どこかの誰かが、こんなことを口ずさんでいた。
「嫌いよりももっと辛いのは、無関心です。」と。
どこにでもありふれたその言葉。ありふれた言葉にはありふれるに足る理由が必ずあるものだ。この場合、この言葉のセンスを光らせたのは、実際にそういう無関心的人間が存在したことと、その人々の無関心にやられた被害者の存在があったからだろう。
ただ、ここでは被害者と書いたが、この被害者、とは本当に正しいのか。
そもそも、無関心に至るまでにどれほどまでのステップがある?例えば、ひょんなことから言われた悪口。裏切り。いじめ。無関心とは、一般的に言えばマイナスなイメージがついて回っているが、マイナスなイメージの裏側にも、実はびったりとマイナスが付着しているのではないのか。
マイナスがあるから、マイナスがある。残酷ではあるが、実はそういう単純なカラクリが人を悩ませているのだ。でも、別にこのカラクリに、誰もが気付いていない、というわけではない。
むしろ、常識の範疇で、誰でも知っていること。恐ろしいのはその常識だ。無関心になることで縁を切ったり、いかにもな感じで人を無視し続けたり、こんなこと、中々出来たものではない。
縁を切ったとしても、心のどこかで未だに憎しみあい、皮肉をグチグチ繰り返して燃やし尽くせない熱を燃やし尽くせるまで燃やし尽くそうとする。言ってしまえば呪いのようなものが、僕らには必ずついてくる。
もちろん、この呪いが一生続くとは言い切れない。別に、あとから考えてみたらそうでもなかったとか、どうでもいいやってなったりするケースも全然ある。僕自身もそういうのはよく経験してきたことだ。人はそう思えるようになってから、人に初めて無関心になるということだろう。
無関心とは、仲を直す道具でもなければ、過去を消し去る便利屋でもない。ただ、確実に気持ちをフラットな状態に戻してくれる良薬には違いがないはず。良薬は口に苦しと言うのもそういうことだ。
苦味を味わっている間が、より辛くて悲しい。ただそこを乗り越えることさえ出来れば、もう関わることのない人間だと割り切れる。非常に怖いシステムだけど、上手くできていると思う。
最近ずっと上に書いたようなことばかりを考えている。良薬の苦味が最近は強くて、本当に苦しい。とはいえ、僕は別にいじめを受けているだとか、暴力をされているとか、そんなんはまったくない。いつも通り、陽キャの人たちのノリが苦手で、授業にもまったく集中できていないというだけ。
人によっちゃ、全然余裕のヨっちゃんのように思えるかもしれないことでも、僕には難題で、毎日、ずっと恐怖を味わって生きている。
(今日は自分の名前を呼ばれたときにクスクス笑われたのが辛かった)
クソったれ!って思うこともあるし、消えたいって思うこともある。無関心になりたい。何も気にしないで、吹っ切れてしまいたい。でも、今はそれが出来ない。
良薬の苦味が最高潮ということは、僕の人生が最低の調子だ。
明日は、明日は。
チョコくらい甘ければ、いいなあ。