妬みも賞賛も、どれもこれも人を羨むために使われるひとつの事象に過ぎない。だからそれらの言葉に振り回される事なく、己の道を貫けばいい。そう陳腐な事を己自身に言い聞かせるのは、若い女性であった。彼女は美大に通っている。絵が好きで、筆とキャンバスで何かを表現するのが好きであった。だがその好きという曖昧な感情が、最近彼女の中で揺らいでいて、その弱った己に言葉が突き刺さる気がしている。自分がその事象の中心にあって、他人の関心の中にあって、渦中の人で、才能を妬まれているという強迫観念に若さゆえの自己解釈に囚われている。
 そのくせ、他人に何かの会に誘われたらなるべく顔を出せと言うのが尊敬する教授の言葉であったのなら、仏頂面で煙草片手に参加する。参加するのであっても、自分はまだ特別だと思っているのだから会場の隅で煙草をふかし、ひそひそと陰口をたたかれても素知らぬ顔だ。だがその中身はダブルスタンダードである。自分は特別だから妬まれる、自分は妬まれて当然の天才である、だが恩師が言うのには陰口を言ってくるような連中にも特別な機会があって、その機を逃すなというから飲み会に顔を出している…だが天才がつまらなければ、つまらない顔をしていい。そんな勝手な理屈を展開させていても、誰かに話しかけられたのなら内心は浮かれてしまう。
 誰かに認めてもらいたい。陰口が無い世界に行きたい。だが、自分の行動が陰口を生み出しているとは思わずに、天才を考慮したまま優しい世界に居られない事を他責している。その矛盾が若さのかたまりであるが、彼女はとにかく飲み会の端で煙草をふかしていた。飲み会の中心では、ある男を囲んで随分と美術談議が盛り上がっている。中心にいるのは、ギガである。美大の人間ではなく所属すらしていないが、こうした美大生の集まりに参加する、年齢不詳の謎の男というポジショニングであった。おまけにこの会の支払いはギガが持っている。胡散臭さはあるものの、若者は金払いの良い年上が好きなものだ。酒を片手に、おしゃれした女がギガにしなだれかかった。
 「ねえお兄さん。お酒ないー」
 「好きに注文しな」
 「やったー! お兄さん太っ腹、だいすきー」
 形骸化した酔っぱらいの戯言である。特段ギガはその女のやわらかさに触れても特に何の心も動かなかった。
 酒におぼれる若者がいる一方で、若いかたまりが、酒と熱を求めてギガに熱心に美術談議を求めていた。彼の真横にいる男と女は特にそうだ。先程から美術史に絡めて技法の話で盛り上がり、ギガにも熱心に語り掛けていた。大半の者は酒という堕落を求めているのに、この二人の熱量は違う。だがその熱量が才能に繋がっているかは分からない。多分才能無いだろうな、とギガは勝手に残酷な判断を下す。だが熱量に触れるのは面白い。たまに燃料を投下するように同調してやって、ギガはその会話を肴に聞いている。これがギガの気まぐれでたまに行われていた飲み会である。
 別に美大生を食い物にしたい訳では無い。だが、たまには熱心で覚えたての技法を使いたくてうずうずしている若者の声を聞き、からかってやるのも一興である。中には綺羅星のごとく才能に溢れた奴もいて、その出会いが楽しいのだ。今日はその綺羅星はいないようだが…とギガは周囲を見渡す。いない。
 ふとギガの目に、会場の端でうずくまるように不貞腐れている若者を見つけた。ダブルスタンダードの女である。彼女は煙草を持つと、外に行くようで立ち上がった。ギガは彼女に才能の切れ端を見つけることが出来なかったが、金があるとすり寄って酒をたかる正直者よりもからかいがいはありそうだと、彼も席を立つ。何名かがしなだれかかってきたが、押しのけて外に出た。
 店の前、裏通りの飲み屋街の片隅で、彼女は煙草をふかしている。サラリーマンが通りかかるようなところではあるが、裏通りだ。人気は少ない。ぷかぷかとふかす彼女は、自身の無さを裏打ちしようと必死なようにしかギガには見えなかった。本当に才能がある者は、常に堂々としているものだ。天から与えられたものが、たとえ芽を出さなくてもあるからだ。それが彼女には無いが、まあ話しかけるのには退屈しないだろう。ギガが横に立つ。二メートルの巨躯に女はぎょっとし、ギガが手を差し出したのをびくびくと警戒していた。小心者である。
 「煙草。ちょーだい」
 ギガの言葉に、素直に女は煙草を差し出した。軽いものである。ギガには少々物足りない。女は軽いのだ。人生経験も熱量も、才能も、20歳そこそこの若者にそのどれもがお前に無いと突きつけるのは酷であろうか? だが才能でのし上がる世界においては致し方ない。ギガは軽い煙草をふかすと、話し始めた。
 「吸血鬼って信じる?」
 「……え…」
 女は戸惑った。彼女は黒いロングヘアに地黒の肌、青い唇に青のアイラインでギガを見上げる。悪目立ちをしたい若者の抵抗を見たが、それが似合っているかは別である。女はギガの目を覗き込んでいるようだ。
 「吸血鬼?」
 「ハロウィンじゃん」
 「ああ…」
 何のああ、なのかは女にも分からなかった。確かに居酒屋の看板には、100円均一で買ったのであろうカボチャやオバケの飾りが付いている。すぐに捨てられるような紙でぺらぺらとした、その日だけ使えればいい簡素なものだ。だが居酒屋の中はハロウィン仕様ではなかったし、とりあえず流行に乗れればいいという気質が窺える。だから女はハロウィンのことなど頭になかった。そしてより訳が分からない質問に、疑問を持ちながら答える。
 「…いないと思、います」
 「あっそ」
 聞いておきながら、ギガは興味なさげに答える。この現代に吸血鬼など非現実的なものがあるのだろうか。真拳使いであれば似たようなものがいるかもしれないが、そんなものはごく少数である。都市部にそうそういない為、都市伝説のような扱いだ。若い女は信じていない。だが目の前の男が、ギガが真拳使いだといざ知らず、ただ訝し気に見つめるだけだ。
 「俺はいると思うけど」
 「まさか。いたらもっとニュースになってますよ」
 「奴らは夜の闇で活動するんだよ。こうやってな」
 そう話すギガの背後に、ゆらりと誰かの影が現れた。裏通りの路地から急に現れたのだ。その手がギガの肩を掴む。ギガはもともと首と肩を露出する格好をしていたが、服をさらに引っ張って肌を露わにする手が見えた。タトゥーの入った白い首に、赤い髪の男が噛み付いたのが見える。吸血鬼と言われなければ、暴漢であろう。だが事前に吸血鬼と言われてしまったので、もう吸血鬼にしか見えなくなっていた。
 噛まれているのに、しっとギガは指を唇に押し当てる。静かにという事だろう、ほほえみさえ浮かべていた。女は顔面蒼白になるが、吸血鬼が実際にいるかいないかで困惑し、何も言えないでいるらしい。その哀れな若者に、ギガは静かに噛む赤髪の男の頭を撫でながら言うのだった。
 「じゃあ俺帰るから。よいハロウィンを」
 「え?」
 それだけ言うと、ギガは赤い髪の男を離させると連れ立って路地裏に歩いて行ってしまった。残されたのは短い煙草を掴んだままの彼女で、その熱が指先を焦がした時ようやくはっとする。
 「あれ? お兄さんは?」
 へべれけの女が店先にやって来た。帰ったと告げると、女は嫌な顔をする。
 「あんたがつまらない事言ったんじゃないの」
 女も嫌な顔をした。だがバッグが中にあるから仕方なく店内に一度戻るしかない。
 「ねえ帰ったってーー」
 酔いどれ女の大声が店に響く。その声と残念そうな声を聞きたくなかったが、注目を浴びなければバッグが取れぬ。覚悟を決めて中に入ると、ギガと楽しく飲んでいた者どもの、どことなく冷たい視線が突き刺さる。女の孤独が増したのが分かった。
 「あー、今0時回ったじゃん」
 首に噛み跡があるが、気にせずにギガはすたすたと道を歩いている。赤髪の男、裁きのGURAさんもすぐ後ろに続いていた。時計が0時を回っている。
 「もう11月か」
 「…誰が吸血鬼だ」
 「今言うんだ?」
 ギガは面白そうに笑った。先程女がいるところで言えばよかったのに、あの印象のままでは吸血鬼として認識されているのだろう。だがGURAさんは見ず知らずの女の評価はどうでもいいらしく、ギガに文句を言った。
 「肩あたり噛むのは吸血鬼じゃん。ちょうどハロウィンだったし」
 「狼男だって噛むかもしれんだろ」
 「それなら首で息の根止めるんじゃん?」
 ギガはとんとんと首を叩いてみせる。だがGURAさんは続けた。
 「若い女と喋るからだ」
 「へー嫉妬?」
 「あれがお前好みじゃない事は分かっていた」
 「よく分かってんじゃん」
 「でも、ダメだ」
 それを嫉妬と名付けずに他に何の言葉を当てはめよう。ギガは虚を突かれたようにぽかんとしたあと、GURAさんに向かってにこにこ笑い出した。
 「やっぱ嫉妬じゃん」
 ギガはどことなく嬉しそうに言った。日付は変わったが、無責任に誰かの人生を壊したりひびを入れた気がするが、それはギガには関係のないことである。天性の傲慢さを持ち合わせ、ギガはGURAさんの手を握った。0時を回ったが都市部には人気がある。人前であるが、ギガは他人の目は気にしていないようだ。GURAさんが眉を顰めた。
 「人前だが?」
 「あとで好きにしていいから」
 このギガの囁きにGURAさんは弱い。手を握り合うのはやぶさかではなかった。妬みも賞賛も、何もかもが届かぬ場所に二人はいる。
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