昨日に引き続いて今日も塚口。なぜかって見たい映画の上映時間が見事に被ってたからだよ。
というわけで今日見てきたのはこの作品!
本作も例によって例のごとく前情報ゼロで塚口で見た予告が気になって見てみた作品。前情報ゼロと書きましたが、配給がA24の時点で期待大。
余談ですが昨日即買いした攻殻機動隊のパンフがすでに売り切れており、即買いして大正解でした。
舞台は90年代のアメリカ郊外。閉塞的な環境で孤独に過ごす少年オーウェンの楽しみは、夜22時半から放映されているテレビ番組「ピンク・オペーク」。この番組を見ているときだけは辛い現実世界を忘れられるのでした。
そんなある日オーウェンは、同じく「ピンク・オペーク」が好きな年上の少女、マディと出会います。ふたりは「ピンク・オペーク」の登場人物、イザベラとタラに自分たちを重ね合わせてのめり込んでいきます。しかし、マディが突然姿を消してしまったときから再びオーウェンの孤独な生活が始まりました。
欠落を抱えたまま年月だけが過ぎていく人生の中で、オーウェンはアイデンティティを喪失したまま生きていく……。
本作は一言でいうと、「孤独で狭い世界」の話だと感じました。もう主人公であるオーウェンがとにかく孤独なんですよね。
本作では中2の14歳からスタートして、最終的に20年後のオーウェンまでを描いているんですが、彼が孤独でない時はただふたつ、マディといるときと「ピンク・オペーク」を見ているときだけ。それ以外の時は彼は常にスクリーンの中心で、あるいは片隅で常に孤独。
彼の抱えた孤独は、セリフで説明されるものではありません。なんというか、そこにいるだけで孤独。その佇まい、歩き方、足音からすら彼の孤独が漂ってくる。わたくし人形使いは、優れた創作作品の条件のひとつに「そこに直接描写されていない情報が読み取れること」だと思ってるんですが、本作はこの点でまさに優れた作品です。
唯一の友人であるはずのマディとも距離があるんですよねオーウェンは。「親密な他人との距離感がわからない人間特有の距離のとり方」というべきか。学校のグラウンドで二人で座ってるシーンとか、もっと近づいても良さそうなものなのにえらく遠くに座っている。これは母親といっしょにお祭りに行っているシーンでもそう。この執拗とも言えるオーウェンの孤独さの描写こそ、この作品の持つ刃の鋭さだと思います。
そしてもうひとつ、このオーウェンの孤独の所以とも言えるのが、彼の住んでいる世界のあまりの狭さ。これ、同じ感覚に覚えがあったんですがあれですね、以前見た「ゴースト・ストーリー」ですね。
「家」という狭い世界の外にある「学校」という狭い世界、そこはさらに「街」という狭い世界の中で、だからこそ彼ら彼女らは「街の外」という漠然とした自由を志向する。志向するしかない。しかしその「街の外」もまた「社会」という檻の中でしかないという……。
マディはオーウェンをおいて、その「街の外」への脱出を試みます。「ここにいたら死んでしまう」とまで言って街を出ていったはずのマディは、結局その先でも「社会」という檻の中から出られずに戻ってきてしまう。戻るしかない。「街の外」なんてないんだから。
オーウェンもまた同じように、自信を何重にも取り囲む「狭い世界」に最後まで囚われ続けています。いや、「外」を志向していったんは「街の外」への脱出を試みたマディに対して、オーウェンはひたすら「ピンク・オペーク」を放送していたテレビの中という「内」を志向し続けていたと言えるでしょう。だからこそオーウェンは20年後も自分の街という「狭い世界」に囚われ続けている。
俗に「人間は14歳までに手に入れられなかったものに一生執着する」なんて言われてますが、オーウェンはまさにこの状態だったんじゃないでしょうか。成人して家庭を持った20年後も同じ番組の思い出に囚われ続けて、配信で見られるようになった「ピンク・オペーク」を再度見返すも、その内容は彼がかつて見ていたはずのものとはまったく異なるチープで浅薄なものだった。あのシーンは、オーウェンが執着していたのはあくまであの日あのときに「ピンク・オペーク」を見ていた自分そのものであり、20年後の自分にはもう手が届かない思い出だったってことなんじゃないでしょうか。
それでも彼は「外」ではなく「内」に救いを求める。自分の腹をカッターナイフで切り裂くあの衝撃的なシーンは、もう彼は自分の中にある思い出を反芻しながら、現在ではなく過去を生きるしかない状態にあるということだと思います。と同時にあのシーン、「思い出の賞味期限」であり「コンテンツの普及化による思い出としてのコンテンツの死」という意味もあるんじゃないですかね。昔すごく好きでのめり込んでいた作品の魅力の大半は実はそれを楽しんでいた自分自身の感情であって、「夜22時半に親の目を盗んで友達と二人でこっそり見てた」というシチュエーションが抜け落ちたそれはただのチープな深夜番組でしかなくなってしまったという。
本作ではオーウェンの人生の時間が、まるでビデオテープを早送りするかのように2年後、5年後、そして一気に20年後に飛んでいきます。この「主観時間の加速」、もういいトシしたおっさんと成り果ててしまったわ見ている側にとってもまったく他人事ではありません。いっきに20年後になってしまったとき、腹の底が冷える思いでした。映画に限らずフィクションは疑似体験ではあるものの、A24配給の作品はときにこうして疑似体験では済まされなくなってしまうのが怖く、また同時にそれを期待して見てしまいます。
人生における時間の流れの残酷さと思い出の劣化と死、それを自らの腹に刺したい人にはぜひとも本作を見ていただきたい。そのときに流される血はきっと価値のあるものになるはず。