老人の視線は明らかにまともではない。栄養と水分の失調――あるいはそれ以外の理由で。
そのまま、空の容器を拾って北道を戻ればよかったのだ。こんな得体のしれない老人に関わる理由などない。しかもこの老人は、この地下世界でかろうじて人々の命をつないでいる「拝水」を拒絶したのだ。明らかに正気ではない。
しかし――。
アキラはその老人の正気を失った瞳の光のその奥に感じたのだ。かつて彼の両親が死に際に見せた苦しみと悲しみを。その老人の喉の奥からもれる喘鳴は両親のそれと同じだった。
この老人を助けるすべなど、今の自分は持たない。しかし、両親と同じ勢名を漏らす老人を、アキラはここに置いていくことはできなかった。
老人の弱りきった体は触れただけで折れ砕けてしまいそうで、アキラは手を貸すことをしなかった。代わりにその隣に腰を下ろして、問いかける。
「じいさん、あんた、朝に『神像』のところで騒ぎを起こしてただろ。なんであんな……水を飲んじゃいけないなんて言ってたんだ?」
返事が返ってくることは期待していなかったが、問いかけずにはいられなかった。この老人が正気でないのは間違いない。では、この老人から正気を失わせたのは、何だ? なぜこの老人は、この世界では絶対に欠かせないはずの水をこれほど拒絶するのか?
老人は答えの代わりに激しく咳き込んだ。その咳もまた、両親の病床でいやというほど聞いた……そしてこの地下世界で死んでいった者たちと同じであろう苦しげな息遣いで、この老人はもう次の「拝水」の時間まで生きてはいられないだろう。もしかしたら、このまま背を向けて立ち去れば、その背中で事切れているかもしれない。
だからこそ、アキラは聞かずにはいられなかった。この老人がこれほどまでに水を拒絶する理由を。
老人は壁にもたれかかった姿勢のままぜいぜいと苦しげに息をついていた。ややあって、わずかに顔を上げてアキラの方を見た。
その視線は――正気だった。その瞬間、老人は病人ではあっても狂人ではなかった。正気の視線が、アキラを見据えている。
「水が、我々を殺しているのだ」
不気味なほど明瞭な口調で、老人はそう言った。まるで揺るぎない真実を告げる預言者のように。