人生には、特権という階級があった。もっと言えば、特権を得るために努力した者たちの座る椅子があった。私はそんな椅子に、生まれながらに座っていた。
親が割といいとこで働いているおかげで、何不自由なく暮らすことが出来たのだ。私はきっと幸せ。少なくとも普通以上に狂いのない幸せであるはず。なのにどうしてだろうか、私が強欲であるのか、それ以上のなにかを求めてしまった。
運動ができないわけではないし、特別に数学や国語が不得意なわけでもなかった。むしろ点数はいい方。いつも廊下に張り出される定期テスト順位表では、上から見て数えるのが癖になっている。まあそれくらいの安定感があった。
だけど私は、順風満帆では面白みがないと思うように、退屈になっていったのだ。どうしても何か私にはない、新しい視点が欲しい。まだ何か、あるような気がする。私の幸せの厚みのその厚さには、根拠があるはずなのだ。きっと私とは真逆の誰かがいる。そうでないと、幸せな顔をするような人間が、この世には1人もいるはずがないのだから。
指先がピリピリとした。頭が振動する。この感情はなんだろう。考える間もないうちに、私は定期テストの順位表で、下の人を見た。すなわち、最下位から数えた方が早い順位の子。私と真逆ということは、それなりの運動音痴で、それなりの勉強音痴ということになる。
いつも以上に廊下の緑の掲示板に張り付いた私は、順位をコマ送りにするみたいに一つ一つ確認していった。
最下位、田中さん。
123位、下山さん。
121位、神崎さん。
120位、倉角、、良哉。りょうや?そんな子いたっけ。てか、りょうやであってるのかな。まさか転校生?だったとすれば、いきなり120位なんて可哀想だ。
煽りとかそういうんじゃなく、私は本当に可哀想だと心の底から思っている。だってそうでしょう。転校してきたと思ったらいきなり、掲示板に張り出された自分の名前が、最下位争い常連組の中の一人に混じっていたんだ。そんなの、どうやっても同情のすべはないだろう、可哀想以外に。
同情するなら○○とか、そんな風なセリフが昔あったような。どんなだったっけ。
まあいいや。
私は結局、自分で組み立てた企画、真逆の人を探そうスペシャルなぞはもうとっくに忘れて、恐らく転校してきたことであろうその名前の人に、同情をするばかりのことで頭の中はいっぱいになってしまっていたのである。
昔よく読み聞かせをされた貴族の絵本を思い出す。顔の見ることが出来ない二人の男女が、恋に落ちる。そして初めて二人は互いに互いの顔を知る。まさしくあの時は、本当に心から恋愛をしたいと思ったものだが、肝心なことに、自分にはそんな風な恋をする相手などいなかったのである。あらあら残酷。
でもその負は一部私にもある。私はあんまり人に興味がないのだ。だから私は特段、120位の倉角良哉くんの顔などは、特別知ろうなどとは考えもしないでいた。
あの日から数か月が経った頃、私たちは再び定期テストという戦場に駆り出されようとしていた。今か今かと出発を待つ勇者的存在がいる一方、やめておくれ、連れていかないでくれ。と、拝むようにテスト開始当日が来るのを嘆いているものもいた。
ちなみに、私はどっちでもない。
「じゃあ今日居残り勉強をする人は、図書室に来てくださいねえー。」
帰りの会で、担任の正岡先生がいつものセリフを吐く。この人は、口から出まかせという言葉がよく似合うほどに、よく嘘をつくのだけれど、決まってテストの期間になると誰よりも真面目になって先頭に進もうとする。やる気スイッチを先生だけが押して、どうなるというのか。「やる気スイッチ、君のはどこにある」って、あったら苦労しない。連打するだろ。
放課後の居残り勉強かあ。いやだけどやるしかない。今の期間に早く帰ると、普段温厚な母親にこっぴどく叱られるのだ。未来のためや自分のために勉強をしているのではなくて、ただ怒られないために勉強をする。怒ると怖いから。ただそれだけ。
本当にこんなんでいいのかな。こんな中途半端でも、一応順位は取れてんだから、別にいいのか。
て・・・・・・え。思わず私は口を大きく開けてしまった。まさかの事態だった。図書室で居残り勉強をしているのが、私以外に誰も来ていなかったのである。いやいや、あの木の柱の裏にでも座っているのでは。そうに違いない。私はそんな、ダメダメ探偵めいたことを口に出すまでなく心でつぶやいて、覗いてむなしくなるの繰り返しを何度もした。
だがやっぱり誰もいない。し、誰も来る気配もしない。孤独の空間ってこんなに辛かったっけ。あーあ、そうかこういうことなのか。お父さんがいつしか言っていたことがあった。
「孤独とは思いもよらない形で降ってくる切なさだ。自分の存在の小ささに、突然怖くなってしまう。だから人は、自分の存在の大きさを証明するために、人と群れるのだよ。」
あれを言われたときは、特にどうでもいいというような顔をして聞いていた気がする。そうだ。あの話を受けていたのは確か、いつも行っている焼肉店で、結構高めな肉寿司を食べていた時だった。そりゃ話が理解できないわけだ。無理もない。
時は金なり。私は今になって、あのお父さんの言葉が、深く深く心に刻まれたような気がする。金は時なり。多分、時間は後で価値を増すんだ。
「はあああっ。」
あれ?え?人がいる。いや、私はまったく気づいていなかった。いつから?もしかして最初から?だったとしたら、私が堂々とサボっている現場を、めちゃくちゃ目撃されてしまったということになるのだが。
白の長テーブルに、ずらりと揃えられた木製の椅子。私は一番人気のファンタジーコーナーの本に近い場所にて、ズシンと椅子に構える。隣とは言っても、2か3席くらいは離れた椅子に座っているその子は、見たこともない男の子だった。こう言ってしまっては何だが、影が薄いのだろうか。
針の音。時計の針の音が鮮明に鳴り響く。1秒1秒過ぎていくたびに、その音が鳴って、静かな空間を、さらに静かだと演出を施しているようだった。
お父さんのあの話とは違うのか。この状況は果たして孤独なのだろうか。もしも私が孤独ならあの子も孤独ってことになるけど、そんなことは勝手に決めつけていい事情じゃないだろうと思う。ああ、どうしよう。でもやっぱり気まずいな。
だからといって、帰るわけにもいかない。帰ったら怒られる。怒られるよりかは、まだ今の状況が何百倍とマシだ。だから大丈夫。自分を強く持て。我慢、我慢。力強く、持ってきていた数学のプリントを握り潰す。慌てて、シワクチャになったところをまた伸ばしたりする。
早く終わって。
「すっ・・・・・・・。」
その時、私から2、3席離れた椅子に座っていた男の子が、突然、何かを拭うような仕草を見せ始めた。ぐすっ、ぐすっ、と微かに何かを抑え込もうとするような、苦しそうな声も同時に聞こえてきた。私は思わず、数学の最後の問題を解くよりも先に、男の子のほうに目線をやる。
やはりその子は泣いていた。私と同じようなプリントを持っていたけど、涙でぐしゃぐしゃになってしまい、もう解けそうにもなく、解いたとしても提出も出来ないだろうというような有様。
貴族のようなイケメンならば、ここで顔を見せることもなく、「当たり前のことをしたまでですから。」などと言って、やはりプリントを差し出すのだろうか。(もちろん答えを完璧に映した状態の。)
だけど、今の時代ではそんなことをしてしまっては、した方も、された方も、間違いなく巻き添えを食らうような形で、こっぴどく怒られてしまうだろう。そんなことをすれば相手のためにはならないのだ。
「あああああ。。。」
何が辛くてそれほどまでに泣くんだ。私はやっぱりおかしいのかな。こんな状況であっても、まだ貴族がどうこうとか考えたって仕方がないことを考えてしまっている。さっさと話を聞いてあげるとか、ハンカチをあげるとかするべきだよね、普通。
普通。普通だ。普通に行動しろ私。普通に考えればいい。なんで普通が出来ない私。少し裕福だからって、人のことを思いやることが出来ないのは、一番の貧乏。そんなんじゃ、ダメ。
「どうしたの?良かったらこれ使って!」
「ありがとう。」
そう言って、その子は私のピンク色のハンカチで、優しく頬を撫でる。
この状況。心臓がいつにもまして、「バクバク」と鳥の羽のごとく強い音を立てる。でもこれは普通のこと。そうだ、澄ました顔で、「当たり前のことをやったまでですよ。」そう言ってやれ。当然、言わないのだけれど。
「何か、あったの?」
何故だか聞くのに少しだけ壁を感じた。まあ確かに、初対面と言えば初対面なのだが、一応ハンカチを渡した相手なのだから、それくらいのことはせめて聞いても悪いことはないはずなのに、どこかに壁があった。というか、訊くのに引けた。
そうだ、名前は。名前だけは知っておこうせめて。少しでも気まずい感じを無くすために。難しい漢字じゃないよな、、
倉角良哉。りょうや、くん?
「次のテストが怖いんだ。」
何かがその時、私の目の前を素早く通り過ぎたような気がした。突き抜かれた。そうか、この子が、前回の定期テストで120位だった倉角良哉くんだったのか。
大量の罪悪感の血が、生臭く私の心を汚す。私は彼のことを、自分とは真逆の人間スペシャルとやらで、特集をどかどかとした。本当に過去の自分を殴り飛ばしてやりたい。これくらい自分が憎くなったのは、今が初めてだった。
それくらい、この子の、いや、りょうや君の涙には心が揺れ動くものがあった。
「お母さんが病気で、家から出られなくて、だから僕がいい大学に行って、いい会社に入ってお金をたくさん貰いたいんだ。だけど、僕には、なんの才能も無い。だから、勉強で、みんなに追いつかなきゃいけないのに。苦手なところばっかり・・・・・・。」
ハンカチの上に、また透き通った水が数滴垂れる。ピンク色の布の中に溶けるように、徐々に沈んでいく。
どうしよう、どうにか、どうにかしないと。でもどうやって。頭が混乱する。
なぜだが自分も泣きそうな気分になった。私にはどうしようも出来ない。何不自由もなく、あれをやれ。これをやれ。そう言われてきたことをこなすだけで解決してきた私には、りょうやくんを助けることなどできないのだ。さっきよりも、孤独感が強い。
「無理しないで、順位なんて関係ないよ。いい大学に行ける人が、なにもみんな上の順位とは限らないし。」
もともこもないことで、私は隙間を埋めた。とにかく、間を作るのが怖かった。
「ありがとう。あ、これも、ありがとう。」
私にハンカチを返した男の子の目には、もう涙はなかった。「ありがとう」なんて言われたけれど、私の言葉はきっと心のどこにだって、かすれてもいないだろうな。まったく響いてない。なぜだかそれだけは、はっきりと分かってしまった。
あの日からしばらくが経ち、みんながまた廊下の掲示板の前に集まっていた。こないだの定期テストの順位表が張り出されたのだ。集まっていた人たちをかき分けて入り、なんとか掲示板の前へたどり着く。そして私は、上の順位よりもすぐに、下の方を見た。
彼はどうせ、そんなことを考えているわけではない。でもやっぱりどこか、そんな気がしていてしょうがなかった。
119位、倉角良哉。私は肩が一気に重くなった。あの時、同じ名前を見た私は、何を思っていたのだろうか。今の私は、人の、それもあんまり親しくない男の子の順位を見て肩を落とした。
はあ。私は何を後悔しているんだろう。あの時、自分からできることをもっとやっていればよかったんだ。私は数学のプリントの一枚すら、何も教えたり、アドバイスをしてあげたりしなかった。なんで、しなかったんだろう。涙を見て怖気づいたのだとしたら、どれだけ無責任なことか。
あ。てか、私の順位を見るのを忘れた。でも今からまたあの輪の中に突っ込むのはとても気が引ける。放課後でいいか。
放課後の廊下が少し静かになり始めたころ、具合を見ながら私は順位表の前へと歩いていっった。すると、そこにはなんと、倉角良哉くんもいた。
「あ。」私がまた余計な事を言ってしまう。だけど、良哉くんはこっちに気が付くと、あの時とはかけ離れたような、はにかむ笑い顔を見せた。
「順位、上がってた。僕、あの時から少し楽に考えれるようになった。順位なんて関係ないって、大事なのはやっぱり行こうって思う気持ちだよ。」
私の言葉を、まさかの形で復唱された。リピートアフターミー。私の言葉は、良哉くんの心の中にまで、しっかりと届いていたのだ。私は嬉しくなって、つい、無意識的にまた言葉を先に入れた。
「そう、だよね。ねね!一緒に勉強しない?」
今日はお母さんに怒られるくらい、遅く帰っちゃおうかなっ。