今思えば、彼に叱られたかったのかもしれない。
竜野は研究所にて生まれた子供だった。だが両親の命は不幸にもイペリット関係の事故で失われてしまった。それが竜野が十歳の頃だったか。頼れる両親の他に親族は研究所にはなく、両親と懇意だった所が彼の親権者となった。だが、当時の所は独り身であったが、有望な研究者として力を奮っており、ハントレス研究の核を任されていて多忙だった。次期所長であろうと噂されていた程だ。所長の椅子がもうすぐ届くというところで、権力闘争の最中に他人の子供の親権者になり、その養育は不安視され、同じ年齢の子供を持つ女性研究員たちが交代で日中の面倒を見てくれ、その育成に問題は無いように思われた。だがそれは身体としての成長はすこやかであっても、精神の成長は幾分か不安が残り…所は所長として就任したばかりの頃、よく竜野のことで呼び出されることになる。
「所長、実は居住区で喧嘩が発生しまして…」
「すぐ行くよ」
住民同士のいざこざは、厳密には所長の仕事ではない。警察代わりの保安部が治安を守っている。だが所はよく呼び出された。喧嘩はこどもたちのものであった。余計に保安部でも、所長の仕事でもない。ただそこに、竜野が鼻と頬に絆創膏を付けて、ぶすっとした顔をしていた。相手は同年代の子供で、思春期であるのか大人に囲まれてしまって不愛想に、大事になっていることに苛立っている。すでに竜野は十五歳になっていた。
「紫央」
竜野は横を向く。自分は悪くないのだと思っているのだろう。所長はため息を吐いた。喧嘩相手の子供は、大人に囲まれるだけでも嫌そうなのに、まさか研究所のトップがこんな所に来ると思わなかったのだろう。だからやめろって言ったんだよ!と子供Bは、最もけがをしている子供Aに食って掛かる。それぞれの親も呼び出されており、所長に頭を下げた。こんなところで権力を使うつもりはない、と所長は前置きして何があったのかを尋ねる。こういった喧嘩は最近よく起きていた。よくよく内容を双方から聞くと、結局口の回る竜野が悪いことが多く、所長が頭を下げる事は多々あった。今日も同じである。
「紫央も謝りなさい」
「…はい」
竜野は、所長には目立った反発をしなかった。覚えたばかりの挑発も反論を許さない正論の並列も、所長の前では一度も出さなかった。だから喧嘩相手に頭を下げ、心を殺したような顔をして所長に連れられてその場を後にする。所長は、竜野を自室に送ると所長室に戻った。そこでため息を吐いた。広い空間である。圧倒的な権力の象徴だ。だがそういった力がこの研究所に有益をもたらすのかと考えると、所長はそこまで権力には興味は無かった。しかし、人柄や研究結果によって選ばれてしまったので仕方がない。新所長の責務は重く、所の肩に重くのしかかっている。不慣れな仕事が立て込んでいる隙間を縫うように、竜野の反抗めいた喧嘩が差し込まれてくるのである。この時期の所の頭を悩ませる種は多かった。はあともう一度ため息を吐く。
所長として、溜まっている仕事を片付けよう。そう考えてとにかく所は仕事に没頭するのだった。
時刻は簡単に深夜を回った。それほどの仕事量だった。所長は一息つこうと執務机から立ち上がる。その時に僅かにふらついたのは休養不足であろう。それほどずっと座り仕事で書類とにらめっこだったのだ。コーヒーでも淹れようかと思っていると、こんこんこん!と無遠慮なノックの音が聞こえる。深夜三時に、所長室を尋ねて来るのはほとんどいない。研究に何か不具合があったか、夜通しの実験が必要であれば所長のもとに申請が入ってくるはずである。だが今夜はその申し出は無いはずだ。ノックに応えるよりも先に、扉が開いて顔が中を覗き込んでくる。少年の竜野だった。
「またいる」
「紫央、もう寝なさいと言ったはずだよ」
「誰のせいで眠れないんですか。昼間の、僕は悪くないんですよ」
「それは…君の思いやりが少々足りなかったからだ。正論だけがすべてじゃないんだよ」
所長はあくまで穏やかに、この思春期のこどもを諭そうとする。だが竜野は、所長の手を掴むとそのまま引きずり始めた。その若い力に逆らわないでいると、所長はずるずると居住区に連れられ、自室に戻る事になった。竜野と二人暮らしの家である。ランクがある訳では無い。だが狭いこの研究所において部屋が与えられるのは、子供や老人などの特定のスペースを必要とする属性の家族であった。竜野はまだ独り立ちが出来ない、だから所長と共にこの部屋で暮らしているのだが、所が所長になってから殆ど戻ることは無かった。それが、竜野には不満なのだ。だから定期的に部屋を抜け出し、所長室で多忙な所長を連れ出し、最後にはベッドに寝かしつけるのだった。
アウターだけ脱いで冷たいシーツに横たわり、所長は着替えもしていない。昨日の服のままだ。だがそれでもいいのか、竜野はそのままの所をベッドに横たわらせて、自分はその隣にパジャマ姿で潜り込むのだった。成人に近付いている竜野の体は、存在感があって狭い。だが竜野は有無を言わさず、所を寝かしつけたし、自分もそこで眠る気であるようだ。布団をかぶり、おやすみなさいとだけ竜野は言う。所長も、諦めたように言った。
「うん、おやすみ」
思春期に襲い掛かる漠然とした怒り、焦り、無力感。それらは夜のベッドに体を横たえた時に、目に入る暗闇の中で増幅され、自分が勝手に生み出した闇色のモンスターに今にも襲われるような生命の危機を覚える。それが竜野が見えていた急速な焦りであった。大人に頼りたい。だが大人は頼りない。それに頼れる大人もいない。いや、一人いる。親権者となっている所長だけが、竜野が頼るという資格を持った大人だ。竜野は、ベッドに入った途端にことんと入眠した所を見やった。疲労感を常に抱えている彼は今、重責の奴隷である。
その大人を寝かしつける事が、竜野が出来る最大限に背伸びした行動と考えていた。自分は子供ではなく大人だから、大人を寝かしつける事が出来るのだ。子供の管理をするように、大人の管理が出来るのだ。こどもの自分が! こども自分が大人を! それは彼の自己肯定感に影響し、実の両親を失ったことで気遣いと気疲れの間でもまれてきた早熟さを身につけることになったのだ。だから、竜野が同年代と気が合うことは少なく、むしろ大人には竜野は天才なのだろうと思わせることに、彼は躍起になった。その為の努力は日々欠かさない。本を読み、勉強に励み…。
そして、子供の悪知恵を働かせた。空になった所長室に、竜野は所が眠り込んでいることを確認すると、パジャマから着替えて素早く侵入したのだ。所長の研究成果なども所長室にはあるはずだからだ。そこで竜野は、若い子供の竜野は、ある物を見つけた。所が今度研究してみようと纏めていたレポートである。まだ実験成果もそこそこの結果しか集まっておらず、論文としては未完成だ。それはイペリットについての発表だった。まだ始めたばかりというメモや実験結果がまとめられて、机の一番上に置いてある。その全てを、竜野は盗んだ。
すべては抱き締めてくれない未熟な親への当てつけだった。
所長は当然のように翌日そのレポートを探したようだが見つからず、結局竜野が成人してから二年後。そのレポートは思わぬ形で世に現れることになる。ほとんど内容は変わっていた。何故なら竜野が再現実験を行い、当時所が出している仮説を覆し、中身を更新したからだ。その真逆の結果が出ているが、かつてその実験について仮説を立てた所なら、その内容が分かるはずである。完全な盗作ではない、所の詰めの甘い部分をすべて竜野は指摘し、仮説を修正し、さらに竜野自身の発見に絡めたのだ。発表した当時、竜野は天才だと持ち上げる者がほとんどだった。その反応におおむね竜野は満足していた。肝心の所は、いい出来だねと言うだけだった。きっと気付いているはずである。竜野の論文の中で、引用にもならないが三行ほどしかない”所の仮説”を混ぜ込んでいるのだから。それでも、所はよく出来たねと、イペリットに対する発見を褒めたたえるだけだ。
「竜野くん」
昔のように紫央と呼べばいいと思ったのに、所は、竜野が成人して研究所に就職した途端に呼び方を変えたのだ。もう部屋は一緒に暮らしていない。竜野には竜野の居住スペースが用意され、所の元を出て行った。このまますれ違ったまま、竜野と所はもう親子として交わらないまま終わるのだろうか。悲しい気分になる前に、ぽっかりとした穴が空いて塞がっていない気がした。自分は、最後にあの人に叱られてみたかったのだろうか。そう今更願ってみても、全ては遅いような気がした。
「紫央。…他の人にはしないようにね」
すると所が、わざわざ人気のない場所でそう話しかけて来た。思春期のように反抗したい気持ちが先行する。だがそれはぐっと堪え、何のことですか?とへらへら笑ってみせる。さあどうだ、怒るだろうか。叱るだろうか。だが所は、そんな竜野に優しい目線を向けると、それだけだよと言った。
あ、間違えたのだ。僕は彼に叱られたかったのかもしれない。もう遅い気付きを、遠ざかる所の背を見ながら竜野は自分の胸の中にきつく押し込むのだった。
はーとありがとうございます!