大きく息を吸い込めば、雨上がりの草むらから香り立つ、ほんの少し湿った土の匂い。葉っぱの|露がきらきら光って、宝石の道だ。そのまま見上げるならば、白い|綿雲がふわふわと浮かぶ、水彩の青空!
嗚呼、なんて素晴らしいんだ、田舎ってものは! 空気が美味しけりゃ空だって綺麗に見える。ビルに反射する|眩しい日差しもここには無い。穏やかに照らされた道を踊り歩く。
ついに引っ越したぞ、私!
ほんの少し古めかしい家屋には、すでに引越し業者のトラックが停まっている。大変なのはここからだ。荷解きをするのは、女一人暮らしには厳しいものがある。業者の人にいつもの癖でぺこぺこ頭を下げて段ボールを中に入れてもらう。私も私で車に積んだ荷物を業者の力を借りて必死に下ろすのだった。
そうしていると、隣の家の扉が開く音がした。そうだった、まずはご挨拶だった! そんなことも忘れていたなんて。田舎って村社会だから、そういうのも大事なんだよな、と思いつつ、そっと顔を覗かせると、そこにはそこそこ|歳のいった──それでいて若々しい、理想的な──女性が立っていた。服装こそ飾らないシンプルなものだけれど、綺麗に整えられた爪だとか、気品に満ちたナチュラルメイクだとかが、私にとっては憧れそのものであった。
「あら、もしかして新しく住む方かしら?」
「っえ、はい、そうです! すみません、挨拶もしなくて……」
「良いのよ、引っ越しで大変でしょう? そうだ、私も手伝っちゃおうかしら」
「いえいえ、そんな! ホントすみません!」
「あらあら、私をナメてかかっちゃいけないわよー? 私だって昔はヤンチャしてたんだから、力には自信があるのよー」
そう言ってお隣さんは力こぶを作って見せる。にっ、と笑う唇から覗くのは真っ白な歯。
なんて力に満ちた方なんだろう、まさに「田舎のおばちゃん」って感じだ。もうコレだけで好きになっちゃいそうだ。
私は四十五度のお辞儀を心がけ、精一杯頭を下げた。それから、お言葉に甘えて段ボールを開けてもらった。恥ずかしい物は何も無いから、このまま荷解きを手伝ってもらおう、という話だ、|烏滸がましくも。
申し訳無さが先行する私に、お隣さん──|八重樫|美代さんはこう言ってくれた。
「私も若い頃は都会で暮らしていた|余所者よ。私も一人暮らしだから、困ったときはお互い様、ってね!」
「いえいえ、そんなそんな……」
「そんなに謝らないでちょうだい。気持ちは分かるけど、たくさん言われるとこちらも申し訳無いわ」
「そ、そっか……すみま……いえ、ありがとうございます!」
元気が良いねぇ、と言われ、恥ずかしくなってしまった。元気だけが取り柄だからだ。逆に言えば、私に他のものは無い。何も。
ミヨさんは荷解きし終わった段ボールをいくつも抱えると──凄い腕力だ──運んじゃうね、と言った。
「え、私が──」
「まだどこがゴミ捨て場かも分かってないでしょう? あ、そうだ、私が案内してあげるわ。普段捨てるのは朝八時なんだけど、きっとあの人だったら許してくれるだろうから」
「良いんですか?」
「もちろんよー、サトコちゃん、まだ何も知らないんだから、ちゃんと教えてあげる人が必要ってコト」
「ありがとうございます!」
またお辞儀をして、後をついていく。嗚呼、こんな上司だったなら、私も上手くやれていたんだろうな、と思いながら。
まだ見知らぬ土地を、ミヨさんと話して歩いていく──どこから来たの、とか、何の職業をしていたの、とか、そんな話をしながら。思い出すだけで嫌になることもあったけれど、ミヨさんと話していると不思議と笑い飛ばせるような気がした。
ミヨさんもミヨさんで、都会が嫌になって逃げ出したんだそうだ。あの煙たい空気、思い出すだけでイヤになるわ──そう言うミヨさんは、どこか遠い目をしていた。ミヨさんにも、嫌な思い出の一つや二つあるのだろう。
「ほら、着いた。ゴミ捨て場はココね。覚えられたかしら?」
「はい、大丈夫です!」
「良かった。って、あ、おーいキヨミさん! 段ボール捨てても良いかしら?」
キヨミさん、と呼ばれた腰の曲がったおばあちゃんは、私のほうを一瞥したのち、いいよぉミヨちゃん、と答えた。ミヨさんは村の中でも良い人間関係が構築できているらしい、私も見習いたいものだ。
「ほらね、キヨミさん優しいから。サトコちゃんも頼るんだよ」
「分かりました。よろしくお願いします!」
私の言葉には返事は無かったけれど、これからだ。これから人間関係を築いていこう。こんなの、私の職場に比べたら断然マシなほうだから。
二人で歩いて帰ってくる頃には、日も落ちかけていた。橙の色が差して、世界が暖色に変わっていく。緑の葉っぱも、茶色い土も、白い雲も、全部暖かく色染めされていく。
家の前で、記念に一枚写真を撮る。背中の曲がった老けた若者の私に対して、ミヨさんはこうしてみるとやっぱり若々しい。見習わないとな、と思わされる。
「ちゃんと動いて汗かいたから、お風呂入りなさいな。そしたらまた明日案内してあげるから」
「よろしくお願いします、おつ……また明日!」
ミヨさんは大きく手を振って、自宅へと帰っていった。なんて良い人なんだろう、本当に。私のお隣さんがこんなに良い人で良いのだろうか。というか、私はこんなに恵まれた環境で良いのだろうか……
ひんやりしたタイルの床も、きんと冷えるけれど、夏場は涼しくて良さそうだ。沸かした風呂に入ると、大きな溜め息が出た。だいぶ疲れていたみたいだ。
良い人に囲まれて、良い環境に身を置いて。こうすれば、私もまた良い方向に変われるだろうか。親元に帰るのは忍びなかったから、この道を選んだわけだけれど。私には、あの都会の空気は吸いづらくて仕方が無かった。
ぽかぽかと肩まで漬かっていれば、ついうつらうつらしてしまう。ココで寝てしまっては私の人生も終わってしまう。体を起こしたそのとき、ふと、腕に|痣のようなものを見つけた。どこかで打っただろうか……?
そんな思考も、次の思考へと消えていく。そういえば、ミヨさんが明日は燃えるゴミの日だと言っていた。早めに出しておこう。
のんびりとした夜を過ごし、目が閉じる。おやすみなさい、私。良い夢を。明日も良い日になると良いね。
◆
ドンドンドン、と扉が叩かれる音で目を醒ます。ぽかぽか暖かい日差しの中眠っていたのに、眠りを妨げるなんて何事だ。ふわふわした足取りで向かうと、インターホンもあるのに、扉をドンドン叩いてくる人影があった。
「はい、何でしょうか……」
ガラリと扉を開けると、そこにいたのは昨日見かけた人物──キヨミさんだった。眉間に|皺を寄せ、かさかさの唇を横に引いて低い声で言う。
「ちょっとねぇ、あんたでしょ」
「え、はい、何が──」
「ゴミ捨てたの、ねぇ」
「え? あ、はい、捨てましたけど……」
「ゴミは八時きっかりに出さないと、ねぇ。カラスが来て大変なんだよ、ねぇ……」
「っえ、あ、すみません、気をつけます……」
尻すぼみになる私の声を聞いてか、単純に言いたいことを言ったからか、キヨミさんは大きな溜め息を|吐き、踵を返した。曲がった腰をとんとんと叩きながら、低い声で繰り返した。
「ルールは守ってもらわないと、ねぇ……」
その背が小さくなるまで見送ってから、ふぅ、と息を|吐く。胸を撫で下ろして、扉を閉めた。
ずいぶんと不機嫌そうだったけれど、そこまで怒らなくても。いやまぁ、私が全面的に悪いんだけど。確かにカラスが集まってきたら大変だ。だとしても、ネットくらい用意しても良いのに。私が住んでいた地域では、むしろ八時きっかりに出しに行くとゴミ収集業者に白い目で見られたものだ。
とはいえ、郷に入っては郷に従え、が正しい。反省している。
暗い気持ちで朝ご飯を食べようとして、そうだ、と思い至った。昨日のご飯を作りすぎて困っていたのだ。ミヨさんに分けに行こう。こういうやりとりは、マンション暮らしのときには無かったから──そんなことしたらそれこそ白い目で見られるから──少しわくわくする。
両足の爪先を合わせ、真っ直ぐ背筋を伸ばして。チャイムを押して、笑顔を作る。嗚呼、職業病が抜けていない。私はこれから在宅勤務だっていうのに。でも、仕事のときとは違って、扉を開けてくれるのを楽しみに待っていた。
しかし……いつまで経っても開かない。ノックをしてみても返事は無い。もしかして、ミヨさんまで私を無視するようになったのだろうか。私は何も言えないまま、踵を返そうとして……おかしい。聞こえてくるは虫の声、そよぐ風。こんなに扉に近いのに、物音一つしない。居留守の可能性もあるだろうか?
またあとで来よう、と決めて、今度こそ踵を返した。次は今日の食材を買いに行く番だ。エコバッグと財布を持って、家を出る。
よく目を凝らせば、いろんなところに畑や田んぼがあって、おじいさんやおばあさんがたくさんいる。だが、そのどれもと目が合わない。私はまるで幽霊のようだ。そこにいることすらも認識されないのだから。いや、幽霊は認識されることもあるのだから、そっちのほうがマシか。
……嫌な光景が頭に浮かんで、私は首を振る。さすがに八百屋に行けば、私が認識されるだろう。
八百屋のおばちゃんに、すみません、と声をかける。だが、おばちゃんはこっちを見もしない。眉を寄せ、私はわしっとハクサイを取って見せるが、それでもこちらに目もくれない。このままじゃ盗んでしまうぞ。
嫌がらせをするように、いくつか野菜を取ってそのまま去ろうとすると、腕をがしっと掴まれる。舌打ちが聞こえてくる。金を寄越せ、と手で合図する。だったらこっちに反応の一つくらいくれたって良いのに。お金を突きつけて、野菜をエコバッグに詰めて帰る。
どいつもこいつもそうだ、私を都合の良いときだけいないもの扱いして、都合の悪いときはいる扱いしてくる。また嫌な光景が頭に浮かぶ。冷たい空気、ぶつかったときだけ聞こえてくる舌打ち、無情に響くハイヒールの音……
そんなことを考えていたからだろうか、私は目の前を横切る人に気が付かなかった。小さな娘だ。自転車で勢い良く坂を下っている。もしぶつかっていたらタダじゃ済まなかっただろう、それこそ警察案件だ。
「ちょっと! 危ないよ!」
私はそう声を上げていた。さすがに声を上げざるをえない。すると、キキーッ、と自転車を停め、こちらをじろりと大きな目で見つめた。何も言わない。眉間に|皺を寄せ、なに、私が悪いの? そう言いたげだ。どう考えたって十対|零で向こうが悪い!
「ブレーキかけないで坂を下っちゃ駄目だよ。ぶつかったらどうするの!?」
「……あーあ、わたしに口出しするんだー。おじいちゃんが怒るよ。あんた誰? 余所者?」
小娘は片目を細め、私を冷笑する。視線が突き刺さるような気がして、私は振り返った。また私を都合良く冷たい目で見つめてくる人々。
「……あーあ、羽入さんちのマイコちゃんに……」
「ありゃ怒るだろうねぇ……」
私はいよいよ我慢ならなくなって、声を張った。ふざけるな、私はいつまで黙っていれば良いんだ。こんな仕打ち、受ける覚えなんて無い!
「私は|斎藤|聡子! 昨日越してきた新入りだけど何か!? 危ないものは危ないでしょ!?」
すると、マイコと名乗った小娘は、えーん、と声を上げて泣き始めた。周りのヒソヒソ話は音量を上げる。ここにはいられない。私は土を蹴って走り出した。惨めだし、辛いし、泣きたいのはこっちだっつーの!
酒屋にも寄ろうかと思ったけれど、また同じ目に会うのが嫌で、わざわざ山を下ってコンビニまで行った。村を出るとき、くらり、|目眩がした。世界にノイズが走ったように視界が揺れる。酷いストレスだ、|閃輝暗点が起こってしまったのだろうか。
愚痴を言おうと思ってミヨさんの家に行ったけれど、やっぱり物音がしない。昼も夜も会いに行ったけれど、何の返事も無かった。本当に嫌われてしまったのだろうか、そう思ったけれど、思い切って扉を開けると。
そこには、何も、何も、無かった。住んでいた形跡そのものが、何も無かった。
◆
毎日のように夢を見た。
仕事場に行くけれど、誰も私を見ようともしない。自然と目を逸らすのだった。ぶつかったときだけ舌打ちをする。上司は私の仕事に目くじらを立てる。じゃあ質問をしに行っても、無視される。
別に私が酷く見るに|堪えないような見た目をしていたわけでも、酷く不潔だったわけでもない。私が仕事ができるのが羨ましかったのだ。最初こそ可愛がられたけれど、私のほうが仕事ができると分かると、上司が、同僚が、関係無い人が私を無視した。
胃酸が上ってきて、酸っぱい味が口に広がる。涙は出ないのに、ずっと泣き叫んでいる。それでも何も起きない。コレは、夢だから。
目が覚めて、毎日のようにミヨさんの家に行く。ソコには表札も無くて、車も無い。外に出れば無視される日々だ。
逃げてきたのに、私はいつもこんな目に遭うのだろうか。こんなの、理不尽だ。私が新人だからって、皆が疎むんだ。そんなの、絶対におかしい。
私はもうどこにも逃げられない、し、 逃げるつもりも無い。もう、心を病んだりするもんか。私は今度こそ住みやすい環境を作るんだ。
意を決し、私は村長──羽入さんの家へと向かった。あの人がきっと私を村八分にしているんだ。だったら、私はあの人の元に行って、はっきり言ってやらないといけない。こんな村社会なんておかしい、と。
そして、ミヨさんをどこにやったのか、と。
ミヨさんの家を何度も訪れた。だけど、ミヨさんが出迎えてくれることは無かった。しかも、あんなに──ミヨさんに対しては──優しく接していた村人たちも、誰もミヨさんのことを気にしていなかった。
そんな、一日で消えてしまうなんて|有り|得ない。単純に私が疎まれているだけならまだしも、|忽然と消えてしまったのは絶対におかしい。全部羽入さんが知っているはずだ。
チャイムを押す。するとこの間私を|轢きかけた女の子が出てきた。ちらりと私を見上げると、おじいちゃん、と声を上げた。やっぱり裏におじいちゃん──羽入さんがいるということか。入んなさい、と声がかかるけど、まさか私が入ってくるなんて思ってもみなかったのだろう、部屋へと向かえば、ただでさえ|皺だらけの顔にさらに|皺を寄せて私を見上げた。
腰が曲がっていて、都会だったらそこら辺を|徘徊しているおじいちゃんだろうに、ココではこの人が神様みたいに扱われているのだから不思議だ。私の上司より怖くない。
「あぁ、新入りか……なんだ、村を離れる決意ができたんか」
「違います。村八分にするのはやめてくださいと言いに来たんです」
「村八分ぅ? 人聞きの悪い!」
ピシャリと怒鳴るように言われる。あのよぼよぼのおじいさんから出る声だとは思わなかったから、一瞬怯んでしまった。ふと、昔の嫌な上司を思い出す。逃げ出したい、そう思ったけれど、今の私は冷静だ。もう人前で泣いたりなんてしないんだから!
「村の|し《・》|き《・》|た《・》|り《・》に背いたお前さんが悪いんだよ!」
「……確かにソレは私の過失です、申し訳ありません。でも、だからって村|総出で人を無視するなんておかしいとおもいます!」
「オレたちゃ|余所者が嫌いなんだ。ココは戦争を生き残った親父さんやおふくろが築いた大事な歴史がある」
嗚呼、こういうときにいつも昔話をするから、|老害って嫌になっちゃう。じゃあどんな歴史が残ってるんだ、って話だ。
私は熱を閉じ込めつつ、そう言ってやった。すると羽入さんは、ドン、と机を叩いて、声をさらに大きくした。
「ンなもん覚えてねェわ! とにかく、|し《・》|き《・》|た《・》|り《・》に逆らわなきゃこうはならねェんだ!」
「こうはならないって、|他人事みたいに。そう言ってミヨさんのことも消したくせに!」
「──あぁ? ミヨさん?」
声が静かになった。ぴたりと動きが止まる。羽入さんは片眉を吊り上げ、私のほうを見上げた。
「誰のこと言ってンだ、お前さん?」
「とぼけないでよ! ミヨさん、八重樫美代さん! 私の前に入ってきた人! まさか消しといて知らないフリなんてしないでしょうね!?」
「あ? 消すって、どうやって。ミヨなんて子、いねェよ」
「私が入ってくるその日までいたはず! あんたたちが消したんでしょ! 住んでた形跡も何も無くなってた! それともなに、ミヨさんまで私を|排他しようとしてるってこと!?」
「だから! いねェっつってんべよ! 村中に訊いて回れ、皆そう答えるだろうね!」
嗚呼、まったく、このボケ老人! 自分の視点しか正しいと思ってないからこういうことが言えるんだ。上司だってそうだった! 自分に都合の悪いことはすぐ「覚えてない」とか抜かしやがる!
だから、今度こそ、あのときのようにはならないように、突きつけてやるんだ。絶対的証拠を……!
「八重樫美代さん、私の隣に住んでいる人です! この写真を見なさい!」
私はスマートフォンを取り出し、写真を見せた。ミヨさんと撮った写真だ。若々しいミヨさんは、写真の中で笑っている。もう見られないのが、残念だ。
「……あれ? ミヨちゃんじゃないか」
|素っ|頓狂な声を上げ、羽入さんは目を丸くする。
私は安堵して次へと話を進めようとした、が、そのときだった。
ビビ、ガガ、とノイズが走るような音が聞こえてきた。耳鳴りにも似ていて、頭痛を起こす。
「ミヨちゃん? あれ? オレは、知って、あれ? あれあれあれあれあれあれああああああ」
「ちょっと、羽入さん? ふざけないで──」
「エラーが発生しました、エラーが発生しました、エラーが発生しました、エラーが──」
え? なに、何? 私が混乱して動けなくなっていると、羽入さんは口をぱくぱくと開けて|嗄れた声で繰り返した。
目の前にきらきらした何かが走っていく。テレビ画面に走るノイズと一緒だ。ソレはだんだんと大きくなっていき、羽入さんを、和室を、全てを呑み込んで──
最終的に、私は|零と|一が作る黒と緑の空間に立たされていた。
立ち尽くす私の元に、黒服の女性が歩いてくる。ハイヒールをカツカツ鳴らして、私に近寄ってくる。私は動けない。動こうとしているのに、|金縛りに|遭ったみたいだ。
私は呆然としてそちらを見つめる。女の人は私を見ると、低く冷たい声でこう言った。
「斎藤聡子、識別番号XX-〇〇八。あなたはこのムラ社会から排除されます」
口を動かしたかった。だというのに、口が動かない。
女の人の手が顔に被さる。視界が黒くなる。そして。
私の意識は、闇に落ちていった。
◆
朝六時。目覚ましの音で起こされる。嗚呼、今日も始まってしまうのだ。
顔を洗って、ご飯を食べて、髪を|梳かして、スーツを着て。嫌でも私はあの会社に行かねばならない。
「あー、仕事嫌だな……」
そんなことを呟いてみたりして。結局無駄なんだけれど。
テレビの音がバックグラウンド・ミュージックとして聞こえてくる。女性のキャスターが何かを話しているけれど、私には関係の無いことだ。
「政府は、実験的ムラ社会への参加希望者を募っています──」