しい 血のぬくみが体温の温みだ。血のざわめきが鼓動である。温かい心臓の動きはいずれ動かなくなるはずだが、今胸元にどくどくと走る音には気付かないようなふりをして、見下ろす。
いずれ動かなくなるのだ。すべては。多細胞生物で、有機物である。脳の細胞が壊死すれば、心臓が止まっていくのだ。デルウハが目が覚めたらこの状態だった。
部屋の片隅で床に転がっていたのだ。いつもなら、いるはずのベッドにいなかった銅矢が動かなくなっていたのだ。
どうしてだ。そんな考えを抱いたところで何も変わらない。合理的ではない。目の前にある事実が全てである。だがデルウハが抱いた感情は何も変わらないのだ。銅矢が死んでしまった。
その身を探り、死因を探るべきである。昨日は何もなかったのだ。彼は同じ豪奢なベッドで眠っていたはずだった。突然死に繋がる要素などあっただろうか。首に噛み付いたのだから、感染症? だがそれならば、深夜に眠っている間に突然死ぬ重篤な感染症であれば、隣にいたデルウハが気が付かない事があるのだろうか。ベッドのシーツは綺麗であろうか。深夜に苦しんだのなら、きつく握り締めているのであろうか。であれば銅矢が苦しんだ形跡があるのなら、次に活かすーーー次? 次などいつ来るのだろう。自宅に囲いたくなるような人間など、いつどこでデルウハの前に現れるのだろう。…現れるのであろうか。
銅矢が死んでしまった。その事実がすとんと肚に落ちているのに、飲み込めずにずっと残っているのは何故なのだろう。飲み込む気もない。事実が、大量の空気と共に肚の中で、肚の奥でただ、横たわっているのだ。
「…なんでだ」
出て来たのは、合理とはかけ離れたただの疑問だった。それは呑み込めない物があることを認める事で、泣いて縋る事も出来ないのに、血を吸う事も出来ずに死に水も取れずに、ただ意味もなく死なせてしまったのだった。
ぺちんと頬を叩かれて、デルウハは目を覚ました。
「デルウハ?」
銅矢が首を傾げている。デルウハは奇妙な感覚に眉を顰めた。銅矢は死んだはずである。だが、今目の前に生きている。頬を叩いたのは彼であって、どうやら生きているようだ。
「なんか、ぐっすり寝てたから」
銅矢は特に何も考えていなかったようで、無邪気に言う。顔を覗き込み、ふわあと欠伸をして、彼は生きている。
「生きてるのかなって思って」
「…俺が死ぬわけないだろう」
デルウハは大きく息を吐いた。なんだ。全てが夢だったのだ。これ以上感傷に浸る必要はない。銅矢は今日も生きている。横にいるのだ。
「吸血鬼でも、死ぬときは死ぬだろ。…殺せるんだし」
銅矢の言い方は非常に物騒だが、吸血鬼を殺してきた彼なら分かるものがあるのだろう。その背景がある中で、デルウハの深い眠りに彼は懸念を覚えたのだ。彼とて、銅矢とてデルウハを少しでも心配したようである。
デルウハは本日の予定をキャンセルしようと思った。そのためには屋敷に常設した電話に行かねばならない。眠気もある。だるさもある。だが銅矢を引き寄せるだけの力はある。…いちこ辺りが呼びに来るだろうから、その前に予定をキャンセルだ。今日は眠ってやる。明日にも来る死の香りを、今弾き飛ばしてしまう為に。
「家の事を手伝う?」
銅矢が怪訝な顔をしているのに、デルウハはため息を吐いていた。納得していないような顔だ。
「よみ辺りがな…言って聞かないんだよ」
デルウハは思い出していた。傍目には女中、あるいは養女であるハントレスは吸血鬼であるデルウハの眷属だ。彼女らはデルウハの屋敷にてそれぞれの仕事を行っている。銅矢はといえば、デルウハに敗北した吸血鬼対策に講じていた元軍人だ。敗北してからはデルウハに連れて来られた屋敷にて、人間社会では行方不明となりながら暮らしている。よみはその銅矢の存在が納得いかないらしい。
「ただ飯食らってるだけじゃない。たまには手伝いに来させなさいよ!」
基本的に銅矢は牢屋か、そこに繋がるデルウハの寝室にいるだけである。その関係性は推してはかるべしだが、まだ子供であるハントレスにはぴんと来ていないらしい。その為、よみは銅矢をしもべとして扱うべきだと言っているのだ。デルウハはまだ説明をしていないので、よみの勢いに説明できず、説得できず…結局押し切られてしまった。
銅矢は日中、特別に誂えられた剣術の道場で稽古をしているか、あるいは屋敷をぶらぶらしているか、ハントレスのお供に出掛けるかである。そのため働からざる者とみなされたのだろう。
まあいいよ、と銅矢はよみの勢いを想像してみて苦笑いした。
「手伝うって、何を?」
「それは明日いちこに聞いてくれ」
「分かった。じゃあ今日はもう寝るよな」
銅矢はそう言い、豪奢なベッドに寝転ぶ。おやすみと告げ、睡眠を取ろうと目を閉じた。だが、その上にデルウハがのしかかってくる。
「…なんだよ」
「お前の本来の仕事は、俺の相手だろう」
「…明日動けないのは困るんだけど」
「それはお前次第だな」
デルウハは勝手な事を言い、にやりと笑う。大きな手が銅矢の頬に触れ、耳たぶをもみ、首から下に伸びた。銅矢は勝手な奴だと思いながら、断る術もなく手が素肌に触れるのを止めることが出来なかった。
翌朝によみから仰せつかったのは、三メートルはあろうという天井に付いたシャンデリアの埃払いだった。
「あそこの埃取って」
「…俺飛べないんだけど」
はああ!?とよみが不満げに言う。そう言う彼女の背には、翼が生えていた。洋間は美しい壁紙に絵画、壺、家具に絨毯に彩られている。その美しさを保つのに、彼女らは尽力しているのが見て取れた。銅矢は洋間に行くことは無い。いつも食事は牢屋の中なので、改めてデルウハの屋敷を初めて見るのだった。銅矢が興味深げに見回していると、よみが不満げに続ける。
「飛べないの!?」
「飛べないし人間だし。あ、脚立あるなら持って来てくれよ」
「脚立じゃ危ないわよ。もーいい、私がやる」
よみが呆れるのに、銅矢はいいからと割り込んだ。
「飛ぶのも疲れるんだろ? 脚立でやるって。俺のがタッパあるし、手伝うよ」
「何よ、やる気はあるのに人間のままなんて。もうとっくに眷属かと思ったわよ」
そう言ってバケツと雑巾を渡すよみは、銅矢を人間だと思わなかったらしい。あまり銅矢に興味を持たなかったし、デルウハとの関係にもまったくぴんと来ていないようだ。
銅矢は脚立を手慣れた様子で立てると、天井の照明に向かって歩き出した。その足元が少し危うい気がする。いちこは心配で、登りきるまでに脚立を自主的に支えていた。むつも心配そうに見つめていた。銅矢は慣れているのか、埃を取るのは手早く済ませる。掃除は色々とやっていたようだ。
「終わったぞ」
いちこがまだ支えている。だから銅矢は安心して降りることにした。一段、一段と降りていったその時であった。
「危ない!」
「え」
突然、銅矢の足元がぐわんと揺れた。脚立が倒れたのだ。そのため慣性に引きずられ、銅矢は脚立から放り出されるような格好で下へ、下へ落ちていく。床に落ちる直前、いちこが咄嗟に銅矢を抱きかかえた。そのキャッチが無ければ、危なかったのだろう。いちこは銅矢を下ろしながら、きっと振り返った。そこにはにこがいた。
「にこ!」
「…何」
「何じゃないわ、危ないじゃないの! 脚立蹴るなんて、なに考えてるの」
「あーごめん、気付かなかったわぁ~。…家族を捨てた人間なんて」
そう言うと、にこはさっさとバケツを手に掃除に向かって歩き出していった。残された銅矢やハントレスは、そのぴりついた空気を纏った彼女に、これ以上何か言えなかった。
「なん…なのよあれ」
辛うじてよみが言う。いちこに礼を言い、銅矢が下りると同じように首を傾げた。
「俺…なんかしたのか?」
「あんたはまあ…そうね。それは」
「よみ」
何かを言おうとしたよみを、いちこが制する。すると、みちがにこに声を掛けた。
「あのねにこ。貴由先生は、自分がなんとかしてる。家族を捨ててるって言うけど、この人は悪いことはしてない」
「あっそ」
「…にこ。貴方ね」
みちが何か言おうとしたが、銅矢はそれを手を挙げて止める。
「いい。いいよ、嫌いなら仕方がないさ」
「…そういうの。善人ぶってるのも、むかつく」
にこはそこで吐き捨てると、洋間からいなくなった。別の場所を掃除しに向かったのだろう。いちこがため息を吐いた。
「あの子…銅矢さんがどんな人かも知らないのに」
「いちこ、いいから。それより、掃除はこれで終わりじゃないんだろ?」
「あ、忘れてた…次はあっちの埃払ってよ」
「よみ、高所の作業はもうやめてさしあげて」
またにこが脚立を倒しに来る可能性も無くはない。それに銅矢も怖いだろうと思ったが、銅矢は大丈夫だからとひょいひょいと登るのだった。
「終わったな」
「助かりました…飛ぶのは出来るけど、まだ安定しないから」
結局あれから銅矢が洋間中のシャンデリアの埃を落として、その間にいちこ達は掃除に精を出し…午前中のお掃除は終わったらしい。といってもまだ10時前である。9時45分であろうか。高級な外国製の置時計を見て、ぞうきんを絞っていたむつは慌てて声を上げた。
「あ、時間…!」
「やば、先生来ちゃう!」
「先生?」
「じゃああんたはもういいわ。私達は授業受けてくるから!」
「お、おう」
掃除道具一式を持って行ってしまい、よみ達は一斉に廊下を走って行ってしまった。銅矢は洋間に一人残された。きらきらとしたシャンデリアに日光が差し込んできて、わずかながら光りはじめている。天井は高く手を伸ばしても、台に乗っても脚立に乗っても届かない。それがデルウハの得ている威光であり、権力であり、力だった。
銅矢はその天井にどこまで近付けたのだろう。もしかしたら、届いた気になってちっとも届かなかったのではないだろうか? だがその評価を知るのはデルウハだけだ。肝心のデルウハは仕事で、とっくの昔に高級車で出掛けて行った。何もかもが、銅矢の手には届かない家である。だからか、ついついソファーに一人で座ってみた。ジャカード織りで金糸や銀糸が織り込まれた模様が美しい。高価な物だろう、やはり落ち着かない。
銅矢が腰を浮かせたところで、洋間の扉を開ける者がいた。
「あ」
にこである。にこは先ほどの掃除に出ていた格好から着替えていて、銅矢を見ると口をむうと尖らせた。
「なんだ」
それだけ言うと彼女はばたん、と扉を閉めてしまう。銅矢が何か言う暇もなかった。弁解の余地は無いようである。にこの言葉は、銅矢に身に覚えがあった。妹のことであろう。
銅矢の妹である貴由は、今みちが積極的に支援を行い、今は裁縫学校に通って腕を高めているそうだ。そこで、少しずつ売り物にならないかとみちが各所に売り込んでいるらしい。銅矢を失い消沈していた妹を、みちはよく支えてくれている。それだけ貴由の裁縫の腕を見込んだのだ。銅矢は誇らしくもあり、同時に貴由を見てやれない事に罪悪感もあった。
デルウハとの決戦に向かう際、銅矢はすべてを捨てる覚悟を持っていた。死ぬ可能性を考慮したのだ。貴由には置手紙を残し、これからの生活の術を整えるために遠方の親戚にも頭を下げた。土下座さえした。あれほど愛していた職務である軍も、退職した。デルウハを殺せなかった時、あるいは殺せたとて、何かの責任が軍に降りかかるのを避けたかったのだ。すべてはデルウハとの決戦に持ち込まれた。そうして、負けたのだ。
その決戦の為に、家族を捨てたとみなされても、銅矢は仕方ないと思っている。にこが嫌っているのは、きっとその点なのだろう。にこがととと、と先程よみ達が走って行った方に向かうのが足音で分かる。授業と言っていたが、何かあるのだろうか。何にせよ銅矢には関係が無い話で、首を突っ込むのもおかしいだろう。素直にデルウハの寝室に戻る事にしたのだった。
そこでデルウハが買って来てくれる新聞や本を読んで、道場で体を動かそう。それが今の銅矢の日常だ。今日も穏やかに過ごせそうである。 続
「にこ、買い出し行ってきて」
「はあー!? 今日の当番はみちとむつでしょ!」
「ちょっと用が出来たの! 主さまがお困りだから、今からそっちに回るわ」
「今日の買い出しって、量的に二人いなきゃダメなやつでしょ。やだぁ、絶対無理に決まってるじゃん。いちこどうしちゃったの?」
「だから、銅矢さんに行ってもらうわ」
「はああ!?」
「手が空いてて、私達より重い荷物持ってくれるのよ? いいじゃない。行ってきて」
にこは反論したかった。嫌っている人間と出掛けるなどまっぴらごめんである。だが断れば、にこが一人で買い出しをしなければならない。だが銅矢を嫌っている手前、素直に受け入れることも出来ない。いちこに文句を言うが、だがいちこは既に銅矢を呼び寄せていたらしく、彼はひょこっと扉から現れた。
「行くんだろ?」
「うぐ…」
「行ってきて。銅矢さんにはおつかいの紙を渡してあるから、二人で協力してちょうだいね」
「いちこ…!」
「なにもおかしいことないでしょう? 家の事を手伝ってくれるって言うんだから」
「……」
にこは反論の術を失ったが、いちこを睨みつけている。銅矢は特に気にもしていないようで、にこの肩をぽんぽんと叩いた。
「ほら嬢ちゃん、行くぞ」
「じょ、嬢ちゃんじゃないし!」
銅矢の後ろににこが続く。あんたなんか、とにこが銅矢を軽く蹴った。成人男性の体は簡単にくの字に曲がってしまう。
「こらにこ!」
いちこは𠮟責したが、届いたのであろうか。銅矢は軽く吹っ飛んで床に転んだが、すぐに立って歩き出した。頑丈なようである。にこはその隙にすたすたと先に歩いて行ってしまった。大丈夫かしらといちこは呟く。だが今は屋敷の中であるも、買い物は人前だ。人前に出たら流石に大丈夫だろうと思い直し、ひとまず二人で行かせることにした。
買い出しはいちこの予想通り、にこは素直に応じていた。顔馴染みの店主に、お友達かと問われるとそうですと笑顔で誤魔化すほどの余裕はあった。だが恋人かいと尋ねられた時、非常に嫌な顔を一瞬だけしたのは…銅矢だけが見ていた。すぐににこは笑顔を見せ、違いますよ~と猫を被って見せたのだ。女の子は器用だなと感心しながら、買い出しは順調であった。銅矢が持つ物が非常に多く、にこは少なめなのが気になるが、おつかいの紙をにこに奪われているから仕方ない。
もう終わり、とにこが小さな言葉で言った。
「そっか。じゃあ戻るでいいよな。他に寄りたいところは?」
「そういう、年上ぶるのもウザい」
「年上だから仕方ないだろ?」
銅矢は気にしていないようだ。年ごろの少女に拒絶されると、多少なりとも傷付くであろうが銅矢はあまり気にしない性質のようである。妹がいるからか、過度な期待をしていないのか、ともあれにこの拒絶が思ったよりも効果を成さないのだ。にこは膨れる。これじゃ彼女の独り相撲である。銅矢はにこを嫌っていないのに、にこは銅矢を嫌っている。この独り相撲を空しいと思えば人間はその態度を改めるのだろうが、それが出来ないのはにこがまだ子供で、譲れない部分を刺激されてるからだ。
ふんとにこがそっぽを向く。まあ今は仕方ないと銅矢はそれ以上何も言わなかった。だがにこの動きについては気にしながら歩いていると、ふと、にこの目線があるシャンソン歌手ののぼりに目が留まっていることに気が付いた。
「シャンソン好きなのか?」
「ば…ッ違うし!」
「違うって、だって見てたろ」
「だーかーら、違うの!」
にこは威嚇する猫のように鋭い反応であった。銅矢に取りつく島は無い。しかし、有名なシャンソン歌手だ。銅矢も名前を知っている。
「好きなら聞いて行けばいいだろ。俺が持ってくよ」
「はあ!? そ、そういうのいいから! 家族捨てた人間にそんな、気を遣われたくないし…」
「それは関係ないだろ…いいから、俺に構わず聞いてこいよ」
「………ちが…の」
「ん?」
「違うの…。あの人……」
にこは足を止めていた。銅矢も足を止める。にこがぼそぼと何かを言っているのだ。人混みの中だが、耳を傾ける。にこは俯きながら、それでもしっかりと言った。
「あの人……私の親なの」
「へ?」
家族?
デルウハは身寄りのない子供達を引き取ったとばかり思っていたが、にこに家族がいるのかと銅矢は唖然としていた。親が分かっているのなら、何故にこはデルウハの元にいるのだろう。そんな当然の疑問も浮かぶが、何か事情があるのだろうと察知する。銅矢とて、実の肉親とは道を違えた身である。人にはそれぞれ事情があるのだ。
「まあ、事情については聞かないけどさ。それなら、会わなくていいか」
銅矢は少々薄情とも思える言葉を呟いた。にこは驚く。
「なんで」
「なんでって…にこは会いたくないんだろ?」
「そ、そうだけど。でも普通会えって言うもんじゃないの…?」
「俺は実の祖父にもう会わないって決めた。向こうも同じだと思う。何があっても連絡は来ないし、する気もない」
「…思ったより薄情ね」
「妹を守る為だったんだ。妹に、二度と会わせたくなかった」
それだけ思っていた妹を、彼は置いて出て行った。その覚悟はいかほどのものであったのだろう。 それこそ死を予想するほどに。にこは短い言葉の中に、銅矢の覚悟を感じて急に彼への評価を改めた。だが銅矢はのんびりと続ける。
「まあ、俺が言う事じゃないかもしれないけど。にこが嫌なら会わない方がいいな。嫌な思いをするもんだし…」
そこまで言うと、ぐいっとにこは銅矢の手を引いた。銅矢は不思議そうににこを見やる。近い位置の彼女は、むすっと頬を膨らませていたのだった。
「会いたくない訳じゃないの…!」
「あ、そうなのか?」
「でも会えないの! なんか分かるでしょそういうの…」
「うーん」
銅矢はシャンソン歌手ののぼりを見やる。会って何を話せばいいのか、そんな単純な事が引っかかって会う気にならないのだろうか。それとも罵りたい感情が先立って、あまりにも言葉が出て来ないのか? どちらにせよ、抱える感情はにこのものだ。
「じゃあ会ってみたらどうだ? 俺も横にいるから」
「は、はあ…!? なんでそうなるの」
「デルウハに頼んで、会わせてもらえばいいだろ。今日相談しよう」
「な、なんでそうなるの…っていうか、いい! やっぱいい! 自分で相談する!」
「遠慮すんなよ、俺も付いててやるから」
「あーもう! お人好しだって聞いてたけど、なんなのもう! 意味わかんない!」
喚くにこを引きずって、銅矢はとりあえず買い出しから戻ろうと帰るのだった。
道中、ようやく落ち着いたにこに銅矢は尋ねる。
「そういや、なんで家族って分かったんだ?」
「…昔の記憶。ある日突然思い出したの。わたし、あの人の楽屋の中で、遊んでた」
化粧用品がたくさん並んだ、むせ返るおしろいの匂い。空調の効かない大部屋で、壁は一面鏡だらけだった。その鏡だらけの空間がにこは好きで、いつもはしゃいで飛び回っていた。古臭くてかびくさい座布団、古い畳のざりざりとした感触。子供だから仕方ないと見逃されていて、演者の中でひときわ美しく笑う、あのシャンソン歌手の若い笑顔ーーー。
「ずっと忘れてたのに、のぼり見てたら思い出したの。あののぼりをいっつも目印に、遊びに行ってた」
「そうか…だからあの人がお母さんなんだな」
にこはこくりと頷いた。でもそれからのにこの人生は、東京中の親戚にたらいまわしにされて碌に食事を与えられなかった。売女の子だと正面から罵られたこともあったほどだ。その不遇に、自分の出生に絶望し、家を飛び出したのが運の尽きであり、デルウハとの出会いになるのだった。にこの人生において母親はほとんど関わりが無かった。目に見えた支援も、一度の邂逅すらも無かった。だから母親には、父親は憎むべきもので信用に値しないものであったのだ。大人の嘘に、にこは過敏に反応する癖がある。それはあらゆる家族を点々と暮らす中で、身に着けた彼女の防衛策であったのだ。それを思えば、文句の一つでも言ってやりたいのはやまやまだ。
「じゃあ何か言ってやればいいだろ」
「何かってなに?」
「何って、そうだな…なんで捨てたのかとか、」
「デルウハと同じ事言わないでよ…」
「へ?」
「デルウハは違ってたけどね。親の資質とか経済力をののしってやれって言ってた」
「なんだ。デルウハも同じ意見なのか」
銅矢は何故か苦笑いする。
「じゃあ俺も行ってやるから。そしたら勇気出るかもしれないだろ?」
「ウザい…」
「じゃあ一人で行くのか?」
「行かない! ついてきなさいよ、ついてきたいんなら!」
銅矢は付いて行きたい訳では無い、それはにこも分かっている。だがついつい憎まれ口だ。そういうのはよみの特権であったのに、にこには余裕が無いのだろう。銅矢は分かった分かったと何も気にしていないように、笑う。それが、にこの怒りを誘ったがむうと頬を膨らませるのだった。
デルウハは所用の隙間を縫って、浅草に来ていた。例のシャンソン歌手が来ているのである。にこが母親だと言う相手であるが、確証はにこの記憶の中にしかない。だがため込んだ不満や出生の秘密などを知りたくなり、銅矢を引き連れて会いに行く事にしたようだ。
デルウハはにこの精神的な不安定さには気付いていた。今は子供達同士で親睦を深めているが、彼女には依存先を探しているような不安定さがある。その不安定さが”家族”という小さなコミュニティに関わるものであれば、それを取っ払う必要はあった。デルウハにとって彼女は眷属だ。生かしてやり、使役しているが依存先になる気は今のところない。だからこそ、銅矢がその壁を取っ払うのであれば願ったり叶ったりであろう。
だが何かあれば即座に回収し、その精神を回復させてやらねばならない。その為デルウハは浅草に高級車を付け、中折れ帽を外すと楽屋の前で待つことにした。その中には、にこと銅矢がいる。彼らがシャンソン歌手と約束した時間を十分ほど過ぎているので、会話が弾んでいるのであれば出て来ないし、出て来るのなら経過を聞ける時間だ。
駆け出す音がして、よろよろとにこが出て来る。デルウハを見つけると、彼女はよろよろと近寄って来た。胸元にぽすんと顔を寄せて来た。
「おい、どうした?」
「……」
「にこ?」
「………ひ、人違いだった……」
はい?
「だって、お前の記憶ではあの歌手の楽屋で遊んでたんだろ? じゃあ間違いない…」
「それが! 違ってたの!」
気恥ずかしさかにこの顔は真っ赤であった。その背を、銅矢が楽屋から出て追い掛けて来る。
「おい、にこ。写真…あ、」
銅矢はデルウハにそこで気付いたらしい。その手には古ぼけた写真が一枚だけあった。そこに、若いシャンソン歌手とその弟子、仲間が写っている。その一角に、にことそっくりな顔の女が一人。
銅矢が指差す前にデルウハはその女を見入った。遅れて銅矢が指差した。どうやら彼女がにこの母親らしい。
「あの歌手の弟子だったんだって…」
あの歌手は、生涯を歌に捧げていたので独身であるという話だ。
「あたしはおぼこだよ。せっかく若い男がいるんだ、確かめてみるといい」
「ああ、いや、それは」
「ふふ、冗談さ。でもそっくりだねえ、相手の男は誰だか教えてもらわなかったから知らないね。夢破れたから新潟に帰ったって話だったけど、てっきり連れて帰ったんだと思ったよ」
歌手はにこのことも覚えていた。だからすぐに誤解は解けたのだが…。
残されたのは、気恥ずかしさが先立って、親に捨てられた事実など気にしていないにこだった。銅矢に詰め寄り、どんどんと胸を叩く。
「恥ずかしくて死にそう~~~!」
「まあまあ、これで分かっただろ。にこの母親は新潟にいるんだ、追い掛けるってんなら」
「いらない! もう知らない、そんな薄情女の事なんか! 今は恥ずかしいの! 銅矢のせいだから! ばかー!」
傍目には痴話喧嘩か?と好奇の目で晒されている。デルウハは息を吐いた。まだ仕事が残っているので、にこと銅矢を乗せることも出来ない。それに時間が差し迫っているので、デルウハは一人で車に乗り込んだ。
「…じゃあ俺は行く。何か他に分かったら教えてくれ」
「薄情だな…」
銅矢が呟いたのに、デルウハは何故か笑ってしまった。薄情が多い世の中である。だがそれでも、世は回るのだ。
「…疲れた」
「まあ、それはいいんだけどさ。吸血鬼でも疲れるんだな」
デルウハの頭がごろりと寝転がっている。銅矢の膝の上に乗っている。ベッドに座っている銅矢の膝である。豪奢なベッドに寝転ぶのではなく、わざわざ銅矢の膝を選んでいるが、若い男の肉はそれなりに固いはずだ。何が良いのかなあと思いながら、銅矢は膝を貸している。
「ストライキを、最近バカの一つみたいに覚えやがって…」
「経営者側は大変だな」
よしよしとデルウハの耳辺りを撫でてやる。その耳の形は、少しだけ常人より長かった。吸血鬼の証である。頭を撫でつつ、髪を撫でつけて、耳の形に添ってつうと縁をなぞると、耳がぴくりと動く。
「耳長いな」
「…こら、触るな」
「なんで?」
銅矢は無視し、こしょこしょとくすぐるように指を動かす。耳が広い分、弱かったりするのかなという好奇心だった。デルウハはぴくぴくと耳を動かしている。人間じゃあり得ない稼働が、なんだか面白い。こしょこしょ。
「銅矢」
「何?」
「こら、お前な…」
「だって前、お前人の耳いじったよな?」
「それと、これとは…っ」
「いいじゃん、別に」
こしょこしょ。今は縁に指を動かしてくすぐるだけだが、そのうちに指でもみ、マッサージをし始めた。血流を良くし、より過敏にするつもりか。銅矢にそのつもりはないかもしれないが、面白いからといじるのは辞めさせたいところだ。デルウハが即座に起き上がれば解決するのだが、その方法だと銅矢からの好感度が下がりそうだ。結局、仕返しのような形で銅矢は目を輝かせているのだから。
「ふ…っく…」
「耳長いのってなんか意味あるのかな? よく聞こえるとか?」
もみもみ。
「…ふー…ふー…」
「なあどうなんだよ。人間の時と入れ替わるんだろ? 体」
「おまえ、な」
「え?」
銅矢は素っ頓狂な声を上げる。デルウハの変化はあまり興味が無く、ただ耳をいじっているだけだったようだ。その点は、まだ子供のような所がある。銅矢に感づかれていないのはいいが、そのうちデルウハの変化にも気付くだろう。銅矢はふと、デルウハを眺めている。まさか様子の変化に気付いたか? 勝手に耳をいじり、性感帯であることに気付いたのか。
銅矢は何を思ったのか、ふーっと耳の穴に息を引きかける。ぞぞぞっと、耳の産毛が逆立つような感覚がする。まずい、と思った。ここはデルウハの私室である。ハントレスに見られる心配も懸念もない。だが、この引き出すような感覚につられると、次第に銅矢のいいようにされてしまう。今日はその気分ではない。抱かれるよりも、抱くよりも、デルウハは何よりも疲れている。銅矢は返答がないデルウハに不思議な顔をして、つい手を止めた。
「なんだよ。止めた方がいいのか?」
やめろよ。なんでそこは言われなくてもやめるんだよ。やるならやれ。やらんならやめろ。
なんでそこは子供なんだよ。子供のちょっかいレベルなんだよ…!
銅矢はそこまで性的な事に興味が無いのか、受け身なのか? あくまで自分がやるのは悪戯なのだろうか。もう指はとっくに止まっている。だが少しだけ引き出された欲求は、正直発散したい。デルウハの手が銅矢の腰に伸びた。
「え、なんだよ。もう寝るんじゃないのか」
「お前のせいだろ」
抱き寄せると銅矢は逃げられない。腰が動けなければ、もうあきらめる他無いだろう。銅矢はむうと不満そうであったが、それでもデルウハが起き上がって抱き寄せて来るので腕の中にすっぽりと収まった。その時、銅矢はぽつりとつぶやく。
「…お前みたいにいかないのな」
え? まさか責めてたの? もう少しやり方を教えとくか、その身に叩き込んだ方が良さそうだな…。
そこまで考えると、デルウハは銅矢の耳にふーっと息を奥まで押し込んだ。ひゃっと銅矢が肩を竦める。ここまでやってみろよと思いながら、ベッドに押し倒すのだった。
「絶対こっちが合ってるわよ!」
「その…多分…違ってて…」
銅矢がいちことバケツの水を捨てて戻って来た時、よみとむつが喧嘩をしていた。喧嘩と言っても大した内容ではなさそうだが、デルウハは出勤していているのは屋敷にいるのはハントレス達と銅矢だけである。みちやにこは遠巻きで、いつかが必死に止めている。いちこが長女らしく空気をめいっぱい吸い込むのだった。
「こら! 何してるの」
「げっ。戻って来た…」
「また喧嘩なの? あと、掃除は終わったの?!」
いちこの剣幕に、よみはごにょごにょと言う。
「終わったわよ…」
横で、むつもこくこくと頷いた。
「じゃあ片付けなさいよ。なに喧嘩してるの。授業始まっちゃうでしょ」
「あーもう、いちこ! いつもウザったい。やることやったんだからいいでしょ、話くらい」
「あーあーまあまあ」
ほとんど身長が近い少女の間に、背の高い銅矢が割って入り込んだ。身長が近しかったり、見た目が似ている者同士は仲間意識が湧くものだ。その少女らの中に、異物が割り込んで来たので注目は一気に銅矢に集まった。
「落ち着け。落ち着けって。まあともかく掃除は終わったんだろ? とりあえず片付けよう」
「なんッで、あんたが仕切るのよ!」
「こらよみ! 銅矢さんに何言うの!」
「まあだから…よみとむつの話はあとで聞くから、まずは片付けよう。な? みちもにこも終わってるんだろ?」
視線を向けられたみちは頷き、にこも笑いながら言う。
「ん」
「当たり前じゃーん」
「いつかは?」
「ぼかぁ、途中で二人が喧嘩するもんだから…ちょっと途中なんだ」
「じゃあ俺が手伝うから。それで今手が終わってるのは、片付けに入ること。いちこはよみとむつの片付け手伝って…」
「あーもう仕切るなっての!」
「分かった分かった。よみの話はあとでな」
「ぐぬぬ…」
銅矢に軽く流され、よみは不満げであるが正論なのでそれ以上の反論がむずかしかった。結局その場は解散し、いつかの手伝いを終えた銅矢と片付けが終わった面々でもう一度洋間に集まるのだった。自然と銅矢を中心に集まっている。
「よし、終わったな。じゃあこれで…」
「ちょっと。話聞くって言ったじゃなの」
「ああ、忘れてないって。で? 何が原因なんだ、喧嘩」
「喧嘩じゃない…」
むつがごにょごにょと言う。
「この前の試験やったでしょ、外国語の…。その答えがあたしが書いたのと違うって言うから…!」
「だって貴婦人はLadyだったはずで…」
「貴婦人はLazyでしょ。れーぢーって言ってたじゃないの」
「でも、外国語は…」
「あんたが合ってるって証拠でもあるの!?」
ヒートアップしそうな言い合いに、銅矢は咄嗟に割り込んだ。
「あー落ち着け落ち着け。じゃあこうしよう」
いちこが不思議そうに尋ねた。
「銅矢さん、答え分かるんですか?」
「え、俺? 知らない。外国語は専門外だし、習ったこともない」
「じゃあすっこんでなさいよ!」
「だから、辞書はあるんだろ? 辞書見たら答えが分かるかもしれない」
「えーでもなんかズルみたくなぁい?」
にこが火に油を注ぐように言う。
「もめるよりいいだろ。それに答え分かってすっきりしたいだろ? それならもめないし」
「そうしましょう!」
いちこが賛同したので、問答無用で家庭教師がやって来ると言う勉強部屋に銅矢は連れられた。そこに分厚い英和辞書と和英辞書がある。英和辞書をぱらぱらとめくり、Lの項目をめくった。
「ごめん、俺分からないんだけど…」
いちこが横からささっとページをめくった。Laから始まる単語を引いていく。
「貴婦人、貴婦人…あっ。ありました! L・a……d・yです」
「むつが正しいって事ぉ?」
にこがそう言いながら振り返る。間違っていたよみは非常に気恥ずかしいのか、赤面しながらぐぬぬと不満げにしている。むつはといえば、気まずそうであった。そこでふと、銅矢が気付く。
「あ、Lazyって単語もある」
「え!?」
よみも辞書を覗き込んだ。
「怠け者…だってさ。たぶんこれで合ってるよな?」
「ええ。Zですから」
「ふん…」
答えは間違っていたが、該当する単語もあると知ってよみは少し落ち着いたようだ。さ、といちこが振り返る。
「さ、もういいでしょ? 着替えて準備するわよ!」
「えーどうせなら試験の答え合わせしたぁい」
「だめ。そんなずるはだめよ。じゃあ行くわよ!」
いちこが辞書に向かおうとする全員を押し出し、彼女らは着替えると言うので別室に向かうのだった。
疲れる…。
洋間のソファーで銅矢は気が抜けていた。思春期の妹の扱いには慣れていたつもりだが、複数人の扱いには慣れていない。それぞれ性格も違うし、よくデルウハは彼女らを纏めているなと感心するほどだ。ハントレスは授業を受けるために勉強部屋に向かったはずである。掃除用の服から、授業用の服へ。着替え終わるとみな移動するのだ。ばたばたと移動する音が聞こえる。だが、その音に混じり、洋間の扉を開ける音が聞こえた。
かちゃり。
「ん?」
銅矢が振り返る。そこには着替えを終えたむつがいた。むつは銅矢に用があったらしく、ソファーに小走りに近付いていく。銅矢も振り返った。むつと銅矢は、顔を見合わせるようにしていて、近付けて来た。ごにょごにょと何か言う。
「…あの。あのね…」
「どうした?」
「あの…ありがと」
小さく礼を言われたようである。銅矢は分かったと返すと、むつは少しだけ顔を赤くしていたがすぐに他のハントレスと一緒に勉強部屋に向かうのだった。
「なんだろうな…」
むつはどこか読めない女の子である。銅矢の周りにはいない性格だった。妙に頑固で、でも内気で頭は良さそうだ。分かりやすくはないが、銅矢には無害であるのでひとまずは良さそうである。デルウハがすごいな、となんとなく思った出来事であった。
「デルウハ」
「なんだ」
銅矢に膝枕をされながら、デルウハは平然と答える。傍目には他人に甘えている様子であるが、デルウハは当然であろうとばかりに会話をしていた。銅矢はその環境がすこしだけ面白いが、ひとまずその笑いは噛み殺していた。代わりに、デルウハを甘やかすように髪を撫でつけてやっていた。
「むつってどんな子なんだ?」
「むつか」
そう言いながらごろりとデルウハは寝返りを打つ。銅矢の膝は若い男らしく固いのだ。その為、ちょうどいい場所を探して右の耳を当ててみたり、左の耳を当ててみたりする。そのもぞもぞと動くのがくすぐったく、動くなよと銅矢は思わず言っていた。ううむ、とデルウハが唸る。
「固い」
「文句言うなよ…勝手に寝転んでるんだろ」
「他にやわらかい膝枕を探していいのか?」
「…まあ、それはお前の自由だけどさ」
銅矢は少し唇を尖らせる。デルウハはそのちいさな嫉妬に少しだけ微笑んだ。そして彼の膝あたりを手でぽんぽんと叩いてやる。
「冗談だ」
「まあ、よそで幾らでも甘やかしてもらえればいいだろ」
「銅矢。冗談だから真に受けるな。仕事と家の往復で、得られるのはお前だけだよ」
「ふーん」
銅矢は半信半疑のようだが、ひとまず飲み込んだようだ。デルウハの手が銅矢の腰に回った。やさしく摩り、宥めるように誘うようにした。
「こんな相手を放っておいて、他に探す気力は湧かん」
「へえ」
「銅矢。そんなに嫉妬されると嬉しいが、」
「嫉妬してない」
頬は膨らんでいないが、多少膨れているのは見て取れる。このままでは銅矢はふくれっ面のままだろう。デルウハの手は腰を摩りながら、もう片手で銅矢のあごを掴む。顔を近付けさせる為だ。銅矢は屈みこみ、少しずつだが膝上のデルウハに顔を近付けていった。誤魔化すようにキスするのか、あるいは真実の愛を伝える為か。どちらにせよまだ銅矢は半信半疑のような顔だ。デルウハは熱をこめて、銅矢の顔を見つめてやる。すると、銅矢の表情が少しやわらいだ。
「銅矢」
彼は見つめられ、まんざらでもないように呟く。
「…ん」
そうして互いが互いの顔を触れ合わせる直前のことだ。
ぎいっと大きく扉が鳴る音がした。きちんと閉めていなかったのか、湿気の関係で開いてしまったのか? なんにせよデルウハの部屋の扉は開いてしまった。万が一の可能性を引いてしまったらしい。今はその原因を思案している場合ではない。
そこに、運悪く人影がいた。むつである。なんでいたかは分からない。たまたまデルウハの部屋を通りがかったらしいのか、彼女も荷物を抱えたまま唖然としている。その一方で、デルウハと銅矢は顔を極力近付けて、今にも口付けをする段階だ。
いや、この状況はまずい。
「あ……」
むつが何かを言おうとした。デルウハと銅矢は言葉が出ない。違うんだとも、誤解だとも言うのはおかしい。何を言う? 何を言えばいい? 何を言えば時間が逆転するようなことが、そんな魔法のような言葉が起きる? …そう思案していると、先にむつが先に言葉を紡いだのだった。
「ご、ごゆっくり……?」
かえって気を遣われた…!
ぱたんとむつが扉を閉めてくれる。もう開く様子はない。何故先程だけ開いてしまったのか、デルウハ達にはその原因も理由も皆目見当もつかないが、とにかく開いたものは仕方なかった。むつに見られた。そこで銅矢はふと、自分の疑問を思い出す。
「なあデルウハ…」
「なんだ」
「むつってどんな子……?」
この疑問は、現状を打破するのにいずれ必要になると思われた。デルウハは銅矢の膝上でため息を吐きながら、そうだなと呟く。
「むつは…少々考え方が独特だ。見て分かるように内気だが少々頑固で…」
「頭がいいよな。見てて、なんとなく分かる」
「そうだな。だが、むつは俺を嫌ってる」
「え?」
銅矢は不思議そうな声を上げる。ハントレスはデルウハの眷属である。また、身寄りのない子供達であった彼女らを救い上げた恩人であるとも。銅矢から見ても彼女らの忠誠心は非常に強いものだ。その一辺倒で盤石な軍団だとばかり思っていたが、むつは違うらしい。
「むつは、ハントレスに固執してる。俺よりも姉妹の方が大事みたいでな。あいつの中で、俺の優先順位は低い」
「そうなのか…」
「まあ六人もいれば一人くらいそういう奴はいるさ…まあ俺には無害だし、好きにしてもらえばいい。あいつの作戦は独創的で、正直面白くてな。俺と似た気質なんだと思ってる」
「そっか。じゃあ」
ふと銅矢は口にしようとした言葉は、デルウハにも分かっていた。
「黙っていてくれるか、ってことだろ?」
「そう…それ…」
「俺からも言っておく。その点は大丈夫だ。まあ、覚えてるだろうがな…」
「はあ…そっか。…寝るか?」
「そうだな」
正直に言えば、二人の中に漂う先程までのあまい感覚は霧散している。二人はすごすごと、寝所に入って早く忘れようと寝てしまうのだった。
翌日の事だった。掃除に参加していた銅矢の袖を、むつが引く。相変わらずの小声で、ごにょごにょと囁いた。その為、他のハントレスに聞こえる必要はない。
「あのね。…あとで話せる?」
「いいぞ。昼ごはんの後か?」
「うん」
むつは少し嬉しそうだった。銅矢はその様子が少し不思議だった。だがとりあえずむつと話せるのであれば問題ない。昨夜の件もあるし、とりあえず銅矢も話したかったところだ。今朝にデルウハがむつに言づけたとは聞いたが、その話もついでにしてしまおう。そう思いながら、高そうな壺を抱えて埃を拭き取るのだった。
「むつ。ごめんな待たせて」
むつはくハントレスは午前中の掃除や家事が終わると、お昼ご飯を澄ませる。その後好きに行動するのだ。前は全員でサッカーをしたり、銅矢の為に作られた道場で鍛錬をしたり…それが追われば夕方になる前に買い出しなども発生するが、ひとまずは自由時間である。庭で遊んだり、勉強部屋にこもったり、それぞれだ。人気がいなさそうな場所はむつが選んだ。広大な庭の隅である。そこにベンチが置いてあり、むつはそこにちょこんと座っていた。人が二人座れるベンチであるが、一番端に座っているのがむつらしい。よみだったら真ん中に座りそうだ。
そう思いながら銅矢はむつの横に座る。ぽかぽかとした陽気と、青く澄み渡る空。手入れされている庭木の葉擦れの音。美しい庭と気持ちのいい天気だ。腹を探るような話し合いなどには似つかわしくない場所である。だから銅矢はすぐに切り出すことにした。
「あのな、むつ。昨日のことだけど…」
「うん。主さまにも言われた…大丈夫、誰にも言わないから」
「そうか」
銅矢はほっとする。この真っ正直であたたかな陽気の中で、人は嘘をつく事は少ないだろう。胸の内がつかえていたのが取れて、安堵の息を吐いた。むつは続ける。
「…前からそうかなって思ってたの。でも、確証が無かった」
あ~なるほど~確証与えちゃったか~。
「…じゃあ、前からちょっと怪しいかなって思ってたのか」
「うん。でも、誰かに言おうとは思ってないから…それより、あの人が他の人を好きなんだってことに、驚いちゃって…」
「ああ、デルウハについてな。まあ…それはそうか」
「そっちの方が意外だったから…」
銅矢やむつが知るデルウハの行動は合理性に満ちている。愛とか情だとかは薄そうでもあるが、人付き合いも当たり障りない。それが合理だと言われればそうだが、銅矢を囲ったり、ハントレスを助けたりするところは多少の情はあるのだろう。それでも、むつには意外であると言った。銅矢は苦笑いする。囲われている身からすれば、多少の愛や情が無ければ困るのだ。
「…あなたは」
「ん?」
「怖くないの…? あの人が」
むつの言葉に、銅矢は意外な顔をした。その言葉をむつが抱いているのが意外だったのだ。
「怖くはないな…まあ殺そうとした俺が言うのなんだけど。デルウハは別に」
「わたし、は。ちょっと怖いの。…だってあの人は、」
「わたし達を殺したから……」
さらに意外な言葉が飛び出て来て、銅矢は目を見張ってむつをみるのだった。
「殺した…ってどういう意味なんだ?」
「……」
銅矢の声に、むつは俯く。銅矢としては彼女から無理矢理引き出すつもりはないが、むつはそれ以上黙りこくるわけではないようだ。だから言葉を待つ。むつは周囲をもう一度窺った。そして誰もいない事を確認すると、ぽつぽつと話し始める。
「ん…そのね。私達、死にかけてたところを助けてもらったの…その時はまだ人間で。みんな餓死直前だった」
「そっか、それは辛かったな」
「うん…まだ覚えてるの。今日みたいに真っ青な…綺麗な空なのに、私の目の前は真っ暗になって…黒い傘みたいなのが自分の視界いっぱいに広がってくのが分かった」
むつは空を見上げた。そこにあるのは晴れ渡る青空だった。憎らしいほどに突き抜けるほど青い。今日みたいな日であった。その晴れやかな日に、若い少女は命を散らそうとしていたのだ。空はどこまでも広く、その下に千万の人々がいる。その全てが幸せである保証はどこにもない。だがその対比が、澄んだ青空に死にゆく子供の対比はあまりにも残酷だ。銅矢は見聞きしたことのない不幸に、口を挟めないとばかりに黙っていた。
「そこに、デルウハが来てくれたの」
「…そっか」
「それでね。それで」
きゅうと膝の上に置いた手を、むつは握る。彼女は少し怯えているようだった。思い出したくない記憶であろうか、銅矢が気を遣って遮ろうとしたが、むつはその前に顔を上げた。
「……例えばだけど。あと10秒で私達が死ぬとするね」
「ん?」
「10秒で死ぬところで、あと5秒のところでデルウハが来たの。来てくれた。…でも」
「その残り5秒の記憶が、私にはあるの」
難しい話だが、意識を失う前に見た光景だと置き換えればいい。あと10秒で意識を失うところで、5秒前に誰かが助けてくれた。そのことにそのまま安堵し、意識を失えばいい。だが、むつはその意識を失わなかったのだ。
「吸血鬼の眷属になるとき。吸血鬼になる時ね。…体が作り替わる時、それは激しい痛みを生じるのだって」
かたかたとむつの体が震えている。
「その痛みが、あと5秒の間に訪れたの。凄まじい痛みと、苦しみで…みんなの体は死にかけなのに飛び跳ねてた。陸に打ちあがった魚みたいに。多分よみちゃんは、素質があったのか一メートルくらい飛んでた。…怖かった」
一瞬のうちに真綿を鼻に口に、耳の中にも詰められて全身の血が沸騰した。その熱に耐えかねて舌を出したくても痙攣した舌が動かず、かえって喉に貼りついて息が出来ない! 酸欠で頭がじわじわ死んでいくよう苦しみの中で、ごぼごぼと全身の血が内臓の中に溜まって腹が血の味がする。血が、外に出ずに体の中で大出血している。その血の海がじわじわと喉にまでのぼって、肺に浸透したらどうなるのだろう? 溺れるのか? その恐怖が涙に滲んだ。この訳の分からない苦しみの中で、さらに溺れる苦しみまで味わう、いやだ。いやだいやだいやだ。
むつがそう願っても血がごぼごぼと湧き上がり、喉にまで、口にまで、口から飛び出してごぼごぼと血だまりを吐き出す。おそらくそれは人間の血だ。人間の血を口から延々と吐き出しながら、吸血鬼の血が彼女らの体の中に入れ替わる。その為に、古いものを脱ぎ捨てるのだ。その理屈は吸血鬼となったむつには分かるが、その時のむつには分からないのだ。
ごぼぼぼぼ。溺れながら熱に苦しみながら、悶えながら。飛び跳ねながら。飛び跳ねる姉妹をただ見つめる。むつの地獄はその5秒に凝縮されていた。そしてその5秒が過ぎ去る時、デルウハはどのような顔をして見つめていただろう?
「デルウハは、なんでか笑ってたの」
「……」
「その時から、ちょっと。ううん…怖くなって。人間の私達を殺したのはデルウハで、その様を笑って見ていたのが、今でも忘れられないの」
「それが、デルウハが怖い理由なのか?」
「うん。恩義を感じてるし、あの人に忠誠を誓う気持ちはたくさんある。でも、どうしても怖くて。みんな誰もそのことを覚えてないの。覚えてるの、私だけで…」
むつはまた着物をきゅうと握った。その頭を、銅矢はよしよしと撫でてやる。むつは驚いたように顔を上げた。
「そっか。辛い記憶があるのに、むつは偉いな」
「…誰にも言わないでね」
「言わないさ。むつが黙っててくれるんだから、俺も言わない」
銅矢の言葉はどうやら信頼に値するらしく、むつは納得したように頷いた。
「それなのに、デルウハが大事にしてる人って意外だったから…」
「まあ大事にされてるかは分からないけどな」
銅矢は苦笑いする。その首には、デルウハが噛み付いた跡が残っていた。
吸血鬼が主のこの屋敷で、銅矢はただ一人だけの人間である。吸血鬼は人間の血を吸う。血だけで生きていることも出来るが、それでは栄養不足になるという。だから最近の吸血鬼は血だけではなく、料理にて万全となる食糧体勢を整えている。特にデルウハは食に重きを置いていて、銅矢はそんな彼の食糧であり、その人間の血は甘いのだろうか。
「…それでね、わたしのお願いを聞いて欲しいの」
「ああ。用件な。むつの用件ってことだろ」
「そう…。あのね。実はちょっと協力して欲しいの。私達は血を吸わなくちゃならないから、人を狙うんだけどね…」
ぴりっと銅矢の空気が冷たく張り詰める。その変化にむつはびくりと体を震わせた。だが銅矢はすぐにその殺気を引っ込める。銅矢は吸血鬼に負けた身である。その身はもう吸血鬼対策の警らではない。吸血鬼に囲われる身だ。だからむつが、ハントレスが夜な夜な人を襲っていても何も言える立場ではないのだ。
「ごめん。…続けてくれ」
「う、うん。でも私は、あまりうまくいかなくて…。それでね。ちょっとだけ、教えて欲しいの」
「教える?」
「うん…血の味。人間の生きたままの血の味を、最近ずっと口に入れてないから」
「じゃあどうしてるんだ」
「えっとね。輸血用の血液…」
そうなると、生きたままの血を味わったのはしばらくぶりであるという。そこにちょうどよく人間である銅矢がいるのだ。その血を吸わせて欲しい、それがむつの頼みであろう。銅矢としては、むつが欲するのは自分の身にあるものだ。悩むのも少しおかしいので、まあいいかと即決した。
「じゃあ、いいけど」
「ありがとう…!」
ぱあっとむつの顔が明るくなった。銅矢は吸いやすいようにシャツのボタンをぷちぷちと外すと、首を少し露わにした。そこには消えかけの噛み跡があった。
むつは自分の口を開けた。小さめだが牙がある。そうしてベンチに座ったままの銅矢が首を差し出したところで、むつは少し立ち上がると首へーーー。
「 」
その時だった。むつが視線を感じ、びくりと身を震わせる。銅矢もぞくりと背を凍らせる。強い殺気であった。銅矢が慌てて振り返る。むつも同様に振り返った。それを感じたのは庭の木の間であった。そこに、デルウハがいた。真顔で、どこか非難ありげな顔で。むつは驚いて少しだけベンチに乗せていた腰をずりずりと下げる。
「あの…」
「デルウハ? なんだ、帰ってたのか」
銅矢の問いに、デルウハの顔色は唐突に普通に戻った。
「おう。…むつ、何やってる」
「あ、ああ。あの…」
「むつがあんまり血を吸えてないって話だから、俺の血を吸いたいって…つーか、何だよさっきの。殺気みたいなの」
「気のせいだ」
絶対気のせいじゃない…。むつはそう言いたいのを堪えた。言ってはならぬ気がしたのだ。デルウハは、明らかに銅矢に関することになると感情の起伏が激しくなる。だが銅矢はそれについては気付いていないようだ。先程の殺気も、彼が対象ではないからかすぐに気にしなくなった。それはそうだ。先程のデルウハの殺気の真の対象は、むつである。
その一方、すっかり元通りのデルウハは銅矢と話していた。
「首から吸うのはダメだ。指ならいい」
「それさあ、前も俺に言ったけどなんで首はダメなんだよ?」
「ダメなもんはダメだ」
普段は合理的なのに、デルウハのは答えになってない。ごり押しである。むつは本当に珍しいと思った。そのうえで考える。吸血鬼になって日が浅い彼女だが、首に噛み付くのは吸血鬼にとっては特別な事であると理解出来る。首とは人間にとっても太い血管が通る致命傷となるべく場所だ。そこに何度も噛み付いて、所有物のように思っているのであれば…。
あ。それならば納得は出来る。
デルウハとむつは目が合った。その瞳は、むつの到達した思考と同じ目をしている。
「指にしろ」
「あ…うん」
それ以上でもそれ以外でもない。むつは銅矢が差し出した指に噛み付いた。血の滴る味が舌に乗った。でも若い男らしい獣臭さがある。その味は、むつの子供の舌には敏感であったようだ。
「お…おいしくない…」
「俺の血、そんなにあれなの?」
銅矢が少し傷付いていた。むつは慌てて首を振る。
「違うの違うの。…男の人の血は、あんまりおいしくないの」
「はあ…いいんだぞむつ。俺あんまり運動してないからなあ…」
銅矢はその言葉がむつの優しさで、慰めだと思ったのだろう。少しだけ肩を落とす。その肩をデルウハがぽんぽんと叩いたので、慰めのようになってしまった。むつはごくんと血を飲み込む。美味しい血を飲むのには、まだ努力が必要そうである。銅矢の味はあまり好ましくなかったので、次は美味しいものを飲もう。そうむつは思うのだった。
「で、なんでもう部屋に戻ったんだよ」
銅矢はそのままデルウハに寝室に連れられた。澄み渡る青空の下である。まだ日は高い。部屋に閉じこもるには、あまりにも素晴らしい日である。だがデルウハは自分がベッドに座ると、銅矢を膝に乗せ、シャツを丁寧に脱がしていた。
「俺は疲れたからで、お前の血を飲むからだ」
「はあ…」
銅矢はするすると脱がされていって、肩があたたかな外気に触れたことで本気なんだなと知る。血を吸われるの好きじゃないんだよなあ、変な気分になるから。そう思いながらもデルウハの頬が素肌の肩に当たったのが分かった。
「じゃあ俺は出張に行ってくる。大人しく待ってろよ」
「はぁーい」
デルウハが長期出張になった。ハントレスは陽気に答える。銅矢もその場にいたので一斉唱和となった。
「だいたい三日程度だ。そう伸びることは無いがな。行って来る」
「いってらっしゃーい」
明るい声に送り出され、デルウハは中折れ帽をかぶるといつもの高級車に乗り込んでいってしまった。秘書が革のスーツケースを抱えて高級車に積み込んでいる。デルウハと数日離れるのは、銅矢は初である。少しだけ不安げな目線を寄越していると、秘書がにっこりと笑いかけてくれた。初老の男性である。若い異国の富豪を支える老人だ。だが老獪さを感じさせない爽やかな存在だ。銅矢も秘書に頭を下げる。
荷物を積み終えると、高級車は走り出したのだった。
「あー楽だわあ。お菓子とか食べたぁい」
にこがデルウハがいなくなった途端に、伸びをしながら言う。
「こらにこ。おやつは三時になってからよ」
「え~」
いちこが窘めるが、よみやいつかもにこの提案に乗り気であるようだ。それを窘めるいちこに、遠巻きに見ているみち。おろおろとしているむつ。まあいつものハントレスの光景である。
「銅矢さんは、おやつは三時がいいですよね…!」
多勢に不利になったいちこが、縋るように銅矢の服を掴んでくる。そこでいちこに賛同しながら、銅矢はよしよしといちこを宥めるのだった。
一日目の晩は、どことなく浮かれている彼女らと過ごすだけで終わった。銅矢はデルウハの寝室に戻るだけなので、戻る途中でぶらぶらと屋敷を見て回ったりする。それでも、屋敷は広大でハントレスの声やデルウハの声が無いと、どことなく寂しい気がした。翌朝起きるとそこにデルウハはいない。ハントレスに連れられて朝の掃除から始まり、食事を済ませたらまた掃除だ。それが終わればハントレスは授業で、昼まで勉強をしている。それが終われば昼食で、あとは自由時間だ。
奔放な妹たちをまとめるのに疲れたいちこが銅矢に泣きついて来たり、その発散に道場で打ち込みを付き合ったり…。その間、銅矢はいつか、よみ、にこがこっそりくすねたおやつに誘われたり、それがいちこにバレたり…退屈しない日々である。賑やかな時間はあっという間で、気が付けば夜になるのだった。
むつは怯えていた。デルウハはいない。屋敷には調理専門の使用人が帰宅し、既にハントレスと銅矢しかいない筈である。だが屋敷には悪意を持って、敵意を持って取り囲む影に満ち溢れている。その影に、むつは自室の窓を攻撃されて、ガラスの割れる音に慌てて逃げ出したのだ。他に逃げ込む場所が思い浮かばず、気が付けば庭の片隅にあるベンチに逃げ込んでいた。ここは普段は庭木の葉が隠してくれている。今は夜だ。闇の中で、屋敷を取り囲む影はかえって見つけられないはずだ。
そう信じ切って、むつはがたがたと震えながらベンチで身を縮めていた。だがこれは愚行である。敵がいる外にわざわざ出て来ているのは愚行である。だがむつには、安全な場所がここしか思い浮かばなかった。戦闘に苦手意識があり、反撃の手段がない。だから震えるしかない。
今ごろ他の姉妹はどうしていることだろう、屋敷で反撃しているのだろうか。だが悪いことは重なるものである。むつは頭上に気配を感じた。見つかったのだ。
「ミツケタ」
聞いたことのない言語を駆使するであろう者が、片言で呟いたのが分かったのだ。むつは咄嗟に頭を抱えて身を守る。反撃をする前に身を守る方を選んだのだ。だがそれで身を守れる保証は無い。ぎゅっと息を呑み、瞬間的に体を固くする。あまりにも薄い筋肉の鎧である。攻撃が振り下ろされる感覚が、あった。
そこに突然、銃声がむつの頭上を飛んで行った。
「むつ!」
名を呼ばれ、むつははっと顔を上げる。銅矢の声だ。銃声に続いて、ギィ!という断末魔もある。ふっと頭上の気配が消えたのだった。
顔を上げたところ、銅矢が銃を構えていた。どこから出したのだろう、銃はデルウハが取り上げたと聞いたのだが。だがその疑問よりも先に、銅矢がむつの手を取る。
「来い、急いで!」
「う、うん」
銅矢に手を引かれて、むつは走る。ふと見上げると、窓がいくつか割られていた。むつの部屋と同じである。その屋敷の中に、彼らは急いで戻ろうとする。玄関にはみちがいた。吸血鬼には害のある銀で装飾された特注の棒を構えていた。それが彼女の武器なのだ。みちは、二人を見ると早く入れと言わんばかりに目線を送る。銅矢とむつが玄関に入った時だ。
唐突であった。みちの真横に黒い影が飛び降りて来たのだ。それは吸血鬼であった。青白い肌に真っ黒な衣服、蝙蝠のような翼。いかにもな姿である。その吸血鬼が、みちに向かって口を開き、牙で首を掻き切ろうとするーーーその瞬間だ。再び銃声がした。ギイ…!という断末魔。
だがみちは反応しきれていないし、むつが何かした訳でもない。銅矢は該当の吸血鬼には背を向けていた。だが、その銃口からは煙が出ている。背を向けながら命中させたのだ。銅矢は平然と答える。
「みち、もうみんな中か?」
「うん。行こう」
そう言うと、三人は玄関に駆け込むと扉を固く閉めるのだった。
「さて。今どうなってるんだ?」
銅矢が腕を組みながら、洋間でハントレス達と卓を囲んでいる。彼にとっては寝耳に水だった。そして彼女らにとっても、この襲撃は寝耳に水らしい。だが心当たりはあるし、過去に似た事例があるらしくハントレス達は妙に落ち着いていた。
「吸血鬼の別勢力が襲ってきたのでしょう…過去にも似たことはありましたから」
「吸血鬼って、いろんな勢力があるのか」
「ええ。私達もよく教えてもらってないんですが…もともと海外にいらっしゃった主さまのお家にも敵対勢力がいらっしゃったみたいで。その一派が襲い掛かって来ることがあるんです」
そう話している間にも、がしゃんとどこかで窓が割られる音がする。誰が掃除すると思ってんのよ、とよみは苛立っているようだ。
「じゃあ、相手は吸血鬼なんだな? それじゃどうやって倒すかだけど」
「待ちなさいよ。なんであんたが仕切るのよ」
よみは不満げだ。銅矢の存在を目の敵にしているわけではないが、その存在が自分達を上回ろうとすると彼女はあまり面白くないらしい。よみはふと、銅矢が手にしている銃を見る。この屋敷に来た時に取り上げられたと聞いているのに、その疑問も浮かんだらしい。なんで銃があるのよ、と呟く。
「いちこが持ってきたんだよ。一応保管されてたらしい。銃弾も装填されてて」
「じゃああんたがやりなさいよ。簡単でしょ」
「あー…それは無理だな」
銅矢は銃を見やった。手元にある小型の拳銃は、六発が装填できる仕様である。もし銅矢がまだ軍人であったのなら、替えの銃弾を忍ばせていたりすることも出来たが、今ここはデルウハの屋敷だ。デルウハがどのルートでこの銃弾を買ったのかは分からないが、むつを助けるために、みちを助けるために使ってしまった。そうなると残りは。
「もう使っちまったから、あと四発しか出来ない」
「はあ? なんで使うのよ!」
「しょうがないだろ…それより、今までも似たような事があったんだろ? どうやって撃退してたんだ」
「無視するなー!」
よみの言葉をそこそこに、いちこが銅矢に説明する。デルウハが考えた撃退方法を踏襲していたという。その方法にのっとり、この屋敷は今まで平穏を保っていたのだ。だがいちこは神妙な顔をしている。
「でも、今回はちょっと数が多いです。銅矢さんの意見も聞きたいわ」
いちこの言葉に、ハントレスの目が銅矢に集まる。その視線の集中を受け、銅矢はふむと頷いた。
「悪いが、俺は今日屋敷を見たばっかだからな。正直間取りは怪しい。その点なら、お前らの方が屋敷をよく知ってるし」
「まあ、そうでしょうね」
「つっても、まあ誘い込むなら中庭かな。それか、屋敷の中なら第二洋間が窪みになってるから誘い込むのに向いてそうだ」
「え、一回見ただけよね?」
「あとは……なあむつ。どう思う?」
その言葉に、視線が銅矢からむつに集まった。え…と不思議そうに驚き、視線におずおずと目を逸らそうとする。だが銅矢はまっすぐにむつを見ていた。
「むつの発想は、デルウハが面白いって言っていた。だからむつの意見を聞きたい」
「ん…でも…」
「えーむつの意見?」
にこが首を傾げる。何名かはむつの意見を聞く気が無さそうであったが、いちこが手を挙げて収めるとむつを見やった。
「主さまがそうおっしゃったのよ。それなら、私も聞いてみたいわ」
「ン……」
むつはしばらく考えていた。熟考しているようである。その言葉を待っていると、また窓ががしゃんと割れる音が聞こえる。
「あのね…多分だけど、あいつらは銅矢さんを狙ってきていると思う」
「なんでそう思うの?」
「だって戦力を削りたいのなら、私達が外に出たタイミングで一人ずつ倒せばいいはずなの。昼間に幾らでもその機会はあったのに、それをしなかったのは…あと屋敷に残ってるのは、銅矢さんだけ、だから」
納得したようにハントレスの目線が銅矢に向かう。
「でも不思議なの。銅矢さんがここにいるの、知ってるのは…あんまりいないはずなのに。…あの、もしかして他の吸血鬼にね、ここにいるって知られること、あった?」
知られる機会。普段外にほとんど出ない銅矢がいると知られる機会……銅矢はふと思い出す。
あ、デルウハに連れられて人間好きの集会に行ったな…
「うん」
「あるんだ…じゃあそれかもしれない。そこから知られて…あのね。もし敵対勢力なら、銅矢さんを傷付けたいのかもしれない…」
「どういうこと? 傷付けるって」
「嫌な話だけど、もしこれで銅矢さんを殺したり…あるいは捕まえたら、主さまに何か交渉とか、嫌な気分を与えることが出来るでしょ…?」
「ああ、なるほどね。交渉材料になるんだ。それは、分かるかもしれない」
「だから…銅矢さんを狙ってくると思うの。でも、向こうは銅矢さんがどんな人間かは分かってない。そこが、狙い目かもしれない」
「どういうこと?」
いちこが怪訝な顔をして聞き返す。むつの言説はこうだ。向こうにはこちらの内情まではおそらく分からない。人間は捕らえられているもので、まさかハントレスと仲良くしているとは夢にも思わないだろうし、作戦会議をしていると露も思わぬであろう。加えてその人間が、吸血鬼を殺す手段を手にしているとは思わない。先程吸血鬼が二体やられたのを近くで見ていたが、どちらも驚いていた。だから、銅矢はか弱い人間であるとしか思っていないのだ。
「その銅矢さんが反撃したら…きっと向こうは混乱する。だから」
「銅矢をどうするの?」
「呼び捨て?」
にこの言い方に突っ込む銅矢に、いつかが思わず噴き出した。そこでまあまあと宥めるのだった。
「じゃあどうすんのよ」
「銅矢さんには逃げ回ってもらうの。これ以上屋敷が壊れちゃうから、外で…」
「そこを自分達が狙うのね?」
みちが言うのに、むつは頷く。
「あくまでもばれないように。…銅矢さんはこの襲撃であわよくばと逃げ出して、逃げまどってるか弱い人間。そう見えるようにしてほしいの」
難しいな…。銅矢は懐に銃を隠しながら、屋敷の庭に出た。人間の匂いというものはあまりないらしい。だが吸血鬼には分かる筈だというのだ。所謂追いかけっこである。いちこもむつに賛同し、むつの作戦に決めたのだ。銅矢はランタンを持ち、わざわざ庭に歩いていた。その明りに唐突な人間に、吸血鬼どもは一斉に襲い掛かって来る。そこに、夜の闇に紛れてよみとにこの血が網となり、襲い掛かろうとする吸血鬼三体を引っ掛ける!
身動きが取れないと分かるや否や、銀の棒で吹っ飛ばしていくのがみちだ。仕組みはよく分からぬが、鎌のような刃が現れて首を吹っ飛ばしていっているようだ。銀に触れた吸血鬼の身は再生しない。そのため、一般的に銀の銃弾を心臓に撃ち込むのだが、同じ理屈らしい。
銅矢の前には吸血鬼の亡骸が零れ落ちた。ひとまずは成功である。むつといつか、いちこも似たような方法を取る為待機していた。そこに、銅矢が駆け込んでいくと同じような方法で一網打尽にした。だがそれでも今度は五体。夜の闇で見えない以上、ハントレスの索敵能力だけが頼りだが…まだ十体以上いるらしい。
銅矢は再び駆け出した。ランタンを高く掲げ、わざと目立つように走るのだった。
おそらく最後あたりの一団だろうと思われた。銅矢は屋根の上を走るのだった。幸いにも平らな場所がある。日本家屋とは違う固い屋根である。落ちたらひとたまりもないが、足元を踏みしめるのには十分な広さがある。ランタンは途中で火を消して置いていった。だが屋根に人間は目立つ。吸血鬼も真打がやって来たようだ。
同じように青白い顔をしているが、人間の匂いに少しだけ高いわし鼻を動かした。若い男の血は美味ではないが、それでもデルウハが囲っている人間に間違いはない。その人間を手に入れれば、生きたまま手足を切って送りつけるか、あるいはその生首を送りつけるか? どうあってもデルウハには影響を与えられるのだ。銅矢を生きたまま捕らえられるのであればいい。屋敷にいる眷属など目でもない。そう考えていたが、じわじわと数を減らされて、真打は苛立っているようだ。
どうせだ、味見してやろう。そんな考えなのか口を開けて銅矢に襲い掛かる。銅矢は咄嗟にその場でうずくまった。その時、ハントレスが駆けつけたのだ。うずくまり、まるで身を縮めて助けを請うような銅矢の格好に、何名かが怪訝な顔をした。銅矢らしくないのだ。高所がダメということも聞いたことが無い。それなのに、身を丸めて吸血鬼に請うようにーーー拳銃を取り出したのだ。
心臓に一発。簡単に倒してしまった。その亡骸が、屋根から玄関先に向かって落ちていくのだった。
二日目の晩が終わり、三日目。その日は吸血鬼の亡骸…といっても砂のような灰のよう姿の回収に追われるのだった。本来の人間の姿をしているのなら再生あるいは血を吸収すれば戻るのだが、灰に変わってしまうと再生しないのだ。改めてそれを確認し、屋敷中をすべて掃除したのだった。それが一日かかり、くわえてハントレスも授業が無い日だったので、一日砂まみれになっていると…夕方にデルウハが帰って来た。デルウハは行きとまったく変わらぬ格好で、上等な生地のスーツに身を包んで怪訝な顔である。
「何やってんだ。隅々まで掃除してんのか?」
「違うわよ!」
「喋って動くな、砂が舞う」
冷たい言葉である。その言葉に、ハントレス達はかちんと来たらしい。彼女らは即座にデルウハを取り囲んだ。
「全部吸血鬼よ!」
「擦り付けろ擦り付けろ!」
「それはやめろ! 後始末が面倒だ!」
「はあ…」
ぎゃいぎゃいと騒ぐ面々から離れたところで、銅矢もため息を吐いた。当初は他人の亡骸だからと丁寧にやろうとしていたが、舞うわ飛ぶわ自分の顔に降りかかって来るわで、砂に苛立っていたところである。吸血鬼面倒だな…と改めて思うのだった。
砂を全て落とした後、デルウハに呼ばれて銅矢は寝室に向かう。そこに、むつもいた。デルウハはむつを呼んだ覚えはないからだ。銅矢が連れて来たらしい。
「そういやデルウハ、行く前に聞いてた内容。むつに言ってくれよ」
「今か?」
「早い方がいいだろ」
「まあ…それもそうだが」
デルウハはため息を吐く。
「俺がお前らの”入れ替わり”の時に、笑ってたって話か…」
「話したの?」
むつが銅矢を恨めしげに見た。だが銅矢はデルウハ本人ならいいだろうと悪びれもない。
「気にしてたからな」
「…そうだけど」
むつは不満げだ。そこに、デルウハが割って入った。
「あーあれな。あれはまあ…俺も生理反応だったんだよ。人間の血が入れ替わる時に、どうしてもお前らが人間の血を吐き出す。全部吐き出すんだが…」
「?」
「あの時のお前らの血は、正直かなり旨い時期のもんなんだ。その血の匂いが、目の前でするもんでな…黙って見てるつもりだったが、あの時は自然と笑ってたんだろう」
え?
「……それだけ?」
「そうだが」
デルウハのあっさりとした物言いに、むつは唖然としていた。恐怖の原因はあっけないものである。旨そうな匂いが目の前にしていた、それも六人分も出た。だからこそデルウハは良い匂いに笑っていた…。
「本当にそれだけなんだ…」
「まあな、嘘ついても仕方ないだろう」
「そうか…そうなんだ…うん。分かった…」
むつも少し納得したようでぶつぶつと呟く。ありがとうと小さく言うと、銅矢にも頭を下げて部屋を出るのだった。扉が閉まる音が聞こえると、銅矢は肩を竦める。
「ま、真実なんてこんなもんだよな」
「…まあな。お前が仲介してくれるとは意外だが」
「いいだろ別に。憂いなんざ、無い方がいいさ」
そう言って笑う銅矢を、デルウハはしばらく眺めていたが、早めに終わった仕事の褒美だとばかりに抱き寄せるのだった。