正月からコミケの地形効果が切れて病の床に臥せっていたわたくし人形使いですが、この度ようやく体調が回復したのでさっそく映画始め&塚口始めに行ってきました。しかも2豪華2本立て。
見られるときに見ておかないとな。
というわけで1本目はこれ!
2024年からずーっと楽しみにしてた「バーフバリ」のプラバース主演のSF超大作。2025年の映画始めはこれにしようと心に決めていました。
舞台は荒廃した2898年の未来世界。世界は砂漠化し、生き残った人類の多くは地表に点在する集落でかろうじて暮らしていました。
反面、そんな地上の暮らしとは正反対の豊かな自然と環境に満ちた巨大国家「コンプレックス」はその強大な力で地上を支配していました。「コンプレックス」の頂点に立つ支配者スプリーム・ヤスキンは、地上から健康で妊娠可能な女性を拉致しては自身の延命とさらなる力を手に入れるために「セーラム」を抽出するという実験を繰り返していました。
そんな中、コンプレックスに囚われていた女性のひとりであるスマティが、ヤスキンの圧政を打ち破りこの世に希望をもたらす運命の子を身ごもったことが判明します。
コンプレックスを脱走したスマティに迫る追手に加え、高額な賞金を目当てに彼女を狙う賞金稼ぎバイラヴァ、そして運命の子の目覚めを6000年ものあいだ待っていた超人アシュヴァッターマンも加わり、壮大な戦いが始まる!
まず言わせていただきたいのがアシュヴァッターマンかっこよすぎ。
本作の元ネタというか世界観の下敷きになっているのはインドの古典叙事詩「マハーバーラタ」であることは知ってますが、アシュヴァッターマンという存在についてはあんまり知りませんでした。
そしてアシュヴァッターマンは神話的存在なので、主人公を導く側のキャラクターであり出番はそんなにがっつりはないものだと思ってました。
いやーずーっと出てましたね。そして強い!
わたくし人形使いがそうであるように、清く正しいおとこのこは強いじーちゃんが大好きであることは言うまでもありませんが(※要出典)、このアシュヴァッターマン、2.5メートルの巨躯で並み居る敵を文字通りちぎっては投げちぎって投げする強キャラで実に頼りになる。
そしてこのアシュヴァッターマンを演じる「バッチャンジー」ことアミターブ・バッチャン氏の神々しさよ。あの豊かに蓄えた白いヒゲと長身からは神気すら感じます。
それに対してみんな大好きプラバース演じる賞金稼ぎであるバイラヴァはアシュヴァッターマンの「神」に対してどこまでも「俗」なのが対照的。
バイラヴァは本作の主人公であるものの、いわゆる正義のヒーローって感じのキャラクターではありません。運命の子を孕んだスマティを守る戦士といういかにも主人公なポジションにはアシュヴァッターマンがすでにいるしな。
登場シーンでも真正面から戦うのではなくダミーを駆使した騙し討ちと口八丁で戦うタイプのキャラですし、家賃は滞納してるし言動はえーかげんだしという。スマティを追う理由も賞金目当てだしなあ。
でも、後半から終盤にかけて彼の正体と運命が発覚するシーンを考えると、本作はまるまる3時間かけて今まではあくまで俗界に身をおいていた人間であったバイラヴァが太陽神スーリヤの息子である英雄カルナとして覚醒するまでの話なのかなと思いました。
そう、本作はこれで完結ではないんですね。前後編になるのかな? 後半では英雄として覚醒したバイラヴァが活躍する展開になりそう。
しかし個人的には、本作中盤までにおけるこの「俗」なバイラヴァがめちゃくちゃ魅力的なんですよね。愛車に搭載された人工知能・ブッジとの軽妙なやり取り、家主のおっさんとののらりくらしとした会話なんかすごく好き。バイラヴァは要するにかなりちゃらんぽらんな人物なんですが、そこがまた「バーフバリ」で見せた英雄然としたキャラクターとは異なった魅力があります。家主のおっさんと寝っ転がってる場面とか一種のキュートさすら感じる。
いやーわたくし人形使いもそれなりにインド映画を見るようになりましたが、インド俳優は誰も彼も作品によってまったく異なる魅力を見せてくれるのがすごい。3段重ねのお重だと思ってたら4段目があった、みたいな。
反面、ちょっと不満もありました。
本作のビジュアルデザインは「ブレードランナー」「DUNE」といった先行作品にインスパイアされたと思しきものが多いです。
砂漠化した地球の黄色い砂塵で覆い尽くされた景色、バイラヴァの車のデザイン、下層市民の住む街の猥雑な雰囲気などなどはこれまでのSF映画で見てきた荒廃した未来世界でよかった……という反面、本作のビジュアルデザインに関してはどこまでも「どっかで見た感」が強くて本作独自のビジュアルというのがあんまり感じられなかった印象です。どちらかと言えば要所で挿入される神話パートの方がらしさがあってよかった。
ただ、そうした荒廃した未来世界と神話の物語が6000年の時を隔ててなおつながっているという世界観はインド文化を色濃く反映してて好き。インド神話的には6000年も周期(ユガ)の一つの区切りでしかないんだよな。
続編も楽しみです。
次はもう10周年ということに全力で目をつぶりたいこの作品!
(※写真撮り忘れ)
本作は2014年公開のSFアクションアニメ。
人類の多くが地上を捨てて宇宙に建造された楽園都市「ディーヴァ」に人格を電子データとしてアップロードしている遠い未来。「フロンティアセッター」を名乗る正体不明のハッカーがディーヴァの防壁をくぐり抜けハッキングを仕掛けるという事件が発生。
ディーヴァにおける特別捜査官である主人公、アンジェラ・バルザックは、ハッカーは地球からハッキングを行っているとの情報を受け、現地民のサポーターであるディンゴとともに謎のハッカー「フロンティアセッター」の正体を追います。
前述の通り本作はもう10年前の作品ですがまあテーマもビジュアルも色褪せませんね。どころか、AI関連の技術が急激に発達して「故人をAIで再現する」が絵空事ではなくなりつつ2025年現在、本作の提示する「確たる自我を持ったAIは人間と定義できるのか」「人間とAIの境目は?」「肉体を捨てて自我や人格のみをネット上にアップロードするというあり方」などについては当時よりもより身近に感じられるくらいです。というか古典SFがこれまでに示してきたテーマは全体的に現実味を帯びてきましたよね。
さて久しぶりに見る本作ですがまあやはり言及しなくてはならないのが音響でしょう。本作では冒頭から終盤まで激しいバトルシーンがてんこ盛りなんですが、これを塚口の重低音で聞くと実に効く。
奇しくも作中でディンゴが「音楽は骨で聞く」と言っている通り、もうシートの背もたれから脊髄に銃撃音と爆撃音がビンビン響いてくるので、塚口の音響を全身で楽しめました。特に終盤のラストバトルは音圧が全方向から迫ってくる状態で、四方八方から敵が迫ってくる過酷なラストバトルを臨場感たっぷりに味わえました。
そして同時にBGMの重低音の効きがまた心地いい。これだけ銃撃音や爆撃音が強いと、キャラの音声やBGMが掻き消えてしまいそうですがそのへんはうまいこと調整してたので効きづらさはなく、SEがBGMを、BGMがSEを引き立てる! たとえるならサイモンとガーファンクルのデュエット! ウッチャンに対するナンチャン! 高森朝雄の原作に対するちばてつやの「あしたのジョー」! ………つうーーっ感じっスよお~~っと億泰になってしまいました。
また本作のテーマに関してなんですが、中核となる「旅立つ人類と残る人類」に関しては初見の際に書いたと思うので割愛しますが、今回本作を見直して感じたのが「娯楽の価値」です。
肉体を捨てて人格を電子データとしてサーバーにアップロードしているディーヴァ市民たちは、肉体と文明レベルの低い環境に縛られた地上人類に比べて遥かに高い状態にあるように思えます。しかしその実態は、その資質や実績によって割り振られる電子的リソースに依存した限界線を引かれた不自由な社会。ディンゴの言をもってすれば、「理想的な社会を築いたつもりが、より大きな社会という檻の中に閉じ込められただけ」なんですよね。これには士郎正宗「アップルシード」において、理想都市オリュンポスを指してシフォンが言った、「ここは……動物園なの……。 自分で檻を作って── 自分で檻にはいった── 変わった動物のいる所……。」を思い出さずにはいられません。
そんな中で、「娯楽」はアンジェラが言うように低レベルで無為で無駄な行為として切り捨てられています。対してAIであるはずのフロンティアセッターは、100年以上もかけて外宇宙へ進出するためのロケットを建造する傍らでかつての人類が残してきた「娯楽」であるロックミュージックを収集し、制作されていなかった部分を自ら補ってアレンジし、さらにディンゴとセッションするに至ります。
かつてコロナ禍にあって、映画という娯楽は「不要不急のもの」とされ、塚口をはじめとする数々の映画館は閉館の危機にさらされました。しかし誰もが知る通り映画は、そして娯楽は不要不急のものなどではなく文化そのもの。
かたや一見肉体の軛から開放されてより高い次元に到達しているように思えるディーヴァの市民たちと、かたや今や人類が遺した遺物となったロックミュージックという娯楽を引き継いで独自進化させているフロンティアセッター。「娯楽の概念の有無」という一点において、後者こそが「文化を引き継ぐ次代の人類」と言えるのではないでしょうか。
また、こうして本作を見直すと本作には表立ってアピールはされていないものの「物事を楽しむことの重要性」さらに言うなら「体験することの大切さ」というメッセージが込められているように思いました。
塚口サンサン劇場はかねてより「映画館における映画鑑賞は体験である」というコンセプトを事あるごとにアピールしています。本作の主人公であるアンジェラもまた、自身の肉体を持って大地を踏みしめ、土埃にまみれ、疲労に倒れ、食事を味わうという体験を通して初めてほんとうの意味で世界を体験したと言えるでしょう。
「娯楽という体験」、ことに「フィクションという娯楽」は現実世界においてもしばしば軽視され、無駄なことだと切り捨てようとする○○○があとを絶ちません。(このブログは小さなお子様も一緒に読めるほのぼのブログなので過激なワードは自主規制します。お好きな罵倒語を代入してください)
しかしながら本作を見ていると、「娯楽」というものがいかに人類の文化であるか、人類を人類足らしめているものであるかを改めて思い知らされるわけですよ。娯楽、本当に大切です。