分魅力的ですから…」
イルカが励ますと、カカシは乾いた笑いを零し「お手柔らかに」と躱した。
カカシはあたかも湯気のような飄々とした物腰だ。もしかすると彼は自分より4、5歳年上やも知れない。
平たい寂寞が流れる。久々にゆったりとした朝である。
*
脱衣所から一番近くにある病室にカカシを寝かせ、イルカ自身も入浴する。
いつの間にかグレゴリオ聖歌は消えており、静寂が空気を洗う。
ジャグジーの中でイルカは長い間目を瞑った。
静かな空間で洗われた瞳で日常に戻ると時間や気持ちに余裕が出来て良い。
カカシに何か温かいものを簡単に作って食べさせてやりたい。
食堂で簡単なスープを拵えたイルカは寝室をノックして扉を開けた。
「失礼します…」
「…」
カカシはスゥスゥと規則的な寝息を立てて眠っている。
風呂に入って随分と疲れたに違いない。起こさない方が良い。
カカシの体温だけ確認しようと、イルカは布団を軽く剥がしてカカシの指先を触った。
昨晩と比べたら随分と温かくなっている気がする。
顔色はまだ生白く眼の下の隈もクッキリとしているものの、それは日にち薬だ。
焦る事はない。
イルカは通常忍服のジャケットからメモ帳を取り出し、そこに挟んであったシールを一枚剥がした。
アカデミーで子供らの宿題や日誌に張ってやるシールだ。
花丸と『良く頑張りました』のフォントが組み合わされたそのシールをイルカはカカシの手の甲にペトリと張ってから布団を直す。
洗髪された彼の頭にポンと手を置いてから、イルカは踵を返した。
山の日暮れは早い筈だ。今の裡に洗濯を澄ましておこう。
イルカはそっと自身の頤を摩る。
*
山の夜は実に早い。
どれだけ眠ったものか。
随分と紆余曲折のあった深い夢に身を置いた気がする。
瞳を開けると白い天井が映った。
─あの人は…居ない、か。
うみのと言う中忍の話だ。
彼はゆったりとした気取りのない内忍で、慈愛に溢れた人柄が声音や笑顔から滲み出ている。
健康的な肌。
決して細くはなくむっちりと肉が付いている肢体。
三白眼気味の眼睛。
情の深そうな眉根。
仕草の其処此処に愛嬌がある。
本人は無意識だろうが、つい、ちょっかいを出したくなる雰囲気を纏っている。
彼が病室に居ない事でホッとする一方、彼ならばきっと起きるまで傍に居てくれている筈だとほのめいていた期待が苦い。
─そもそも、あの人って無意識なのか。
直接問いただす勇気はないものの、強く惹かれてしまう自分が悔しい。
仮にも熱意で彼を圧さえ込んで関係を強制的にスタートさせたとて、きっと我に返った時に彼に辛い思いをさせてしまう。
カカシは首の後ろに手を組んで大きな溜息を吐く。
頭にポンと手を置かれる度に少女の如くときめいてしまう。
彼の唇から紡ぎ出された言葉に一喜一憂している。
良い歳して一目惚れのような状況になるのは、きっと己の心根が弱っている証拠だろう。
避けたい理由が増えてゆく。
それは近付きたい気持ちが強まっている証である。
心裡で彼に惹かれる甘い言い訳をアレコレ並べては噛み殺すカカシなのであった。
人を好きになる事は嫌いじゃない。
しかしながら、好きな相手に寄り掛かってしまう事に異様な怖さを感じる。
多くを失くした喪失経験が知らぬ裡にトラウマとなり自分を追い詰めて来るのだ。
だからと言って、弄ぶような身勝手で痛い恋愛等したくはないし、されたくもない。
おまけに、暗部の任務は当てにならない事ばかりである。
拠り処にしてしまったが故に、相手が不幸になっては気が気じゃない。
当たり前の事だが、惚れた相手は傷付けたくない。
誰しもがそう祈るだろう。
もっとシンプルであれば良かった。
例えばだ。
例えば、一番大切な人が家族で、その家族を護る為に嫌な事でも頑張ろうと励むような単純な生き方が用意されていたらば、もっと生き易い。
それならば誰も疵付かない。
「うみのさん…」
カカシは誰に届けるでもなく唇を動かした。誰にも届かぬその固有名詞が心をもう一段階重くする。
あの人は良い人だ。
しかしながら、一緒にいるのは今だけの限定的な事である。
手を伸ばしても届きやしない。
カカシはどうにもならない落胆を溜息にした。
ガウンを羽織り、頽れぬよう寝台の傍にあった歩行器に手を掛けた。
用を終え来た廊下を戻る折、チェンバロの部屋から光源が洩れている事に気付く。
耳に微かに弦楽器の音色が聞こえる。
硬く緻密な音色だ。
カカシは人の気勢ある方向に足を動かした。
「テンゾウ、何だかんだでいたのね、お前…」
カカシはドアの先に現れた人物に向かってうんざりした表情を浮かべる。
てっきり置いてけぼりを食らったとばかり思っていた。
「僕が先輩の為に救護を呼んだのでそりゃ居て当たり前なのでは?何の引継ぎもないとか救護に来た方に失礼では?…アレ?」
質問責めをするテンゾウは眉間に皺を作ってカカシの髪を指差した。
「何ヨ」
「カカシ先輩、髪にシール張り付いてますよ」
「え?」
カカシはキョトンとする。
「後ろの処」
「あ…」
テンゾウが指さす場所を探り当てるとカカシの指に花丸シールが張り付いた。
「…」
後輩に甘い戯れを当てられてカカシは必死に岸辺を探そうと目を泳がせた。
「…」
「…」
深閑の渋さと言ったらない。加えて空気が混淆とする。
「で、お前はいつまでいる訳?」
「僕のスケジュールが気になるなんて珍しいですね。傍に居て欲しいとでも?」
テンゾウは敢えて厭味ったらしい言い方をする。
「…今夜発つ?」
「気になります?」
テンゾウは死んだ魚のような瞳で指の抑える場所を見ている。マンドリンに夢中だ。
「良いから教えなさいよ」
カカシはチェンバロの椅子に座るついでにテンゾウの足を踏んだものの、テンゾウは綺麗に流して無視をする。
テンゾウとカカシはもう十年近く、大歩危小歩危でこんな調子だ。
「僕を追い出したい理由、あの人でしょう?…イルカさん」
テンゾウは弦を弾いていた指で鼻の上をなぞる。彼の鼻疵を揶揄しているのだ。
「…ッ!」
カカシは思わず目を丸くした。テンゾウが下の名前を知っていると言う事はテンゾウに先を越されていると言う事だ。
「…別に取りませんよ」
「どうだか」
「タイプじゃありませんって」
テンゾウは魑魅めいた瞳々で弦を追う。
「本当?」
「…そう言う処ですよ」
「何が?」
「直して下さい」
テンゾウは語気を強めて無理矢理話を終わらせた。
テンゾウはマンドリン演奏に集中した。緻密な音の彫刻を作ってゆく。
*
晝間。
中庭で洗濯物を干していると、ブザー音が聞こえた。イルカは音のする方に視線を向ける。
「はーい」
客人だろうか。
チャイムに呼ばれてイルカは玄関へと駆けてゆく。
「どうも」
玄関を開けると、両手一杯に物資を抱かえている猫面の暗部が立っていた。
「えっと…」
逡巡したイルカが目を泳がしていると、猫面をずらした暗部は「どうも、初めまして。この度は救護いただきありがとうございます。上忍のテンゾウと言います」と爽やかな挨拶をした。
「…ッ!」
イルカはギョッとした。
食堂で見た写真群にあるやせ細った子供が大きく成長して現れた事に驚いたのである。
短い涅色の髪。
漢らしいしっかりとした形貌。
眼窩の窪み方や黒目がちな瞳、鼻筋の感じは写真そのままだが、重そうな筋肉が付いて骨格もしっかりしている。
鍛錬の甲斐あって磨かれたのだ。
か弱く頼りない面持ちはすっかり翳を顰め、塵の分別にも兎角厳しそうな彼の雰囲気にイルカは気圧された。
「俺は普段、里内でアカデミー教師をしています。中忍のうみのイルカです」
「イルカさん…?」
テンゾウは眩しいものでも見るように目を細める。
「はい。あの、テンゾウさんはお怪我などは…?」
イルカは荷物を受け取りながら訊ねた。
「いいえ、僕は特には…ただ、次の任務の関係で未明には此処を発つので…」
成程。
それでカカシの世話が必要になるので救護要請を出したと合点がゆく。
「あの梓杖、イルカさんのですか?」
テンゾウは玄関脇にある梓杖を指差して小首を傾げる。珍しいものに興味を持つものだ。
「ええ」
「これは良いものですよ」
本当に良いものを見つけた時のようにテンゾウは頬を緩める。
「…分かるんですか?」
「ええ」
テンゾウは大きく頷くと、目線を梓杖に落とした。
「節がなくて真っ直ぐに整っている…まるで、貴方のようだ…」
「俺…ですか…?」
イルカは一気にこそばゆくなった。
「ええ。悪い虫には気を付けた方が良い。折角の質が台無しになる」
「はい」
イルカは言葉の鞭の痛みを汲み取らずにそのままの意味で頷いた。
「あの、テンゾウさんも風呂、入られますか?」
「ええ、そうします。相済みませんネ」
テンゾウは淡々とした様子で「一緒に入ります?」と訊ねた。
「俺は既に頂きましたから!」
イルカは、その鳥羽色をした双眼を牡丹が咲くかの如く大きく開いてかぶりを振る。
テンゾウは哄笑した。
「あっはっは…いやぁ、イルカさんは可愛らしい人ですね」
「えっと…はは…」
イルカは心当たりのない評価に躊躇しつつ、調子を合わせた笑顔を作って頬を掻く。
窓越しに見える宙空には薄い雲が散っている。
イルカは美景を眺めつつコルクを開け、その雲母色した液体を杯に注ぐ。
カカシが起きないので二人で食べる他ない。
イルカは風呂から上がったテンゾウと白い鞠の浮かんだスープを食べるのであった。
「テンゾウさんは昔、『キノエ』だったんですか?」
差し障りのない話を二三度振った後、イルカはテンゾウに写真の話題を投げた。
「ああ…見つけましたか」
テンゾウは面倒臭い感じで暖炉の方向に目を向けた。
「ええ」
「そうですね。…個人情報なので…その…」
テンゾウは視線を泳がせて逃げ道を探している。過去に関して説明を求められる事を良しとしていないのだろう。暗部には過去を背負っている若人が多いと噂で聞いた事があったが、本当なのだ。
「此処は僕にとって此処は遺構のようなものなんです」
「遺構…?」
イルカは面を上げて言葉した。
「はい。僕の過去と一体化して動かす事さえ出来ない」
硝子玉のような芯のない瞳には迫力がある。
「大切な場所なんですね」
要するに、テンゾウは幼少期に此処で治療に専念した過去を持つらしい。
「大切な場所…まぁ、一概には言えませんが、今でもどうしても気になって定期的に手入れに来ます」
「実家のようなものなんですね」
かく言うイルカにも実家など最早存在しなかった。
「確かに。此処は僕には捨てられなかった疵だから、実家ですね」
テンゾウは笑うと口元に笑窪が出来る。他は冷ややかだのにその箇所だけがぽっかりと人懐っこい。
─疵。
実家が疵だとは、得て妙な例えだ。
「疵か…」
テンゾウは凛然として過去の写真を席から眺めた。
「深い疵であればある程、流した血の量も多い…本当に不思議な事ですよ。自分でも矛盾していると思います。恨んだものでも癒えると愛おしいとは…人は不思議な生き物です」
それはあたかもその時代のテンゾウ自身に話し掛けるようであった。
テンゾウは薄い玻璃盞を唇に付けて瞳を閉じる。
「僕はマンドリン係でした」
イルカは「他にはどんな…」と訊こうとして口を瞑んだ。
談話室にチェンバロとマンドリンしか置いていないと言う事は、その二役しか存命していないと意味する。
暖炉の写真の分け方も意味があると知れる。
テンゾウの発言である『僕には捨てられなかった疵』を汲み取れば、チェンバロ役の人間は過去を捨てて今を生きているのかも知れない。
捨てても疵を庇っている。文字通り、心に庇うと書いて疵である。論を俟たない。
「ああ…それと、イルカさんはどうやら誤解されているらしいのでこれはしっかり断っておきたいのですが…」
テンゾウはそう前置きして「僕はやましい事など一切ないので、悪しからず」等と言う。
「その…意味が汲み取れないのですが…」
「あらぬ嫉妬は止して欲しいです。カカシ先輩と僕は毛並みも違いますし、途中合流です。そう言った関係ではないので」
「…」
言い当てられたイルカはぐっと黙った。
イルカの脳裡にテンゾウに対する仄かな嫉妬がなかったと言えば嘘である。
カカシを意識しているのだ。
テンゾウはカカシの情人なのではないかと勘繰っていた。
イルカは存外に疵付く事に対して繊細なのである。
「お二人でご勝手に」
テンゾウは杯の中に酒を手酌した。
「その…俺は誰かに頼るのが苦手で、両親が殉職してからと言うもの誰とも親密にならないようにして来たんです」
「…」
「それに、俺みたいなレベルの低い奴に言い寄られても嬉しくはないでしょう?」
拗れた言い草が浮かんだ。
テンゾウはジッとイルカを見詰めていた。テンゾウの眸から感情を読み取る事は難しい。
真剣に聞き入っているようにも、小馬鹿にされているようにも映る。
「俺が勝手に作ったルールに独りで苦しめられているだけだと自覚はあります。強がっていないと崩れそうで怖いんです」
言わなくても良い事だ。口が勝手に動いてしまう。
「へぇ」
テンゾウは生半可に相槌を打った。
「親密になるが故に感情が激しくなってしまうのって…恋愛だと取り返しのつかない事になりかねないでしょう?」
「…」
テンゾウは暫く沈黙を続けた。
「貴方の言いたい事は分かりました。かと言って、僕は精神科医じゃない。僕に答えを求めるのは違うのでは?」
「…すみません」
「恋愛なんて所詮、相手ありきですし、エゴとエゴのぶつかり合いでしょう?貴方の言葉を借りるなら、疵同士が交差するようなものです」
「はぁ」
「それは、他人の僕なんて関係ない」
言い返せない言葉を投げ掛けられて、イルカは途方に暮れた。
「テンゾウさんはどんな人を選ばれているんですか?」
「は?僕?」
テンゾウは声を裏返らせた。意外な質問だったのだろう。
その時だった。
玄関のチャイムが再び響く。
「!?」
テンゾウは弾かれたように立ち上がると急いで玄関に向かった。
突然の事でイルカはポカンとした。
パチパチと暖炉の薪が拍手をする音だけが空間に響いた。
暫くしてテンゾウは美しい暗部を連れて戻って来た。
美童の頃は過ぎた若枝で、凄まじい美貌だ。
濡翅色をした髪。
面にある二つの水盤は仏壇の漆よりもはっきりと黒い。
カカシに輪を掛けて白い肌はあたかも水晶のように柔らかく透き通っている。
妖しい口元の肉色。
利発そうな眉。
細部まで格別の細工が施された人形のような容姿だ。
高価な中童子そのものである。
イルカが茫然としていると、テンゾウは「イルカさん、此方がチェンバロ役です」と美少年を紹介した。
「サイです」
チェンバロ役の少年はサイと名乗り、目を細めて咲う。彼もこの施設の卒業生なのだと平仄が合う。テンゾウと同じような雰囲気を孕んでいるのだ。
「サイ…くん…」
同じ空間にいるだけで緊張する。
「此処にお客さんがいらっしゃると聞いて、居ても経ってもいられずに飛んで来てしまいました。早速演奏を…」
サイは外套を脱いで洒脱な暗部装束を露わにした。見てはならない衣装のようだ。視界に入れているだけで自ずと良心が呵責する。
「サイ!駄目だろ!?まずは身体を温めないとっ!」
イルカなど上の空で、テンゾウは強引にギュッとサイの薄い肩を握る。子供に叱るように物を言うのだ。
サイはテンゾウを見上げ、素直にコクリと頷くと『ふぅっ』と蠟燭の火を消すかのように表情を緩めた。
テンゾウはサイの頬を両手で包んでから額に唇を寄せた。
─え?
一瞬、イルカは二人が何をしているか分からなかった。
目の前で赤の他人らの交媾を突如として見せられた心地だ。
サイはテンゾウが添えている両手に己の手を添わせて大人しくしている。
取り残されたイルカはポカンとした。
「よし」
テンゾウが何かを許可する声を出すと二人は何事もなかったかのようにパッと身を離し、テンゾウは台所スペースに回って鍋を火に掛け、一方サイはイルカの斜め横の椅子に座ってシャンと背筋を伸ばす。
テンゾウもサイも無言を苦に思わないらしく、サイは只管背筋を伸ばして目の前を向き続けている。
瞬きをする以外、微動だにしない。
サイの二の腕からは確かに木の葉の暗部である事を示す刺青が覗くものの、一度すら里で見た顔ではない。
この施設は表向きはサナトリウムと看板を掲げているが、要するに、実際は選抜された子供らの特殊なアカデミーだったのだ。
木の葉隠れよりも霧隠れの方がよっぽど近い、こんな僻地で、一体、どんな教育があったと言うのであろうか…─
「サイ、そろそろ出来るよ」
テンゾウがキッチンから言葉すると、サイは無表情の中に微かに嬌笑して椅子から立ち上がった。
そのまま、美しくデコレーションされた側の暖炉の上にある蝋燭にマッチを擦って火を灯す。
テンゾウは暖炉の上にあるトレーにマグカップを乗せた。
イルカは全くの傍観者だ。同じ空気を吸っていても、彼ら二人だけの世界である。
テンゾウとサイは彼ら二人だけのやり方で頭を垂れたり、胸に手を当てたりなどして祈りを捧げている。
一連の儀式が終わると、サイはマグカップを片手に持ち、二人共めいめいの席に着席した。
テンゾウはグラスにワインを注ぎ、変わった事など一切なかったかのように胡桃を抓みだした。
「不思議そうにしていますね」
イルカが世界観の違いに虚脱していると、サイが笑い掛けて開口した。
「ああ…その…カカシさんは此処の出身じゃないんですか?」
サイに対して何を話して良いのやら想像すら付かない。
「カカシ先輩は違います。昔から、養生が必要な時にだけ転がり込んで来る厄介者です」
美しい割に言い方が些末だ。テンゾウは嬉しそうに肩を揺らしている。サイは言葉を続けた。
「早い時期から二人ぼっちでした。テンゾウさんと僕だけが皆から置いて行かれたんです」
館内放送で鐘音がゴーンゴーンと鳴り、スピーカーから朝とは違う音楽が流れ始めていた。チェンバロとマンドリンの演奏である。
「皆、此処よりももっとお日様に近い処に出掛けてもう戻らない。きっと幸せに暮らしている筈です」
サイは科白し終わるとテンゾウに目を移した。
「今夜は歓迎会だからご馳走を作らなきゃ駄目ですね」
「そうだね、サイ」
テンゾウとサイは抱き合うような視線を送り合っている。お互いに分かり合っている感じだ。
「イルカさん、此処の歓迎演奏を聴いて貰えませんか?」
テンゾウは高杯を置くと椅子から立ち上がった。
「ああ、サイ。イルカさんは普段はアカデミー教師をされていらっしゃるそうだ」
「本当ですか?光栄です!」
サイはパァッと煌いて大きく瞳を開く。里内のアカデミーは彼らにとって遠い対岸の景色に他ならない。
イルカは食堂を簡単に片付けてから彼ら二人の演奏を聴いた。
遠い景色みたいなレガシーが滔々と鼓膜に響く。
お互いに捧げ合うような音色である。
任務に出れば迷妄も悩悶も捨て、己一貫、命を賭して尽くすのだろう。
テンゾウとサイにしか分からない記憶の中の過去を覗き見ているような心地になる。
奏色は美しいが故に虚しい。
*
マンドリンの調べを聞き入っているカカシの鼻孔に微かに臓物を煮た匂いが届いた。
この匂いは知っている。カカシは勘が働いた。
「ネェ、テンゾウ…、もしかして、お前がいるからサイも来てるじゃないの…?」
「だったらなんです?」
テンゾウはカカシを睨んで音楽を止めた。
「いや…今、俺って消化の良いものしか食べれないから」
この施設は僻地にある為に食材が限られており、忍の教養としてファスティングやヴィーガニズムの傾向を子供らに強いていた。
味覚や臭覚が冴えていないと間諜任務では直ぐ死んでしまう。
テンゾウもサイもその舌で育っているのだ。
此処に肉があるとしたらテンゾウかサイが捌いた干し肉か臓物、もしくはテンゾウがサイが作った臓物の加工品であるブラッドソーセージしかない。
香りの強い香辛料をテンゾウもサイも好まないので薄味の煮凝りが思い出した頃に夕餉に登場するのであるが、今、その匂いがするのだ。
そのメニューを好んで作る人間をカカシは二人しか知らない。
テンゾウとサイだ。
テンゾウが目の前にいると言う事は、その片割れが厨房で料理しているに違いないのである。
「サイだって別に先輩の為に丹精込めて作ってる訳じゃないのでは?」
「随分と毒のある言い方よネ…」
カカシとテンゾウがムッとした感じで向き合っていると、ドタドタと鈍臭そうな足音が近づいて来た。
「ああ、カカシさんも起きたんですね」
談話室に顔を見せたイルカは鼻の頭をコチョコチョ掻いて擽ったそうに笑う。
「イルカさんッ!」
カカシはイルカを見るなり直立した。
「食べない」
「食べないけどイルカさんの隣で座っていたい」
「俺、イルカさんの左側が良い」
「?…どうしてです?」
「その方が心臓に近いでショ」
カカシはイルカの耳の傍でコショコショと打ち明ける。
*
入浴とは人生の憂さ晴らしのようなものだ。
湯に浸かって出たらば、己の業まで洗い流せたと勘違いする。
湯治の入浴は日に二度が良いとされる。
それも人のエゴなのだろう。
「ねぇ、イルカさん…」
「何ですか?カカシさん」
カカシは居た堪れない表情をしてグッと言葉に詰まってから首を揺すった。
髪から雫が垂れる。
少しの間を置いてから、白状をする。
「アイツらにも頭ポンってしたの?」
あたかも、子供のような嫉妬だ。
「え?」
イルカは狼狽した。
「テンゾウやサイに…」
「してませんよ」
差し詰め、悋気のキャリブレーション機能がイカれている。妬く事じゃない。
「ねぇ、今夜も一緒に寝て…俺を抱きしめて頂戴よ」
カカシは瞳を合わさずにリクエストした。
「それは…貴方が決めて下さい」
イルカはカカシの誘いに半歩引く。
「…」
カカシは湯に視線を落とした。幾重にも湯に波紋が浮かぶ。
ありのままに放下薯しきれていない。
「無理なら良い」
「無理とは言っていません」
「付き合ってよって言っても同じような答えになるんでしょう?」
稚拙な質問だ。
「分かりません。縁がないので考えが及びません」
「そ…可愛いから赦す」
カカシは施術台の背に頭を預けて、今一度「赦すしかないヨ」と独語した。
「ネ、イルカさん。俺…期待しちゃうから厭だったら今の裡に逃げて欲しい…」
「ふふ」
イルカは耐えきれずに噴き出して笑った。
任務を放り出して逃げ出すアカデミー教師など教師の風上にも置けない。
本当に逃げだしたら余りに幼稚だ。
「アンタ、逃げた方が良いヨ…?ネ?」
カカシは縋るような視線を送りながら、眼の芯とは真反対の事を侍る。
「ねぇ、カカシさん。俺がカカシさんから逃げて何が得られますか?」
「全てじゃない?」
「全て?」
「俺には長い間、『ごめんね』って謝る相手さえいなかったの…」
カカシはキスの受注予約でもするかのような甘い表情をした。
*
「アンタを…避けたい理由が増えてゆく」
カカシはイルカの耳朶を乾いた指の腹で嬲って囁いた。
「俺を避ける理由、ですか?」
カカシはイルカの唇をさも大切そうに見詰める。
「この先どうやって上手く生きて行こうか…いつも考えちゃうよ」
カカシは身動ぎをして瞳を伏せる。
「シュレッダーしてしまいたい事ばかり…俺は、ずっと昔から自分の中の悪に惧れ怯えてるの」
「それって、つまり?」
イルカは見えないものを認めようと何とか目を凝らす。要するに、カカシが幾ら口説こうが、イルカには見えないのである。
「アンタの事を知りたい」
カカシは悪い男にばかり引っ掛かる女のような科白を言葉して、曖昧に笑った。
イルカは反射的に「ごめんなさい」と謝る。
何の価値もない謝罪ほど無責任なものは無い。
カカシはイルカの髪を手で梳く。
「教えて」
カカシは唇に薄い色気を乗せてイルカに圧し掛かった。
唇辺に他人の肉を感じる。
突然の事でイルカは唖然とした。
「カカシさん」
性の対象として迫られた場合の拒み方を知らないイルカは怒るとも泣くともなく、カカシの胸を押した。
「ヤなら逃げなねって言ったじゃない…?」
カカシは迫っている側にも拘わらず声を畏震させた。
言葉にしてしまったら沈淪に至る訳でも無かろうに、その右目は悲哀に溢れている。
「俺は…不器用なので…」
イルカはドクドクと己の血の湧く音を全身で聴きながら汗を滲ませた。
自分自身と擦れ違いざまに出会い損ねたような不思議な感覚が心に滲む。
「アンタに自分をダブって見てるみたい」
カカシはイルカの項を撫でて視線を交え捕る。視線だけでイルカの胎内に抽挿し、交媾するかのようだ。
「カカシさんは俺に同じ疵が見えますか?」
イルカは呻くように言葉を吐き出した。
「アンタは?」
カカシは遠い対岸にある中忍の眸の裡に己を見つけた。
不思議な話だ。
自分の事は近すぎて全貌が分からない。
相手の眼に映るくらいが善い塩梅の距離なのである。
お互いの内面的な疵を合わせるようにして抱擁すれば、胸に疼痛が奔る。
セックスの力は強い。
性を交わした者たちだけの絆もある意味では『疵』なのかも知れない。
*
装飾的な吻は言い訳に過ぎない。
しかしながら、相手との距離を測る為に定規として使うには持って来いなのである。
「イルカさん」
唇の淵同士を合わせ、小さな息を吐く。
間近で見るとカカシの疵は細かく糜爛した余蘊があり、時間を掛けて乾涸びた茎めいていた。
実際にそうなのであろう。
疵になるまでには時間が掛かっているに決まっている。
昨日今日の事じゃないものを疵と呼ぶ。
*
【食材とレシピ集】
〇マシュマロ・ショット
マシュマロをフォークに刺し、側面や底を火で焦がす。熔けた内側にウイスキーやコニャックなどを注いで愉しむ。
キルシュやアルマニャックなどもおススメ。
木の葉の戦忍の場合、このショットに兵糧丸を崩したものを薬味のように使う事を好む者もいる。
〇フリーズドライ・チーズ
100%チェダーチーズで作られたグルテンフリー、高タンパクのシンプルなフリーズドライ食品。
栄養価に優れ、香料や乳化剤など一切入っていないので携帯食材として重宝される。
スープのクルトン代わりにしたりサラダに添えたりなど、アレンジは無限。
木の葉では定番で、主婦の味方でもある。
〇珈琲
有機栽培100%低カフェインアラビカ豆より作られた健康志向の珈琲。
〇羊肉泡馍
素焼きのパンと干した羊が具になっているスープで、香り油(辣油、葱油、山椒油等)が決め手の伝統料理。
戦地の炊き出しなどでは朝食になる場合が多い。
〇レ・サボ・デレーヌ・アヴェック・ル・ブラン
ヴァンナチュール感満載の微発砲ワイン。パンチがありつつもナチュラルな飲み口。抜栓したら一日で飲みきりたい。
〇ホット・シードル
テンゾウが未来永劫サイの為だけにしか作らない温かい飲み物。
シードルの缶ジュース、クローブ、シナモン、アニス、蜂蜜を入れて鍋で温める。
甘味料、保存料不使用のオーガニック・シードルを使う。
ホット・シードルの他に白樺の樹液なども温かくして愛飲している。
〇胡桃
体調や食事管理に対して拘りが強いテンゾウが辿り着いたロカボ食の正しい答えそのものを指す。
パフォーマンス向上の為に日々の取り組みが成されている。
〇エストニア料理
サイが作る料理。
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初公開日: 2019年12月11日
最終更新日: 2019年12月11日
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【テスト配信】最後の最後で笑う者【バルティ+エルドゥール】
テスト配信です。バルティに関する捏造設定マシマシなのでご注意ください。 ※きぐるみを脱ぐ描写があり…
読みもの
松島 月彦