一話 奇妙な縁
時は大正。大都市東京であっても、夜になれば人々は街灯の無い場所を歩かないのが基本であった。追剥に遭う可能性もあったし、最近では人気のない場所にある屋台が問題になっていた。家に帰る前のほろ酔い、人気のない場所の物珍しさで、ああ屋台だ一杯やろうやと近付くと、屋台の店主も前にいた客も全てぐるで、ぼったくりをするのだと言う。けち臭い商売であろうがこれがなかなか馬鹿にならない。被害者はわりと出ていると言う。自治警も見回っているが、なかなかしっぽが掴めない。だが中には、人気のない所をわざと狙い、自身の肉体を鍛えるため走り回る者もいた。その中の一人が銅矢である。
皇居マラソンは昭和の頃に始まったと言われる。まだマラソンが一般的ではない時代だ。しかし走り込みなどは、体力づくりの基本中の基本である。夜の闇も、軍人である銅矢は特に恐れるものはなく、家の周囲を走り込む以外に皇居まで足を伸ばす事があった。深い堀の向こうには、木々に囲まれて皇室の方々が暮らしている。大都市の中でまるで別世界のような静けさに、人々の水のように豊かにたゆたう敬意を払うのだ。銅矢も外苑を走るだけであったが、皇居周りだけは足音を立てぬように細心の注意を払い、静かに走っていたものだ。外苑を周り、ある程度汗も噴き出して体の筋肉に熱が溜まってきている。だが、まだこれでは足りない。吸血鬼対策に動くのには、強靭な肉体が必要なのだ。しかし、無理は禁物である。
そろそろ帰るかと思ったその時、銅矢の目の前を白い水着姿の少女がすれ違うのだった。
「へ?!」
幸いにも人気は無い。だが、水着姿である。銅矢は思わず声が出て、その少女の後を追った。幸いにもすぐ追いついて、慌てて後ろから声を掛ける。
「おい、ちょっと」
「ん?」
少女が振り返った。いつかである。銅矢には見覚えのある少女だった。デルウハの眷属で、表向きでは女中ということで仕えている。その少女が、白の水着姿で走っていた。
銅矢は混乱した。幾ら人気がないとはいえ、少女が水着姿(ニットを使用し、襟の開いたツーピース型であり、体型がくっきりと現れている)で走るのはいかがなものか。公序良俗がどうというより、女性の慎みはどこへ行ったのか。モダンが過ぎるのである。いつかは銅矢に気付いたようだが、その恰好で特に恥じらいもしなかった。
「ああ、吸警の若造じゃないか」
「君に若造って言われるのは心外だな…何してる。というか、なんて格好してるんだ!?」
「何って、水着だよ水着。見たことないかい?」
「見たことあるけど、そうじゃなくて。海水浴でもないのに、なんで水着で皇居走ってるんだ」
「ランニングさ。体力を付けようと思ってね」
いつかは力こぶを作ろうとして見せる。眼鏡をかけた無邪気な少女である。だがその体は大人の女性になろうとしていて、少々豊満な肉が付き始めているようだ。銅矢はこの吸血鬼の少女に何の感情もない。無いが、しかしこのまま歩いて帰らせるわけにはいかないと思った。そこで着ていたランニングシャツを脱ぐと、何もないよりはと彼女に被せようとする。だがいつかは首を振った。
「いらないいらない。着替えはそこにあるからね」
「…いくら吸血鬼でも、その恰好は妙な目を見る男がいる。これ着てくれ」
「だーいじょうぶ、だいじょうぶ。人気もないし」
「無くても! 着ろ!」
「えー小うるさいなぁ、軍人って偉そうで嫌だね」
銅矢は脱力する。話していると、いつか本人が恥じらいだとかそういうものを全く持っていないのだ。そこはまだ子供なのかもしれない。
「だいたい水着でランニングなんて聞いたことないぞ…」
「僕の発明だからね。ほら汗かいて、服が濡れて嫌な気持ちになるだろう? そこが水着ならほら、そもそも濡れるものだから嫌な気持ちにならないんだよ! すごくないかい!?」
「すごくない」
銅矢は更に脱力する。一応成人している身として、この少女を一人にしておくのは躊躇われた。あとどのくらい走るんだと尋ねると、いつかは首を傾げる。
「どのくらいって、あと一周したら帰るつもりだけど」
「そうか。じゃあ俺も付き合う」
「え、なんで? …あ、ナンパ? こんな子供にナンパする気か! かーっ隅にも置けないね」
「違う」
銅矢は即答した。
「…大人として、そんな格好の子供を置いておけない。…デルウハに迎えに来て貰えないのか」
「無理だよ。だって、こんな格好だったら怒られるじゃないか」
「怒られる自覚があるならやめろ…!」
怒られる自覚はあるらしい。だが恥じらいはそこまで無い。だから主人にも黙って水着ランニングを敢行している事か…子供の浅知恵なのか悪知恵なのか分からなくなってきたが、いつかは走り出す。銅矢も脱ぎかけたランニングシャツを着込むと、急いで後を追った。いつかの歩幅は少女の体格とほぼ変わらず、銅矢が見失うことは無い。併走すると、ふといつかがこちらを見上げて来た視線と目が合う。銅矢は訝し気な目線を寄越したが、いつかは何故か満足げに笑うのだった。構われるのは単純に嬉しいのかもしれない。子供の考える事は分からないのである。
その一周は銅矢の歩幅ではわりと簡単に終わった。いつかは茂みの中に着替えを置いているらしく、暗闇の中に消えながら銅矢に声を掛けて来る。
「着替えるからこっち見るなよ~」
「見ません」
「見たら大声出すからな!」
「見ない!」
まったくもうと言いながら銅矢は腕を組む。茂みの中でがさがさする音は聞こえるが、こんなところじゃ虫とか気にならないものだろうか。しばらくすると、いつかが女学生の格好で出て来た。水着は中に着ているのだろうかそれとも脱いだのだろうか。風呂敷を抱えているので、中に着替えがあるのかもしれない。一旦全て脱いだのか、それとも上に着ているのか…銅矢は想像するのはやめた。いつかは何故かにこにこしている。主人であるデルウハと、銅矢は宿敵であるはずである。その眷属であるいつかは、銅矢の敵であるはずだ。だが彼女は、天性の愛嬌なのか人懐っこい。銅矢にその後も話しかけて来て、奇妙な会話を繰り広げるのだった。
「なあなあ、銅矢だっけ。銅矢はこの辺に住んでるのか?」
「なんで俺が言わないといけないんだ…」
「いいじゃないか。まあこういう機会もないと、話せないもんだし」
「話さなくていいだろ…」
宿敵である。何度も繰り返すが、宿敵の関係性である。だがいつかは銅矢にひたすら質問を繰り返し、銅矢が根負けして答えている形だった。夜で危険だからとデルウハの元に送るつもりで、銅矢はいつかに付いて歩いて行く。会話が弾む中で気付けば閑静な住宅街になり、豪邸に辿り着いた。そこが今のデルウハの居宅なのだろう。道順を覚えることは出来なかったが、また訪れる事もあるだろう。
前回銅矢が訪れ、戦闘をした居宅を改めて訪れたが、そこは既にもぬけの空であった。鎌倉の居宅である。捨てるのには惜しい家であろうが、日本有数の富豪であるデルウハには惜しくはないのだろう。この豪邸も、彼の資金力からすれば何の懐も痛まないのだ。その圧倒的な権威がずどんと目の前に立ちはだかっているのと、今ここにいる己自身を比べると、あまりにもちっぽけなような気がしてくるのだ。無力感に虚無感に向かって、ただひたすらに立つ。
複雑な思いで豪邸を見つめている銅矢に、いつかは不思議そうに首を傾げるのだった。
「あ、上がってく?」
「…なんで?」
宿敵だったよね? え、敵だよね? 銅矢はいつかの姉妹であるむつとも戦闘した事がある。その話は伝わっていないのか? だがいつかは銅矢が豪邸に憧れているとみなしたのかもしれない。銅矢は丁重に断った。そしていつかを門扉まで送ると、そそくさと去る。
「じゃーな銅矢、また会えたら会おう!」
「なんでそんな明るいんだ…」
銅矢はかえってげんなりとしながら、手を振ってくれるいつかに手を軽く上げる。奇妙な繋がりが出来た夜であった。
二話 奇妙な約束
あれから銅矢はランニングの都度、人気のない場所を走るたびにいつかがいないか探すのだった。白い水着で今もそこら辺を走っているのだろうかと思うと、他人事であるのにはらはらとしてランニングに集中出来ない程である。何故ならいつかは年頃の娘である。本人もその行為が悪いとはうすうす感じている。だがそれでも、彼女の中の合理性が水着で走るという結論になったのだろう。その合理性を、他人が見ているだのみっともないだのと感情論で潰すのは難しい。彼女は思春期だ、下手に何かを告げてへそを曲げられても困るし…と銅矢は伝え方を悩んでいた。
しかしなぜ宿敵の家の子の事で、自分が悩まねばならぬのだろう。軍部で悶々と悩んでいた銅矢は、ああああと声を漏らした。こういう時に出動要請はない。平和である。だから余計に下らぬことで悶々と悩むのだ。突然唸り出した銅矢に、ついにおかしくなったのかと周囲は優しい目を向けたが、頭を盛大に掻いた銅矢はふと気付く。
「そうだ!」
「どうした?」
先輩が優しい声で銅矢に話しかける。銅矢は先輩に食って掛かるように言った。
「今日って、デルウハさんは来てますかね!?」
「デルウハさん…? ああ、さっきいたと思うけど」
「それだ!」
「何が?」
脱いでいた上着を着込み、ぽかんとする同僚や先輩の目を気にもせず銅矢は軍部をばたばたと出て行く。デルウハが訪れるのなら、司令室がある別館であろう。その見立ては正しかったらしく、本館の階段を駆け下りている途中で、階下にデルウハの桃色の髪が見えた。銅矢は声を張り上げる。
「デルウハさん!」
切羽詰まった声であった。デルウハが怪訝な顔をして顔を上げる。以前、まっすぐに彼を慕っていた頃は、デルウハを見かけるたびに銅矢は嬉しくて駆け寄ったものだ。だが今は違う。吸血鬼だと正体を知ってからは素直に慕う事など出来ない。だがそれでも人前でデルウハの正体を言いふらすつもりはないため、敬語は忘れなかった。
デルウハとは何度も顔を合わせているし、殺し合う関係性である。だがここでは、デルウハは人間の大富豪であるし、銅矢はデルウハが支援している軍部の下っ端だ。その役目に徹するための敬語である。デルウハはその為銅矢に笑顔を見せた。
「銅矢三曹、お久しぶりです。どうされました」
「あの、…おたくの女中さんの事でちょっとお話が」
「うちの娘が何か?」
「いつかさんの事です」
デルウハはさらに怪訝な顔をする。人前だからと被っていた仮面がはがれ、本当に怪訝な顔をしていた。
「いつかが何か…?」
「…なんといいますか。その、この前皇居辺りでお見掛けしまして…」
「それはいつ頃でしょう。…場所を変えましょうか」
デルウハは周囲を見やる。軍部は人々が行き交い、大声を出した銅矢に何事かと振り返る者もいるぐらいだ。銅矢はこのままでもいいが、デルウハにとっては少々プライベートな内容である。二人は別館の渡り廊下から外に出て、人気のない庭を歩く事にした。そうしてようやく人目も、耳も遠くなったのを確認し、デルウハは息を吐く。
「で、いつかがなんだって?」
敬語は外したようだ。銅矢としては大事にする気はなかったのだが、ここまで来たのだから仕方がない。彼は顛末を簡単に話すのだった。
「…てな訳だから、その、なんつーか。見てあげてくださいよ。年頃の子がなんかあったら困るでしょ」
銅矢は気まずそうに言う。少女の水着を見たことの告白など、ふしだらだと言われてしまう時代である。だがデルウハは全てを聞いたところで、ふうんと首を傾げるだけだった。
「それが何か困るのか?」
「…はい?」
「あれは私の眷属だ。別に男に襲われたところで困らんだろう」
「…公序良俗…」
「人気が無い場所ならいいだろう」
「いやだから、公序良俗とか…恥じらいとか…」
「いつかが恥じらってるのか?」
「恥じらってないから問題だっつってんでしょ! …ああ、そうか。じゃあ、もういいっす。一応言っときましたから」
銅矢はそれだけ吐き捨てると、足早にその場を去ろうとした。だがデルウハは不思議そうに首を傾げたままもう一度問いかける。
「それが何か困るのか?」
同じ内容である。銅矢は脱力する思いだ。
「ああ…まあいいっす…」
「なんだか歯切れが悪いな。人間らしい公序良俗はいつかにも必要だろう。問題なら教えてもらえると助かる」
「俺は敵ですよ…」
「だのに、わざわざ忠告に来たのか。それはご苦労な事だな」
デルウハはあざ笑った。銅矢は敵を自認しているのに、いつかの事に首を突っ込んで来ているのだから、彼からすれば嘲笑の対象であった。人前だから穏便な関係を作り上げているだけである。これが人の目が完全に無いのなら、銅矢はデルウハの心臓目掛けて銃口を向けるだろう。そんな緊迫した関係性で、眷属のランニングの問題を口にするとは、とんだお人好しだ。しかもそれで悩んでいたと見える。どこまでも甘い男であるのだ、この銅矢という男は。
「話は以上だ。それじゃ」
「わざわざどうも、銅矢三曹」
厭味ったらしい言い方に銅矢はデルウハを睨みつけながら、足早に軍部に戻っていく。その背を見送りながら、デルウハはふとあることを思い付くのだった。
「銅矢!」
ある晩の事である。皇居まで走り込みをしている銅矢に、声を掛ける人物がいた。いつかである。まだ水着姿である。あの主人は…! デルウハにわざわざ忠告したのが馬鹿らしくなる。銅矢は今度はシャツを持ち歩いていて、それをいつかに着せようとした。以前のランニングシャツは、汗臭いから嫌だと言ったのだ。だから洗い立てのシャツを持ってきていたのである。それをずぼっと少女に被せると、少女はずれた眼鏡を直しながら目を白黒させたのだった。
「ちょ、何するんだ」
いつかの問いに、銅矢はシャツを指差しながら強めの語気で言う。
「いいからそれ着てろ。水着で走るな」
「だって前貸してくれたの、汗臭かったし」
「だからこれ洗ったばっかの持ってきた。それ着てろ」
「わざわざ持ってきた? これを? 持って走って来たってのか?」
いつかはぶはっと、堪えきれずに笑った。銅矢は笑われるのが心外そうに顔を顰める。彼女の為にわざわざ荷物を増やして走って来たのだ。笑われる筋合いは無いだろう。だがそれは傍目から見たら、かなりのお人好しである。会うかも分からぬ他人の為に、それも仇敵の為に真っ正直に持ってきたと言うのだから。
「く、くくっ。デルウハの言う通りだ。ほんと人が好いね…ははっ」
「何がだよ。とっととそれ着て帰ってくれ。そんで、帰る時返せよ」
「当たり前だろ。それともくれって言ったらくれるのかい?」
「貧乏人から奪うなっての。大富豪だろそっちは」
「く、はははっ」
いつかはシャツを着たまま笑ってしまい、その場にうずくまる。よっぽどおかしかったのだろう。
「その通りだね、くくく…じゃあデルウハのシャツと交換しようか」
「着丈が合わんのは要らねぇ」
「ふ、ふふ。ちがいないね」
いつかはひとしきり笑うとようやく立ち上がった。走る気になったのだろう。銅矢は服を着せたものの、少女を一人にする気はないのか待っている。銅矢を待たせるわけにはいかないな、といつかは走り出したのだった。
またいつかを送るために銅矢は豪邸まで送る。その時、いつかがふと呟いた。
「ねえ、銅矢は東京は詳しいのかい?」
「え? まあ生まれも東京だけど…言うほど詳しくはねぇよ。住んでるところしか行かないし」
「ふーん。じゃあさ、じゃあ今度デートしないか?」
銅矢は嫌な顔をした。とても嫌な顔である。いつかは何を言っているのか、そもそも彼らの関係性は仇敵のはずである。それでもいつかは続けた。
「ぼかぁ、屋敷以外にあんまり行かないんだよね。だから外の世界もあんまり知らない。特に観光地なんかはさ、全然知らないんだよ」
「デルウハさんに連れてってもらえ」
「デルウハはさー日中仕事があるんだ」
「じゃあ子供達だけで行け」
「女連中だけだとさ、後ろ指差されるんだよ。子供が来るなって言われちゃってさ、失礼じゃないかい? あれ」
「危ないからだろ…それに高価な店に子供だけで来るなんて」
「だーかーら、デートしてくれって」
銅矢は再び嫌な顔をする。
「……俺はお前らの敵だぞ?」
「まあそれは置いといてさ! 銅矢がデートしてくれるなら、僕もいろんなところ遊びに行けるだろ?」
「俺に良い所がひとつもない」
「あ、ちなみに銅矢のおごりだから。女の子にお金出させないよな?」
「本当に俺に良い所がひとつもない。断る」
「頼むよ~! 銅矢だって出掛けたい時あるだろ、それにこんな美少女を連れられるんだからさ~!」
「断る」
そうしている間に二人は豪邸に辿り着いてしまった。だがいつかは引かない。銅矢に縋りつき、手を合わせて家に入ろうとしないのだ。門扉から玄関まではかなりの距離がある。ハントレスが玄関から何事かと覗きに来たら、万が一にでも攻撃されたら銅矢は不利である。それでもいつかは土下座までしようかという勢いだ。このままでは銅矢が悪者になる。何の事情も知らぬハントレスが、銅矢がいつかを虐めていると判断しかねない。銅矢は嫌な予感がしていた。いつかはまだ頼み込んでいる。
そして、その騒ぎを聞きつけたのか玄関の方から、突き刺すような視線を感じる。これはまずい。
「分かった、分かった。分ーかった! 行ってやる」
いつかがぱあっと顔を明るくする。銅矢は根負けしたのだ。だが戦略的撤退である。玄関からの視線はますます突き刺さっている。頼むからもう解放してくれ…。そう願いながら、じゃあ三日後ならどうだと言うので、その日はたまたま非番であったのを思い出した。
「じゃあ三日後…」
「よし、じゃあいつもの皇居周りで待ち合わせな! あそこなら分かりやすいだろ?」
「おう…」
銅矢はもう心ここにあらずである。いつかは嬉しそうに興奮しながら家に入っていった。そうして玄関が閉められると、刺すような視線が無くなる。銅矢はようやく安心したのだった。
何でこんなことに? 銅矢はこれがデルウハの思惑ではないかと疑い、豪邸を見やる。だが豪邸は何も言わずにそこに佇んでいた。
多分、違うかも。銅矢は思い直し、とにかくランニングの途中な事を思い出して走って帰るのだった。
三話 奇妙なデート
三日後はあっという間にやって来た。銅矢は気が重いまま日々の訓練をこなし、時に吸血鬼の討伐を行った。吸血鬼といっても元人間である崩れである。吸血鬼に噛み付かれたものの死なず、人間の血が吸血鬼の血が入れ替わったものである。とはいえもう人間としての理性は全て塗り潰された怪物であった。人間の能力に、吸血鬼の本能を兼ね備えているので討伐は楽なものだった。
その仕事も淡々と終え、はああと銅矢は大きなため息を吐く。先輩は、また人間を撃った事を気を病んでいるのかと気を遣おうとする。だがそれは空回りであった。結局銅矢はすべてを諦め、ひとまずデートプランを考える事にして今の流行を先輩に聞いて回ることにした。
「お、なんだ女の子と遊ぶのか?」
「まあ、そんなとこっすかね…」
「お前が!?」
軍部は瞬く間に衝撃が走った。あの銅矢が女の子と!? 先輩方の衝撃はそれは大きなものだった。その為あそこに行け、どこそこに行けという情報があっという間に集まるのだった。溢れるまでの情報を聞き、銅矢は忘れそうになる。だが気を利かせた先輩が、ノートにしゃしゃっと書き留めてくれた。有能な先輩である。それを見ながら、銅矢は完璧なデートプランが意図せず転がり込んでくるのだった。
その日は非番であるのに、銅矢は軍服に身を包んだ。いっそ仕事だと思えば気が楽だからだ。いつかとの待ち合わせは皇居である。人目もあるが、繰り返すが仕事だと思えば何も問題ないのだ。銅矢はじろじろと見られていたが気にもしない。いつも夜に走り込む場所の昼にいつかはいた。洋装である。蓬色のワンピースに、臙脂のハンドバッグを提げていた。和装が多い銀座でも珍しく、白のハイソックスに黒の革靴を履いていた。おめかししたであろういつかは、にこにことしながら手を挙げる。
「銅矢! 今日はよろしくな。って、なんでいつもの服なんだよー」
「え? だって私服じゃないくてもいいだろ」
「えー私服見たかった」
いつかは残念そうである。だが銅矢は今更着替える気も起きないようだった。
「よし、じゃあ行くぞ。まずは銀座行って…」
「え、銀ブラ!? やったー」
「まあ王道かと思ってな。行くぞ」
皇居から銀座までは竹橋駅から日本橋に向かい、そこから銀座駅に移動が必要である。銀座まで行けば何かあるだろう。
銀座のカフェでコーヒーを飲め、それが一番のトレンドだ。カフェはあれがいい。女の子を歩かせるな、足を痛めるともう歩かなくなるぞ。先輩から叩き込まれた女性の扱いだが、相手は吸血鬼のいつかである。意中の女性のようにもてなす気はない。
銅矢はすたすたと歩き出すが、いつかは革靴でちょこちょこと付いてくる。その距離は嫌でも開いてしまったので、銅矢は先を歩いては待ち、先を歩いては待つことになった。何度かそれを繰り返すと、いつかは申し訳なさそうに手で謝りながら銅矢の後ろにやって来る。
「ごめんごめん」
「靴慣れないのか」
「そりゃま、ちょっと背伸びしてるからね」
そう言っていつかは苦笑する。普段は草履なので慣れぬのだった。銅矢は大きなため息を吐いた。そして手を差し出す。
「ん」
「ん?」
いつかは不思議そうに手と銅矢の顔を交互に見やる。だが銅矢は手をずいと差し出すばかりだ。
「ほら、握ってやるから捕まってろ」
「え…いいの?」
「いいよ。このままじゃはぐれるし」
銅矢からすれば、妹の手を握るようなものであろう。ゆっくり歩くのであれば手を握っていた方が結果的には早いのだ。銅矢は前を向き、ゆっくりと歩き出すのだった。
いつか側からすると、男の手を握るのは初めてであった。デルウハの手は何かの折で触れたかもしれないが、彼に命を救ってもらった時に手を引いてもらうほど、いつか達は子供では無かった。もしかしたら他人の手も初めてかもしれない。
姉妹で暮らしていた時は、男の財布をスるのに客引きのように声を掛けたことはあった。それでも服を掴んだくらいで、手に触れたことは無い。銅矢といえば、何かためらいや恥じらいは無いようである。いつかは銅矢を見上げる。大きく骨ばった手だ。いつかと、あるいは姉妹の手と全然違うものだ。肌はなまぬるいのになんだか奥が熱くて、いつかの手は自然と汗をかきそうである。
「銅矢はさあ」
「ん?」
「恥ずかしいとか無いのかね? こーんな美少女を横にしてさあ、手まで繋いじゃって」
「なんも思わんが」
ぎゅうといつかは手の中をつねる。
「いって!」
「なんか思いなよ」
いつかは唇を尖らせる。だが完全に怒っているわけでもなく、ちょっと拗ねただけである。すぐにカフェーに辿り着いたので、いつかの意識はそちらに向かった。
銀座には有名カフェーが立ち並んでいる。カフェー・プランタン、カフェーライオン、カフェーパウリスタ。高い建物が並び、柳が美しく揺れている銀座四丁目あたりを歩く。景観や高揚感に、いつかの革靴の痛みも段々薄れて来たようだ。
「で、銅矢はどこ連れてってくれるんだい?」
「まあ無難にライオンだな。コーヒー飲めるのか? ミルクホールでもいいけど」
「まったく僕を舐めてもらっちゃ困るね! コーヒーくらいお手の物なんだよ」
「はいはい」
まあデルウハの元で暮らすのならば、コーヒーくらいはお手の物だろう。銅矢は子供だとは思わずにカフェーライオンに入るのだった。
カフェーライオンは美人女給が有名なところである。店に入ると真っ先に女給がにっこりと微笑んでくれた。首のほっそりとした和装が似合う美人である。おしろいがなくても色白で、黒い艶のある眉が整っていて、唇が真っ赤で控えめに小さい。その唇がふっとほほえむので、普段男所帯の軍部にいる銅矢はどぎまぎとする。
「お二人でいらっしゃいますか?」
「は、はい、二人です」
「あら可愛らしい。妹さんでいらっしゃいますか?」
「ああ、いえ。ははは」
愛想笑いをする銅矢は、先程と様子が違う。露骨な変化に、いつかは銅矢の足をこっそり蹴るのだった。
「痛いって」
銅矢は振り返ると、いつかは頬を膨らませて横を向いている。だが女給に案内され、銅矢とまだ手を繋いでいるので渋々と付いて行くのだった。
女給のほっそりと手が、コーヒーカップをテーブルに置く。たゆたう黒い液体である。美しいカップの縁は黄金の細工が施されている。美しいカップである。いつかのカップは翡翠色、銅矢は銀細工に赤い宝石を模したような美しい飾りがある。それらが日光に照らされると、まるで白い陶器の肌は光の波の中に溶けていくようで、美しい装飾が浮き上がった。そこにコーヒーの湯気である。天に昇るかぐわしい香りが鼻に抜けて、いつかはふうと息を吐いた。
「いいね、美しいカップに美味しいコーヒーに…」
「分かるのか?」
「気分だよ、気分」
いつかはカップを持ち上げ、自分の口に運んだ。苦い。
「うええ」
「コーヒー飲めるんだろ」
銅矢も口に運んでみた。苦みはある。普段飲まない物だから、苦みが一気に口腔内を駆け巡り、唾液が湧いて出て来た。ううん、これが大人の苦みと言えばそうだろう。しかし慣れぬものである。庶民としてはこの苦みは初めての経験である。いつかも同様であったのだろう。
「ううう」
「牛乳貰うか? それか砂糖」
「もらえるもんなのかい…?」
「分からんけど、まあ用意はあるかもだろ」
こうなると気恥ずかしさよりも、目の前のコーヒーの対策が必要である。銅矢は女給を呼び止めた。そして自分用にも牛乳や砂糖が用意できないかと伝える。いつかとしては、銅矢は飲めると思っていたのに苦手なのだ。大人なのに。いつかはにこにことし始める。その笑顔を、銅矢は何か勘違いしたのか首を傾げた。急にコーヒーを飲めるようになったのかと勘ぐったのだが、どうやら違うらしい。いつかがカップを置いてにやにやしだしたのだ。
「なんだよ」
「んー? なんでも」
女給がそのうち、ミルクピッチャーとシュガーポットを持ってやって来るのだ。とりあえず今はこの苦みを堪能しておこう。いつかはテーブルの下で足を伸ばしてみる。銅矢と足が当たりそうであるが、子供のように足をぷらつかせるのだった。
結局コーヒーは薄めてなんとか飲み干した。そのまま洋食を食べることにして、メニューを見やってから、いつかはカツレツ、銅矢はライスカレーにした。少々値は張るものの、たまにはいいだろうと思って食べることにする。いつかはだぶついたワンピースをちょっとだけ直し、女給がナプキンを首に掛けてくれるのをどきどきしながら待った。子供だから付けてくれたのだろうが、それでも他人に何かをしてくれるというのは大人に仲間入りしたようだ。銅矢も同様に付けてくれた。慣れない人間には付けてくれたのだろうか。店のおもてなしの力を感じながら、客としての無力感も覚えつつ食事に勤しむのだった。
「で、なんだよ」
「へ?」
皿が下がった後、銅矢は突然切り出してきたのでいつかは素っ頓狂な声を上げた。
「何かあるからこんな引っ張り出したんだろ?」
「何って…何も無いよ。僕はただ、銅矢と外に遊びに行きたかっただけさ」
「嘘だな。出掛けるのなら、デルウハとも行けるだろうし、あの姉妹たちでもいいはずだ。俺じゃなきゃダメな理由もないんだろ? ただ、デルウハでも姉妹でもない奴ってことであれば、さ…」
いつかは俯く。蓬色のワンピースを知らずうちに握りしめていた。その手を緩めると、いつかはいつものようなおどけたような調子で言う。
「…よーく分かったね。そうさ、ぼかぁ別に銅矢じゃなくて良かったのさ。ただ話聞いてくれる奴ならなんでも、ね。別に他の男の人でも幾らでも良かったのさ!」
「それで? 何が悩みなんだ」
銅矢は頬杖を突く。するといつかは慌てふためいた。
「な、悩んでなんかないし! ただ、男手玉に取って遊びたかっただけで」
「何か話したいって、その顔に書いてあるけどな?」
銅矢の言う事は図星である。いつかは頬を膨らませて誤魔化そうとしていたが、まっすぐにこちらを見つめる銅矢の視線に耐え切れず、ぶはっと息を吐き出すとばつが悪そうに指先をくっつけてぐるぐる回しながら言った。
「別にぃ、大したことじゃないんだけどぉー…」
「じゃあ俺は帰るぞ」
「ああもう! いいじゃないかここまで来たんだし、話くらい聞いてくれよ!」
「大声出すなって。分かった、分かったから」
いつかの大声は高級店に相応しくなかったらしい。女給の迷惑そうな目に、周囲のお客の目線に耐え切れず結局カフェーは出てしまった。次に向かったのはミルクホールだ。甘味が欲しかったので互いにシベリアを頼み、銅矢はいつかに続きを促す。
「どうしたんだよ。お前らの悩みは俺には分からないからな」
「むー…いやほんと大したことじゃないんだよ? でも最近、みんな強くなろうとしててさ…」
「は?」
銅矢はミルクセーキをかきまわしながら、物騒な言葉に顔を上げる。
「…銅矢が前押し掛けてきたじゃんか。鎌倉の家で」
「ああ、まあそうだな」
「あの時手も足も出なかったのが悔しくてさ…よみってやつがいるんだけど、強くなるって意気込んでて…それにいちこも賛同してて」
俺にそれ言っていいの?
そう真っ正直に思ったものの、銅矢にとっては貴重な情報源である。とりあえず黙って耳を傾けることにした。
「むつも、この間ほら…あんたと戦ったって言ってて。むつはさ、結構引っ込み思案っていうか、あんまり表に出たがらなかったんだよ。それが、あんたと戦った後、結構がんばって意見出したりさ…」
「お、おう」
それやっぱり俺に言っていいの?
銅矢は今更ながら聞かないふりをしようか悩んだ。だがいつかは止まらない。
「僕はさ、落ちこぼれなんだよ」
「落ちこぼれ?」
「そう。僕の能力はさ、自己治癒っていうか他人を癒すとかも出来るんだけど、自分の治癒能力が段違いに早いわけさ」
俺聞かない方がよくない?
「ああ、でもそういえば前もそうだったっけか…銃を撃ち込んでも弾き飛ばしたと思ってたが」
「あれは弾き飛ばしたんだよ。まあでも撃ち込まれても、咄嗟に身を守る能力が強いんだ。防衛本能ってやつ? 多分あれと反射神経が強くてさ」
「ああうん…めっちゃ手の内明かしてるのはいいのかお前…」
「それは置いとくんだけど」
「置いといていいのか…」
銅矢は呆れつつも、いつかの言葉に耳を傾けている。少女はどうやら本当に悩んでいるらしい。
「ぼかぁ、戦いに向いてないんだよね。いわゆる後援部隊に回るわけでさ」
「……」
「前みたいに、一人ずつ屋敷の周辺を守るってなった時に、僕だけ穴になるわけだよ。だってそうだろ。一人だけ戦えないんだから」
「…だから、それが悩んでるのか?」
「逃げちゃったんだ。よみが特訓するって言うから、みんな今ごろ特訓してるんじゃないかな」
ああ、といつかは天井を見上げる。
「血を操るの、一番うまかったのは僕だったのにな。この力を得てから、僕は一番上手だったわけだよ。なにせ防御も出来るし治癒も出来る。そりゃあもう拍手喝采の大注目さ。出世頭だったけど、みんな血の能力がだんだん出来るようになったら、さ」
「だから僕はおちこぼれなんだ」
「…それが、悩みか?」
「そうだね、そう。だから銀座くんだりに来るって聞いて、正直遠くて嬉しかった。ここまでなら聞かれないだろうし」
「これからも戦うのか?」
銅矢の問いは、残酷なものを孕んでいた。銅矢とこれからも対峙する覚悟があるのかということだ。人間を傷付ける覚悟はあるのかということである。いつかは分からないね、と曖昧に笑った。
「僕は避けるのは得意だからすぐに死なないだろうけど、それって卑怯者みたいじゃないか」
「そんなことない」
「じゃあ銅矢はさ、考えてくれる? 僕がこれからどう戦ったらいいかを…」
それは仇敵に言う事ではない。そんなことはいつかも分かっているが、シベリアを切って口に運びながら、銅矢はうーんと唸る。まさか本気で考えてくれるのだろうか。まさかね、といつかは期待しないで自分もミルクセーキを口に運んでみる。
「何回も表に出すから、はったりがばれるんだろ? 基本的に攻撃が当たらない、弾くってのは戦場じゃすごく得だ」
「…うん?」
え、本当に考えてくれてる? 本当に?
「だからお前は敵を怯えさせて、攻撃が無意味だって思わせればいいんじゃないのか。何度やっても当たっても治癒するんじゃ、敵も戦意喪失するだろ」
「……うん?」
その敵は銅矢も含まれるのだが、分かっているのだろうかこの男は。
「むしろ前線に立って、かく乱するのもいいかもな。お前が引きつけている間に、姉妹が回り込むとか戦場じゃ幾らでも利用が出来そうだ。別にはったりをしろってわけじゃないが、お前は鉄壁の盾になってみるってのはどうだ? いいだろ!」
「いいだろって…」
その戦術を今度悪用されるとは思わないのか。そんな訝し気な目線を向けられながら、銅矢はああと頷いた。
「だってお前も手の内明かしただろ。だったらこのくらいしなきゃ、公平じゃない」
いつかは、頭の上に何か落ちたような気がした。こつんとした衝撃である。何この真っ正直…。銅矢はあくまで自分の不利になるかもしれないのに、いつかの戦場的価値を考えてくれたのだ。
ふと、あり得ない事をいつかは考えた。デルウハに会う前に銅矢に出会っていたらどうなっていたか、自分はもう少しこの世を信じる気になったのだろうか。存在価値をこの世に見いだせたのだろうか。姉妹が盗んでくれた眼鏡を手放せない。吸血鬼になってからは視力は回復すらしたのに、いつかはまだ贈り物の眼鏡を手放せないでいる。それは、彼女と姉妹を繋ぐ絆である。その眼鏡を通して見た世界は奪い奪われる地獄でしかなくて、デルウハ以外を信じ切ることは出来なかったけれど、ようやく眼鏡の向こうにきれいなものを見つけたような気がした。
「はは、ははは。本当に、デルウハが言う通りお人好しだねえ」
「悩みは以上か? じゃあこのデートも終わりだな」
実は、銅矢はだいぶ懐を痛めている。まだ生活費に手を出さなくて良かったが、これ以上散財させられるような店に連れて行かれても困るのだ。だからほっとしたようだが、銅矢に対していつかはにっこりと笑う。
「じゃあ今度のデートは全部僕が出すよ」
「…は?」
「お金の心配が無ければ、会ってくれるだろ? 今日の御礼もしたいし!」
「いや、それには及ばない。俺はもう十分だから」
「いいっていいって、遠慮するなって」
「いや本当にいい…!」
「次いつ非番なんだい? 一週間とかすれば空く?」
「ああもおお…!」
断り切ればいいのに、銅矢は押されるのが苦手なのか少女に角が立たない断り方が思い付かないのか、頭を抱えた。いつかは笑う。どうせならこの人間と友達関係になりたいなと思っていたのだ。それが種族を超えて叶わぬものでも、この瞬間だけは友人関係で、悩みを吐露して解決する関係になりたいと、少女は願った。
「銅矢の悩みも聞いてやるから!」
「いらねー!」
銅矢の声はミルクホールの喧騒の中に消えていく。そうして結局、二回目のデートの約束を取り付けられてしまうのだった。
四話 奇妙な関係
今度は浅草に行きたいと言うので、ちょうど一週間後、銅矢はいつかとのデートに駆り出されることになった。当時の浅草には、我々がよく知る風雷神門は存在しない。そのため待ち合わせは浅草寺の前にした。鳩も多くいる中で、お参りをしたり観光に来た人々の中、銅矢は目立つ軍服であった。前回同様に私服にするつもりはなかったようである。じろじろと見られている中で、いつかがやって来た。今日は女学生風で、履物は慣れてる草履であった。
「よお、銅矢またその服なんだな」
「おう」
「まあいいけどさ。逆に目立って、なんか言われないのかい?」
「別に軍人がここにいたっていいだろ」
まあそうだけどさ、といつかは言う。そして浅草寺から仲見世を振り返った。大きく歴史ある寺である。だが観光には事欠かない場所だ。浅草寺を出れば往来にはのぼりが立ち並び、人々は道いっぱいにひしめき合っている。そこにあるのは演劇、広大な公園、軽演劇に活動写真、浅草オペラ…。一軒一軒馬鹿正直に訪ねると大変なほどの数があった。大変な活気である。寺を出た二人は、そんな人々の圧迫感の中で手を繋ぐ。前回は歩き辛いいつかを気遣ってだが、今回は単純にはぐれそうであるからだ。妹のような存在の少女なのだろう、銅矢に下心はまったく無い。だがいつかは久しぶりの他人の手である。彼女がうきうきと歩き出したので、銅矢は引きずられるように歩き出すのだった。
いつかは感心したように、道行く人も観光しながら目を輝かせた。
「しっかしすごいねぇ…ぼかぁこんな人が大勢いるの見たことないよ…」
「普段来ないのか?」
「来ないなぁ。デルウハがたまにここらの店の料理食べたがるから、おつかいはあるけどさ。でもこんな明るいのにこんな人混みだぜ? こんなの初めてだよ」
いつかは感慨深げに言う。皆人々の身なりが良い気がして、少しだけ気おくれした。いつか達や姉妹がデルウハに出会う前に暮らしていたのは、こういった都会の片隅であった。というのも、都会の中心地はもう乞食のコミュニティが出来ていて、そこに暮らせるのは前からいる男達だけだったのだ。か弱い少女の集まりであったので、いつか達はそこに参入できる訳もなく…人通りや顔を覚えられやすい店を転々としながら暮らしていかなければならなかったのだ。
ふといつかの目に映るのは、物乞いをする者達であった。いつか達は運よく脱することが出来たが、もし死んでいなければ…いやデルウハに会わなければ間違いなく死んでいた。だからいつかは慈悲を起こすのを辞める。地獄は、まだ街の中に転がっているのだ。だが自分達は今は違う、そこにいないのだといつかは自分の中で唱えるのだった。
一方で銅矢の目にはその光景は映らないらしく、彼は市民らしく色鮮やかなのぼりを見上げている。
「俺も浅草は初めてだ」
「へー。じゃあまずは見て回ろうじゃないか。演劇もオペラもなんでもあるんだろ? 外から眺めるだけでも楽しいさ!」
「なんだ、入らないのかよ?」
「えーだって銅矢、演劇とか分かる?」
いつかのにやにやとした目線に、銅矢は軽く少女を睨みつける。
「…お前こそだろ」
「ぼかぁは分かるよ! 本だってたくさん読んでるんだからな!」
「分かった、分かった。じゃあ入ってみようぜ」
いつかは意気揚々と中に入る。くぐっていったのは浅草オペラだ。中は、ペラゴロと呼ばれるオペラに傾倒する熱狂的な若者が劇場を埋め尽くしていた。その熱気に当てられ、いつかはわくわくとしながら舞台を見やる。銅矢も隣に座りながら、少しだけ胸が高鳴るのを感じていた。こうした文化人らしい趣味は、なんだか人間の格を上げるかのようである。だが僅かに不安もあった。内容が分かるかである。だがいつかの手前、平然な顔をしている。そうしている間に、幕が上がるのだった。
本日の演目は『サロメ』である。
サロメは新約聖書の一節をオペラにしたものである。妖艶な美女であるサロメが、その美しさゆえに男から情欲を向けられつつ、そんな男を弄び奔放に動き回る。だが彼女に一切靡くことのない預言者ヨナカ―ンが現れ、彼女は彼を誘惑するものの最後まで靡くことはない。そんなサロメは妖艶な舞の代償に、なんと預言者の生首を欲し、そこに愛おしげに口づけをしたところで彼女に情欲を向けていた義父の怒りに触れて殺される……妖艶な美女の悲しき一生である。オペラの内容は日本人に分かるようアレンジを加えているものの、異国の刺激の強い内容には悲鳴や感嘆が上がった。有名な女優の登場には、彼女らの名前を歌舞伎の屋号のように叫ぶ者もいて、若干セリフが分かりにくい点もあった。だが銅矢は、話の大筋に疑問符を浮かべるほどではなく、むしろこのような物語があるのかと感心したほどだった。果たしていつかはどうだろう。少女には少々刺激が強い物語ではないだろうか、そう考えながら最後まで観劇し、二人は外に出るのだった。
「面白かったな」
「うん、なんか悲しい話だった。最後、死ななきゃだめだったのかなぁ」
「まあ、男の嫉妬ってやつだろうな」
「ふーん。じゃあ銅矢もあの王様だったら、殺すかい?」
「俺なら殺さない」
いつかは、即答した銅矢を見上げる。それはそうだろうなと思った。いつかは手を繋ごうと手を差し出すと、銅矢は自然に握ってくれる。すっかり手を繋ぐのが当たり前である。周囲は恋人というより過保護な兄と妹のように思ったのか微笑ましい顔をしていた。いつかは手を大袈裟に振ると、血腥い話の後でもお腹が減ったと言い出すのだった。
食事をし、浅草公園を練り歩いているとあっという間に時は潰れる。既に空は夕方であった。ここから観劇を見たら夜になってしまうだろう。流石にいつかを送らなければならないと銅矢は思った。
これまでのデートの代金は、宣言通りに全ていつか持ちだった。正確にはいつかが持ってきた財布を預かっていて、銅矢はそこから払っているのだ。女性が積極的に財布を出す時代ではないための配慮である。
このいつかの財布は、果たしてデルウハの手持ちから出ているのか、それともいつかの貯金なのかまでは聞いていない。デルウハのお金なら、なんだか借りが出来ているかのようで居心地が悪いのだ。だが文句は言っていられなかった。この前の銀座でのデートで、銅矢はけっこうな金額をねん出したので、正直ありがたいくらいである。金に苦労することもないが、贅沢も出来ない身分である。下っ端の軍人で、妹と二人暮らしでは贅沢はたまにしか出来ないものだ。妹は遊びに行く事を了承してくれたが、たまには妹にだって贅沢をさせてやりたい。たまに外に連れ出してはいるが、銀ブラなどは出来ないのだ。いい気晴らしではあったが、銅矢の日常に戻る感覚が、夜と共に身に迫って来ていた。
「さて、そろそろ帰るか」
「えーもうちょっといようよ」
「お前なぁ…この前みたいな悩みもないし、もういいだろデートは」
「えー僕が浅草堪能したいんだよ、銅矢は優しいから付き合ってくれるだろ?」
「もう夕飯時になるんだから、帰れって」
「外食もたまには悪くないじゃないか。僕がおごるって!」
いつかはまだまだ帰る気は無さそうである。銅矢と強く手を握ったままだ。夕方の浅草には街灯が点き、ガス灯はまるで昼のように明るく場を照らしていく。夜なのになんだかあべこべで、幻想的な光景である。浅草のシンボルである凌雲閣が、天に向かって、光の中で浮かび上がっていた。
するとそこに、人ほどの巨大な黒い影が風を切って飛び立ったのだった。
初めは見間違いか、目に入ったゴミか何かだと思ったのだろう。人々は目を瞬かせる。だが、その影はわざわざ浅草の街を飛び回り、風を巻き起こし、砂埃を上げさせた。それも一つではない。二つである。息を呑んで影を見つめていた人々だが、次第に恐怖に身を固くする。これは浅草の風物詩や見世物ではない。異常なのだ。すると、ある人が悲鳴を上げた。
「吸血鬼だー!」
その言葉を皮切りに、人々は阿鼻叫喚の中で逃げまどうのだった。
吸血鬼とはこの国に巣食う怪異である。その身は人間と似ているが、生きたまま人間の血を吸い上げるばかりか、怪力や特殊能力を持ち合わせるという。空を飛ぶというのも、彼らの特筆すべき特徴だった。様々な人間が集まる浅草においても、人間が飛び回るなどの芸当を持つ者はいない。その吸血鬼が、浅草の空を縦横無尽に飛び回っている。人々は犠牲を避けるために一目散に逃げ出し、店や劇場の扉を閉めて中で縮こまって身を守ろうとした。
その混乱の中で人々にぶつかられながら、吸警の制服を着た銅矢と彼に連れられているいつかだけは、冷静に上空を見やる。吸血鬼の影は二つだ。まるで浅草で犠牲者の品定めをしているのかと思った。だが、よく目で追っているとそれは違うようだった。一つの影は逃げ回っていて、もう一つはそれを追っている。まるで縄張り争いで鳥同士が戦っているかのようであった。ふと、銅矢はそのひとつの影に見覚えがあった。なんだか桃色の髪が見えた気がするのである。だが街灯の灯りはぼんやりとして、遠くまで照らしてはくれない。見間違いかと目を凝らしていると、いつかが声を上げた。
「デルウハ…!?」
銅矢は確信する。浅草にいたのは、空を飛び交うデルウハと、おどろおどろしい仮面を被った者であったのだ。
「なんだ?! …あれは、誰だ?」
仮面の持ち主に、見覚えは無い。見慣れぬ仮面である。能で使うような面ではなく、すっぽりと顔を覆う巨大な仮面だ。木で出来た仮面には目や鼻、巨大な口が付けられていて、南国の郷土で生まれたもののようだ。それに青の毒々しい塗料が塗られていて、黒い髪を模したように葉が大量に付いている。異様な光景であった。だがデルウハと併走しているのだから、吸血鬼なのだろう。よく見ると逃げるデルウハに対し、仮面が時にぶつかりながら追い回しているようだ。
「デルウハ…」
いつかは心配そうな声を上げる。もう周囲に人気は無い。デルウハの名前を口にしても聞かれる心配は無かった。デルウハは浅草の街を飛び回って逃げている。すると、仮面の主が一人だけではなく、どこから飛び出すように二人目が現れてデルウハの軌道を遮った。デルウハは二人目を避けて飛び去る。だが再び、三人目が飛び掛かる。囲まれつつあるようだ。
「どうしよう、デルウハが…」
いつかは思わず銅矢の手を握り締める。だが仇敵の銅矢に相談すべき問題ではない。だが、銅矢は影を目で追いながら、ふと気が付いた。デルウハは逃げながら必ず凌雲閣を通っている。銅矢達に翼は無いが、もし参戦するのであれば、あそこに登ればいいのではないか?
「おい、あれ。凌雲閣に登るぞ!」
「え? で、でも」
「さっきからあそこを通ってる。助けたいんだろ、行くぞ」
「う、うん!」
銅矢はいつの間にか拳銃を握り締めて凌雲閣に走る。12階建ての建物だ。中には受付が怯えながら縮こまっている。だが吸警の制服である銅矢を見て、安堵したように顔を上げた。
「エレベーターは!?」
銅矢の問いに、受付は首を振った。
「今、故障中で…」
「マジかよ。仕方ない、登るぞ!」
「え、本気で? 12階だよ!?」
「他に手段はないんだ、ほら行くぞ!」
銅矢は階段に向かって駆け出す。いつかは足がまだ迷っていたが、銅矢の後を追って登り出すのだった。
いつか達は眷属として、デルウハにより新たな命を宿す事になった。その身には血の渇望と、怪力と血の能力を授かっている。だがその身は、普通の少女であった。普通の少女の体力と気力であった。突然スポーツ万能になる訳では無く、突然鋼のような肉体を手に入れた訳では無かった。何が言いたいかと言うと、いつかは三階で息が切れ、六階で心が折れかけていた。まだ半分である。半分…半分!?
「嘘だろ…」
銅矢は先に登っているようだ。階段を駆け上がる足音が響いて、いつかの耳に聞こえている。
走り込みをしているといっても毎晩ではなかったし、いつかに筋肉に負荷をかけるだの心臓を大きくするだのと専門的な知識があったわけではない。ただ走るようになったら、体力が付くんじゃないかと思ったのだ。それは次第に、いつかの身に付いていたはずである。だが今、その矜持は凌雲閣で無惨にも打ち砕かれようとしていた。
いつかの足が動かない。それでも、デルウハの風切り音がこの建物にいると聞こえる。行かなければ。恩人の危機である、何か役に立つために向かわなければ。それなのに、どうして足が動かないのだろう。痛みがある。もう一段も階段を上がれない気がして、無力感にいつかは俯いた。
かんかんかん。今度は降りて来る足音がして、いつかは顔を上げる。先に行っていた銅矢であった。彼は手慣れた様に自分の手を、いつかの前に差し出す。彼女がきょとんとしていると、銅矢の手は無理矢理いつかの手を握って、小走りに階段を上り始めた。
「いつか、行くぞ!」
「お、おう…」
名前を初めて呼ばれた。覚えていたんだとじわじわと気恥ずかしさとか、照れくささが顔に熱として集まって来る。いつかを引っ張り上げる銅矢の手はひたすらに力強く、いつかの足は目の前に来る階段を避けるように流れ作業で階段を上っていく。自分の体重を乗せ、必死に前に向かっている時よりも楽であった。銅矢はいつかの分も重みがかかっているはずなのに、ただ前へ前へと進んでいく。その力強さは、人間として力比べをしたのなら、少女のいつかは決して敵わないだろう。銅矢のおかげで、もう十階であった。彼らが向かうのは展望室ではなく、十一階の外である。
凌雲閣は十階建ての八角形の建物に、小ぶりな塔の十一階と十二階が上に乗る形になっている。そのため十階を足場にすれば外に出られるのだ。十一階に出ると、銅矢といつかは周囲を見回した。びゅうびゅうと風が切る。高い場所である。だがそこにデルウハがやってくるはずなのだ。
「来た」
デルウハの影が飛んで来る。いつかの気配に気づいたのか、彼は何回か通った軌道を変え、かくんと落ちるように凌雲閣に降り立った!
「…いつか!?」
「デルウハ、良かった無事で…」
「なんでここにいる? …その人間も一緒に」
銅矢は銃を構えている。だがいつかはデルウハに敵意が無い事を伝えようとした。その時だった。凌雲閣の十一階を、黒い影が取り囲む。先程の仮面の主たちだった。おどろおどろしい仮面である。趣味が決して良くないなと銅矢は思いながら、銃を彼らに構えて発砲した。仮面に当たると、頭がくるくるくると回る。まるで球が勢いを付けて回るかのようである。仮面を付けている頭だけがくるくると回るのだ。不気味であり、それは人間ではないのだと分かった。銅矢は今度は胸元に発砲する。心臓を撃てばと思ったのだ。その予想は当たったようで、真っ黒な服を着込んだ仮面の主はばったりと倒れた。だがまだ、彼らを取り囲むのに十体以上の仮面がいる。デルウハが構えた。いつかも強張りながら戦おうとする。仮面たちはじりじりと迫りながら、手に何かを持っていた。銅矢はその正体にふと気付く。
それは、銀で出来た棒であった。長さは60cmほどはあろうか。それを一本ずつ、まるで操り人形のような仮面の者どもは手にしている。かたかたかた、と仮面の口が鳴った。仮面の口が一斉にかたかたと鳴る。まるであざ笑うように口を鳴らしながら、彼らは時計回りに回り出す。かたかたかた、かたかたかたかた。
「なんなんだこいつら…」
「こいつらは人形だ。パペットと呼ばれている」
銅矢のつぶやきに、珍しくデルウハが話してくれた。デルウハに襲い掛かったパペットを避け、その身に血を纏わせた拳で殴りつける。血は意志を持った筋となり、パペットの身に絡みつくと、×のように這ったが早いか四つに切り刻んだ。次から次へとデルウハにばかり襲い掛かる。いつかを守るように銅矢は近付き、自分にやって来るパペットに銃弾を撃ち込む。幸いにも心臓を撃ち抜けば、彼らは動かなくなったのだ。パペットがみるみるうちに数を減らし、いつかは安堵した矢先だった。かたかたかた。あの音がした。
いつかが顔をはっと上げると、凌雲閣の十二階あたりであろう、上空にパペットが現れて先程よりも数を増やしてこちらを見下ろしているのだった! これは、無限に出て来るのだろうか? だが銅矢の弾には限りがあるし、デルウハの体力とて無限ではないだろう。銅矢はふと思いついたことを叫ぶ。
「これ、操る奴がいるのか?!」
パペットは人形である。であれば、誰かが操っているはずだ。良い観点だとデルウハは思った。流石に軍人であろう、奇抜な戦場でも冷静だ。
「そうだ。それと戦わぬうちは、このパペットどもは永遠に…」
デルウハがそう言った瞬間だった。パペットの一つが、銅矢の背中に突然回って来たのだ。突然の事で振り返るのが精いっぱいだった。だがパペットは目標が違うとばかりに、銅矢の服を片手で掴むと振り回して放り投げたのだった。十一階の上から。
「…!」
銅矢が手を伸ばしても何も届かない所にあった。ただ遠ざかる凌雲閣を見ながら、虚しく手を伸ばして落ちていくのを見ていくだけだ。だが、そこに銅矢に向かって飛び込んでくる者が一人いた。いつかである。
「銅矢!」
「ば、」
いつかは銅矢の手を掴んだ。彼女の手は小さい。あまりにも小さい手であった。吸血鬼として無限の力を得ているかもしれないが、まだ彼女が目覚めている血の能力のふり幅は、あまりにも小さい。銅矢を抱えてこの高さから助かるのには、まだいつかには力が足りなかった。デルウハは振り返る。そしてきわめて短い間に決断を求められた。このままいつかを助けぬか、銅矢ともども助けるかだ。
「くそ…!」
デルウハは目の前のパペットを切り刻んだのを確認する間もなく身をよじり、凌雲閣から飛び出す。巨大な翼を広げた。彼ら二人を助けるためにである。銅矢は落下していく自分にいつかの重みが足され、あっという間に地面に辿り着く気がした。背がぞっとして内臓が浮きそうであった、口から全部飛び出すのかもしれない、地面に激突したら!
ぞっとしない想像をしていると、デルウハが必死の顔でこちらに覆い被さり、彼の翼が二人を包み込む。ふわりと体が浮いて、内臓が元に戻って血が正しい位置に戻ったので巡って来た。ぽかぽかと指先が温まった。安堵感のそのままに、彼ら三人は地面に激突することなくゆるやかに降り立ってーー…
「! デルウハ…!」
いつかが主人を見やった時、パペットが既にデルウハの背目掛けて振りかぶって、叫んだ。銀の棒である。装飾が施されているのか凸凹として、何か特注の品であろうと思われた。その先端は鋭く尖った杭である。それが勢い良く、デルウハの肩に突き刺される!
「ぐぅッ…!」
ずぶりと肉をかき分ける嫌な音がした。銅矢の背に地面に転がり、いつかの手も地面に付く。デルウハの膝も地面に付いたが、それどころではなかった。杭は三分の一ほどデルウハの右肩に突き刺さり、パペットは突き刺さったのを確認したら手を離すのだった。
「く、そ…」
「デルウハ、デルウハ!」
いつかは慌てて棒に手を伸ばす。だが握った瞬間、不思議な現象が現れた。いつかの手が触れた瞬間、まるで焼けた棒のようにじゅううと音を立て、いつかは苦悶の表情を浮かべて離してしまうのだった。
「いった…!」
「いつか、いい。触るな…」
「でも…」
かたかたかた。パペットが取り囲む。デルウハは怪我をしてしまった、絶体絶命である。いつかは周囲を見回した。パペットが杭を構えながらかたかたと口を鳴らし、纏わりつくように集まっている。どうしよう。どうしようと思った。このままでは、このままでは。
パペットが再び杭を振り上げる。今度は左肩を狙っていた。血の能力で対抗さえできれば、戦えればと願う。短剣を取り出し、指を切りつけて血を取り出した。その血がデルウハを囲むように球が出来上がる。それが傷口をいつもなら癒すのだが、銀の棒に阻まれてそれも出来ない。まるで見かけ倒しの防御だ。何か、何か出来ないか。何か。何かを!
発砲音。
パペットがぐらりと倒れる。銅矢の銃であろう。取り囲むパペットが、次第に数を減らしていく。銅矢が助ける所以は無いはずだ。だがうずくまるデルウハの前に庇うように立つと、次々とパペットを減らしていく。その淡々とした動作は、まるでこれが訓練であって、的を倒していくかのように事務的だった。しかし、デルウハはその有利な状況でも顔を苦くゆがめるのだった。
「待て、パペットだけ倒しても…!」
「そうです。人間如きが」
銅矢の真後ろで声が上がった。ぞっとする声音であった。咄嗟に振り向くのが躊躇われる、舐めるような声音であった。
「真祖の元を出たと聞いていたが、この辺鄙な国で地を下ろすとは…さぞお嘆きのことでしょう」
どうやら襲撃者はデルウハを深く知っているかのようである。その口ぶりから銅矢は思った。これは吸血鬼同士の争いなのだろうと。
「だがそれこそが好機。今こそ、貴方様を連れれば、我が勢力は力を増すのです…」
「…その為にわざわざ来たのか。ご苦労な事だな」
「この国は吸血鬼対策が薄い。私を倒す事など出来まい」
吸血鬼であろう男は青白い顔で、デルウハに突き立てられた杭を見ながら笑う。これは銀の杭で、人間に作らせた対吸血鬼の品だ。直接吸血鬼が触れる事は叶わぬものである。それらをパペットに持たせ、杭を打ち込んだデルウハを生け捕りにする。それが彼の目的であった。銅矢が前にいる。吸血鬼対策を講じた人間はいる。だがいとも簡単に背中を取れてしまったので、恐るるに足らずと考えているのだろう。デルウハとの会話は一区切りついたのだろうか、吸血鬼が指を鳴らすと、パペットが再び現れた。まだ杭を手にしてはいない。あの杭は持ち込んだ物なのか、特殊な物なのかもしれぬ。術で生み出せるのはパペットの身だけなのだ。パペットがじりじりと距離を詰めて来る。
いつかは血を体に這わせながら、必死に変形できないかと念じている。今である。変わるのなら今である。進化を得られるのなら、今だ。デルウハを守るのなら今なのだ。変われ、変われ、今こそ吸血鬼を一網打尽にし、まるで理想的にすべてを守る時なのだ。網のようにパペットを縛り上げ、動きを止める。そう念じている中で、ぽたぽたと血が地面に吐き出されている。だがいつかの血は、まだ動かない。
その時、ふうと銅矢が息を吐いた。蚊帳の外であった人間が、拳銃を何でもないようにゆらゆらと動かしている。銅矢の余裕のあるような動きに、吸血鬼は妙な人間がいると思ったようだ。だがすぐに食事に変えてしまえばいいのである。取るに足らない。そう思った時であった。
地面を這ってただ這っているだけの血が、唐突に意思を持って吸血鬼の足に巻き付いた。攻撃の意思を持って他人に絡みついたのは、いつかにとっては初めての試みだったのだ。パペットにも同様に血の綱が縛り上げていく。動きを止めた吸血鬼が異変に気付いた時には、既に動きは止まっていた。
「貴様…!」
眷属如きに!
そう叫ぶ間もなく、発砲音。吸血鬼の心臓に風穴があいた。銅矢は一度も振り向くことなく、銃の向きだけ変えて撃ったのだ。
「…デルウハを倒すんだ、このくらいは出来るさ」
「き、さま…ぁああ…!」
まさかの人間からの襲撃に、吸血鬼は為す術もなく心臓を専用の銃弾で撃ち抜かれて、消え去っていく。術者が消えたからであろうか、縛り上げられたパペットも消えていった。いつかは呆然としている。デルウハも思わぬ展開に呆然としていた。吸血鬼同士の戦闘は、まさかの人間の手で収束していたのだった。
訪れた静寂の中、銅矢はふと気付いたようにデルウハにずかずかと近付く。なんだ、と問われても答えずに、肩に突き刺さっている銀の棒を掴んでみた。
「おい、何して」
「お、いける」
先程いつかには毒のようだったが、銅矢からすればそれはただの銀の棒であった。静かにそれを掴み、力を込めて静かに引き抜くと、杭はずうるりと抜けるのだった。デルウハが痛みに顔を歪めるが、それでも突き刺さったままでは治らない。銅矢は血まみれの杭を手にしながら、その表面をじろじろと眺めてみるのだった。
いつかが慌てて左肩の穴に、自分の血を注ぎ込む。あっという間に硬化した血は、デルウハの抉れた傷口を埋めた。これが吸血鬼の治療なのかもしれない、と銅矢は不思議そうに眺める。だがデルウハも、不思議な顔をしていた。
「…なんで助けた」
「最初に助けてくれただろ。これで貸し借り無しだ」
凌雲閣を投げ出された銅矢を、いつかを助けるためとはいえデルウハは助けたのだ。その貸しを、そして銅矢の仕事である吸血鬼の撲滅を成しただけだ。銅矢は周囲を見渡した。静寂が訪れれば、浅草にはまた人が集まるであろう。その前に、デルウハは消えた方がいいのだ。
「さっさと行った方がいい。すぐに人が集まるから」
「分かっている…」
デルウハは立ち上がった。いつかもデルウハを支えるために脇を抱える。銅矢とはここでお別れであろう。いつかは何も言わなかった。言えなかったのだ。吸血鬼としての自分と、人間としての銅矢との違いが、今二人の間に横たわっている。友人関係であったのなら良かったのに、と言ういつかの願いは今は叶いそうになかった。デルウハの翼が二人を覆う。銅矢は吸血鬼同士の戦いに巻き込まれ、吸血鬼を討伐し終えた。そう上層部には報告する手筈にして、この銀の杭はこっそりと二会敷に解明してもらおう。それは今後、デルウハの討伐にきっと役に立つのだから。
銅矢がいつかと再会したのは、日中に皇居周りに用があった時だ。皇居外苑にて、待ち人がいるかのようにいつかは立っていた。銅矢はその意外な姿に驚き、声を掛けられなかったがいつかから声を掛けて来る。
「よっ」
「…おう。元気そうだな」
「お陰様で。デルウハも元気だよ。銅矢のおかげだ」
いつかの言葉はいつも通りで、以前のように何にも変わらない。だが、二人の間には種族の差が確かに転がっている。いつかはふっと顔を緩めた。銅矢はその動きに首を傾げる。
「銅矢さ、僕決めたよ」
「何がだ」
「この前、銅矢は戦えるのかって言っただろ? …僕は戦うよ。これからもね、デルウハの為に」
「…そうか」
「だから、僕はもっと強くなる。それでさ、銅矢は僕が倒したいんだ。他の誰かに取られたくない。それが、僕がもっと強くなる理由」
「…そうか。じゃあもう悩まないんだな、良かったじゃないか」
「うん。またよろしくな! 今度は敵だと思うけど」
「それが本来なんだよ」
「ははは、でも、ぼかぁ銅矢と友達になりたかったよ」
「俺も、お前みたいな吸血鬼ばっかなら、もっとこの世は平和だと思ったよ。…じゃあな」
「うん。じゃあ」
それだけ言うと、二人は別れる。もしかして会う事もあるのかもしれないが、今後はきっと敵同士であろう。それでも、あの日を忘れることは無いのだろう。