一年の計は元旦にあり。昨年から始まった習慣が本日をもって一年を経過するのであった。365日である。数字として見るのなら、365作を生み出したことになる。色々とあった一年であった。しかし正月に、元旦に振り返るのならば何も覚えていないのが実情である。あれほど苦しいと嘆いていた気がするのに、のど元過ぎればすべてを忘れるものなのだ。人間とは、忘却とは、ありがたいものである。こうして穏やかに、人々は忘れた物の上で笑うことが出来るのだ。寒さも暑さも身に染みたはずなのに、春や秋の過ごしやすさですべてを忘れる。そうして、また同じことを繰り返すのだ。生きられたことに笑顔を見せるのだ。だから、早起きをして分刻みのスケジュールを埋める必要などないのである。穏やかにいつも通りに目が覚めて、感謝をし、その日々こそが一年の計であるべきなのである。
これは、ずぼらで怠け者の言い訳かもしれないが。
この一年の間に何を書いたのか、読み返せば分かるものがある。使命のような形で書き上げた作品がある。一年の間に駆け抜けた作品がある。飽き性の人間が、この習慣のおかげで完結させることが出来た作品がある。毎日の習慣になんの意味があるのかと投げかけられたことがある。今思えば、これは修行である。修行であるから宣言し、衆人環視の目を使ってSNSに挙げている。それだけである。何の意味があるのかと問われてしまっても、この行為にこだわるのは何故かと問われても、そうだなあ。元旦に建てた目標なんだよなあ、としか言いようがないのである。目標に向かって走り切るのが無駄に見えたのであれば、まあ無駄なのかもしれない。この世は大抵、無駄な事で出来ているのだから。
気付きは多く得られた一年であったと思う。日常生活で苦しんだことは忘れたけれど、こういった作品作りで苦しんだことはわりと覚えているものだ。沢山の目に触れることを目的としたら、それが不純な動機であると遠回しに言われたこともあったっけか。でも作品って物言わぬ子供である。その子供の可愛さを、その魅力を、生身の人間であれば自力でアピール出来るのだろうが、誰か愛してもらえる人に出会わせたいと思うのは親心ではないだろうか。物言わぬ子供であるのだから。着の身着のままで愛してもらえるのが一番であるけれど、それが出来ないのが娯楽に溢れているこの世界ではなかろうか。そう考えるとこの修行も、特段珍しい物ではないのだろう。毎日書いているプロフェッショナルだってゴロゴロといるのだろうし。珍奇な事をして目立つのが目的ではない。ただの自己満足であるかもしれないが、修行である。そして終わりなき修行である。目に付くのは嫌という方がいるのであれば残念ながら、今年も続けるつもりである。
言葉を駆使すると文字は出て来ないという事がある。もともと言葉を駆使するのは苦手な方なので、活字の方がすんなりと脳から降りて来るのだ。誰かと話をする事と、活字を駆使することは似たようなものである。だから不特定多数の誰かと話すようになると、活字がうまく出て来なかったらどうしよう。そんな不安はあるにはある。仕事上では避けられぬ要素であるからだ。活字の方が大事と言えば大事なのかな。でも人間として生きているのだから、言葉は大事である。そこが生きづらい点ではあるのだけれど。言葉は頭の中で泉のようなものとして一定の量があるとしたら、言語で汲み過ぎたら活字の分は残ってくれるのだろうか。まあどちらにせよ、分からないものである。結局言語のコミュニケーションでなかなか成功した記憶は無いから、杞憂になろうか。憂いるところは今憂いてしまって、実際に迎える時には憂い切ってしまいたいところである。憂いも規定数だけしかなければいいのにね、どうして憂いだけは無限に湧いてくるのだろう。
つらつらと書いているが、そろそろ終わりを迎える時である。記録としては良いだろうが、落ちが付く読み物としてはまあ駄作になってしまう。今年もどうぞよろしく。
はーとありがとうございます!