第一話 コウモリ女の噂
 1948年7月2日の事であった。山手線は本日も混雑し、乗客は開閉式の扉を閉めずにすし詰め状態に詰め込まれ、仕事や移動に勤しんでいる。母に抱かれている乳幼児の元気な声すら、圧し潰されている始末だった。皆息を押し殺し、他人の汗や呼気を吸い、苛立ちを超えて虚無になりながら急カーブになるたびに開いた扉にどどどと倒れ込みそうになる。扉から誰かが落ちたとて、それは事故だった。不幸な事故だった。翌日の新聞に名前が出る不幸な事故であった。同情を抱くのは一瞬で、新聞の活字から目を離せば頭から抜け落ちる程度である。この前は蜆売りが不幸にも電車から落ちたらしい。だが顔も名前も、日を追うごとに忘れていく。大日本帝国の首都である東京のあふれるほどの人口の中では、一人の死など大海の一滴なのだ。
 さる女性もそうだった。彼女は不幸にも電車から落ちた…だがその状況は通常の不幸と少々だけ違っていたのだ。だが彼女の命を奪った顛末は新聞には掲載されていない。立ち会った者だけが知るのである。彼女は不運にも扉の前に立っていた。混雑率150%を超える人間の塊に必死に一体化しようと扉に手を掛け、踏ん張っていた。カーブは二回ある。そのカーブを超えさえすれば、彼女は目的の新宿駅に着くのである。だから彼女は必死であった。そんな健気な彼女に、何かが突然扉に飛びついて来たのだ。
 コウモリであった。7月は繁殖期であり、気が立っているはずである。それなのに、日が暮れなずむ中で唐突に電車に飛びついて来たのである。コウモリは当然、扉代わりになっている彼女に激突したのだった。痛い、と彼女は呻いた。小さなコウモリであった、両手に乗せられるくらいであろう。とはいえ、飛び回る動物との衝突だ。出血したのだろうか、彼女の首筋に血のようなものが付いた。それがいけなかった。すぐ隣の中年の男が、血相を変えて彼女を見たのだ。
 「…吸血鬼だ!」
 「えっ」
 女は驚いた。和服ではない洋服に身を纏って、髪を振り乱して働きに出ているのだろう若い女だった。和服ではないから見える首筋に、出血。だがそれは衝突したコウモリのものの可能性が非常に高かった。それに日本には吸血するコウモリはいない。だが、この国には吸血鬼と呼ばれる怪異に非常に怯え、専用の討伐部隊すら軍部に出来ている程であった。男はこう考えたのだ、コウモリは吸血鬼の眷属か何かで、彼女の新鮮な血を吸って仲間にしたのであろうとーーー。
 吸血鬼による被害はおそろしいものがあった。生きたまま血を抜かれる、犠牲者は皆この世と思えぬほどの苦悶の表情であると伝わっていたから、民間人の怯えぶりは想像に難くない。彼女は哀れ、他の乗客に一斉に睨みつけられてしまった。距離を取ることが出来ないので、皆怯え切ったようなこわいものを見る目で、彼女を排斥しようとしたのである。彼女は違う、コウモリの血だと弁解しようとした。人間である事は彼女だけが分かる事である。だが、全てのタイミングが悪かった。潰れぬように母が覆い被さって守っていた乳幼児が、突然泣き出したのだ。
 無垢な赤子である。吸血鬼は若い血を好む者もいるという、赤子の新鮮であたらしくて生気に満ちた血などは格別の御馳走であると……それも民間の伝承で、不確かな物であったがまことしやかに囁かれているものだ。彼女の近くにいた乗客六人は、ぎくりとしたものが背を走った。そして咄嗟に、誰かの手が、正義の手が彼女の肩を目いっぱいの力で突き飛ばしたのだった!
 哀れ、無辜の彼女は絶望した顔で電車から落ちていった。高速の中で線路に体を投げ出され、生きていてもかなりの重傷となるのだろう。翌日の新聞に彼女の名は乗った。吸血鬼の疑いを掛けられたことなど、取材した新聞記者は知らない。ただ身元を大々的に紙面に載せて、若い彼女の将来性を嘆くだけである。その新聞は民間で流通している大手の物だった。彼女の遺族は哀しみ、遺体を引き取って盛大に葬式をあげた。国鉄に責任問題を問うと大手銀行に勤める父は言ったが、母は若い彼女の遺骨を抱くだけでそれ以上は何も出来ずに泣き崩れていた。彼女の死はあっという間に大衆に消費されて、まあ持ったとしても三日くらいであろうか。三日後には、大衆の興味は次の被害者に移っていたのだった。
 
 「コウモリ女?」
 「そう、噂だそうだ」
 8月に入り、制服が夏仕様になって幾分か身軽であるが白手袋は規定で付けなければならず、銅矢は軍部の中でこっそり外していた。そこに先輩から声を掛けられ、てっきり咎められるかと思ったがその先輩も素手であった。そんなに暑いなら、噂話で涼を与えてやろうと言うので聞いたのである。
 「新宿駅に現れるらしいぞ。それも夕方、暗がりの向こうからぼわーっと白い肌が浮かび上がって…それは血濡れの女の顔なんだってよ!」
 「はあ」
 銅矢は団扇で自分を仰ぎながらそっけなく答えた。日本の夏は堪える暑さである。勿論、現代に比べたら30度を過えない程度であろう。先輩は少し不満げである。
 「はあ、ってつれない返事だな。銅矢が暑そうだから、少しでも涼しくてやろうと思ってだな…」
 「あー分かりました分かりました。すみません、吸警にいますとあんまこう、血濡れとか怖くなくて」
 「花形だからな吸警は。いいよなお前は、大抜擢で」
 先輩はそう言うと、銅矢の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。銅矢は誇らしげな顔をしたが、すぐに暑いので先輩の手を払いのけるのだった。
 「暑いっす」
 「お前は本当に自信家で鼻に付くなー!」
 「俺ってば実力あるんですもん」
 「可愛くねー」
 銅矢はそう軽口を叩きながら、余計に頭を撫でて来る先輩に耐え切れずに笑った。吸血鬼対策自警団、銅矢が所属する軍部組織の名前である。銅矢は今年採用された新米であるが、その度胸と腕を買われて花形である部署に所属していた。先輩は偶然に中等学校の先輩関係にあった。軍部にコネクションがある訳では無い一般人だが、夢と希望と腕でのし上がって来た銅矢である。まだ一番の下っ端であるものの、愛される性格なのかよくこうして輪の中心にいた。
 「おい。銅矢、兼東司令官がお呼びだぞ」
 「本当っすか。じゃ、俺行きますんで!」
 「おう。…いいよな、軍部で一二を争う美女の兼東司令の元で働けるなんてよ」
 「そんなんじゃないっすよ。それじゃ先輩!」
 銅矢は手を軽く上げると、自分の執務机から離れ、上着と忘れずに手袋を付ける。一度外したままにして大目玉を食らったことがあるのだ。手袋は汗がしみた手ではなかなか付けられない。司令室がある別館に向かう途中、庭を横切る渡り廊下にて、ふと銅矢は前から歩いてくる桃色の髪に気が付いた。
 大男だ。軍部にも似たような体格の良い者はそうそういない。銅矢は口にくわえていた左手用の手袋を手に取ると、顔に敵意と緊張を張り巡らせた。彼らは互いに反対方向を歩いている。銅矢は別館へ、大男ーーデルウハは本館へ。渡り廊下で彼らはすれ違う事になる。彼らが互いに近付くと、デルウハの顔が軍帽のつばの向こうに見えた。穏やかにデルウハは笑っている。だが銅矢は、その笑みにきゅっと口を一文字に結ぶのだった。
 「ごきげんよう、銅矢三曹」
 「…ええ、デルウハさん」
 デルウハがぴたりと足を止める。銅矢もぴたりと足を止めた。デルウハは軍部の人間ではない。だが軍資金を援助する、国内有数の大富豪である。彼には権力があり、名誉があり、軍部の人間はデルウハに頭が上がらない。だが銅矢は軍部の人間であるはずなのに敵意をむき出しにし、今も寄らば斬る用意をしている。銀の短剣が懐にある。いつでも抜き出せるように左の素手で掴み、デルウハに突き刺す用意をしている。その不躾を見越しているのか、デルウハは笑っていた。
 「妹さんは元気ですか」
 「ええ。元気です」
 「銅矢三曹。…また別宅へおいでなさい。今度は私がもてなさせていただきますよ。私の子供達は、どうしても少しやんちゃでしてね…手を焼いています。貴方を怪我させるつもりはなかったと、今もそう話していますよ」
 「…それは光栄ですね。ええ、ころころ変わる別邸でまたお会いしましょう。その時は、必ず…」
 銅矢は振り返る。そこにはデルウハの顔があった。大富豪の余裕を携えた、無害であるという顔が。吸血鬼であるという裏の顔を隠している、醜悪な顔が。悪行を知る銅矢の敵意に、デルウハはわざと人の良い笑みを見せつけるのだった。
 「愉しみです」
 「…それじゃ俺はこれで」
 銅矢はこれ以上敵意を向ける気は無いのか、手袋を握りしめたまま別館へさっさと歩き出すのだった。デルウハを憎んでいるかと思えば、銅矢が憎むのは吸血鬼だけであるようだ。その統治をしているデルウハはあくまで吸血鬼の親玉というだけである。個人的にデルウハを憎んではいない。それが甘さだと、デルウハは若者の背を見ながら鼻で笑う。その甘さはきっと彼の足元をすくうことになる。その代償が大切な妹か、銅矢自身の命か…それはデルウハにも分からぬ事だが、それでもどこまで自分の元に登って来るのだろう。楽しみを抱えてデルウハは軍部を後にするのだった。
 兼東司令から言われた話は、先ほどどこかで聞いたことがあった。銅矢は思わず言葉を挟む。
 「もしかして…コウモリ女ですか?」
 「そうだ。お前が知っているとは意外だな」
 「最近有名らしいですけど…でも噂でしょう?」
 「それが噂ではなくなった。ここ最近、国鉄の線路付近でやたらと野犬や野良猫の死骸が出ているそうでな。中には鳩の死体もいたらしいが、共通しているのは皆血を抜かれている事だ」
 「でもそれじゃ、まあ吸血鬼だって証拠には乏しいんじゃないですか? 人間の血を吸うのが主って聞きましたけど…」
 「そうだな、ただの吸血鬼に見せかけた愉快犯の可能性もある。だがそんな事はとっくに自治警が調査した事だ。どうやら貨物列車の収容庫付近に、いたらしい」
 「何がですか」
 「コウモリ女だ」
 国鉄職員の通報により、夜も更けた頃に自治警の一人が駆けつけた時には、点々と野良猫の血が線路に滴っていたそうだ。その後を追ってみると、収容庫に一人の女の影があったという。暗がりでも分かる白い肌、若い女の肌であったという。何故分かったかというと、警官が灯りを持っていたことで照らしたのだそうだ。青白い顔をした若い女だった。その場にいた国鉄の職員は悲鳴を上げた。だが果敢にも警官は旧拳銃を構えた。変質者であっても、野良猫を噛みちぎって吸っている異常者である。言葉が通じると思わなかったのか、数発が女に命中した。だが女は怯む様子もなく、ゆらりと髪を垂らしながらぎろりと睨みつけると、警官に襲い掛かったと言う。だが牙があったわけではなく、手の甲を噛み付かれたようだった。
 「それって、吸血鬼なんでしょうか?」
 「分からん。まだ未発達なのかもしれん。だが、危険だ。通常の銃が効かんとなればうちの管轄となる。二会敷には話を通した、明日にでも新兵器が出来上がる。それを受け取って現場に向かえ。討伐開始だ」
 「了解しました!」
 「行け」
 兼東の声に、銅矢は敬礼したのち頭を深く下げる。軍部の伝統的な礼である。それが終わるときびきびと銅矢は司令室を後にしたのだった。
 さて、夕日が暮れた新宿である。人気が多い繁華街にいたのは、にこと呼ばれる少女だった。絣を着て、白鳥亭と呼ばれる人気の洋食屋で店主に頭を下げ、にこやかに店を出て来たところである。その手にはおつかい用の皿がある。
 「もー突然カツレツ食べたいとか言うんだからぁ。いちこはご飯の当番なのにぃ」
 にこは文句たらたらである。彼女が口にしたいちこは白米の番をしなければならず、他の姉妹たちも皆手が空かないからと彼女がおつかいをする事になったようだ。
 彼女らの主人であるデルウハは美食には目が無い。白鳥亭のカツレツは絶品である。それにビーフシチューを添えて、それが冬ならもっと美味しいのに、デルウハは夏場にカツレツを食べたいと言う。まあいいや、おつかい用のお金多くもらっちゃお。それか寄り道したって罰は当たらない。今日のにこの気分は寄り道だった。だから新宿の街並をぶらぶらと歩き、そしてふと、高架下にいつもいる野良猫を思い出す。
 みーちゃんと勝手に名付けた白い猫だ。ふわふわの長い毛並みは、まるで外国の猫のようである。青い瞳が美しい猫である。そうだ、みーちゃんに会ってから帰る事にして、にこはいつもの高架下に向かった。いた。だが、猫は何故か人間に怯えているようで、懐いているにこに向かって唸る。
 「みーちゃん、どうしたの。にこだよ」
 しゃーと威嚇し、猫は線路の向こうにさっと逃げ出してしまった。にこは追うか迷うが、まだ少女である。諦めきれずに猫を追おうと線路に足を踏み入れた時だった。
 「ねえ」
 何かが、にこに声を掛けて来たのだった。
 「まったく兼東くんは人を人間と思ってないよねえ」
 二会敷が兵器が出来たと言うので、銅矢は銀の銃弾を込められる特殊な銃を受け取った。短いサーベルも付いていた。明日受け取れと言う話だったが、二会敷は思ったよりも早く兵器を作り出したらしい。帰宅間際に研究室に呼び出されていた。
 「まあ、これで効くか分からなければ他を試すしかないね」
 「ちょっと、不吉な事言わないでくださいよ少将」
 「だって話を聞く限り、吸血鬼か怪しいんでしょ?」
 「ま、でも銃弾は効かないらしいですし。ありがとうございます、さっそく明日試してみます!」
 「うん、ま、がんばって」
 二会敷に軽く送り出され、なんだかなあと思いつつも銅矢は妹が待つ家路を急ぐのだった。
 
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