閑話休題⑩
 「耳鼻科にかかるか…」
 「どうかなさったのですか?」
 所は、デルウハが耳をもぞもぞと触るのに怪訝な顔をする。ルームサービスで食事が来る前だ。デルウハは既にシャワーを浴びているが、所は三十分前にやって来たばかりで、椅子に腰掛けると教科書を開いていたところだった。復習をしようと学生らしい行動をしている一方で、部屋の借主であるデルウハは落ち着かないようである。所は首を傾げる。
 「水でも入ったのですか?」
 耳のトラブルといったら、まずシャワーをしていて水が中に入るという事が思い浮かぶ。だがデルウハは首を振った。
 「ここ最近気になるんだよ。それだけだ」
 「あぁ、痛みは? 違和感というか異物感はありますか」
 「異物感はないが、違和感っつーか痒みがある」
 「なるほど。もしよろしければ、少々お待ちいただてますか?薬局行ってきます」
 「薬局?」
 「ああ、ドラッグストアです。そう大したもの買いに行きませんから、安心してください」
 つい先程まで背負っていたリュックを背負い直すと、所はさっさとホテルを出て行った。残されたデルウハは、少々言葉不足であるものの所を待つことにする。耳は相変わらず気になる。水でもないが、何か詰まったような音がぼわっと響くような気もする。
 所は宣言通りにすぐ戻ってきた。手には新品の何かを手にしており、その個別包装を解くと出てきたのは耳かきだ。
 「なんだそれ」
 「あまり使われたことありませんか? 耳かき用の道具です」
 「綿棒は使ってるが…」
 「最近は色んなのが出てるんですよね。ちょっと良さそうなの買ってきました。試しに私が見ていいですか?」
 所はテキパキと道具を準備すると、ベッドの上に乗るとそこで正座をした。デルウハはその意図が分からずに声が出る。
 「は?」
 「さ、どうぞ。耳かきしてみましょう」
 ぽんぽんと膝を叩き、所は笑顔だ。何か企んでいるようではなく、善性の笑顔である。デルウハは訝しがりながらも横になろうとした時、ルームサービスがやって来たのだった。
 中断はあったが食事のあと、再び所はベッドのうえで正座をする。ぽんぽんと膝を叩く、その一連の行動は食事の前となんら変わらない。食事をして腹は膨れた。そのせいで気が大きくおおらかになるのは、体感上何度も経験がある。だがそれでも訝しげであった。デルウハは所の膝に頭を乗せるようにごろりと寝転ぶ。少々固い膝であるが、若い肉が押し返してくる感覚はあった。耳にじわじわとぬくもりが伝わってくる。膝枕も悪くないなと思ったところで、所がデルウハの頭を固定した。片耳を所に向けるように、デルウハは膝と平行に真横を向かせたのだ。
 デルウハは所の顔が見られないので、多少の不安があった。何をする気なのだという疑念が拭えない。
 「ああ、やっぱり汚れてますね」
 「なんだ、見えるのか」
 「ええ、多少汚れてますから綺麗にしましょう」
 所の手元でカチッという音がする。何の音だとデルウハが疑問に思わぬようにか、ぬっとデルウハの前に物を差し出してきた。ライト付きの耳かきのようである。先程のはライトのスイッチであった。
 「こちらで対応しますから。あ、でも何種類か買ってみたんです。合うものを見つけましょうね」
 「なんだ、何をするつもりだ」
 「何って、耳かきですよ」
 そういう文化はありませんか?と所は尋ねてくるが、子供の頃の習慣で、定期的に耳鼻科にかかるものではないのか。成人してから耳かきをするなどあまり聞いたことがない。だが耳という臓器を今、所に無防備に晒している。ここで暴れては危険だという知識はある。それに所が善意以外で何かをするとは思えなかった。黙って身を任せてやることにした。
 耳かきの先端がすぽっと穴に入り込む。
 「ライト付きだから見やすいなぁ、結構汚れるものなんですね。少しずつ取っていきますから」
 金属部分の先端が、かり、と耳の壁に触れた時だ。感じたことのないつめたさと、ぞくりとする感覚にデルウハは肩を突っ張らせた。かり、かりかりかり。その間にも、所の手元は動いて先端部分が耳の汚れを掻き出していく。汚れが耳から離れる時に、それらはねばついているのが分かった。脇に置いたティッシュに汚れを擦り付ける。
 「湿性耳垢ですねぇ、そうなるとへばりついて気分が悪いでしょう。奥にもありそうですし、少し我慢なさってください」
 所は事も無げである。だがデルウハは違った。耳かきが動くたびに、耳の中に蠢く金属製の固いものに、ぞぞぞ、と感じたことのない感覚が耳から直接脳天に快感のようなものを伝える。いやそれは快感であった。ふーっ、ふーっとデルウハは息を荒くする。膝の上の顔は、所の腹と反対側を向いているから壁を見やりながら必死に耐えているだけで良かった。
 さりさりさり…。粘り気があるからと、所の手付きはどこまでも優しく、壁にこんこんと当たることがないように、耳と耳の壁の間にするりと入り込んできて、優しくくいくいと動かすのだ。何も性的な行為はしていないのに、未知の感覚だった。不慣れなせいか、それが性的快感だと体は勘違いした。固いものを見つけたのだろう、こりこりこり…。
 「ふ、くっ…」
 「あ、痛いですか? 少しお待ちくださいね、多分これが悪さしてるので…取ってしまいましょう。我慢してくださいね」
 なんだ、一体何をしてるんだ。何でこんなに気持ち良いんだ。所は責め立てているというのに、何の罪悪感もなく善意で耳かきを続けている。こちらが抵抗しようと思うのに、所は危ないからと頭を膝に押し付け続けている。何故ここまでデルウハは無力なのか?
 頭を押さえつけられると人間は抵抗が出来ないのか? 否、耳に何かが入っているからだ。かなり奥に耳かきという道具は入り込んでいるらしい、普段綿棒で届いている場所だろうか。普段触れる事の無い箇所には毛が生えて異物の侵入を防いでいるはずなのに、耳かきは異物なのに当然のように入り込むのだ。
 「あ、これだ」
 こりかりかり。やばい、気持ち良いのがダイレクトに下半身に集まっている…。脳天に快感が集まって、それに連動しているのだ。ふー、ふーっとデルウハは荒い息を吐いた。普段所を抱く時と同じような息遣いになっているが、所は気付いていないのか夢中になっているのか続ける。
 デルウハが妙な快感に耐えていると、そのうちかりっという大きな音がした。そして、耳がさわやかになった気がする。続いて所の満足げな声だ。
 「取れましたよ」
 「ふー…っ…そうか」
 「反対側もやりましょうね!」
 気分が乗って来たらしい。所の提案にデルウハは異を唱えるが、片耳だけ清掃しても気持ち良くないだろうと所はデルウハの頭をくるりと回すと、今度はホテルの壁ではなく自分の腹を見せるように膝に乗せてしまう。デルウハに力が入らないのが要因だが、あまりにも簡単だった。所の腹に顔を埋める形になっても、はぁ、はぁと息をどれだけ荒くしても、所は耳かきとやらを止めなかった。止める理由がないからであろう。デルウハが快感を得ているなど、日本人の所にはあまりピンと来ないようである。だから綺麗になる耳掃除が楽しくて、デルウハの頭を抱え込むようにしてしゃかしゃかと動かす。
 「わー綺麗になりましたよ!」
 「……」
 デルウハの耳が赤い。息を切らしているのだからそうだろう。終わりない快感に放り込まれ、恋人の腹に顔を埋めて必死に堪えていたのだ。ただ性的な触れ合いではなく、ただの耳かきでである。所が特別上手いというわけではない。ただ、デルウハが慣れていないだけなのだ。
 「…終わりか…?」
 「そうですね、これで変わると思いますよ。それでも気になるなら、耳鼻科行ってください」
 「フーッ…そうかよ」
 デルウハの息が荒いことに、所はようやくそこで気が付くのだった。
 「痛かったですか?」
 「……」
 所の膝を借りているので、デルウハは極めて彼に近しい位置にいる。デルウハは所の肩を掴んだ。そして耳かきを片付けようとしていた彼を引き倒す。
 「わ、な、なんです…?」
 「うるせぇ。火を付けといて何も無いと思うなよ」
 「火?」
 所はまだピンと来ていないようである。ただ耳かきをしたら、恋人が急に欲情したようにしか見えない。だがデルウハがのしかかってくると抵抗のしようもなく、耳かきだけはとにかくサイドテーブルに置かせてもらって、それから彼の熱を持った手に服を脱がされるのだった。
 「またしましょうか?」
 所は挿入が無かったせいか、ベッドの中で元気に問いかけてくる。抱いた側のデルウハはといえば、ようやく溜まりきったものが発散出来て安堵しているようだ。デルウハは好きに所の肉体を嬲る側であるが、今回だけは主導権を取られた気がした。だが、それが良くなかったかといえば、嘘になる。
 「…また気が向いたらな」
 「分かりました」
 所はまだピンと来ていないようだ。だがデルウハに抱きしめられ、嬉しそうに頬を染めるのだった。
 「…貴方の喋った言語を特定しました」
 「え…?」
 公安の流王の言葉に、所は顔を上げる。先程まで彼は、終わりなき尋問に従順に答えていた。だが繰り返し繰り返し行われる質問と質問者側から与えられる敵意に、次第に俯き、それでも従順に答えていたところに、唐突な言葉に顔を上げたのだ。
 「銅矢隊員から聞き取り調査をしまして。我々で特定をしました。…エスペラント語ですね」
 『違いますか?』
 久しぶりに耳にした公用語に、所の両目から涙が零れる。この世界に来てからは、日本語を必死で思い出し、そして対応した。周囲が日本語ばかりなので言語に慣れるのは容易であったが、やはり耳慣れた言語というのは望郷の念を呼び起こさせる。デルウハにより悲しい最期を迎えた研究所に、そして救えずに終わったかもしれない世界を思い出し、そこで骨を埋められなかったことへの後悔がじわじわと涙を呼んで、所は泣き崩れた。だが公安は、その心情に寄り添うこともなく冷たく尋ねてくる。
 『間違っていましたか』
 「間違っておりません…」
 鼻を鳴らしながらそう答えるのがやっとであった。やはり、自分は裏切り者である気がした。デルウハからも、世界からも逃げおおせてしまった。死んでしまったであろう200名の職員に申し訳が立たないと思った。生きていることが重みになり、その心境など知らぬ公安は、ただ所の涙が尽きるのを待つ。それは優しさではなく、尋問の再会の為である。所のこころをほぐし、本当の事を聞き出すためのテクニックだ。
 「もう一度聞きます。R星人との関係性は」
 ふるふると所は首を横に振った。
 「存じ上げません…無関係です」
  何百回と聞き、また言ったであろう無罪を口にする言葉だった。流王は目を細める。所はまだ、彼らの望む答えを口にしなかったのだった。
 「まだ落ちないのかね」
 流王にそう尋ねるのは、公安部の部長であった。直属の上司であった。流王は頭を下げる。
 「申し訳ございません。しかし、…物的証拠や検査が、被疑者の無実を証明しています」
 「だから?」
 有無を言わさぬ言葉だった。自分の言葉が失言であると気付き、謝罪を口にする。
 「申し訳ございません」
 「被疑者は宇宙人からのスパイだ。その事実を固める事に異論を挟んでいる時間は無い」
 「ですが、無実の人間であった場合は」
 「無実ではない」
 有無を言わさぬ言葉であった。
 「あンの、クソ上司…!」
 ビールジョッキを机に叩きつける訳に行かないから、カウンターに激しくノックするように拳を手の甲から叩きつける。こんこんこん、と骨が机に当たる。机を殴る訳にはいかないからか、癖だからか。激しい高い音を出す流王に、銅矢は少し気圧されながらも、流王の隣にいる二会敷は機嫌良く日本酒をあおっている。
 「あの…いいんですか」
 「何が?」
 二会敷が尋ねる。ここは個室の居酒屋である。銅矢が二会敷と訪れた時、二階に案内された場所は仕切りの中にカウンターがあった。そこに三人横に並び、店員はボタンで呼び出す方式である。何故自分がここにいるか、銅矢は不思議だった。
 「俺、なんか場違いじゃありません?」
 「そんな事ないよぉ」
 「そうです。貴方は二会敷少将と酒を飲みに来て、たまたま私と同席しただけです」
 「それありなんですか!? 公安の方なんでしょ、そんな情報漏洩とか…」
 「飲みの席ですよ。私は顔馴染みの少将に会いに来ただけです。そこで愚痴を言うのは自然な事でしょう」
 「自然な事かなぁ…!?」
 明らかに密会ではないか、そこに巻き込まれたのかと銅矢は酒の味がしない。だが情報漏洩に気を付けるべき公安が、二会敷に愚痴を言っているのを見て、これ以上自分が考えて無駄だろうと思い、素直にビールを口にした。
 「上は結論ありきなんですよ! どんなに物的証拠が出て来ないと言ってもほとんど聞いてないんで…!」
 「うんうん」
 「あれは宇宙人のスパイじゃないのは明白だというのに…!」
 「あ、公安の方もそう思うんですか!? やっぱりそうですよね、所さん…は多分無害だと思うんです。俺も、変な人じゃないと思ってて」
 「そこまで信じてはいません。無害でない可能性もまだあります!」
  「あ…すみません」
 酒が回っているからか、ぎろりと睨まれて銅矢はすごすごと下がる。二会敷は間に挟まれていながら、日本酒にあん肝を呑気につまんでいた。
 「でもさぁ、物的証拠も何も無いんじゃ送検も出来ないし、裁判も無理でしょ」
 「そうなんですよ! 我々はでっち上げる訳にはいきません、それは信条に反します…! それなのに上は、上は変な圧力かけてくるんですよ…!」
 「それって、所さんを無理矢理スパイにするってことですか…?」
 「そうはしません。我々が、そうはさせません!」
 こんこんこん、と癖のように流王は机を叩く。
 「でもストーリーありきで、大衆感情に負けて…恥ずかしくないんですか…我々は国家の砦ですよ、我々が不正をするようになれば国家は腐る! それなのにぃ…」
 「うんうん。あ、二杯目頼む?」
 「焼酎くださぁい!」
 酔いが回ってきた流王の扱いに慣れているのか、二会敷はボタンを押して店員を呼んだ。
 「私はね、正義のためにこの仕事に就いたんです。国家保全の為に人を疑い、人を苦しめても国家の為だと…そう言い聞かせて今まで勤めてきました」
 酔いが回ってるなぁと銅矢は思った。頼んだ焼酎がやって来るのを、二会敷が愛想良く受け取る。
 「でもね、宇宙人には感謝してるんですよ」
 「え?」
 「宇宙人がいるからこそ、人間は共通の敵を見出し、人間同士の醜い争いは消えてきたんです。国家への不満はあれど、国家転覆や国家への在り方を問う危険分子は明らかに減った。人間はね、今平和なんです。宇宙人のおかげでね、人間同士の争いが一番醜い…」
 ごくごくと焼酎を飲み干しながら、公安は理想を語るように言う。宇宙人のおかげで人類は団結した。そのため、人間同士の争いは減少し、その事態は平和であるという。勿論その平和には、EDFの尽力なくては有り得ぬ平和だ。銅矢は少しずつ
 「そこに宇宙人のスパイなんて、冗談じゃない…」
 流王はそれだけ呟くと、寝こけてしまったのかカウンターに突っ伏して眠ってしまった。二会敷があーあーと笑う。銅矢はどこか複雑な気持ちで聞いていた。人間は人間同士で争う生き物だ。だが今は宇宙人という共通の敵があるために、戦争は減少している。人間とは結局、敵がなければ一致団結出来ぬ生き物なのだろうか? そしてその敵かもしれない所を、国家はとにかく弾劾したくて堪らないのではないだろうか。
 銅矢の直感や見てきたものなど、大衆を安堵させるのにはあまりにも無力だ。だからといって、所の無実を信じないわけではない。所の罪を明らかにするのは、今目の前で酔いつぶれている公安の仕事なのだ。
 二会敷はこれを見せたくて自分を連れて来たのだろうか? 流王を肩に担ぐと、二会敷は伝票を持っていく。
 「もう少し飲んでもいいよ。僕はこいつ送ってくるから」
 「あ、はい。ありがとうございます…」
 この世界は、銅矢が考えるより複雑である。所がこのままでは宇宙人のスパイとして認定されてしまうのではないか。その不安はあるが、公安はそれはしないと酔っていても言っていた。だから信じるしかない。無力だなぁと、銅矢は思う。あとは出来ることをやるしかないのである。二会敷はR星人の調査をしているというし、銅矢が出来ることはあるのだろうか。今の銅矢には、他人を信じる他なかった。
 ※これは本編とは関係のないお話です。書いてみたかっただけです
 「はあ。尋問だけで済めばよかったのですが…」
 「え? え…あ…」
 「用意を」
 所の両肩を、がっしりとした数人の成人男性の手が掴む。その力は絶対的な物で、抵抗のしようも無かった。所は立ち上がらせられる。ほとんど抵抗をしなかったため、用意はすんなりと進むはずだった。
 だが、下着を脱がされた時は流石に所も抵抗した。だがほんの少し身をよじっただけである。それでも数人が、所を脅威とみなしたのか床に強く押し付けられる。それ以降、抵抗はする気が起きなかった。
 「あ、あぁ。いやだ」
 ぴりり…とした微弱な刺激がからだを走る。その刺激は下半身に甘く走った。尋問の延長で、拷問とは思えない、甘い刺激である。所は今、ガラス張りのベッドしかない場所に放り込まれていた。そのガラスの向こうには、器具を操作する公安の姿がある。目視による監視を受けているのに、所の下半身は裸だった。上はかろうじてシャツを着ている。このアンバランスさに羞恥心をかきたてられていても、公安は当然とばかりに所の人権をはぎ取った。そして器具を所の体の中に取り付け、監視しているのだ。刺激が強くなり、所は必死に手足の指先に力を込めてシーツを掴む。だが次第に、ぶるぶると震え始めた。
 「ひん、ん、ぅ…」
 「その状態でお尋ねします。R星人とのかかわりを教えてください」
 「し、しりません。知らないです…何も…」
 「感度上げろ」
 「あぁあ!?」
 公安の言葉に応じるように、所の背が跳ねた。身体の奥にびりびりとした刺激が走る。前立腺に取り付けられた器具が、刺激を激しく与えてくるのだ。シーツを掴みながら、所は口を一文字にして必死に堪えている。
 「フーッ…フーっ…ぅう、う」
 「教えなさい、R星人との関係性は」
 ガラスの向こうからは、あくまで冷淡な声が聞こえる。所は一人だけ快感に溺れるのが急に恥ずかしくなり、必死に閉じていた口を開かせた。だが出てくる言葉は、恐らく公安の望まぬ言葉である。しかし彼にはそれしか言えなかった。首を振り、必死に無実を訴える。
 「しら、しらないです。しりません…ぅああっ」
 「正直に言わないと、刺激は強くなります」
 そんな! そう声を上げたかったが、先に出るのはうめき声であった。
 「う、ぁあ、しらない…!」
 「感度上げてください」
 「ひ、!」
 びぃん、と肉の中を弾かれるような刺激が走り、所は背を大きくしならせた。それがずっと続く。器具を外してもらいたくて、この機械的な快感が嫌でじたばたと暴れるが、狭い部屋に一人だけである。それも監視されている。余計に虚しくなるが、それでも下半身の快感は尽きない。
 「ぁぁああっ! あー! あー! や、だぁ」
 「お答えください」
 「しり、しりませ、…あっあっ、しらない、しらないぃ…!」
 「本当に知りませんか」
 「ほんと、ほんとうです。知りません…ッ…やだ、やだもうやだぁ! たすけて…!」
 「貴方を助ける人間はいませんよ」
 あくまで冷淡である。一人だけ快楽に狂っている、狂わされている。その事実にぽろぽろと涙が零れてきた。途端、刺激が急に弱くなる。
 「あ、ぇ…?」
 収束した刺激に、涙が止まった。もしかして聞き入れてもらったのかと思った瞬間に、また刺激がびぃん!と走る。
 「あぇ…っ…!?」
  「どうしました」
 ボタン一つで操っているはずの者とは思えない程の、穏やかな声で公安は語りかけてくる。その間にも、刺激が弱くなる、息を吐く、強くなる、息を呑む、その繰り返しだった。その波が、まるで性交の時の律動を思い起こさせ、余計に低刺激の時にも次の強い刺激を思ってじくじくと体が疼いてしまう。強く、弱く、強く、弱く。
 「あぁぁ……っ」
 「何か我々に伝えることは?」
 「ひぃ、ひ…あり、ません。しらない、ほんとに、知らないんです…あひ、」
 「感度上げてください」
 「やだ、やだやだ、やだぁ! あーッもうやだ! や、ゆるし、ゆるして。たすけ、てぇ!」
  「どうにもなりませんよ」
 「デルウハ殿(これはエスペラント語だった)。たす、けてぇ」
 「なんです? 人の名前ですか? もう一度言いなさい」
 「ちが、あ、ちがぁ…関係ない、人で…」
 「関係ないかは我々が決めます。感度下げて」
 「あぅ、あ…」
 刺激に慣れたからか、急に無くなると物欲しげに腰がくねる。このまま自慰をしたら気持ちが良いだろうが、監視の元でそんな豪胆な事をする勇気は無かった。それに、もし自慰行為にふけっても止められるかもしれない。たっぷりデルウハに開発された体は、快楽による拷問でも疼いてしまっていた。
 「誰ですかその人物は。教えてください」
 「……」
 所は項垂れる。どう説明していいか、火照る体では上手く言葉が出て来なかったのだ。
 「恋人ですか」
 思わず所は首を横に振った。恋人だと言うのにはあまりにも、あまりにも打算の関係性である。だが体は重ねていた。それはあくまでデルウハの性欲処理の為だけで、それを一言二言で説明しきる自信はない。
 「違います…」
 「ですが貴方はその人物に助けを求めましたね?」
 「…この体に教え込んだ人です。恋人ではありません…」
 その言葉で全てが伝わるとは思わなかったが、公安はその言葉を信じてくれたようだった。とはいえ宇宙人の関係者ではないか、という追求は止まない。
 「その人は宇宙人ですか」
 「ち、違います。人間です」
 「では、貴方が縋ったのはその人間なのですね? 貴方と同じDNAは人間のもので」
 「宇宙人とは関係ないんです…信じてください。私も、彼も、宇宙人とは一切関係がないんです…」
 「信じるのに、貴方は疑わしすぎる」
 直接的な表現だ。公安の敵意が剥き出しになったと思った。それも仕方ないと所は落胆する。どんなに言葉を尽くしても、体は尋問を受けても、何ひとつ信じては貰えないのだ。そのうちに心が折れて、有りもしない嘘を口にすることを望まれている。だが、所は嘘を口にする気にはなれなかった。だから尋問にも拷問にも…一度死を迎えた人間であるから腹が据わって、受け入れる事が出来た。さあ好きにしてください、それで気が済むのなら。
 その所の投げ出すかのような従順さが気に障るのか、ビリビリとした刺激が急に所の背をぞぞぞ、と走る。唐突に刺激が最大出力されたようで、頭が真っ白になった。
 「ひぁう……!」
 「でしたら口を割るまでは付き合いましょう。貴方が正しい事を口にするまでは」
 「あっ…あー……」
 まだ一度も絶頂していない。だがその手前あたりでいつも刺激は終わってしまって、もどかしげに所は腰がくねるのを止められなかった。
 「や、…ぁ…ッ…いき、たい」
 「望み通りにして欲しくば、ちゃんと真実をお伝えください」
 違う、それは真実では無い。そう頭の隅で必死に思いながらも、体はほとんど屈服しかかっていた。
 「やん、やだ、いきたい、……しらない、知らないんです、何もぉお…」
 「何も知らないなら、どうして宇宙人の死体の上にいたんです?」
 堂々巡りである。このまま絶頂はずっとお預けなのかと考えると、所はあまりにも悲しいと考えた。デルウハにお預けにされた事はあるが、それも数分程度のことだ。結局デルウハの好きなように動き、所は甘やかしてもらえなかったが、その勝手さについて行く喜びのようなものを感じてしまって、それが忘れられないでいる。公安とデルウハの違う点は、性交する目的ではないということだ。所を痛めつけ、吐かせる為に彼らは所に刺激を、それこそ実験動物にするかのように刺激を与えている。
 「ですから、知りません…宇宙人のことも、私、は、あぁっ、知らなくて…」
 「感度最大にしなさい」
 「くひぃ…ッ…!」
 ああいきたい、いける。絶頂が近いと思うのに、その途端に刺激が弱まってしまう。
 「いきたい…」
 「交換条件です。貴方が知る事を話したら、望む通りにしてさしあげます」
 「し、知らないんです。何も…! だから話せません」
 再び最大、そして堪能している間に弱まる。
 「ああーー。あ、あぁ、もう、やだぁぁ……」
 あまりにも何度も何度も繰り返されるので、絶頂を迎える前に脳が混乱して意識が遠のいていく。このまま眠ってしまうのかと思うと最大に、それでも気絶は次第に所の五感を奪って、かくんと首が落ちて眠ってしまう。公安は舌打ちした。
 「起きたら続きをやるか…」
 「抱いてみてもいいですか」
 突然部下の一人がそんな事を言い出すので、公安の責任者は眉を顰める。
 「何を馬鹿な事を言って」
 「なんか具合良さそうですよ。あんだけ感度良いってことは」
 「馬鹿言え。許可が降りるわけないだろう」
 それにしても容疑者の身を勝手に自由に扱っていいはずがない。それはこの国の倫理観と道徳意識によるものだ。所を見やる。気絶してしまったが、あとどれだけ彼の意識は持つだろうか。公安の知ったことでは無かった。
 デルウハ達は三叉足のイペリットの群れを見つけた。山を下り、ガスの淀む区域でのことである。三叉足のイペリットたちは暢気に群れを作っていた。どうやら山の下腹部が、彼らの縄張りだと思われる。
 本来は平地で、人間のいない場所でイペリットは互いにけん制し合って暮らしていると思われる。イペリットに縄張り争いがあると思えぬが、とはいえ槍ヶ岳に巣食っているのは事実である。下の世界に希望は無い。だが人間は、研究所の人間は限られた場所でつつましく暮らしているのだ。イペリットと共存できぬ以上、彼らを倒さねば安寧は訪れない。
 デルウハは全員を集め、作戦を説明することにした。ハントレスにくのえを加えた七人である。
 くのえは肉体年齢はもう七歳だが、中身はまだ五歳程度であろう。目を輝かせて聞いている。いちこの横に立ち、手を握っている。
 「奴らには時限爆弾を使う」
 「時限爆弾? ダイナマイトじゃなくて?」
 「そうだ、奴らは通常個体より足が速いからな。それよりも地雷を踏ませて、足止めしたところを一網打尽にする方が確実だ」
 「なるほどー」
 「でも、どうやって誘導すんの?」
 ハントレスから当然の疑問が出る。今イペリット達は窪地で群れに暮らしている。そこから外に出さなければ、一網打尽には出来ないだろう。まずは群れから引きずり出さなければならない。
 「それは、足が速い奴に囮をしてもらう。イペリットの死肉を食うやつらだが、人間に興味は無いとはいえ、目の前に躍り出たら流石に追ってくる。今までの経験則上、奴らは必ず追ってくるだろう」
 概要は分かる。ハントレスも作戦を理解はしたようだ。だが、一つ問題がある。
 「……誰がやんの?」
 デルウハはいちこを見やった。正確には、いちこの隣の小さな子供だ。
 「くのえ。お前に任せる」
 「えー!?」
 ハントレスから驚きと非難の声が上がった。何せ、くのえはまだ子供である。足の速さで言えば、ハントレスよりも遅いのではないだろうか。だがデルウハは事も無げである。
 「まず群れに近付いてくのえの肉体を強化させ、その足で逃げてもらう。成人の人間になるからな、お前らより筋力は発達して速いはずだ」
 「でも、くーちゃんが襲われるかもしれないのに…」
 いちこがくのえの手を握る。
 「そこは計算してある。三叉足は移動速度は早いが、持久力は通常よりも低い。持続して襲いかかるのには、あまり向いてない連中だと分かっている。一定の速度で逃げ切れば、理論上は回避可能だ」
 デルウハはくのえを見る。すると翠の瞳がこちらを見やる。デルウハと同じ瞳であった。デルウハを見やる瞳は真っすぐにこちらを見つめている。彼は頷いた。
 「分かった。やる」
 「やります、だ。くのえ」
 「はーいやります」
 くのえ自身は随分と軽い返事をするのだが、かえってそれがいちことみちの心配を引き出したようだ。大丈夫?と尋ねられても、くのえはうんと頷くだけである。本当に分かっているのかとデルウハも心配になるのだが、子供は意外と話を聞いているものである。
 まずは誘い込む平地に、穴をあける作業だ。無数に散りばめるものの、万が一にも誘爆が起きない可能性もない。その為に場所には目印を付け、デルウハが思い描いた通りに爆弾は埋まった。それで、よし行け!と命じるとくのえが飛び出していく。子供は群れに単身で突っ込んだ。早々に危機を感じたその肉体は、デルウハによく似た青年となる。
 やっぱり俺に似てるの嫌だな…。そんなことをデルウハは思いながら、くのえは一目散に駆け出していった。振動で反応することなく、ちりばめられた時限爆弾は沈黙を守っている。そのスイッチは、ハントレスの各々が握っていた。そのリモコンを握るのに、よみは汗が少しだけ滲むのを感じた。今までイペリットに直接やり合う事はあっても、このような爆発物を扱うのは初めての経験だった。子供が扱っていい物でもない。研究所にいるうちは、絶対に触らせてもらえなかったであろうが、デルウハがいることで初めて扱うのだ。妙な緊張がある。高揚感もある。大事な物を任せてもらえた事による嬉しさもあった。
 どどど…とイペリットが走る音が聞こえる。リモコンは、デルウハの合図によってスイッチを押す事になっている。だから息を殺し、デルウハの行動に注視する。くのえが窪地にやってきた。想定通りに、イペリットは初動は早いが持続して走るのは遅い。センサーである六本の髭が、かえって真っすぐに一目散に走るという行動の邪魔をしている。だから成人になったくのえは早々に窪地の端に辿り着くと、ハントレスが垂らした縄を登り始めた。まだ登り切っていない。イペリットは、人間を目当てにぞぞぞと集まり始めている。くのえが登り切った。イペリットはその縄の端を踏んだらしく、縄が窪地の中に吹っ飛んでいく。縄を掴んでいたいつかは咄嗟に手を離したので、無事だった。彼女が手に感じた重みは、全身を持っていかれるほどであった。
 「あっぶな!」
 「大丈夫? くのえ」
 にこはいつかを見ていないように言う。くのえは頷いた。
 「おっけー大丈夫」
 「僕の心配もしれくれないかい!?」
 よしよし、といつかの頭をくのえが撫でる。しょうがないな、といつかはそこで納得したようだ。くのえの無事を確認したところで安心している場合ではない。イペリットはいつものように折り重なり、潰れ合いながらも人間を追ってこようとした。そこで一目散にハントレス達も逃げ出す。デルウハが手を上げた。指が一本、いちこの爆弾。二本、にこ。三本はみち、それぞれの爆弾を起動させると、窪地の手前から順繰りに吹っ飛んでいく、そうしてるうちに群れの六割は予定通りに吹っ飛んだ。あとの四割が残っている。不発弾がないことを音で確認し、デルウハが合図を再び出す。その合図によってハントレスが降りていく。くのえも一緒に降りていくのだった。
 100匹ほどはいる三叉足のイペリットは一気に片付き、無事に任務は完了するのだった。
 「お疲れー」
 「お疲れ様。くーちゃんも頑張ったね」
 「がんばった? 出来てた?」
 いちこに纏わりつくくのえは、相変わらず長身で大男だ。だが15歳の少女にべたべたとする青年は見た目が悪い。それもデルウハによく似ているので、父親としては気分は良くないのだ。
 「くのえ、いつ戻るんだ」
 「わかんない」
 いちこをほぼ抱きしめるようにしながら青年は言う。くのえは仲の良いみちの手も取っているので、少女二人に囲まれている形だ。恰好だけは俺の子供なんだよな…。しかし、そんな些細な事を気にしている場合ではない。討伐が終わるころには午後三時を回っていたのだ。このまま研究所に戻ると、日が暮れてしまう。そのためテントをそれぞれ建て、翌朝にまた出発する予定である。準備をしていたらあっという間に日没だ。遠征を何度かしているから、もうテントの建て方はハントレスは十分慣れていた。
 「出来た? 出来た?」
 くのえはようやく縮んだ体でちょこちょこと歩き回っている。手伝うのではなく、ただ遊び回っているだけだが、反面教師のようによみが普通にテントを建てている。そうしているうちに夕食になるのだが、テントで研究所に報告をしながらデルウハはふと考える。焚火を囲みながら、ハントレスとくのえは談笑している事だろう。仕事があるデルウハとしてはその会話を盗み聞きながら、何でもない談笑の中にヒントを探している。
 遠征におけるデルウハの目的は、大きくは当然イペリットの討伐である。だが小さな目的もあった。くのえをいちこ、みちから引き剥がす事である。くのえにはデルウハが教え込んだ殺人のノウハウがある。どこを殺せば一撃で済むか、あるいは一撃で意識を飛ばす方法を教えてしまったのだ。それだけに留まれば問題ないが、くのえには殺人衝動がある。現に好奇心で一度ハントレスを殺してしまった。記憶消去の薬の作成を依頼しているが、それまでにくのえをハントレスから引き剥がす方法を模索したいのだ。彼らは、あまりにも距離感が近すぎる。たとえくのえの記憶を消去し、殺人のノウハウだけを消したとて、殺人衝動がある者と不死身はあまりにも距離が近すぎる。
 作戦中か、あるいはこの談笑の時間に何かそのヒントをと考えていたが、唐突な物音がした。がたん、がたがたがた。
 「…?」
 なんだ?
 唐突な物音に、息を顰める声。これはむつだろうか。
 『いた』
 『ヒッ』
 嫌な予感がした。デルウハはテントを出ると、談笑していた焚火に向かう。炎が揺らめく中で、血が飛び散っている。そして転がっている、少女らの動かぬ体。そして斧を振り回したであろう、くのえの姿である。
 「おい…」
 (いい加減にしろよマジで…!)
 その時、かたんと小さな物音がしてデルウハは降り返る。そこに、たまたま席を外したのであろういちこがいた。青ざめている。デルウハはその目撃者の登場にも驚いたが…今回はそれを利用することを思い付くのだった。
 夜中にふと目が覚めた。腕が無いことに気が付いた。ひゅうっと、夜の闇を吸い込んでしまった。後悔と懺悔と哀しみが胸から吐き出された。吐き出したものが所を取り巻いて、急に息苦しくなる。まるで目に見えぬ人が彼を取り囲み、押し潰そうとしているような圧迫感だ。そのせいか、は、は、と短く浅い呼吸が襲ってくる。
 ああ、まずい。これはパニックに陥る。
 所は自分の事であるのに、頭の半分のどこかで、他人事のように知識がそう呟いた。だが知識では己を救うことは出来ない、呼吸はどんどんと浅くなり、胸は上下し、肩はどんどん竦められる。遂には、ソファーから転げ落ちてしまった。眠る時に邪魔になると義手を外してしまっていたから、所はごろごろと身が床に転がってしまい、短い腕で床をついて立とうとして出来なかった。
 あまりにも腕は短く、パニック寸前の頭に無力感まで叩き込まれて、フローリングに大きく息を吐こうとして、月光に浮かんだ白い埃を吸うばかりの浅い呼吸を繰り返すだけだった。ああ、ダメかもしれない。そう考えた時だ、電灯のスイッチが点いて、所のいるリビングはぱっと明るくなった。
 「シゲさーん? あ、落ちたのかぁ」
 部屋の主である二会敷少将である。夜だからか眠気からか、のんびりした言い方であった。その声に、一人で焦り暗闇に飲み込まれそうだった所は、涙目で彼を見上げた。二会敷はソファーに近付くと所にの前に屈み込む。淡い電灯の中で、二会敷は逆光によって暗く見える。だが夜のぬるりと闇ではなく、からっとした影だった。
 「どっか打った?」
 ふるふると所長は首を振る。浅い呼吸は、他人の目があってか静かに深い呼吸になっていった。そこまで強いパニックではなかったのだろう。寝癖のある二会敷は、所の脇と床の間に指を差し入れて持ち上げてくれた。あれほど短い手で動こうとして何も出来なかったのに、二会敷はいとも簡単に抱き上げてくれる。ひとまず床に座らせてもらったところで、所はほっとして礼を言った。
 「ありがとう、二会敷くん」
 「やっぱりこっち来たら?」
 指で寝室を指す二会敷に、所は申し訳ないからと首を振りかけて、悩んだ。
 彼はこの世界に突然現れた人間である。この世界には、所の痕跡も生きた証すらない。謎の正体不明の人間である所を、EDF人体実験部の二会敷はその身を引き取ってくれたのだ。そんな彼の寝室には、なんとダブルベッドがある。
 二会敷は一人暮らしなので、彼の元婚約者が決めたのかもしれないなと所は思った。人が二人寝るのには十分なスペースがあるのだ。そのため二会敷は、自分の隣に寝るかどうか尋ねてきたのだが、流石に居候の身でそれは…と所は遠慮したのであった。だがその遠慮が、夜半に彼を起こすという最低の結果をもたらした訳なのだが。
 所は少し考えると、頷いた。
 「うん…二会敷くんが嫌じゃなければ」
 「僕はいいよ?」
 そう言う二会敷は本当に他人との同衾に違和感がないのか、所だからなのかは判断がつかない。だが、とにかく所は彼の安眠を妨害する可能性を低くしたく、迷惑をかけるくらいならと同衾を申し入れたのだった。所は外していた義手を抱える。枕もとに置いておく為である。
 「お邪魔…します」
 寝室に入る時、所はそう言った。というよりも、この部屋のどこかに入る時や、移動する時は必ず言っていた。毎回言わなくていいよ、と二会敷は言っていたがそれは所の気持ちであろう。寝室は間接照明が部屋の隅を照らし、ほのかに明るい。明るさはリモコン一つで操作出来るようで、壁にリモコンが掛かっていた。そしてベッドである。二人分が眠れる大きさの寝台が、薄明かりの中で浮かび上がっていた。
 「僕奥で寝るからさ。余ったとこ好きに使って」
 「あ、うん」
 そう言って奥にある枕目掛けて、二会敷は布団に潜って壁を向いてしまった。残された所は、自分用の枕をおずおずと近くに置くと、自分用の布団を掛けて潜った。親切だ。
 二会敷は親切なほどに親切である。この親切に報える機会は、初老の身にどれだけ残されているだろうか。何も無い世界に一人だけ飛ばされてしまって、イペリットの脅威が無い世界で生き延びている。同じ研究所の人間は皆デルウハに殺されてしまったのだろうか。それなのに、自分だけは生き延びて…。寂寞と郷愁が同時に所の鼻をつんと衝く。じわじわと涙が滲んで来た。30年以上、人生を捧げて来た研究所の行く末の傍に居られなかった。卑怯者である。罪悪感による自責が止められない中で、縋りつくように思い出すのは翠の瞳だ。すべての元凶である。だが夢を、希望を与えてくれた悪魔である。神は人道から外れる研究所の最後に、悪魔を遣わされた。それは報いであろうか。
 「デルウハ殿」
 ちいさくエスペラント語で呟く。悪魔の名を。夢を見せてくれた悪魔の名を。 
 あの翠の瞳を、今思い出してしまえば美しい物だった。自責に汚れる事も無く、いつ見ても合理に光った瞳は曇ることなく、強い光を保ち続けていた。伏せられ、見開く、あらゆる形の瞳を見た。その色や形は頭の中にきらめいていて、今でも鮮明に思い出す。
 所はつんと鼻に突くのを感じた。悲しみの中に恋慕のようものが、デルウハの存在が色濃く所の中できらめいている。彼に全てを擦り付けて、彼がすべてを背負わせる事も出来る。すべてをデルウハのせいだと言ってしまえば簡単だ。だが、所はデルウハがすべて悪だと言えなかった。その甘さで研究員たちを守れなかった重責を、悪魔に縋りつくことで気を逸らしているのだ。天使にも堕天使にもならない悪魔に、破滅を齎した悪魔に、手を合わせるような行為だった。
 あの翠の瞳を思い出す。その腕に抱かれていたことを思い出す。彼の性欲処理の為に、身を捧げていたことも。その恨み節を思い付けばいいのに、どうしてだか体に思い出すのはあの手が、大きな手だった。大きな手から与えられる熱だった。どうしてだろう。
 「…デルウハ殿」
 あの手にもう一度触れたいと思ってしまった。枕をきゅうと抱きしめてみる。触れられない物を思うのは、虚しくて悲しい。眠ってしまおう。所は目を閉じた。
 
 「……」
 二会敷は目を閉じておらず、静かに息を凝らしていた。ベッドに伝わる軋みが、所が動いたのを伝えてくれる。だが枕を抱きしめてすぐに寝息が聞こえてくるので、眠ったのだと分かった。二会敷は細く息を吐いた。そして寝返りを打つ。所は二会敷に背を向けている。だから間接照明の中で顔は見えないが、悲哀のようなものを感じた。彼が小さく呟いた言葉は耳慣れない言語であり、それでもおそらく人名であろうと思われた。誰かの名前なのだろう。
 「……」
 きっと誰かが、所がたまに語る”その人”であろうか。恐らくそうであろう。はあ、またちりちりと悋気の種が蒔かれている。だが任務である。必要以上に所にこころを寄せるな、というのが兼東司令の向こうにいる上層部の考えだ。何か秘密を持っているようなら探って来い。それが上層部の願いである。
 「…秘密ね」
 二会敷は呟く。所の寝息を聞きながら、彼の秘密がこの天井に投影された時、それは会った事も無い人物なんだろう。
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