季節は春になった。風によって桜の花びらが一枚いちまい、はらはらと降ってくる。雪斎はそんな景色を見ながら、北家の朝宅へと向かう。北領は酒造が盛んで、垂氷にも酒飲みは多くいた。その酒を分けてもらいに行くのだった。
空を飛ぶのに転身しなくなったのはいつからだろう。気付けば博陸候となったあとから自然と馬に跨るようになった。
博陸候の馬は特別懐いているわけではない。ただ副官が従順なものを選んだつもりなのだろう。
北家の朝宅に着くと、雪馬が出迎えてくれた。
「雪哉! 久しぶりだな!」
「兄上もお変わりなきようで、安心いたしました」
「約束の酒だろ? 用意できてるよ。重いから俺も運ぶよ」
「ありがとうございます」
雪馬がにこにこと屈託ない笑顔で話しかけているのに、雪斎はあくまで礼儀正しく、皆と同じように頭を下げる。それが、雪馬の不満でもあった。
廊下を歩きながら、雪馬が振り返る。
「他人行儀な話し方はつらいよ、雪哉」
雪斎は、はっと顔を上げる。雪馬は寂しそうな笑みを見せてから、また前を向いた。
「お前にも色々な事情があるんだろうけど、お前、最近昔のように笑わなくなったな」
「自分では笑っているつもりなのですが」
「表面上はな。でも心から笑わなくなった気がする」
廊下がぎしぎしと音を立てて鳴る。雪斎は言葉に詰まり、何も言えない。兄は昔から変わらず微笑みかけてくれているのに、今の自分の状況にどうしても巻き込みたくなくて、つい他人行儀な態度しか取れないのだ。
「母上も、雪雉も、俺も、みんな心配してた。黄烏なんて立場に就いたのだから、そりゃあ大変だと思う。だけど、家族の前ではそんなの……」
雪斎が思わず「兄上」と言いかけた。が、それよりも早く雪馬が再び振り返って「まあ」と悪戯っ子のように、にっと笑った。
「お前が元気で居てくれたらそれだけでいいからさ。こっちは元気でやってるし、お前が心配するようなことはないよ」
そうなのだ。博陸候となった雪斎は、改めて北家の孫として血筋を明らかにしたが、育ての親は垂氷の家族である。
いつ、今の政治に不満を持っている輩が、自分の家族に手を出すか分からない。だから、雪斎は垂氷の家族をいつでも守れるように北家で暮らせるようにと招いていたのだ。
もちろん、父は垂氷の郷長で、どうしても垂氷からは出られない。だが、父には父の部下たちがいる。
だから、母や兄弟たちだけでも中央に来てもらったのだ。
雪斎としても、この北家に帰るときだけがほっとする時間なのも確かだ。
「兄上がいつも笑ってくれるから」
雪斎がぽつりとひとりごとを呟く。
「ん?」
「いえ」
雪馬が反応したが、雪斎は首を横に振って「何でもありません」と言う。
やがて倉庫に着き、酒蔵の樽酒を見回す。
「今年は豊作でしたね、そういえば」
見回す限りたくさんの樽酒があり、雪斎はひとつの樽酒をそっと撫でる。
「そうだ。今年の酒は美味いぞ。ちょっと味見してみないか?」
「まさか。ご冗談を」
今度は雪斎が苦笑する。今はれっきとした業務中であり、太陽も高く上がっている時間帯だ。
やんわり断ったが、それでもと雪馬がどこからかお猪口を渡して、徳利を傾けた。
「兄上ってば!」
「あはは、その顔。今の顔が良い。昔の雪哉だ」
「……ですが、私は今」
「何をそんなに飲むのを躊躇するんだ? だってお前、水と酒の区別がつかないくらい強いじゃあないか」
「それは、そうですけど……」
「一杯くらい、付き合ってくれよ。お前と飲める機会なんてめったにないんだし」
そこまで言われては飲まない訳にはいかなかった。だから、雪斎はお猪口を手に取り、雪馬のお猪口と軽く突き合わせた。カンッという音が鳴り、続いて口に傾けて一口でごくりと飲み干す。
「美味しい」
「だろう? これを接待で持っていくんだよな? 重いから俺も運ぶの手伝うよ」
「何から何まで、ありがとうございます」
雪斎は後ろに控えさせていた部下たちも呼び、倉庫から北家の表門まで持っていかせる。
「とりあえずこれだけあれば足りるでしょう」
雪馬は「そうか」と言い、雪斎に顔を向ける。
「なあ、雪哉、お前もう帰るつもりなのか?」
「え? あ、ああ、はい。そのつもりです」
そうか、とまた雪馬が寂しそうな顔をする。実は家族にそんな顔をされるのが少々弱く、なんだが罪悪感も湧いてくるのだ。
「母上が今、雪哉が来るっていうから手料理を作っているところなんだ」
「母上が?」
「せめて、母上の料理を食べていかないか?」
人の優しい兄は、やんわり微笑む。それを見て、雪斎は胸の内側がじんわりと締め付けられるような心持ちになった。
朝廷の魔の巣窟の中で生きていると、ここがいかに優しい世界なのかが分かる。雪斎は次の業務の時間が差し迫っていたが、では、と切り返した。
「私も久しぶりに母上のご飯をお相伴に預かろうと思います」
「そうか! あはは、嬉しいな。では奥に一緒に行こう。俺は母上に知らせてくる」
雪馬は身を翻して北家の中へと消えていく。雪斎はゆっくりと、来た道を戻った。
部下に何か書くものと紙を貸してもらい、さらさらと筆を走らせた。
──兄上へ
やはり、次の仕事の時間がやって参りました。また時間が空いたらお邪魔致します。どうかくれぐれもお身体に気をつけて。母上にもそのようにお伝えください。
その文を部下に渡してもらうよう指示して、雪斎は馬に乗り込んだ。
どうしてだろう。優しい家族がいる空間は、忘れかけていた良心を取り戻してしまう。自分の心が、そんな家族と共に過ごすことを拒否してしまった。もしかしたら合わす顔がないのかもしれない。
部下のひとりが雪斎に訊いてきた。
「よろしいのですか?」
雪斎は馬に乗り込み、「いい」と答えた。
きっと、自分は、少し会えただけで充分なくらい大事なものをもらったのだ。
だから、いい。
馬は羽を広げ、雪斎を空へと運ぶ。
どうかお許しください、兄上、母上。私はあなた方と居ると、どうも剣を握る手が弱ってしまうそうです。
朝廷に向かう道すがら、雪斎は空を仰ぎ見る。空は雲ひとつない晴天であった。
「また参ります、いつか」
そうして、雪斎は、雪斎として朝廷に入る。ここで成すべきことを成すために。今日も誰を殺すか、考えるのだ。