三話 復讐
 新宿駅に日が沈む。銅矢の出動が近付いており、日が暮れると汗が噴き出るほどの暑さがやわらぎ、涼しさが肌の表面を撫でる。だが同時に、夕方には脇に染みた汗が嫌な体臭に変わっている。そこに風が出ると、それが周囲に広がるのが嫌な時間帯でもある。特に軍部は男所帯だ。それぞれの嫌な匂いが立ち昇っていて、銅矢は団扇で顔の周りだけをぱたぱたと仰いで避けようとするのだった。
 「うし、そろそろ行ってきます」
 「おう出動か。コウモリ女討伐な、気を付けろよ」
 「へーい。ま、余裕っすよ」
 先輩の忠告にも余裕そうに笑い、二会敷にもらった拳銃型の兵器を手にすると銅矢は上着を羽織った。やっぱり手袋を外していたので、口にはみながら軍部を後にするのだった。
 
 手袋をはめると、任務に向かうという感覚がする。銅矢は国鉄に許可を得ているので、高架下や新宿駅の線路に自由に立ち入ることが出来た。大本命であろう収容庫にも足を運んだが、においがきつい中で移動した形跡があった。既にこの場にはいないのだろうと思い、新宿駅に移動すると風上から獣のにおいがする。人の気配やにおいは幾らでもする中で、異質な獣のにおいである。これは間違えようがない。
 銅矢は銃を片手に携えたものの、駅舎に現れるのなら発砲できない。すぐに取り出せる胸元に仕舞った。もし現れたのなら、線路上まで誘導しなければならない。人が行き交い、においは相変わらずホームに溜まっているようだ。銅矢は駅員に頭を下げると、切符無しで中に入った。ホームはかなりの人数が行き来している。だがにおいは相変わらず濃い。もしかしたら、人間を狙うかもしれないという緊張感が走った。今までの被害は野犬や野良猫だ。だが、それで力を付けて人間も襲い掛かったのならば、もしかして。電車から降りるのは皆帰宅であろうか、ほっとして歩く大衆の中で緊張を張り巡らせていた、その時であった。
 
 「うわ、あ。うわあああ!」
 叫び声が聞こえ、銅矢は誰よりも先に駆け出す。野次馬であろう人々をかき分けて向かうと、誰かがホームの向こうに引きずり込まれている。革靴とスーツの足が見えたので、おそらく中年の男性のようだ。だが一人ではない。二人いる。二人が引きずり込まれている。
 「何してる!」
 銅矢が声を掛けると、ずるんとホームの向こうに人影が引きずり込まれて見えなくなった。助けてくれと叫ぶ声がする。銅矢は咄嗟にホームに飛び込んだ。車掌であろうか駅員の声が聞こえるが、構ってはいられない。いずれ電車が来るかもしれないが、幸いにも来ていない時間だった。
 ホームに繋がるのは一車線である。だが使用されている線路の向こうには、拡張工事を予定してか広大な土地が広がっていた。そこにはこれから使うであろう線路も数本横たわり、回送電車であろうか車両もいくつか佇んでいた。そこは、駅舎の灯りが届かぬところだ。暗闇の中、銅矢は人影を追う。ずるずると何かを引きずる音がした。まだ引きずられている人間は生きているようだ、喚く声がする。人混みが無いのなら発砲してもいいが、暗すぎて夜目が効くまでは時間が掛かっていた。この頃の東京はまだ現代に比べて暗い。だが銅矢の目はそれに慣れているので、次第に引きずる者の顔が見えて来ていた。
 女である。コウモリ女であろうか。若い女が、男の足を掴んでずるずると引きずっている。どこにそんな力があるのだろうか分からぬほど、遠目には華奢な女である。だがもし怪力に目覚めているのであれば、それは吸血鬼であろう可能性が高かった。銅矢はひとまず逃がさぬように追いながら、改めて拳銃の感触を確かめるのだった。
 「助けてくれ!」
 銅矢の気配に気づいたのか、男が叫ぶ。銅矢も全速力で走っているが、砂利に足を取られてしまっていつもよりも遅くなってしまった。それでも成人男性のおまけに軍人をはるかに上回る速度で、一人の女は人間を二人も引きずっているのである。異常であった。
 「待て、待てって!」
 その声が届いたのかわからぬが、女がずるずる引きずるのを止めて、線路の片隅に置いてある電車の影に引っ込んだ。曲がったのだ。その先に女の拠点があるのかもしれない。男達も引きずられて見えなくなった。銅矢は速度を上げ、急いで電車の影に入る。その途端、銅矢は男の首筋に噛み付く女の姿を見た。
 ぴちゃり、と血が滴る音がする。どうやら男の首を掻き切って、そこに噛み付いているらしい。ほんの数秒程前は生きていたのに、女は致命傷となった傷口から血を吸い上げていた。それは吸血鬼の特徴である。敵だとみなし、銅矢は拳銃を構えた。
 「吸警だ、手を挙げて観念しろ!」
 だが女は動じない。銅矢を無視するように、傷口に噛み付くと一気に男の血を吸い始めたのだ。少々のぜい肉がある中年男性の身が、みるみるうちに中の血液を吸い取っていくのか、その肌が絞り尽くされたように張りが無くなり、まるで老人のような皺となっていく…。
 吸血鬼の特徴である。彼らは永遠に癒されぬ渇きから、人間の血を全て吸い尽くす傾向があった。それでもその飢えは満たされることが無い。悲しき存在であると同時に、人類の敵である。すると女は、突然口の周りを汚しながら顔を上げて銅矢を見た。銅矢は拳銃をぴたりと女の心臓に向けて照準を合わせている。一人の吸血鬼だ。それに人間の被害は、手の甲を噛まれた警官くらいなもので力は無いと思われた。だが今、目の前で被害が出てしまったのだ。もう一人の男性は、恐怖で動けないのか失禁してじたばたと足を動かすだけだ。なんで、どうして、なんでと繰り返している。標的にされたのが納得がいかないのであろう。
 吸血鬼は血液がまだ新しい若者を狙ったり、赤子を狙うのが鉄板である。脂ぎった中年の男性はあまり狙われることがないのだ。だが彼女は、わざわざ新宿駅で降りた中年男性を狙った。それも二人もである。
 女は食事を邪魔されたことに腹を立てたのか、かっと口を開いてみせた。その口には吸血鬼特有の歯は少ない。牙のような鋭い歯が小さいのだ。銅矢はそこに違和感を覚えた。吸血鬼は牙が鋭く成長しているはずである。だがそれが無い。見慣れた人間の歯が、そこにあった。銅矢は銃を下ろさずに尋ねる。
 「お前、吸血鬼か?」
 「…邪魔しないで。私の復讐なの」
 「復讐?」
 「邪魔しないで!」
 激昂した女は、ぎろっと目を最大限まで見開いた。だがその程度で銅矢が怯むわけがない。これまでにたくさんの吸血鬼を見て来たのだ。女は違和感が多いものの、おそらく未熟な吸血鬼だと思ったのである。だから心臓を撃ってしまおうと思った、その瞬間であった。
 銅矢は体が動かない事に気が付いた。ぴくりとも指が動かない。引き金が引けないのだ。まるで何かに押さえつけられたかのように、体が指一本動かせないのである。銅矢は焦った。だがもがいても何故か体は動かない。拳銃を構えたまま、銅矢はぴくりとも動けなくなった。
 「うわあああ!」
 すると目の前では女が、動かない銅矢に安心したのか背を向ける。その視線の先には、連れて来た中年の男がいる。身なりが良い男だった。スーツを着込んでいる。その為か命乞いに、金をやる、あれをやるこれをやると喚いていたが、女は言葉に耳を傾けることなく、長い爪をむき出しにして首に向けたのだった。
 「やめろ!」
 何故か声だけは出た。だが銅矢の制止など何の意味も持たない。女は男の首を掻き切った。男は悲鳴を上げた。だがごぼごぼと血に溺れたようなあぶくを撒き散らしながら、絶命したようだ。倒れ込む男の体に縋りつき、女は血を啜る。その姿は吸血鬼だ。やはり銅矢の討伐対象である。だが、体が動かない。
 くそ、くそ、くそくそくそ! なんだこれは!
 銅矢は焦って体を動かそうとする。だがそれでも、ピクリとも動かない。まるで金縛りにでも遭っているかのようである。誰かが押さえつけてけているかのようである。このままでは、女は駅舎に戻るかもしれない。そうすれば更に被害が出てしまう。復讐だと彼女は言ったが、その対象がどのようなものかは銅矢は知らない。神様仏様、誰でもいい、誰でもいいんだ。今ここで俺の体を動かしてくれ、応援を呼ぶのもこのままじゃ…! アーメン、南無三、ナムアミダ、ホーレンキョー!
 銅矢は一度も言葉を口にすることは叶わなかったが、心の中でめちゃくちゃに叫んだ。その効果であろうか、突然体がふっと軽くなる。金縛りが解けたようである。よし、と銅矢はどこかに向かおうとする女の背に、照準を合わせた。おそらく駅舎に向かうのだろう。しかし、何故か二本足でふらふらと歩いているので、幸いなことに狙いやすい。銅矢は発砲した。
 銃声が響く。二発ほど女の背に当たった。その感触があった。銃弾は銅矢の手から離れたはずだが、まるで糸を引くように彼の手には命中の感覚があった。それなのに、彼女は止まらない。
 「なんでだ…!?」
 吸血鬼対策の拳銃である。やわらかい銀の銃弾を改造し殺傷能力を持たせたものだ。海外で主流となっている吸血鬼対策の銃を輸入し、それを日本で製造、また日本人の使いやすいように改造したものだ。銅矢の手によく馴染み、小ぶりながら殺傷能力の高いものである。だが彼女は、駅舎に向かうのかと思われたが何かを探しているように電車の間をゆらゆらと歩く。駅舎の逆光に浮かび上がって、女の振り乱した短い髪がぼさぼさであることがよく見えた。
 「くそ」
 銅矢は駆け出す事にした。銃が効かないのであれば、取り押さえるしかないと思ったのだ。取り押さえる前に応援を呼び、捕縛縄で身柄を拘束し…それからのことはそれから考えればいい。その瞬間であった。女が唐突に振り返る。その表情は憤怒に満ちていて、復讐を果たしたというのにまだ気持ちは収まらぬようだ。銅矢に女は飛びつく。人間を二人引きずる程の怪力を身に付けた者との取っ組み合いとなった。銅矢は鍛えているとはいえ人間である。取っ組み合いになったら分が悪いと分かって、服を掴まれぬように捕縛網を投げる機会をうかがい、睨み合っていた。だが女は、掴みかかろうと虎視眈々と狙っている。女の土俵に上がってはならない。銅矢は距離を取りながら砂利を踏みしめ、女の手が自分に伸びてくるのを避けていた。だが腕は二本ある。左の手を避けたところで、右の手がさっと銅矢の服に伸びた。一瞬のことであった。怪力が、服を掴んで離すまいと握りしめる。人間は為す術もない。
 「うわ!」
 銅矢は呆気なく投げ飛ばされてしまった。だが痛む体を無視し、すぐに砂利の上で立ち上がる。砂利を踏みしめる音が聞こえた後ろで、突然、自分ではない砂利を踏む音がした。誰かがいる。この戦闘を見ているのか見ていなかったのか、関係の無い誰かがそこにいる! 銅矢は勢い良く振り返った。
 「…おや」
 暗闇の中で聞こえたのは、のんびりとした声であった。銅矢の緊迫感など意に介さないように、そしてその声に聞き覚えがあったので銅矢はまさかと夜目を効かせる。そこにいたのは、デルウハであった。
 「…は…!?」
 「何をしているんです」
 「こちらの台詞で…! つーか、今戦闘中なんですけど…!?」
 「それは失礼」
 デルウハはあくまでのんきである。銅矢は唐突なこの闖入者を、銅矢の敵を、どうすべきか悩んだ。そして恐ろしい想像が浮かび、女に背を向けるとデルウハに銃口を向ける。女は吸血鬼だ。デルウハも同様である。そして銅矢は、デルウハの正体に気付く若者だ。ここで憎き吸血鬼の敵を挟み撃ちする予定だったのだろうか? 銅矢の注意は、女だけでなくデルウハにも向けられることになったのだった。背にも目にも、銅矢は神経を張り巡らせる。ヤマアラシの棘のようなアンテナにより、全身が覆われる。動けばアンテナが察し、銅矢は即座に撃つだろう。敵意を向けられているデルウハは、何故かそこでため息を吐いた。
 「お前とやり合うつもりはない。俺は捜し物をしてるだけだ」
 「…誰が信用すると思います?」
 「信じられなくとも、それが真実だ。俺の眷属を見なかったか」
 銅矢の脳裏に、十五歳ほどの少女たちが浮かぶ。だが銅矢はこの駅に来て久しいが、少女に似た者すら見た覚えがなかった。
 「知りませんね」
 「そうか。ここら辺にいるはずなんだがな」
 眷属と主人は、見えない何かによって感覚を共有し、眷属の位置が朧気に分かるのである。完全に追跡することも出来るが、デルウハは少女らをあえて縛り付ける事はしなかった。デルウハの屋敷から、もう遅い時間で夕餉の時間だというのに、一人の少女が見当たらなかった。にこである。姉妹たちは動揺していた。にこは放浪癖やサボり癖はあるものの、家族の時間である夕餉に集まらなかった事はない。家族の時間はそれなりに大切にしていて、それも姉妹も知っているからである。だから彼女の所在を探すため、主人であるデルウハも駆り出されたのである。その朧気な位置が、この新宿駅の片隅であった。吸血鬼であるデルウハにとって、闇に紛れる事は容易である。
 だが銅矢に、そのデルウハの諸事情など関係はない。銅矢への敵意が無いと分かるや、彼は女の方を振り返った。女はどこにいる。駅舎に向かった気配がない。何故か女の気配が、この一瞬で失われてしまった。
 デルウハに拳銃を向けながらも、銅矢は女がいた方を見回す。女のにおいを追う為だ。新鮮な血を吸ったばかりの女は、においがきつく分かる。銅矢はデルウハを警戒しながらも駆け出した。女の気配が分かったのだ。と同時に、デルウハもにこの気配を感じて銅矢の後を追う。
 電車の向こうに女の気配があった。銅矢が電車の向こうに突っ込むと同時に拳銃を構える。そこで、驚いたように銅矢は固まった。デルウハもそこを見やっ
た。そこには、にこがいた。
 「にこ!」
 デルウハがそう声を掛ける。にこは、どことなくぼんやりとしていた。目の焦点が合っていない。ただぼんやりと、その場に立ち尽くしている。
 銅矢は無抵抗な彼女を撃つ訳にはいかず、だが拳銃は下ろさなかった。デルウハが話しかける。
 「何してる。帰るぞ」
 「…うん」
 「いちこ達が心配している。とっとと夕餉に」
 「うん、そうだよね……」
 にこは会話をしている。だが、にこはどうも会話のやり方がおかしい。あまりデルウハの言葉に耳を傾けず、とにかく上の空なのだ。デルウハも、その異変には当然気が付いている。だから怪訝な顔を
 すると、にこは突然謝った。
 「ごめん」
 「…にこ? 何を言っている」
 「ごめん」
 にこはそう呟いた時、銅矢はふと気が付くことがあった。にこが、いつの間にかあの女に抱きつかれている。コウモリ女に、後ろから抱きつかれている。本来なら異様な距離感で他人を振り払うはずなのに、まるで姉妹のような親しさで…にこは女を許している。
 その異様さに気付きながら、銅矢もデルウハもその女を振り払うまでに動かなかった。その前に、女がにこの背後で大口を開けたのである。人間では無いほどの可動域で、蛇のような口で、にこの頭からばくん!と呑み込んだのだった。
 「え」
 そのままごくんと飲み込む女の姿は異様なものだった。皮は人間のものであるが、まるでその皮を纏っただけの蛇のような細長い体と変わったのである。まるでにこを乗っ取るようであり、呑み込んでしまうと、更に異様な姿に変貌するのだった。
 まるで巨大な大蛇である。だが女の体は蛇の頭の部分に付いていて、胴は長細い体となりみるみるうちに伸びていった。そうしてその体は、三メートルほどに天に向かって伸びるのだった。
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