「ちょっと、そろそろ起きなさい」
寝起きの頭が、言葉だけを音として拾う。スリッパがフローリングでパタパタとした音をたてている。朝は脳に血が回らない。寝返りを打とうとしたところで、ソファの背もたれに鼻先が埋まった。しばらく目を瞑る。
「ね、起きて」
さっきより近くで、柔らかい声がした。頭が覚醒したのでゆっくりと目を開けると、明らかにやってしまった顔をした妻がこちらを見ていた。寝起きの頭では彼女が何をやってしまったのか分からない。数秒言葉尻を反芻してから、さっき通りすがりに落とされた言葉がいつもの俺に向けるような言い方ではなかったのだと気が付いた。ファミリーサイズのソファが軋む。昨晩は妻と子供がベッドのど真ん中で寝てしまっていたから、静かに風呂に入り、用意された食事を口に運び、食器を洗ってここで寝た。妻の横には、山程衣服の積まれた洗濯籠が置かれている。妻がまた、今度は少し泣きそうな声で呟く。
「ごめん」
ちなみにソファで寝ると、いつも怒られる。子供が真似するからだ。
でも、そういう時に怒る妻の声は随分と優しくて、理不尽に怒鳴ったり罵ったりすることは絶対にない。困ったようにゆったりとした声で咎め、理由を聞き、まったく跡の残らない力で頬を摘ままれて終わる。俺が疲れて帰ってきたか、何か理由があってソファで寝ていると分かってくれているからだ。
「さっきなんか、ママのままだった」
いいんだよ、とも言えない。子供が生まれたころ、子供にかかりっきりになってしまった妻に、俺が言ったことだからだ。考えが変わったわけでもない。でも最近はできる限り時間を捻出しようと家事を分担してはいる。ふたりで暮らしていたころは、だらだら、どの家事をするにも二人でやっていたのだからやっぱり寂しさはある。
取られている、なんて自分の子供に思うものでもないのだけれど。
「じゃあ、一分だけ頂戴」
朝の一分なんて戦場だ。わかっている。理解はしているけれど。
指先で彼女の左耳朶に残る、凹凸をなぞる。彼女のピアス痕はもう殆ど塞がっていて、俺は未だにループタイプのピアスを付けている。
ピアスの格好良さなんて何もわかっていなかったけれど、学生のうちにできることをしたかっただけだ。結局、無知な俺たちは開ける穴の位置を間違えた。今の時代になってみれば、そんなことで何かを示せるわけもなかったのだけれど。妻は左耳、俺は右耳。
「私も守る人になりたいから」
その言葉だけで、既に俺は守られていたのだと思う。今思えば、妻は初めから母親に向いた人間だった。俺だけが学生時代で停滞している。
妻は、子供が生まれてしばらく経った頃にピアスを外すようになった。どうしても、耳にあると子供が掴んでしまうらしい。初めは抱っこの向きで誤魔化していたが、子供が愚図る時間が長くなってくるとそんなことも言っていられなくなった。俺は仕事でアパレルを扱っているから、職業の性質上つける時間が長い。仕方のないことだとは思うようにしている。
俺の前でまで、ママにならないで。なんて、酷な話だったのか。決して、妻に息抜きをさせるための言葉ではなかった。ただの我儘だ。人が被る仮面は流動的で、ほんとうは明確に使い分けることなんてできないのだろうとも思う。
遠くで、子供が大きな声で母親を呼ぶ。困った顔をしたままの彼女の頭を撫で、その手で付けっぱなしだったピアスを外す。洗濯籠に手をかけ、俺は軋むソファからのっそりと立ち上がった。