閑話休題
 所長室の出入りは簡単であった。少なくともデルウハにとっては簡単だ。ノックも最低限で、知らせだけすれば所長が声を返してくれる。デルウハのノックはもう覚えているらしく、所長は職員との聞き分けが出来ると言う話であったが…今日は返事が無かった。
 デルウハは怪訝な顔をする。いつもならば返事はあるが、今日は水を打ったように静かである。鍵のかかっていない部屋を開ける。所長は中にいた。だがベビーベッドの前に立ち、両手で赤子を抱えており、背を扉に向けている。不用心である。赤子の世話で手が離せないのは分かるが、返事くらい出来るであろう。
 「おい、入るぞ」
 デルウハの声に、所長はようやく顔をこちらに向ける。その両手は赤子を大事に抱えていた。そこまでは予想が出来る範疇であるが、赤子は胸部に吸い付いている。加えて何かを飲みこむ音。だが赤子は不慣れなのか大仰にごっくんごっくんと喉を鳴らしていた。飲むとしたら、母乳であろう。
 所長はΩ性であり、最近この抱えている赤子を出産した。正確には研究所の倫理を捨てた方法で摘出し育てたのだが、身ごもったことは間違いない。だがデルウハは、赤子が人間の姿になる前に摘出したと聞いていたから、この光景は予想外であったらしい。赤子はまだごくごくと喉を鳴らして飲んでいる。
 「……出るのか」
 「え、ああはい。カンガルーケアをした後、体が勝手に排出しようとして…もちろん、乳腺マッサージもしましたけれど」
 所長はその時の痛みを思い出し苦笑いする。産婦人科医の手を借り、乳房も無い中で乳腺が張ったところを揉みほぐしたのだ。身体の中にある石を、あえて揉むような激痛だった。だがその甲斐あって、今定期的に母乳を出せるようになったのだ。
 赤子が吸っているのを確認し、所長はほっと息を漏らす。年齢の事もあるが、成分を調査したが不備は無いらしい。ただ母乳は好きに止めることが出来ないので、不必要な時の為にパッドを当てなければならないし、その為にブラジャーのような紐で押さえ付けなければならなかった。所長がΩ性だとは秘匿するために、厚手のシャツと視覚的な工夫をして、現状母親稼業は上手くいっている。今はシャツの前をはだけて、左の乳首だけ子供に与えているところだ。デルウハはその様子をじっと見ている。
 「…飲んでるな」
 「ええ、お陰様で成分に不具合は無いようで…出がいいと医者にも褒められましたよ。それでも足りない成分もありますから、ミルクにしていますが」
 「へえ」
 興味が無さそうな言い方であった。シャツがはだけているせいで、右の胸に母乳パッドと紐が押さえつけているのも見えていた。Ω性用の授乳用の服ではないためである。デルウハは右の胸もじっと見つめる。
 「成分に問題は無いのか」
 「ええ、年ですから不安でしたけれど。特には」
 「俺も飲めるのか」
 「…待ってください?」
 何を言っているのかと所長が今度はぽかんとした顔をした。だがすぐに青ざめ、次に赤くなって怒り出す。デルウハはその怒りにも平然としたものだ。所長を見くびっているのか、あるいは純然とした好奇心が先に来ているのかである。
 「…デルウハ殿。あのですね」
 「興味が無いわけじゃない。飲ませてくれ」
 「お断りします」
 所長はむっと顔を顰める。まだ赤子は吸い付いていた。随分大食漢であるようだ。
 「なんでだ。乳首は二つあるだろ」
 「そういう用途の為に付いてるわけじゃありません。…母乳は何で出来ているかご存知ですか」
 「血液だな」
 「そうです。私の血液を削って、この子のために作り上げているのです。…デルウハ殿の為ではありません」
 「だがひとつしか使わないなら、余ってるだろ」
 「…デルウハ殿」
 「そんな顔するな。そんな事言うなら、牛乳だって母乳だ。味だけ知りたいだけだ」
 「そうやって何でもかんでも口に入れないでください…」
 所長はため息を吐いた。だがふと思い直す。デルウハの原動力は食事である。食べられぬ物は今のところ聞いた事がない。日本人以外は敬遠する納豆すら、彼はなんの躊躇いもなく口に入れたし生魚に嫌な顔をしない。原始的な人間の食事とは、母乳であろう。それに興味を持つのは、分からなくもなかった。男の変な夢として母乳を神聖視している訳でもない。ただ真っ直ぐに、口に入れられるものとして母乳への興味があるらしい。その真っ直ぐさだけで、命を削った母乳を飲ませていいものか…所長には悩ましい問題だった。
 デルウハがあまりにも純粋な好奇心で言うから、かえって下心があった方が良かったなと思う程である。
 「……本当に飲みたいんですか」
 「まぁな。物心付いてから、そうそう飲めるもんじゃないし」
 「そういう好奇心の強さは評価しますが…はぁ。分かりました。この子が飲み終わってからにしてください」
 デルウハが珍しく目を見開き、そうかと答えたのを見た。本当に味しか興味無いんだなぁと感心し、とりあえず赤子が乳首を離したので、所長はげっぷさせるのだった。げっぷしたところで、デルウハが赤子に鼻を近づける。ミルクの匂いがするわけではなく、人間の赤子独特の匂いがする。だがいい匂いだ。
 「デルウハ殿も抱っこしますか?」
 「いや、いい」
 所長は少し不満気であったが、眠りにつきそうな子供をベビーベッドに寝かせると、はああと深いため息を吐くのだった。
 「そこの仮眠室で宜しいですか。誰かに見られたら困るのはデルウハ殿でしょうから」
 「そうだな。鍵だけ掛けてくる」
 所長は先に仮眠室で、ベッドに横になる。ギシッと鳴るベッドは、医療用で簡易な軽いものだ。寝室は別にあるのだから、ここは簡素で構わない。デルウハが鍵を閉めて仮眠室までやってきたので、所長はもう一度ため息を吐き、シャツのボタンを取ると、胸元をあらわにした。赤い紐と僅かな布が、やはり平坦な胸を覆っている。
 「こちらでお願いしますね」
 所長は右の胸を露出させた。その顔は子供に向けるような慈愛はなく、どことなく嫌そうである。
 「そんな嫌な顔するな」
 「嫌と言いますか…不満といいますか…」
 「ただ乗りしてるみたいなもんって事か? 番なら飲んでもいいだろ」
 少々乱暴なα性の理論である。余計に不満気な顔をする所長を無視して、デルウハは横になった所長の胸に吸い付いた。大人の口が、少しずつ分泌される母乳をごくごくと飲んでいく音がする。生暖かい舌が、子供の物と違ってべたりと乳首を覆ってきて感触が違う。性行為とはまた違う感覚で、だがそれでも簡単にそちらに転びそうな舌である。今のところ、デルウハは単純に母乳だけ飲んでいるのでその懸念は無さそうだが、ごくごくと無遠慮に飲み干されるとそれはそれで所長の体に負担なのだ。
 「デルウハ殿。…デルウハ殿。もう良いのでは?」
 あらかた飲んだろうと思って声を掛けるが、デルウハが飲み込む音が止まない。大人に吸われ尽くしたら子供の分が無くなる、そう考えてデルウハの肩にそっと手を置くものの、デルウハは動かなかった。
 「飲み過ぎです」
 その言葉に、ようやくデルウハの顔が離れた。ほんの少し口から覗いた舌が、白いものにまみれている気がするが気の所為だろうか。その白いものをごっくんと飲み干して、デルウハは言葉を選びながら言う。
 「これ、毎日出るのか」
 「ええ、24時間出ますよ」
 「搾っておいてくれ。朝に飲みたい」
 「コーヒーのお供代わりにしないでください…あと、搾るにしてもこの子の為の冷凍ストックはありますが、デルウハ殿には割けません」
 「そのストック、ひとつくらい貰えないのか?」
 デルウハの熱視線が送られてくるのを感じた。おそらく、美味しかったらしい。
 「ミルクの生産が止まった時…電力塔が壊れた時のためのストックです。おいそれと渡せません」
 「ひとつくらいは」
 「待ってください、デルウハ殿。どうしてそこまで固執するんです」
 「美味かったからだが」
 単純明快な答えが返ってきた。単純明快過ぎて、所長はそれ以上何を返答すれば良いのか悩む。
 「あの……デルウハ殿も飲むようになると、私の負担が掛かる事はお分かりですよね?」
 「分かっているが、飲みたい物は飲みたい。人間なら人間の母乳が一番体に合う気がしてきたな」
 「なんと言いますか、不要な気付きを得ておられる…」
 遠回しにも直接的にも嫌だと伝えているつもりだが、こうなってはデルウハは引かないだろう。合理的な配慮を求めなければならないが、所長の身体の負担は、デルウハにとって合理的な理由ではないのか?
あるいは天秤にかけて、美味さと釣り合っていないのか。そこまで気に入ったのなら、ある意味デルウハを手懐けることも出来るのではと考えたが…手玉に取るには材料が少なすぎると所長は諦めた。
 「ご勘弁ください。あとご理解を。私は若くはありませんので」
 「俺は諦めんぞ」
 「…毎日搾っておくのは難しいです。合間を見て、三日に一度なら」
 「そうだな、それはそれでいい。二週間に一度でいいから、直接飲ませろ」
 「はあ、それは諦めないんですね…」
 「温度がある液体は幸福度を高める。その理論で行くなら、あんたの母乳は条件を満たしているな、栄養的にも温度的にも」
 それが美味さの要素であるのかもしれないと所長は思った。ウォーターサーバーのように、常に冷たい母乳が提供出来る訳では無いのだ。だが量を確保すると、所長の体力は知らぬうちに削られるものである。これからを思うと、所長はもう一度ため息を吐いて、パッドと紐を戻して胸を隠したのだった。
 「飲みすぎないでくださいね」
 それだけお願いするので精一杯で、聞き入れてもらえるか分からなかったが、デルウハはああと回答はしてくれたのだった。   
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