曖昧な天気の日だった。朝から空は雲に覆われていて、でも降りそうで降らない雨を待つように人々は傘を持ったまま外を歩くような。そんな1日だったのだ。だから夜を迎えるころに雨が降り出しても、日付も変わるかという時間には土砂降りになっていても、さして不思議に思うこともなく傘を片手に家路を歩いていたのだ。
 だからきっと、そんな雨の日だったから目に留まったのだ。誰もが傘を持っていて当然で、しかも深夜の時間帯だ。こんな時に外を歩く人で、傘を持たずに歩けばそれだけでとても目立つ。きっと、ただそれだけだったのである。
「……あの、」
「…………。」
「何か、御用でしょうか?」
 そこが自宅へ向かう道のひとつで、深夜に見知らぬ人がいれば気にもするとか、そんな理由もあったのだけれど。きっとそれだけではなくて。
「き、」
「そこのアパート、今は私しか住んでいないんです。どなたかへ御用事でしたら、場所をお間違えかもしれませんよ」
「……いや、間違ってない」
 私を見上げたずぶ濡れの人が、その金の髪から滴る雫がやたらと美しく見えたのも。私を映し出す翠の瞳に魅入られてしまったのも。
「なあ、」
「はい」
「俺を、貰ってくれないか?」
「……はい?」
 傾けた傘の中で響いた言葉に疑問ばかりを抱いたのに、結局は頷いてしまったのも。きっと、雨に濡れる翠が雨だけではない雫を滴らせていたのにどこかで気づいていたからなのだ。
「菊! おかえり!」
「ただいま、アーサーさん」
 雨の夜に拾った……もとい、保護した彼はアーサーと名乗った。どうやら観光を兼ねて恋人の住むこの地までやって来たものの、当の恋人とは別れてしまって意気消沈していたらしい。恋人宅に泊まる予定だったからホテルの予約もしておらず、この辺の地理にも明るくないので途方にくれていたところで私に出会ったそうだ。
「遅かったな」
「すみません、残業だったもので。ご飯はもう食べましたか?」
「いや。一緒に食おうと思って待ってたんだ」
「それは失礼しました。すぐに準備しますね」
 すぐに近場のホテルを探すと話していたものの、どうやらここしばらくは近隣のホテルが埋まっていたらしい。キャンセルが出ないか狙っているが中々難しいと苦笑していた。今日の様子から見て、どうやら今日も見付からず仕舞いだったようである。けして広いわけでも、快適な環境というわけでもないこの家で過ごし続けたいわけでもないだろうに。つくづく運の悪い人である。
「アーサーさんは観光でいらしたんですよね? 今日はどこかに行ってみたんですか?」
「ああ。近くを少し歩いてきた。資料館があるだろ? あそこに行くついでにな」
「お散歩ですか、良いですね。この時期は金木犀が綺麗に咲くんですよ。甘い香りがしませんでしたか?」
「オレンジの花だよな。香りがしたから辿ってみたら満開の花に行き着いたんだ。見た目よりよっぽど強い香りがするな」
「小さな見た目に反した存在感ですよね」
 作り置きの肉じゃがときんぴらごぼう、さっと茹でた小松菜の白和えと味噌汁、白米を食卓に並べる。細かい話を聞いてはいないが、きっとアーサーさんの元恋人は日本人だったのだろう。彼はお茶碗の並べ方から箸の持ち方、私との会話における日本語まですべてが完璧である。けれどこの辺りの地理に詳しくはないというのは本当のようで、道を歩いていて発見があったことを楽し気に話してくれるのだ。
「菊は? どんな一日だった?」
「いつもと変わりない日でしたよ。会社に行って仕事して、仕様変更とその対処で少し残業して、そのくらいです」
「大変だったんだな」
「いえそんな、私は全然……他の皆さんも頑張っているなか、先に帰らせて貰いましたし」
 食卓越しに顔を合わせて話しをするこの時間は、私にとっても楽しい時間だ。彼がホテルの予約を取るか、帰国するまでの期間限定だとわかっているのに。どこか惜しくなってしまっている自分がいる。
「あの、アーサーさん」
「何だ?」
「……ええと、明日は何が食べたいですか? 帰りに食材買ってきますよ」
「うーん、菊が作るものは何でも美味いからなぁ」
「嬉しいことを言ってくれますね。そうですね、せっかく日本に来たのだから今しか食べられない愛の味覚とか、特に食べておきたいものとか、そういうものはありませんか? 私はこの時期特に栗ご飯が食べたくなるんですよ。あとは鰹が旬だから鰹のたたきですかね。旬の栗で作る栗ご飯はほくほくで甘くて、今の鰹は脂がのっていてとっても美味しいんですよ」
「はは、菊の話を聞いてたら食いたくなってきたな」
「おや。誘導したみたいになっちゃいましたね」
「そうだな、まんまとのせられた」
 そんな言葉とともに、アーサーさんは笑う。目を細めて表情を和らげると、童顔な彼はいつもより少し幼く見えた。そんな彼の笑顔につられて笑ってしまうこの時間が、いつまでも続いてほしいなんて。そう思ってし合った私は、彼がいつまでここにいるのかなんて聞けやしなくて。話を聞かないことによる先延ばしを意図的に行っている罪悪感から、私は気づかなかったのだ。彼の言葉の矛盾と、最初に抱いたはずの違和感に。
「え、じゃあそれからずっと本田さんの自宅にいはるんですか。その人」
「そうですよ。もうかれこれ2週間になりますかね」
 仕事の合間での雑談、残業の話から、話題は彼の話に移った。いえ、単に最近早く帰る理由がアーサーさんにあるという話をしただけではあるが。そして会話は、私の想像した方向性には進まなかった。いや、私の部下であり昔馴染みの彼の反応が思っていたものと違ったのだ。
「いやいやいや……そんだけ長く居座るの絶対ホテル探してないですやん。いやそれよりも、最初っからおかしい」
「最初?」
 首を傾げると、彼は信じられないものを見るように口を開けた。出身地の問題か、彼は昔から表情が豊かである。
「本田さんのアパート、今は本田さんひとりしか住んでないっていうか……あの辺一帯私有地ですやん。他に施設らしい施設も無いし。コンビニのひとつも無いんですよ? その人、そんなとこで深夜までずうっと座ってたんはおかしいやろ。アパートに人いないのも、本田さん以外だれも住んでへんのも表札見れば分かるやん。途方に暮れてたにしたって、何でそんな何も無い場所にわざわざ行って、これ見よがしに座って待つんです。怪しすぎるやろ。その人の言いはること、全体的に信用ならんですよ。恋人ってのも、本当にいたのかだって怪しい」
「流石にそれは……他人である私に言いづらい事情があるから、細かい話を端折っているだけかもしれないじゃないですか」
「本田さんに言えへん事情ってのが怪しいんです。最初から目的は本田さんに近付くためやった、って可能性も考えましょ」
「それは考えすぎですよ。私なんかに近付いて何のメリットがあるんですか。容姿が優れているわけでも要人でもなければお金持ちでもないのに」
「いや自分それ……あ、ちょっと待ってください」
 会話の途中で、部下のスマートフォンが着信を告げた。電話を取りつつ、表情で謝意を伝える彼に手を振って自席へと戻る。彼の話を全て否定する気はないのだが、それでも。
「アーサーさんは、悪い人ではないと思うんですよね……」
 まだ数日しか共に過ごしていないし、アーサーさんについて分からないことは多い。それでも、私は彼が優しいことを知っている。笑った顔は少し幼く見えることも、結構涙もろいことも。そんなところもすべて、可愛らしい人であることも。分からない事がどれだけあるかなんてそんな悪魔の証明じみたことをする気はないけれど。それ以上に知っていることも沢山あるのだと胸を張って言えるくらいに私はアーサーさんを知っているつもりだ。
 この日は私がアーサーさんと会って2週間経った日で、知っていることも沢山あると思っていた日だった。そして。私の知らないアーサーさんの一面を知ることになる、3日前のことだった。
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初公開日: 2024年11月10日
最終更新日: 2024年11月10日
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コメント
二次創作です。実在のあらゆるものと無関係です。朝菊ですのでご注意ください。好きな人は楽しんで見て行ってもらえたらうれしいです。
【土砂降り】をテーマに「貰ってくれない?」というセリフを入れたお話はどうでしょう。
というのがお題メーカーから出てきたのでそんな感じの話になります。