「あ、もしかして水出たかなぁ? シゲさんちょっと確認してみて」
引っ越して早々、家主に不吉なことを言われたので、所は急いで近くにある洗面所に向かった。銀色のぴかぴかとした蛇口が、日陰であるのに僅かな日光に反射してよく見える。近付いてみると、蛇口には手垢や水垢が付いていなかった。普段使われていない事は明白だ。不安な気持ちは隠しつつも、所はぐっと指先に力を込める。彼の手は義手であるが、細かな力加減まで伝えられる高性能なものだ。
固い栓はゆっくりと回った。すると、水が軽やかな音を立てて蛇口から流れる。所はホッと胸を撫で下ろして振り返った。家主であるニ会敷が、自分の家であるのに何か探しているようである。
「出たよ二会敷くん」
「ホント? 良かった」
普段使ってないの? そう言いたい気持ちを押し殺した。
槍ヶ岳の研究所でデルウハに殺害されたはずの所は、死を迎える前にこの世界に飛ばされた。最初は混乱し、死を得られなかったことに涙をこぼしたが、今はなんとか生に向き合っている。ここはイペリットとは違い様々な宇宙人が襲来する世界だ。その防衛を担当するEDFに身柄を確保され、行くあてがない所は今、EDFの人体実験部責任者である二会敷少将の家に引っ越しをすることになっていた。しかし、殆ど私物はない。何せ身一つでこの世界に来たのだから、失われた両手や頬の裂傷のほかは着の身着のままだ。そのため、保護されてからEDFが用意してくれた下着や衣服など、本来は買い上げなければならない物しかない。生活が安定してから返上しなければならない借金である。だが命があるだけ有難い事態なのだ。洗面所を出ると、まだ明りの付いていないリビングに行く。
日中なので明りを付けてないのだが、緑のカーテンの向こうから陽光が差し込んできて、所はつい目を細めた。日光に目が慣れると、部屋の中が見えて来る。白い壁紙に床は木目の分かるフローリングだ。広い空間に置かれた、目を引く赤いソファーにお供するように立つ漆黒のスタンドライト。ソファーの下に敷かれているラグは、どこか中東のにおいを思わせる柄だ。生活感は薄いものの、二会敷の好みが凝縮されているのが分かる。カーテンがばたばたと風に揺れたので、思わず所は窓を閉めに向かった。ベランダのある大きな窓の向こうにマンションが見え、思わず人目を気にして即座にカーテンを引いた。
「しかし、近所にバレたら大変だね。スパイを匿っているなんて分かったら」
「スパイじゃないんだからいいんじゃない?」
そう言いながら、二会敷は何かを探しているようだ。所はカーテンを引いたので明りを付けようと周囲を見渡した。部屋のスイッチを押す。かちっと音を立て、ちかちかと電灯が点いた。
「あ、点いたね」
「普段帰ってないの…?」
そうおずおずと尋ねると、二会敷はうん!と元気良く答える。所が今まで尋ねていなかった気遣いが無駄になった気がした。二会敷はそういえばと思い付いたように言う。
「あーそうだ。ベッド買わないとね。それまではソファーで寝てもらおうかな」
「ありがとう。でも無理に買わなくてもいいよ。床でもありがたいくらいさ」
「さすがに床は背が痛くなるよ~」
そう言いながら、二会敷はソファーを見やる。長らく座っていないように、ソファーは姿勢が良い。白い埃が上に溜まっているので、掃除機探して来るねと言ってニ会敷はクローゼットを探しに行ってしまった。
「夕飯は出前で良い?」
「もちろん、大丈夫だよ。…ごめんね、色々負担を掛けることになって。必ず職を得たら、返すから…」
「気にしなくていいって。シゲさんアレルギーある? なんか食べられない物は?」
「特にないよ」
所はそう答えると、手を組もうとして義手がかしゃんと鳴る。この奇妙な同居生活が始まるのだった。