閑話休題⑧
 ほのかな移り香があった。だがそれは香水のような人工的でかぐわしいものではなく、火を纏ったたばこの香りである。デルウハはふと、脱ぎ捨てたマフラーから仄かにたばこの香りに気付いて、自分の鼻に引き寄せた。布地の向こうから僅かにだが煙がある。人工的なフレーバーも少々。デルウハはその香りを付けたであろう張本人を見やった。
 ここはデルウハの宿泊する日本の高級ホテルである。そのホテルの一室にて、ベッドですうすうと眠る男性が一人。所であった。彼も服は脱ぎ捨てていた。先程まで二人は裸の付き合いだったところからバスローブを纏い、デルウハは水を飲むためにテーブルへ、所はベッドにて眠っている。眠っているのは性交渉の疲れだろうか、日々の疲れかあるいは若い眠気か。どちらにせよ深く眠っている所は、高級ホテルのやわらかな布団に包まれて白のシーツの中に沈んでいた。
 このたばこの香りは、所から移ったものだろう。デルウハはマフラーを元あった場所に放る。床ではなくソファーに掛かるように投げたのだ。マフラーは抵抗もなく革のソファーにぽすんと落ちた。そうすると、またたばこの香りがほんのりと広がる気がする。所を抱きしめた時に移ったものだ。つまり、所は喫煙者なのだろう。
 まだ所は二十歳ではなかったか、とデルウハは考える。だが、すぐに考えを改めた。所はただの日本人の学生ではない。かつて槍ヶ岳で行われていた非合法の研究所の二代目所長であり、同じ時代に生まれたデルウハとは遠からぬ縁がある。彼らはイペリットという外敵のいない世界に生まれ変わって、また再会した身である。所長と呼ばれていた頃に、彼は一本の煙草を大事に取って置いていた。いつか平和で、人類が暮らせる地になったら、そこで思い切り吸ってやろうと考えていた。前世の思想に引きずられ、此岸で煙草を愛用してもなんらおかしくはない。ただ、日本人の喫煙制限は20歳ではなかったか。デルウハに会う前から、所はたばこを定期的に嗜んでいることになるのだ。
 
 あまり良くない習慣にデルウハは目を細める。悪習に囚われる人間は数多く見て来たし、溺れなければならぬ環境も理解は出来る。だが長期的にもたらすのは、あまりにも不必要な習慣だと合理に欠けるからデルウハは行わない。所は中流家庭の学生だと名乗っていたし、彼が暮らすアパートにも行ったが特段生活に困っている様子は無い。多少食事は手を抜いているが、まあ若い男らしいといえば若い男らしい。その分、余った金で前世に好みだった酒やたばこにつぎ込んでいるのならば、分からなくもない。だが若い肉体をわざわざ酷使し、汚す必要は無いだろう。先程まで口吸いや、唾液の味は分かっているはずなのにそこで気が付かなかったのは何かケアをしているのだろうか。それとも自分が溺れたか? その点は早々にデルウハは切り捨てた。
 キスの邪魔になるような嗜好については、所が目を覚ましたら聞かねばなるまい。そう考えているからか、なんとなく所の寝顔を眺めていると、視線を寝ながら感じたのだろうか。ううんと唸って布団を引き寄せようとした。これ以上に身を温めるものは、所の周りには無い。布団は冷たくないのだろうが、それでも寒いのだろう。デルウハは既にバスローブをはだけさせ、室温は暑いくらいだが、リモコンを手に取って1℃だけ上げてやった。それが功を奏したのかは分からぬが、所はそれ以降唸らずにまたすうすうと眠り始める。布団に潜り込むようにして、寝息を立てるとその顔はほとんど見えなくなった。だが、先程まで飽きる程眺めたので問題は無い。
 「贅沢もんだね」
 喫煙所でたばこを嗜んでいた所は、思わぬ影口に驚いた。
 ここは高級ホテルの喫煙所である。一階の隅に作られており、移動には時間が掛かるが全室禁煙を掲げているホテルなのでやむを得ない。喫煙者には肩身の狭い世界である。だが、所はせっかく若い肉体になったというのに肺を汚すことには厭わなかった。だから喫煙所を訪れたのだが、中にいた数名の人間の誰かから、そんな言葉が聞こえたのである。所は反論も反応もしないように、努めてたばこを一本取り出した。手にしたのは、100円均一のライターである。所は学生である、若い男であると言わんばかりの格好であった。少々くたびれたネルシャツも色落ちまではしていないからいいだろうという考えで、着古しているなと分かる。若さがカバーしているから、服装自体に違和感は無いものの、その若さと気軽さが気に食わなかったのだろう、このホテルの宿泊者であろう誰かは。
 ふう、と所は煙を吸って吐き出す。ニコチンを入れると陰口などどうでもよくなるが、まあ心にひっかからないといえば嘘になる。若くして苦労も知らず、たばこ片
手に高級ホテルを満喫する男に見えたのだろう。身なりが裕福でないことが、余計にその嫉妬心を刺激したのかもしれない。前世の記憶があるからこそ、今自分は若いんだなあといんだなあと所はたまに実感する。だから腹を立てる事も無い。前世と合わせて八十年は生きている身である、達観しているのだ。
 何か下手に動けば刺激になるかもしれない。大人しく一本吸って帰ろうと思った時、デルウハが喫煙室に入って来た。その方がよっぽど所は驚く。部屋に書付を残してきたからだ。
 所が目を覚ました時、デルウハはまだ眠っていた。同じベッドで眠っていたが偶然にも離れていたので所は早朝のたばこを目指し、こそこそと着替えて部屋を出たのである。あとでインターホンで開けてもらおうと考え、一つしかないカードキーは置いていった。部屋番号は覚えているし、スマートフォンもあるのだから問題ない。ただ、念のためメモ用紙に書付で「すぐ戻ります」と残した。
 その特徴的な文字(エスペラント語)に、癖を見てデルウハは目覚めた時に何も思わなかった。ただお世辞にも上手ではないエスペラント語の文章だと思った。そして昨夜、たばこの香りがしたのを思い起こすと、急いで身支度を整えて部屋を出たのだった。
 デルウハが所に声を掛けた時、こそこそと喫煙室から出て行く人間が二名いた。どちらかが影口を叩いたのかもしれない。追求するつもりはないが、デルウハの登場により本能的な恐怖を勝手に覚えたのかもしれないと、所は勝手に同情した。デルウハは身長190cmほど、体重90kg以上の巨体である。喫煙室に張り合える体格の人間はおらず、連れ合いに敵わないのならトラブル防止に動くのは何らおかしくはなかった。デルウハは所の隣に来ると、一本、たばこを要求する。
 「吸えるんですか」
 「一応な。早々にやめたが、まあ必要な時がある」
 未知の言語でぺらぺらと話す二人を、もう気に留める喫煙者はいなかった。もう一人も出て行ったのだ。二人きりだった。デルウハは一応と前置きをしていたが、すんなりと火を付けて慣れたように煙を吐き出した。
 「うまくもなんともない」
 「そうですか? 私にはおいしいですよ」
 「味覚が鈍るからな、そこまでは吸うなよ」
 「大丈夫です。太く短く、これが今の私の信条ですので」
 「俺より先は許さねぇぞ」
 デルウハは今40代である。所は20代だ。年齢の差がある。先に逝去するのはデルウハになろうから、所の冗談めいた言葉に反応するのは当たり前であった。所は冗談ですから、と窘めるように言う。思ったよりもデルウハの語気が強かったのだ。所の言葉を聞きながら、デルウハはふううと煙を一気に吸い込んだ。そしてふうう、と所に向かって吐き出す。行儀の悪い、あるいは煽るかのような行為であろう。煙を吐きかけられた所は噎せるしかなかった。だが、ひとしきり噎せた後に、所は顔を赤らめる。それはもう、真っ赤に茹でだこに。
 「……デルウハ殿。これでも長く生きていますから、分かりますよ」
 「何がだ」
 デルウハは今度は普通に煙を吐き出しながら、うそぶく。所は続けた。
 「煙を吐きかけるのは、誘いのサインでしょう。つまり、今夜…」
 「今からだ」
 「もう!」
 所はたばこを喫煙所の灰皿に押し付けると、不満げに顔を膨らませる。
 「…オヤジ臭いです」
 「だから俺はもうオヤジだ。四十だぞ」
 「まだまだ若いでしょう」
 「断らないんだな?」
 デルウハも煙草を消した。そう言って少々だけ口の端を吊り上げるので、所はますます不満げな顔になる。
 「断ったって、デルウハ殿は無理矢理ですから」
 「同意なんざ必要か?」
 あんたは俺の物だ、とかつてデルウハはそう言った事がある。所はまるで所有物扱いだ。とはいえ、いつも手付は丁寧で食事の心配も衣服を破る事さえなく、あくまで現実に即した最大限の愛情をもって…あるいは後の手間を考えると最大限の合理性を持っている。だから所は、大きくデルウハから離れる事はしない。所はもう一度膨れるが、この悪魔に逆らうことは出来ないし、今はこのぬるま湯のような愛情めいたものが居心地良くなってしまっている。だから断りを入れなかった。
 「…午後からバイトの面接入れましたので、手短にお願いします」
 「バイトなんてするな。俺が援助してやる」
 「この前服を買ってもらった分は、返しますので」
 「日本の賃金を鑑みた時、初任給でも足りんだろうな」
 「うー…でも…」
 「だったら、服の分は俺に尽くしてみたらどうだ」
 デルウハの手が所の肩に回り、肩をやさしく掴まれる。これで逃げ場がなくなる。所達は喫煙所を出ると、すぐに離れた。だが部屋に戻った時、もう一度あの力で掴まれるのだと所はどこか予期をして、未来に備えるのだった。                    
 
カット
Latest / 79:04
カットモードOFF