奇跡が起きたと分かったのは、所長の体付きが目に見えて変化したことから始まった。若い時から大きく体格の変化が無いはずなのに、今まで履けたズボンがきつく感じたのだ。心なしか腹回りに脂肪がつき、尻にも付随して肉が付くようになった。とはいえ筋力が少ない。ほんの少しのまるみである。他人にはそこまで分からぬ物かもしれない。たとえば服の採寸をする者だとか、所長の体を定期的に触れる者がいたら気付く小さな変化である。まあ他人が気付いても、わずかに太ったのかと思うだけであろう。だが、所長にはその変化は非常に大きい物であった。
 「…どうして」
 所長は絶望をにじませながら呟いた。己の体は己が一番分かっている。Ω性の自分が、妊娠してしまったのだと彼には分かった。
 該当するであろう日のことは覚えている。抑制剤の効かないヒートを起こし、α性であるデルウハと番う事で鎮めることが出来た日だ。その日は避妊しなかった、する余裕すら無かったのだ。以降は避妊が出来ているかといえば、デルウハの気まぐれである。資源がもったいないからと、ゴムを付けない日もあった。だが、所長の確信ではXデーはすべて、自分のヒートを管理できなかったあの日である。その日以降から、妙な悪い勘が働いていて、それが確信に変わったのが本日だ。妊娠検査薬を遣うか悩むが、確証を求めるのは科学者らしい彼の性分である。
 妊娠検査薬は陽性を示した。だからというわけではないが、絶望に拍車を掛けて所長は一人、所長室で項垂れる。誰もいない時で良かった、と安堵したが誰かいてくれた方が気が楽であったかもしれない。これは、デルウハに報告するのか? あの悪魔に? 堕胎を求められるかもしれない。その想像だけで、思わず庇うように手を腹にやる。自身の年齢を考えると、高齢出産どころか、そもそも高齢者の出産である。前例があまりない中で、この枯れた母体で赤子が正しく育ちきるのだろうか…? 障害児や未熟児の可能性の方が高いのでは?
 懸念はすぐに浮かんでは消え、所長は顔を曇らせた。だが目の前のタスクを一つずつ冷静に片付けるほどには、年齢を正しく重ねている。まずデルウハだ。報告しないでおこう、と所長は決めた。
 合理の悪魔が何を言い出すのか分からぬ上に、昨今は研究所周りのイペリットの数が増えている。ハントレス達の指揮を高める必要がある中で、子供が出来たと言う報告をする気にならない。報告しないうちに堕胎する方向性はどうかと考えた時、本能的な嫌悪感がぞぞぞと所長の背を走った。それは嫌だったのだ。障害のリスクが非常に高い子供である。既に障害を持ち合わせてもおかしくはない。デルウハはともかく己のものが、子供に悪影響をもたらしている可能性が高いのに、げに人の業は恐ろしきものか、嫌だと思ってしまった。
 所長が合理的に考えるのなら、堕胎が最もリスクも少ない。ただ奇跡が、悪い奇跡が起きてしまった事に、何故か賭けたい自分がいた。これが他人であったのなら、容赦なく堕胎を進めるだろうに、浅ましい人間だと自省し自嘲する。だが幸いなことに、この研究所には技術と場所がある。所長は権限を持ち、知識も持ち合わせている。神が見ているのなら、幸いにも産ませてくれる条件がここには揃っている。そうだ、この母体ではリスクが大きいのだから、試験管ベイビーとして育成していけばいい。目に見えて障害が確認できる上に、所長の負担も少なくなる。そうしようと思い付いて、天啓を得た気がして所長は指を組んで祈るようにした。だがそれは、一般的に見れば神の思し召しではなく悪魔のささやきだ。倫理を全て無視し、正しい生命の在り方をいじろうとしているサイエンティストの誤ったかじ取りである。だが所長にはそれしか縋るものが無かった。そのため、何週目から腹から取り上げるのか、さっそくその計画を立てることにするのだった。
 子供を取り上げるのには少々の胆力と、確かな技術が必要だ。所長自身は麻酔が効いていて摘出は出来ないだろう。その為、気心の知れた部下に声を掛ける必要があった。そのうちの一人が粉山だ。彼の手には所長が作成した、摘出手術の手順書がある。もう一人も手順書には目を通したのか、所長を見ていた。
 「摘出手術の概要を確認いたしました。…それで、患者はどこにおられますか」
 「…患者は…黙っていてすまない。私だ」
 「え?」
 素っ頓狂な声が上がる。所長の年齢を知る者からすれば、それは幻想か妄想の類で、精神科の世話ではないかと考える。それが通常である。所長もその目線は痛いまでに分かっていた。
 「来てくれるかい」
 そのため疑わしく思う二人を連れ、エコー検査をするべく専用の機材のところまで案内した。目の前で、腹の中にあるブルーベリー大の小さな命のかたまりを見つけてみせると、二人とも驚愕の顔をしているが、目の前の事象を信用してくれたようだ。
 「すまない。…この体では健やかに育たないだろうから、培養液に移したいんだ。成長も見られるし、素体としての提供も可能になるかもしれない」
 「いや…しかし。どうして所長が」
 「Ω性なんだ」
 戸惑いに対しては、あまりにも簡素な答えである。だからといって、すぐに納得は出来ないと言う顔である。年齢の問題があるが、目の前に超音波によって見つかった命のかたまりがある。次から次から浮かぶ疑問は、現実と簡素な答えに打ちのめされて最終的に飲み込むしかなかった。
 「はは…戸惑うよね。私もこの年齢で、まさか産むとは思わなかった」
 「いえ、その、なんというか」
 「奇跡が起きたとしか言えないんだが、出来ればこの子が健康体か見届けたいんだ。障害がある可能性が高いのは重々承知で…そのためには、培養液の方が生育に問題ないから」
 「あ、ああなるほど」
 ようやく落ち着いたらしく、粉山が初めて頷いた。所長がまっすぐに部下二人を見つめる。
 「お願いしてもいいかな」
 「かしこまりました。…しかし、この手術はお体に負担では」
 「そのリスクは、私も承知の上だよ。でも、ここで離してしまえば後が楽になる」
 そこで所長は、二人に向かって深々と頭を下げた。粉山ともう一人は顔を見合わせて、頷き合う。了承の空気を感じ取り、所長は顔を上げてもう一度頭を下げるのだった。
 「所長」
 麻酔が切れた時に、その呼びかけは聞こえて来た。所長のぼんやりとした視界の中に飛び込んで来たのは、培養液に充たされてコードに繋がれた30cmほどの瓶のような容器だった。泡をたたえたその中に、小さなものが浮かんでいる。へその緒が付いていた。だが培養液はそれ自体が羊水の役目もあり、同時にへその緒のように栄養を供給する万能のものだ。いずれへその緒は用を成さずに取れるだろう。まだ人間の形をしているとは言い難いが、それは生き物の命だった。ほっと所長が息を吐く。培養液の中でちいさく腕らしきものを動かしたのが見えたのだ。
 「ああ、ありがとう。ありがとう…」
 所長がその瓶に手を伸ばす。ガラスを愛おしげに撫でていると、周囲の環境が急にクリアに身に迫って来て、ほっと息を吐く部下の声と顔が分かった。手術室はほとんど人気のない場所を選んでいたから、患者である所長の他には二人だけだ。手術室を出てから、資料室のような場所に運び込まれているのも分かった。人気のない場所を選んでいたらそうなったらしい。二人の気遣いに謝意を述べ、所長は移動式の医療用ベッドの上で息を吐く。
 「ここしか空いていませんで申し訳ありません」
 「いいんだよ」
 「縫合箇所も異常なく、お子さんに心音心拍数に異常は確認できませんでした。恐らくへその緒は10時間以内には取れるかと」
 「ああ、分かった。本当にありがとう」
 感謝は述べても足りないくらいであった。部下二人はあまりにも所長から礼を言われるので、大仕事を成し遂げたかのような気恥ずかしさに苦笑いし合う。
 「それで所長。ついでに検査も軽くしたのですが」
 「え?」
 「今の所ですが、この子の染色体異常は見当たりませんでしたよ」
 「…本当に?」
 所長が体を起こそうとしたので、部下は慌てて検査結果の紙を渡す。ベッドの上で身をよじると、まだ縫合箇所は痛むがそれよりも結果が気になった。
 「…本当だ」
 「今の所ですから、まだ分かりませんが確率は低いかと。…よかったですね」
 部下の言葉に所長が嬉しそうに笑った。こんなに嬉しそうな顔をするんだな、と腹心の部下でも初めて見る表情であった。
 それからの発育は順調そのものだった。生育に合わせて巨大な試験管に移し、その状況を眺めて少しずつ赤子が人間の姿になっていくのを見守った。手で触れられないが、それは腹の中に入れていても同じだ。胎動は感じられないが、少しずつ顔が出来上がっていくのを飽きるまで眺める。早く会えると良いのだが、極秘の試験管であるから定期的に会うのには時間を作らねばならない。今は睡眠時間を削って会いに来ていた。おやすみ、と声を掛けると振動が伝わるのかぴくりと赤子が動く。それだけで十分心の慰めになるのだった。
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