毎週木曜日は毎度おなじみ滑り込みの日。というわけで今日はあわてて3作品連続で見てきました。
 まず1本目はこちら!
 「ジガルタンダ・ダブルX」で話題になったカールティク・スッバラージ監督による、同作の前作に当たる作品です。
 両作にストーリー的なつながりはありませんが、いわゆる精神的続編というやつですね。ちなみに鑑賞はこれで2回目です。しかし2作通して見るのは今回が初めてで、また違った味わいがありました。
 若き映画監督カールティクは、作品コンテストのセミファイナルで惜しくも落選しますが、審査員の一人から作品制作を持ちかけられます。そのコンセプトはギャングの抗争。
 カールティクは作品制作のため、マドゥライを縄張りとする凶悪なギャング、セードゥの取材を始めます。
 無印とダブルXを通して見ると、精神的続編とは言えけっこう別物だなあといった感じ。
 無印の方は緊迫感はあるもののけっこう順当にコメディしてる印象です。以前の感想にも書きましたが、実際に撮影に入るのがインターバルを挟んでしばらくしてからとけっこう遅い。しかしここからが無印の笑えるところで、慣れない撮影や演技に四苦八苦しているセードゥや手下たちの姿が笑えます。客席からもときどき笑い声が漏れてました。
 インターバル前の前半部分も、審査員からの無茶振りに頭を抱えつつもセードゥになんとか近づこうとするカールティクの姿がユーモラスに描かれていて、やはりコメディ色が強い印象でした。ダブルXと比較するとなおさらですね。
 しかし本作が、ひいては本作のテーマが本格的に牙を剥いてくるのはやはり終盤も終盤、ついにカールティクの映画が完成してからでしょう。
 以前、「現実と虚構」を軸にして現在話題沸騰中の「侍タイムスリッパー」の感想をダブルXと交えつつ書きましたが、無印の方にもこの「現実と虚構」の構図を当てはめられると思います。
 無印における現実はセードゥの実際の人生、虚構はカールティクが作った映画の中のセードゥという構図になっていると考えられます。この辺はダブルXや侍タイよりもずっとシンプル。
 当然のことですが、虚構の世界では現実ではできないことがなんでもできます。本作では、カールティクが作った映画の中には、セードゥがもしかしたら歩んでいたかもしれないもうひとつの、喜劇王としての人生が描き出されていました。そもそもセードゥがギャングになる切っ掛けとなったのが、幼い頃の演劇の舞台というこれまた虚構の世界でのトラブルだったんですね。
 人は人でしかありませんが、そのただの人が神になれることがあります。それが「創作者になること」。
 カールティクは映画監督という立場に立つことで一時的に神の力を手に入れ、その力でもって本来は存在しないはずの「ギャングにならなかったセードゥの人生」を作り上げたと言えるのではないでしょうか。
 本来なら人生は一度きりでやり直しは効きません。しかし、前述の通り虚構の力を持ってすれば、あり得たかもしれないもう一つの人生を作り上げることも出来るわけです。
 そしてもう一つ本作で重要なのが、その「虚構の力で作り上げられたもうひとつのセードゥの人生」を、映画という形で多くの人が目にしたという点。
 これはどういうことかというと、自分の「自分の人生のIF」のみならず、「自分が別の人生を行きていたら周りの反応はどうだったか」をも見ることになったということです。
 終盤の劇場のシーンで、満席の劇場内を笑いと拍手が満たすあのシーンのセードゥの表情よ。あの表情にどれほどの感情が込められていたか。もし自分が違った道を進んでいたら、これだけの人々を笑顔にできたというもう一つの現実。現実と虚構は本来なら決して混じり合わないはずのものですが、あのシーンは現実の人々が虚構の世界に笑い涙することで現実と虚構が入り交じる「映画館」という特別な場所だからこそ成立したシーンだと言えるでしょう。
 そしてその言葉にし得ない感情を、最後に逃亡しようとするカールティクに追いついたシーンでジブリッシュでぶちまけるシーンでもまた、「ジブリッシュ=でたらめ言葉」という虚構の力を借りてセードゥは思いの丈を語るわけです。このシーンにおけるジブリッシュは、カールティクとセードゥの間には、ともに映画という虚構の世界を作り上げてきた彼らのあいだでだけ通じる共通言語があったんじゃないでしょうか。
 結果としてセードゥはカールティクに一杯食わされた形になるわけですが、そのおかげでセードゥは、虚構の力を借りて人々を楽しませる「俳優」という世界を知ることができたということだと思います。冒頭の、そしてラストの撮影シーンにおける「カールティクからのギフトだ」のセリフにはそういう意味もあったのではと思います。
 そして続けて今度はこの作品!
 こちらも無印と同じく2回目の鑑賞となります。
 大学を出たばかりの新米警察官であるキルバイは、血を見れば卒倒してしまうくらいの小心者。そんな彼はある日、大学構内で起きた殺人事件の犯人に仕立て上げられてしまいます。悪徳警官ラトナはキルバイほか3人の囚人に、「ギャングのボスを暗殺してきたら無罪放免」という取引を持ちかけます。否応なく承諾したキルバイに指定されたターゲットは、「ジガルタンダ極悪連合」のリーダーであるシーザー。キルバイはシーザーが自分を主演とする映画を作る映画監督を募集しているのに乗じて、サタジット・レイ門下の映画監督として身分を偽り接触しますが――。
 ダブルXの感想については前回山ほど書いたので、今回は前回の感想で言及していなかった点を書いていきましょうかね。
 無印との大きな違いは、キルバイは本来映画監督ではないという点でしょうか。したがってキルバイは本編中、気づかれているかどうかは別としてシーザーの前では一貫して、最後まで正体を隠していたことになります。
 翻ってキルバイとシーザーの出会いと、ともに映画を作るという二人の道も、やはりこの「自分ではない誰か、実在しない誰かを演じる」という虚構の力によるものだったと言えるでしょう。
 そしてシーザーもまた、クリント・イーストウッドの撮影現場での一件で彼から「アリアス・シーザー」という新しい名前をもらい、イーストウッド映画を上映するための自分専用の劇場を建てるほどにイーストウッドの作品を溺愛するようになります。これもまた虚構の力だと言えるでしょう。
 このように、キルバイとシーザーはふたりともすでに虚構の力の影響下にあるわけです。そしてふたりはその虚構の力=映画の力に導かれるようにしてあの結末に進んでいくという。
 無印ではカールティクは最初から映画を撮ることが目的でしたが、キルバイにとっての映画撮影はシーザーに近づくための口実でしかありませんでした。しかし、シーザーは偶然にも前述の通りイーストウッド作品を溺愛しており、さらにはイーストウッドから直々にもらいうけた8mmカメラを持っていました。ご都合主義と言わば言え、これを縁と呼ばずして何と呼ぶ。
 このように本作では、キルバイとシーザーのふたりが「映画」という魔法の武器を手に入れたことで大きく変わっていきます。キルバイは口実でしかなかった映画撮影、ひいては「真実を記録する」という役目に邁進するようになり、シーザーはかつての自分の出身地であるコンバイの森に帰る。
 そして彼らはそこでの搾取と欺瞞を打ち破るべく戦うわけですが、その中で彼らは、真の敵である支配者の操る警察というコマをいくら倒したところで社会を変えることはできないことに気づきます。ではどうすればいいか? 真に支配者を打ち倒し、社会を変えるためにはどうすればいいか。
 そこで出てくるのが「映画というメディアの力」です。前回の感想で、「インド社会においては『映画というメディア』はただの娯楽では済まされないもっと大きな力を持つものである」と書きましたが、それが分かるのがこの終盤の展開ですよね。実は裏で全てを操り利権を得ていた州首相の30年のキャリアが3時間の映画で崩壊するというこの展開は、決してフィクション的な都合の良い大勝利ではなくまさにインド社会における問題をこうして解決しようとしている実用性と現実性を伴った展開だと思います。
 そして最後の最後、シーザーもキルバイも撃たれすべてが終わったかに見えたあとで、劇場にラトナ元警視を誘い込んだあのシーン。
 そもそもあの劇場の、「スクリーンとなっている壁に扉がある」っていう構造が作為的なんですよね。シーザーの死を悼むように変わらずイーストウッド映画が上映されているスクリーンの扉から現れる、西部劇の衣装に身を包んだキルバイ。あのときのキルバイは、これまた虚構の力を借りて、現実の肉体に虚構の力を纏った、ある意味で生身の人間から半歩踏み出した半神とも言える存在になっていたのではないでしょうか。あのシーン、劇場に呼び出したラトナ元警視を「映画の世界」に巻き込むことで成敗したと見ました。
 本作における映画の魔力、虚構の力というのはもう一つ、最後の最後の最後に思い知らされます。それはラストカットで死んだはずのシーザーが初めてスクリーンの向こうから「こちら」に語りかけてくるシーン。そう、我々がしばしば知っているように、映画という虚構の力を持ってすれば死んだ人の姿と言葉をこの世に留めることが出来るのです。同じように最後にラトナ元警視を撃ったとき、キルバイの背後のスクリーンにシーザーの姿がオーバーラップして映し出されるあのシーンは、キルバイとシーザーのふたりが事態にとどめを刺したシーンだと言えるでしょう。
 そして最後はこの作品!
 上映終了日が未定の作品は油断してて後回しにしてしまいますが、そうすると気がつくと上映終了日が明日とか言う自体になるのでほんとに油断してはいけません。侍タイムスリッパーやハヌ・マンも上映終了日未定ですがさっさと見ないと終わってしまう。いつまでもあると思うな上映作品。
 というわけで本作もギリギリで見ることができました。ちなみにわたくし人形使いは原作コミックが話題になってたときも結局読んではいませんでした。ちなみに同作者のチェンソーマンも実はまだ読んだことありませんという状態で本作をいきなり見ることになりました。
 小学4年生の藤野は学級新聞に4コママンガを描いていました。そのマンガはクラスメイトや家族から非常に好評で、藤野はますますマンガを描くことにのめり込んでいきます。
 そんなある日、藤野は担任から4コママンガの枠のひとつを不登校児童である京本に譲ってくれるように頼まれます。不承不承その申し出を受けた藤野が次の学級新聞で見たのは、自分の漫画とは比べ物にならないくらいの画力とセンスで描かれた4コママンガでした。
 ショックを受けた藤野はこれじゃあいかんということで一念発起、さらにマンガ描きに熱中していきます。しかし藤野は結局京本の画力に追いつくことができず、6年生の半ばで筆を折ってしまいます。
 そして小学校の卒業式の日、担任からまだ不登校のままの京本のところに卒業証書を届けるように頼まれた藤野は、初めて京本と顔を合わせます。藤野は自分を「先生」と慕う京本とともに、「藤野キョウ」というペンネームで本格的にマンガを描くようになります。
 いやーーーーー、刺さる作品でした。さらに言うなら「あからさまに観客を刺すことを意識して作られた」作品でした。ツルハシの先端をさらに丁寧に研ぎ上げて限界まで攻撃力を増したかのような。
 少しでも創作に手を染めたことがある人、そして現在進行系で創作を行っている人、特に小中学生という若年層には刺さって抜けないトゲになることでしょう。
 なんでそんなに刺さるかって完全に他人事じゃないからですよ本作で描かれているすべてが。卑近な言い方をすれば、本作は全編「創作あるある」の集合体です。序盤から終わりまで見ててもう悶え転がりたいやら胸が苦しくなるやら動悸が激しくなるやら。優れた作品の条件はたくさんあると思いますが、その中の一つに「体調に著しい影響を与える」があると思います。ただでさえジガルタンダ2作品を連続視聴したあとにこんなのぶち込まれたらそりゃあ体調に影響が出るってもんですよ。
 そして本作、藤野と京本のふたりの創作を巡る物語ではもちろんあるものの、それ以上に前述した「創作あるある」、*つまり創作を行っていくうえで誰もが必ず直面する経験の擬人化だとわたくし人形使いは見ました。
 作品終盤で、美術の大学に進学した京本が構内に侵入してきた不審者による無差別殺人事件の犠牲になってしまうというショッキングな出来事が起こります。この事件をきっかけに、物語は「京本が死亡した世界」から、もうひとつの「不登校だった京本が藤野と出会わなかった世界」に分岐します。
 この事件における不審者は、いわゆる京アニ事件の犯人がそうであったような「自分の作品を奪われたと思い込んだ不審者」であるとともに、あるいはそれ以上に「創作活動を継続していくにあたって遭遇するであろう悪意の擬人化」だったんじゃないでしょうか。つまりあの事件における京本の死は、「命を奪われた」と同時に「周囲の悪意によって筆を折らされた」という意味に思えます。筆を折るってつまり創作者としての死ってことですからね。
 自分が京本を部屋から出さなければ京本は死ぬことはなかったのではないかと苦悩する藤野。これはつまり、自分が藤野の才能と作品を外に出そうとさえしなければ京本の才能が絶たれることはなかったのではないかという苦悩として読み替えられると思います。誰もいなくなった京本の部屋の前で、藤野は廊下においてあった4コマ漫画を破り捨ててしまいます。
 しかしその破片はドアの下に滑り込み、かつての京本のもとに届きます。このあたりの反復構造がまた見事なんですがそれはいったんおいといて、この場面には「藤野がどれだけ後悔しても結局現実は変えられないし、京本の才能は結局表に出ることになる」って意味があったと感じました。
 そしてオタクが大好きなタイトル回収。これがまた見事でなあこの作品……。
 京本が書いた4コマのタイトル「背中を見て」、これまで過去を「振り返る」、京本がいなくなった部屋にかけられていた半纏の背中に描かれた藤野のサイン。そして最後にスクリーンに映し出されるのはマンガを描いている藤野の背中。「ルックバック」というタイトルにこうして無数の意味を凝縮してみせる手腕よ。
 また本作、BGMがすごくいいんだ。本作はキャラクターにはあまり説明的なことを喋らせません。特に、キャラの心情については完全にといっていいほどその表情とBGMで語っています。で、このBGMが実に効く。前述の通り本作はあらゆる要素が念入りに研ぎ澄まされているので業物の日本刀のごとくなんの抵抗もなく心の臓にさくっと刺さるんですが、本作のBGMはなんというか心のなかから強制的に感情を引っ張り出される感じがしました。
 これはちょっと原作漫画も読まなきゃな、と思わせられる良作だったと思うと同時に、精神状態によってはこれ見たらえらいことになってしまうのでは……とも思わされた作品でした。
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塚口サンサン劇場「ジガルタンダ」「ジガルタンダ・ダブルX」「ルックバック」見てきました!
初公開日: 2024年10月17日
最終更新日: 2024年10月18日
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